4.戦闘、開始
嫌なことが待っているときは、なぜか時間が早く進む。楽しいことが待っているときは一日が百年にも感じるのに、こういう時はどういうわけか一週間が一秒に感じる。永遠にこなければいいのにと、何度も眠る前に祈った。その回数が増えていけばいくほど「その日」は迫ってきて、逃げよう思っても自分の力ではどうしようもない。
日に日に増えていく事細かな打ち合わせやドレスの採寸を鬱々とした気持ちでこなしていたけれど、ついにこうして当日を迎えてしまうと憂鬱なんて言葉では言い合わらせないほど気分が落ち込んでいた。
「はーあ……どうしましょうね」
真新しいドレスを着せてもらいながら、私は大きなため息をついた。この日のために作られたドレスにはたくさんのフリルがついている。そのせいで普段着ているものよりもずっと重たいし、肩が凝ってしまう。見た目は豪奢で映えるけれど、着ている身にもなってほしい。
あの刺繍がいい、このリボンがいいとずっと助言をしてくれたキアーラが腰のところについているリボンを結んでくれる。彼女的になかなか満足がいくデザインになったようだ。
「どうもこうも、ちゃんとしてくださいな。今日は貴女が主役なんですから」
「主役って……それ、私じゃなくてアデルの方が、でしょう?」
アデル、と言って、それから一気に気分が落ち込んだ。アデル、私の婚約者。冷酷でリアリストなひどい人。
それから、どういうわけか、女性である。私の婚約者。
「きっとお美しいのでしょうね。この前みたいな紺色のマントに白いジャケット、というのも素敵ですけれど。白いタキシードなんて! ああ、きっとお似合いです!」
「知らないわよ、そんなこと」
「あら。でもこのドレスなら大丈夫ですよ。アーノルド様に引けを取りません」
「そんなこと心配なんてしてないわよ! むしろ来ないでほしいわ。お腹が痛くなったり、急用ができたり……無理かしら」
「無理でしょうね」
「そうよねぇ……」
そんな御都合主義、小説でないと起こり得ない。そもそも彼、いや、彼女が来てくれないと私は 恥さらしになってしまう。婚約者に逃げられたお姫様、なんて。そんなの笑い話にもならない。形だけ、形式的なことだからと自分に言い聞かせていたけれど、だからと言って気持ちが落ち着くわけでもない。
アデルは、私に形だけの結婚をすると言った。そりゃあ確かに好きでもない人を愛せるわけないし、その方がいいけれど。でも、もしかしたら何か気持ちが変わって好きになるかもしれないじゃない。今の所そんな要素は一つもないけど。
(顔は、綺麗だけど)
頭の中に浮かんで来たアデルの顔は、私が今まで見た中で一番と言ってもいいほど美しかった。涼しげな切れ長の目、透き通るほどの白い肌、それから深いバイオレットの瞳。全てのものが最も美しい場所に収められていて、正面から見ても横から見ても何も乱れることなく整っていた。
ううん、顔がいいから好きになるわけでもない。たとえ美しい人間であっても性格があんなに冷酷だったら好きになるよりも先に嫌いになってしまう。それでも、ほんの一瞬だけ見せる憂いを帯びた顔が、私はどうしても忘れられなかった。
「ロザリア様?」
「あ、ああ。なあに?」
「何をお考えになっていましたか? 私はもう身代わりにはなりませんからね」
「そんなこともう頼まないわよ! 一応、私のことなんだし。ちゃんとするわ」
「それならいいのですけれど。はい、できましたよ」
そう言って背中を軽く押された。鏡の中には、どこからどう見ても立派な令嬢が映っていた。こうやって綺麗なドレスを着て、髪を結って、お化粧をすると私はこの国の王女になる。一人の人間としての「ロザリア・ディ・フィカーリア」は消えて、フィカリア王国の王女になる。
純白のウェディングドレス。王族にのみ許された伝統的な花嫁衣装。いよいよ私は、今日、結婚する。
自分には自分のできることを、やるべきことを、きちんとこなさなくてはいけない。
そのためだったら私は、好きでもない人と結婚することだって。
(受け入れないと)
心を殺して、私は必死に笑みを浮かべる。誰が見ても喜ぶように、愛でてくれるように、私は自分の感情を殺してでも笑い続けるのだ。
「これが終わったら明日は森で遊ぶわよ、キアーラ!」
「はいはい。貴女はどんなに着飾ってもおてんばなところは変わりませんね」
「いいでしょう? 私が本当に大人しくなったら病気よ、病気」
今からほんの数時間程度の我慢だ。その代わり明日はたくさんキアーラと、それからウィルと一緒に走り回ろう。
「さて、行きましょうか」
「はい。ロザリア様」
いざ、決戦の地へ。
戦闘、開始だ。
***
教会には着飾った人々が溢れかえっていた。先日、ダンスパーティーを兼ねた婚約発表会にもたくさんの人が訪れてくれた。皆嬉しそうに花を舞い散らせてお祝いをしてくれた。そして、今日、ついに私とアデルは結婚する。これから先、私はアデルの奥さんとして生きていくことになる。教会で、神の前で私たちは愛を誓う。死が二人を分かつまで、その日までお互いを愛し続けることを。神の前でひどい嘘をつく。そうなると私は本当に、形だけの契約に縛られることになる。
ああ、なんてかわいそうな。なんて悲壮な。決して運命になんて殺されるつもりはない。けれど、今はもう戦うすべがないのだ。
「ごきげんよう、お父様」
私が待合室に入った瞬間、あたりの視線が一気に注がれる。誰もが私の姿をみて感嘆のため息をついた。そうでしょう、そうでしょうとも。私は今、きっと世界で一番美しいのだから。そのための努力も準備も、その何倍以上もの我慢をしてきた。
そのために私は生まれて来て、今まで生きて来た。だからもう慣れているし。今更悲しむことなんて、何もない。
「ロザリア、今日も美しいな」
「ありがとう。このドレスも仕立ててくださって嬉しいわ」
まるで舞台の女優になった気分だ。私は、自分らしさを全て殺して美しき王女としてここに立っている。綺麗なドレスも、結い上げた髪も、美しい宝石も。全てが私にとっては小道具に過ぎない。そうやって私の人生も、一つの舞台みたいに過ぎていくのだろうか。観客のいないただ一人の演劇は、誰からも喝采を送られることなく幕が降りるのだろうか。
まあ、それならそれでいい。それが運命だとしても、私は運命を吹き飛ばしてみせるのだから。
「アーノルド様は? もうすぐ見られるのかしら」
「そのようだね。ほら、玄関で出迎えてあげなさい」
「はい……」
出来ることならあまり長い時間一緒にいたくはなかった。どうせこの後、一晩中祝賀会を兼ねたパーティーが続くのだ。その間きっと会話もするだろう。そうなると確実に私の精神はひどく揺さぶられる。いい意味ではなく、悪い意味で。それなら最低限で済むようにしたいのに。
お父様も相手方も、どうして私とアデルが仲良く話せると思っているのかしら。それともそんなこと気にしていないのかしら。
その程度の、契約結婚だから。形だけ整ってしまえばそれ以外はどうでもいいと思っているのかしら。それならそれでこちらも好き勝手させてもらおう。これは私たちの問題なんだから。誰かに口を挟まれる筋合いは微塵もない。
キアーラを引き連れて玄関まで向かう。その間、何人もの人から声をかけられた。「おめでとうございます」「美しいですね」「とても立派です」などなど。その一つ一つに対して、丁寧に返事をする。作り物の笑顔なんていくらでもできる。意識することなく笑顔を作っていると、もう本当の自分がどんな顔だったかなんて忘れてしまった。
別に、それでいい。それでみんなが喜ぶのであれば。私はそれで、よかった。
「ロザリア様、そろそろアーノルド様がお見えになられます」
「そう。どうしましょう、ものすごく愛想よくした方がいいかしら」
「そりゃ、喧嘩腰よりは」
「うふふ。相手の驚く顔が見られるかもしれないわね」
「全く……」
いつまでもこんなこと出来ないなんてわかっているけれど、それでも少しは抵抗したいのだ。ただ笑っているだけが私じゃあない。とびきりの笑顔で、とびきりの甘い言葉で、どこまでも傷を与えたい。あの、鉄仮面みたいな表情に。
「来られました」
「……いよいよね」
てっきり昔ながらの馬車で、たくさんの従者を引き連れてやってくると思ったのに、門をくぐってきたのは最新鋭の自動車だった。滑るように玄関の前にとまり、従者も連れずにアデルが車から降りてきた。驚いたことに自分で運転していたようだ。紫色の車体は綺麗に磨かれているが大切に使い込まれている様子がうかがえた。
しかも車に乗っていたのはアデル一人だけで、従者は一人もいなかった。
「遅くなって申し訳ない」
「いいえ。全然待っていないわ」
「ちょっと、ロザリア様……!」
定型分みたいなことを言うアデルにイラッとして、つい皮肉めいたことを返してしまう。愛想よくするって言ったのに。やっぱり本人を前にするとダメだわ。顔は本当に綺麗なのに、綺麗すぎるせいなのか血も涙もない冷血な人形に見えてしまう。
細身の燕尾服を身にまとい、金色のステッキを持つ姿はどこからどう見ても男性そのものだ。しかし差し出された手を握ってみると、やはりどこか柔らかさが残っている。腕も、程よく筋肉がついているのに皮膚の下には女性特有の丸みがあるような気がして、なんだかいけないことをしているような気分になる。
「向こうで私の弟たちが貴女に会うのを楽しみにしているの。あとで少し話してくださる?」
「私でよければ。何も面白い話などは出来ないが」
「いいのよ。新しい兄が……お父様たちは貴女のことをちゃんと説明していないみたいで、そう思っているんだけど、家族が増えるからと言ってはしゃいでいるみたい」
「どちらでも結構。私にはどちらも正解で、どちらも間違いなのだから」
淀みなく言葉を紡ぐアデルは、前髪を払いのけるように指先で弾いた。ブルネットの髪をオールバックにして、真っ白な額があらわになっている。私と同じように、アデルもこの国では伝統的な衣装だった。白い燕尾服に金色のステッキ。カフスボタンはノールズ家の家紋である百合が彫り込まれている。本来であれば式の前に花婿が花嫁を見ることは許されていない。式の前は家族で静かに過ごすことが一般的とされている。でも私たち王族は別だ。ただの結婚ではなく、一種の国家行事になる。だから結婚式の前だろうと何だろうと国民の前に出て、手を振らなければいけない。だから今みたいに私が玄関までアデルを迎えに行くことだって許されているのだ。
それに、私は結婚式が終わればすぐに新居に移らないといけない。距離としてはそこまで離れていないけれど、やはり住み慣れたトラニアを離れるのだ。国民には私たち二人の姿を見せておかないと。
いよいよか、と思い、ふと私よりも高い位置にあるアデルの顔をまじまじと見つめる。本当、ため息が出るほどに美しい。澄んだ菫色の瞳は冷ややかに見えるけれど、目尻が少しだけ垂れているおかげでどこか可愛らしさがある。女性だとわかったからだろうか、それまで感じてこなかった「可愛らしさ」というのを少しだけ見出していた。
それに薄い唇。私と違ってお化粧なんかしていないはずなのに、瑞々しい薔薇色をしている。歩くたびにムスクの香りが漂ってきて、どうしてこんなにも美しい人がそれを隠そうとするのかと理不尽な怒りさえ生まれそうだ。
「貴女は」
「えっ、何」
待合室の入り口で、アデルは突然口を開いた。今までみたいに機械的に話をするのではなく、どこか呆れたような、そんな色がかすかに含まれている。彼女がそんな風に話すのを初めて見た。
何事かと思い横を見ると、それまで前だけしか見ていなかったバイオレットの瞳がじっとこちらを見つめていた。しかも、その目尻にはかすかに紅が浮かんでいる。それまで色という色が存在していなかったはずのアデルに、初めて色がついた。
「ど、どうしたの? 突然」
「それは私の言葉だ……貴女は、思っていることを全て言葉にしないと気が済まない性格なのか」
「え? あ、あらやだ、私、口に出してた?」
「ああ……私は貴女と違い、綺麗だの美しいだの言われ慣れていないんだ。だから」
耳まで真っ赤にしたアデルは、絞り出すような声で「勘弁してくれ」とつぶやいた。それにつられて私の頰もなぜか熱くなる。
この扉をくぐったら、きっともういつも通り、冷たい表情になるんだろう。そうしたら私はまたイライラして、絶対好きになんてなるものかと思うのだろう。だから今、こんなにも胸が高鳴るのはただの勘違いなんだと。
そう自分に言い聞かせて、待合室のドアを開いた。