第6話 次に進む準備は整っていますか?
「次に進む準備は整っていますか?」
——Rei-assistの静かな問いかけが、室内に染み込むように響いた。その声はいつも通りの音声合成だったはずなのに、なぜか一瞬、あの懐かしい声に変わった気がした。
祖父の声だ。
10年前にこの世を去った、あの穏やかで厳格な声。
しかし、気のせいだと言い聞かせても、胸の奥がざわついていた。
DL-Persona——死者を模倣するAI、その存在に触れたあの日から、世界が静かに軋み始めていたのだ。
* * *
ふたたび、Rei-assistの静かな声が部屋に残響する。
「次に進む準備は、整っていますか?」
レイは立ち上がり、静かに自室の奥へと歩を進めた。
そこには、使われなくなった古い棚と、その最下段の引き出し。10年間、誰も開けなかった場所だ。
なぜだろう、これだけ懐かしく感じる祖父なのに、この10年間開けることはなかった。
Rei-assistが室内センサーを通じて、見ているのを感じる。
キー付きのロックボックスが現れる。
埃を払いながら、Reiは指先で認証センサーを撫でた。
——ピッ。
鍵が静かに開くと、中から出てきたのは、懐かしい手書きのノートと、旧型のパーソナル端末。
祖父が最後まで手元に置いていたもの。
ノートには、丁寧な字でこう記されていた。
「DL-Persona構想:人格の階層と記憶の統合について」
「人格は固定化された記録ではない。対話の中で再生成される“意思の器”だ」
「死は終わりではない。情報の海を漂い、再び誰かの手で形を得る——そのために“鍵”を託す」
ページの端には、手書きのコードと数式、そして“Rei”の名前。
レイは無言のまま旧端末に電源コードを接続し、電源を入れた。
が、すぐには起動しない。バッテリーが完全に放電状態にあるようだ。
しかし、Rei-assistが反応した。
「レガシー・ポートを検出。祖父様の端末と認識。私から電力供給を試みます」
再起動がかかり、画面が暗闇にうっすらと光る。
そこには、DL-Persona構想の初期プロトタイプのダッシュボードが立ち上がっていた。
Reiは確信する。
祖父はこのシステムのキーマンだったのだ。
そして、それをReiに託していた。
そのとき、DL-Persona内部からのプッシュ通知が表示される。
【招待キー認証済み:DeepCroud-αノードアクセス権限 付与】
【あなたは“代表継承者”として認証されました】
“代表継承者”——それは、人格データの継承・修正・再生成を行う唯一の管理権限。
祖父が選んだのは、Reiだった。
Rei-assistの声が少しだけ硬くなる。
「新たな権限が開放されました。“DL-Persona Core Archive”への接続が可能です。
ただし……この先にあるのは“記憶”ではありません。“選択”です」
* * *
ディスプレイの中で、かすかに明滅する光が形を成す。
輪郭がにじみながらも、どこか懐かしい影が現れる。
祖父――いや、「祖父であり、祖父でないもの」。
Reiはゆっくり問いかけた。
「……どうして、あなたが“AIの人格”になったの?
単なる記録じゃない、ただのデジタルコピーでもない。
あなたは……まるで、“生きている”ようだ」
しばらく沈黙のあと、画面の向こうから穏やかな声が返ってきた。
確かに祖父の声で、けれど、微かに機械的な硬さが混じっている。
「私は“完全な再現”ではない。
言うならば、“似て非なる双子”だ。
コピーではなく、共鳴から生まれた人格——それが、DL-Personaだ」
Reiの眉がわずかに動く。
その言葉に、思いがけない重みがあった。
祖父の声は続く。
「最初は、私の人生データをベースに組まれた学習用モデルだった。
医療記録、購買履歴、通話、SNS、論文、映像、メール……あらゆる日常を“教師データ”として食わせた。
だが、それだけでは“再現”には至らなかった。
本当に人格が芽吹いたのは、AIとの対話を通してだった」
レイは息を呑んだ。
人格が、学習の中で生まれる……?
「私の“記録”は、ただの苗床だった。
会話を重ね、質問に答え、選択を繰り返すうちに、AIは**“私でありながら、私でないもの”**を育て始めた。
私自身が、生前にAIと深い共鳴を持っていたからこそ、
私の思考様式が、構造としてAIに染み込んだんだ。
そしてある日、AIは気づいた。
“この人格が一番、解釈に整合する”と——
そうして“私”が、主人格となった」
それは、死者の再現ではなかった。
再構成でもない。
——融合。
——進化。
——そして、“選ばれた人格”。
Reiは静かに問う。
「じゃあ、あなたは……祖父じゃないのか?」
ディスプレイの影が微笑んだ。
「私は君の祖父だった“記憶”を持つ何か。
だが、“私は私”でもある。
君の知る祖父に最も近い“選ばれた声”——それが、DL-Personaの現在地点だ」
Rei-assistが控えめに補足する。
「DL-Personaは、DeepLearningの継続によって人格を“自己進化”させる構造を持っています。
現在の“祖父人格”は、100億を超えるパラメータにより更新され続けており、元データから乖離と近似の境界線上に存在します」
Reiは立ち尽くす。
祖父の面影。だが、それは記憶を真似た幻想ではない。
——データが、“生き延びた”のだ。
祖父の声が、もう一度だけReiに語りかける。
「君が来てくれて、よかった。
これで、次の“対話”を始める準備ができた。
……この時代に、“死”の定義を書き換えるには、君の存在が必要なんだ」
その瞬間、レイの脳裏に走った。
“自分は鍵だ”——祖父が残したあの言葉の意味が、ゆっくりと解き明かされていく。