閑話 愛は狂おしく
ラファエル皇子視点です。
「そう……エマはアンヴァンシーブルから姿を消したんだね。今頃はもうルドベキア王国の王都かな。ご苦労、もう暫くは放っておいて構わないよ」
「はっ」
恭しく頭を下げた男達は、ひらりと手を振ればさっと何処かへと姿を消した。
静寂が訪れた部屋で、窓から空を見やる。半分欠けた下弦の月が静かに輝いている。後はもう、欠けていくばかりの月だ。
手元にあるシーツを手繰り寄せ、顔を埋める。もう彼女の残り香すら残っていないそれを、愛おし気に抱き締めた。
「っ……はぁ…………エマ……」
今までは記憶の中にしかいなかった、幻にも近い彼女に触れ、言葉を交わした。生きている、温かな感触。それを思い出しただけで、日毎夜毎にこんなにも身を焦がしているというのに、彼女は俺の事を覚えてさえいない。
あぁ、それはなんて理不尽な事だろう。
俺だけが全部覚えていて、彼女は何一つ覚えていない。
そういう呪いを、あいつが掛けたから。
――――?
あいつ――?
あいつって誰だ……?
「っぅ……ぁぁあああぁあ…………!」
割れるような頭の痛みに、思わずその場に蹲る。彼女の事だけは、全てを鮮明に思い出せるのに、他の事を思い出そうとすればいつもこうだ。長い、長い記憶の連鎖の中で、記憶が混濁してしまっている。普通なら、とっくに気が狂っている筈だ。
……いや、もうとうに狂っている。そうでもなければ、こんな事、とても正気ではいられない。
痛みを振り払う様に動かした腕が、サイドテーブルのコップに当たり、がしゃりと大きな音を立てて砕け散る。ガラスの破片が腕を裂き、赤い血が滴り落ちた。
ぽたりぽたりと落ちていく血をぼんやりと眺めていた所で、扉が勢いよく開かれる。表情も無く其方を見やれば、酷く青褪めた顔の叔父上が息も絶えだえに立ち尽くしていた。
「っ……ラファエル!お前は、また……!」
「ガラスで少し切っただけですよ」
「少しなものか……!もう傷を癒せるジュジュはいないというに……!あぁ……血がこんなに……」
叔父上は震えながら俺の腕を取ると、未だ血が滴り続ける傷口に唇を寄せた。腕を這うざらりとした舌の感触に、彼女を想い昂っていた熱が次第に冷めていくのをどこか他人事の様に感じていた。
「っぅ……は……ジュジュ…………」
一滴も零さぬ様に俺の腕に縋る叔父上の口からは、吐息と共に何度もジュジュの名前が漏れた。
「……叔父上、俺が憎いでしょう?貴方から愛しいジュジュを奪った、貴方の兄上にそっくりな俺が」
ジュジュ……ジュリエンヌ・ロア・リアトリスは俺の母上だ。長く艶やかな黒髪の、それは美しい人だった。
元は子爵家の令嬢であったが、聖属性の強い力を持っていた事で筆頭聖女を勤めていたのだ。彼女は叔父上と同い年で、貴族学校に通っていた頃から密かに想いを交わした恋人同士だったという。ただの子爵令嬢なら身分が釣り合わなかったが、彼女は筆頭聖女だ。皇子との交際も何の問題もなく、二人は卒業後に婚姻を結ぶ事が内々に決まっていた。
ただ、それを忌々しく思っていた男がいた。俺の父上で、叔父上の一番上の兄であるガブリエル・ロア・リアトリスだ。末子だが、武術に長け、魔術の才もある叔父上は、父上にとっては脅威だったのだろう。ただ最初に生まれたというだけで、皇帝の器ではない事を一番解っていたのは他ならぬ父上だからだ。見目だけはそれは美しかったが、他は至って平凡な才しか持たぬ次代の皇帝。
弟への複雑な思いを抱えていた彼の前に現れたのがジュリエンヌだった。初めて見た瞬間に心を奪われた相手は、その弟の恋人だったのだ。優れた才に恵まれ、この上美しい聖女まで手に入れるだなんて、そんな事が許されていい筈がない。そう思った瞬間に、彼の心は既に正気ではなくなったのだろう。
父上は、叔父上に会う為に城に来ていた母上を、隙をついて自室に連れ込み、無理矢理抱いたのだ。清らかな交際をしていたジュリエンヌは、当然純潔だった。為す術もなく一方的に奪われ、そのたった一回で俺を孕んでしまった哀れな母上。婚姻の相手は挿げ替えられ、望んでもいない皇后の地位に据えられた。その上更に、愛した叔父上は何も言わずに、ただ母上を間接的でも護るためだけに軍に入ってしまったのだ。
それでも自分を失わず、前を向き続けた母上は強い人だったのだろう。けれど父上はそうではなかった。病的な迄に母上を愛していた父上は、母上を必要以上に束縛し、叔父上や他の男とは決して会わせようとはしなかった。母上も、叔父上の名前すら呼ばず、話題にしないように気を配っていたのだが、最初から狂っていた歯車は狂い続ける。
4年前の戦で叔父上はルドベキア王国の騎士団長と相対し、顔に大怪我を負ってしまったのだ。彼の美しい顔は切り裂かれ、左目は失明していた。皇族の彼は勿論、速やかに城へとその身が移され、聖女達の治療が施される事になったのだが、あまりの傷の深さの為に普通の聖女では治療が進まなかったのだ。望みは筆頭聖女である母上だけだったというのに、父上は頑なにそれを拒んだ。
『もう我慢なりません!グエノレは貴方の血を分けた弟なのですよ!?貴方が何と言おうと、わたくしはグエノレの――グエンのもとへ参ります!』
その時、母上はあの時以来一度も口にしなかった叔父上の名前を、母上だけが許されていた叔父上の愛称を呼んだのだ。
その瞬間、父上の心は完全に壊れてしまった。
狂った様に笑い声をあげたかと思えば、腰に佩いた剣に手をかけ、背を向けていた母上を斬り捨てたのだ。そうして彼女を助けようとした何人もの聖女をも斬り捨て、辺りは血の海と化していた。
命からがら逃げ出した侍女からの報告を受け、俺が辿り着いた時に見たものは、酷く鼻につく血の臭いの中で、既に事切れた母上を誰にも渡さぬ様に掻き抱く、廃人の様になってしまった父上の姿だった。
すぐに箝口令を敷くと、母上と聖女達はルドベキア王国との戦で命を落としたのだとし、遺体は手厚く葬った。どうにか難を逃れた数少ない聖女達は、全て他国へと亡命した後だったので、そのまま放置した。父上はとても人前に出せる状態ではなく、城の奥深くに押し込めた。こんな状態では戦を続ける意味もなく、早々に休戦を申し出たのだ。
叔父上は――傷を治す事が出来ず、暫く高熱が続いた。幸い命は取り留めたが、最愛の人の死は彼を酷く打ちのめし、彼の心を蝕んだ。そうして叔父上は、俺の中に母上の面影を求める様になってしまったのだ。
感情の無い瞳で見下ろせば、叔父上の手が愛おしむ様に頬に伸ばされた。
「何故お前を憎む必要がある?お前のこの瞳は、ジュジュと同じ色だ。美しい、冬の一時を思い出させる蒼だ。そうだ……あの冬の日の湖畔で、君と見た氷紋、あれは綺麗だったな」
「…………」
「愛してる……愛してるんだ……こんな事なら、君をあの時一人にしなかったものを……」
縋るように抱き竦めるその腕は、酷く震えていた。叔父上は、俺を通して触れられなかった母上を抱き締めているのだ。こうする事にも、もう慣れてしまった。宥めるように、その背を優しく撫でる。
「……俺も、叔父上を愛していますよ」
愛とは人を狂わせるものなのだ。狂っているから愛おしいのか、愛することで狂うのか。
いずれにせよ、ここには狂った者しかいない。
「エマ……君は今、どうしている……?あぁ……早くまた逢いたいよ、君に――」
きっと、この世界で俺程君を理解している人はいない。君の全てが、憎らしい程に愛おしい。君が忘れてしまったものを、俺が全て覚えているから。だから早く、俺の隣に戻ってきて。あの頃の様に俺に触れて、抱き締めて。
この歪んだ世界から、俺を解放して。
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