3.好きになんてなるものですか
冷酷でリアリストな婚約者は、実は女性だった。
形だけでしかない結婚にますます腹が立つロザリア。
そんな彼女にアーノルドが放った言葉は……
困惑を隠せなかった。一体どういうことなのだろう。私が先ほど見せられたこと、知らされたことは、果たして本当なのだろうか。いくら考えても、現実を受け入れることができない。むしろこんなことをあっさりと受け入れられる人がいたら見てみたい。ぎゅっと目を閉じると、瞼の裏にくっきりと焼き付いた細いシルエットが映し出された。
親に婚約者を決められることはまだいい。
政略結婚も、生まれた家を考えたらしょうがないだろう。
でも、相手がまさか、女性だなんて。そんなの、結婚どころの話ではない。
それに何より、秘密を暴かれて本来なら動揺するはずのアーノルドがどこまでも冷静だということだ。普通こんなことがバレたら狼狽するものだ。誰にも言わないでくれ、見なかったことにしてくれ、貴女の勘違いだ。そんなことを言ってもいいはずなのに。なんで彼は、いや、彼女は、当然のように肯定をしたのだろうか。
全てがわからないままだった。
「とりあえず体を温めましょう。着替えはサイズが合うものはないので、しばらくはこちらのバスローブを着てもらうことになりますが」
「構わない。すまないな」
「いえ。ロザリア様の婚約者様となれば、私の支えるべき相手にもなります」
「ありがとう、キアーラ」
勝手に動揺している私を置いてきぼりにして、キアーラとアーノルドはテキパキと着替えを行なっていた。とりあえずあのままだと濡れてしまうし目立ってしまう。かといって洗濯女中に服を渡すと何が起きたかバレてしまう。こうなったらもう、こちらでどうにかするしかない。そういうわけで急いで私の部屋に連れていって、濡れているものを全て脱がせた。
脱がせてから、とても後悔した。
それまでは分厚い服や装飾でごまかせていた。私だって騙されていたのだ。それほどまでに彼女は完璧に男性に見えていた。
でも、服を脱ぐとそれらは見事に露わになってしまう。布で隠していた乳房はたわわに揺れ、綺麗にくびれた腰や柔らかそうな腹はどこまでも白い。鍛えているとはいえ、筋肉では隠しきれない柔らかさが目の前にあった。私よりは太いけれど、それでもしなやかな脚がバスローブからはみ出ている。私のサイズでは、やはり少し小さかったのだろう。
雫を垂らしている服は全てカゴに入れられ、部屋の隅に置かれていた。
「ねえ……本当に、どういうことなの?」
「どう、とは」
「そんなの一つしかないでしょう!? 貴女、女性だというのにどうして私の婚約者なんか……!」
体が冷えないようにとキアーラが作ったウイスキー・トディを手にしたアーノルドが、濡れた髪をもう片方の手でかきあげた。綺麗な額が晒される。白くて、すべやかで、傷ひとつない。濡れて濃くなったブルネットは、今はもう冬の夜空のようになっていた。
「貴女の婚約者である“アーノルド・ディ・ノールズ”が女性である、という件に関してだが」
「ええ」
「貴女はそれを知っていたはずではないのか」
「……ええ?」
そんなの初耳だった。私が聞かされていたのはノールズ家の嫡男が私の婚約者になるということだけで、それがまさか女性だなんてことは聞いていない。それに、女性だったら嫡男にはなり得ない。嫡男とは、つまりは長男ということだ。女性が男にはなれるはずがない。
こんなことお父様やお母様が聞いたらどう思うだろう。一体それは、どうなるのだろう。婚約破棄だろうか、それとももっとひどいことになるのだろうか。確かにアーノルドは冷たくてリアリストで夢も欠けらもないけれど、でもそこまで酷い仕打ちをされる必要は、きっとない。どういう事情かはわからないけれど。
「ロザリア様、貴女もしかしてマダム・ポピンズのお話を聞いていなかったんですね」
「マダム・ポピンズ……? ああ、確かこの前来ていらしたご婦人ね。フィカーリア家とノールズ家についてお話してくださった」
「そうですよ。その時におっしゃっていましたよ。アーノルド様が女性であることも、全て」
「え、嘘でしょう?」
「嘘なものですか。私も隣で聞いていましたらか、本当です」
確かにマダムは私にそういう話をしてくれた。どうして私はノールズ家の方と婚約するのか、その理由を、両家の歴史を追いかけながら話してくれたけれど。正直途中から私はぼんやりしていた。だってしたくもない結婚について延々聞かされたところで何も楽しくない。結婚しないといけない理由を聞かされて、そうして無理にでも納得してくれと言わんばかりの言い方を。私は聞きたくなかった。
前の晩に読んだ小説を思い出しては「私もこんな恋愛がしたい」と思い、どうしてこんな面倒なことになったのだろうかと現実を恨んでいた。でも、現実が厳しければ厳しいほどきっと夢は美しいものだと自分に言い聞かせていたらマダムはいつのまにか帰っていた。そうか、あの時に何か言っていたのか。
「まったく、ちゃんと聞いていないからですよ」
「だって話が長いんだもの!」
「キャン!」
「ウィル! ドレスに爪を立てないでちょうだい!」
私とキアーラの口論が遊んでいると思ったのか、ウィルもなぜか楽しそうに吠えてくる。こっちは全然、まったく、楽しくないのに!
「なるほど、何も知らずにこうなったのであれば確かに貴女の反応も納得できる」
「な、何よ。貴女まで私にお説教するつもり?」
「まさか。ただ純粋に驚いていたのだよ。どうして私が女であることに、今更そこまで驚くのか、と」
何よそれ、結局嫌味じゃない! 今更驚いて悪かったわね! そりゃ話を聞いていなかった私も悪いけど、驚くくらいいいじゃない!
「でも……どうして女性なのに嫡男なの?」
「そこからか」
「しょうがないでしょ! 最初の五分くらいしか聞いていなかったんだもの……」
「いや、確かにそこを明らかにしておかないとこれから先にも支障が出る。私でよければ説明をしよう」
立ったまま聞くのも気がひけるので、アーノルドが座っていたソファに私も座った。彼女の声はマダム・ポピンズのキンキン声と違って、低くて聞き取りやすい。まるで舞台俳優みたいだ。いや、舞台女優になるのだろうか。背も高いし、見た目もいいし、声もいい。きっと舞台に立っても映えるだろう。あ、でもこれほど無表情だったらダメか。私が監督だったら絶対に降板させている。
ふふ、立派なノールズ家嫡男も舞台の上ではただの素人なのね。まあ、私もだけど。
「先ほどから私の顔を見て笑っているが、何かついているか」
「え、いや、そうじゃあないわ! 気にしないで」
「気にするなと言っても気になるのだが」
そう言って、ほんの少し、わずかだけど眉をしかめた。ようやく表情が動いたかと思ったらそんな険しい顔だなんて。せっかく綺麗な顔なのに、もったいない。なんて、私が言ったところでどうしようもないことだ。
それに今は、どうして彼女が女性なのに嫡男なのか、という方がよほど大切である。私にとっても、彼女にとっても、それからこの国にとっても。
「まあいい。どこから話そうか」
「そうね……貴女の話しやすい順番でいいわ」
そういうと、わかった、と頷いて彼女は口を開いた。
先ほどまで凍えて紫色になっていた薄い唇は、すっかり桜色に戻っていた。
彼女が聞かせてくれたのは、次のような話だった。
***
この国には、かつては多くの魔獣が住んでいた。他の国ではすでに伝説となってしまった物たちも住む場所を求め、フィカリア国に集まってきたからだ。そこまで領土が広いわけではないが、かと言って無下に追い出すのも忍びない。もしこの国から追い出してしまったら、一体彼らはどこにいくのだろう。住むところがなくなって、食べるものもなくなって、いつしか姿を消してしまうことになる。
最初はそれでもいいと言われていた。機械が生まれ、都市化が進み、生活はどんどん便利になっていく。だったらそれで、いいではないか。自分たちが楽に暮らせれば。それの何が悪いのだ。ここは自分たちの土地で、そこを好きに使うことの何が悪いのだ。そう意見する人もいた。
その気持ちもわかる。しかし元々は彼らがこの土地に住んでいたのを、人間が勝手な都合で追いやったのだから。それをまた、再び追い出すなんて。それは果たして人道的といえるだろうか。そう言ったのは今から数百年前の、初代フィカリア国国王だった。もちろんそれに反対する者はいた。国外に移住する人もいた。それでも、国王に忠誠を誓った人々はそのまま残り、それに対する礼として高い階級を与えたのだった。
それが、いわゆる貴族と呼ばれる家であり、国内の重要な土地を与えられることになった。
「つまり、ノールズ家というのは」
「そう。その時に階級をもらった一つだ」
「なるほどね。それで?」
魔獣との共存のためには、ある程度の魔力が必要だった。言葉はもちろん通じないし、何を理由に暴れ出すかわからない。こちらはお前たちを追い払ったりはしないから、といくら思っていても、それは簡単には通じない。だから、魔力で契約を結んだ。ある意味力技ではあるが、応じなければ無理強いはしない。契約に応じてくれる魔獣のいるところを再び選び、根気よく接し続けた。
その甲斐あってフィカリア国は魔獣と人間が共存する、唯一の国となった。今ではその魔獣たちも数が減ってしまったが、当時与えられた階級は根強く残っている。しかもかつての名残なのか、魔力が強い家はすなわち強い権力を持つことができる。だから、皆こぞって強い魔力を求め結婚を行なっていた。
「我がノールズ家は、もともと魔力が弱い。いや、特化型だから魔力自体は弱くないとしても、戦力としては使い物にならない」
「特化型?」
「そうだ。先ほど貴女も見ただろうけれど、池に落ちても怪我をしなかっただろう」
「あ、そういえば」
「あれが、私の魔力だ。外敵からの攻撃を防御する。肌を強化し、あらゆるものをはねのける。だがそれだけだ。それ以外の力は何もない」
だから、フィカーリア家の血が欲しかった。攻撃型の強い血が。ノールズ家の繁栄のためには必要だったのだ。いくら魔獣たちと契約を結んでいるとしても、もしも国内で内乱が起きた際はそれぞれの家がそれぞれの魔獣を引き連れて襲ってくる。そういう時に太刀打ちできるほどの力が、ノールズ家にはなかった。いくら防御力があったとしてもいつかは押し負けてしまう。少しでもいいから攻撃力をあげて、自分の領土を守らないといけない。
そういう理由でノールズ家はフィカーリア家との婚姻を求めた。だがそれは今の時代に決められたわけではない。もう随分と昔からその取り決めは行われており、何世紀にも渡って両家の血は混じってきた。それに、ノールズ家は男系、フィカーリア家は女系という性質もある。そのおかげで婚約、結婚ということに関して事欠かなかった。
だが、ここにきて困ったことがある。
「私が、女だったことだ」
「そんな……」
「父上は、素晴らしい当主だ。魔力も比較的強く、立派な肉体を持ち、威厳もある。だが彼にとって唯一の汚点が、私だったのだ」
「何それ、そんなこと」
「あるのだよ、ロザリア」
ノールズ家に嫁いだ女性は、まず何よりも男の子を産むことを望まれる。それ以外のことはむしろ何も望まれていない。ただ、元気で健康な男子を産むことだけが使命だった。加えて強い魔力を引き継がせ、どこに出しても恥ずかしくない嫡男を育て上げることを望まれていたのだ。
だがそれは失敗した。
男が、産まれなかったのだ。
おまけに魔力もろくに持たない女ばかり産まれた。これではノールズ家は自分の代で途絶えてしまう。そうなってしまえば自分はとんだ恥さらしだ。しかも代々受け継いで来た土地までも失ってしまうかもしれない。それだけは避けないといけない。なんとかして。どんな手を使ってでも。
そう思い、行き着いた結果が。
「私を男として育てる。無理があるのは重々承知だ。だが、これしか方法はなかった」
魔力に関してはもうどうしようもない。だから、それを補えるほどに訓練をした。幼い頃からお前は男だと言い聞かされ、ノールズ家を継ぐのだと言われ、その期待を背負ってきた。もちろん子供を作ることはできない。女としての一生を送ることはできない。だが、やるしかなかった。そうしなければ、産まれてきた理由が存在しない。女じゃなくていい。綺麗なドレスも、華やかな宝石も、美しい花々も。それらを全て捨てて、生きてきた。
羨ましいと思う時もあった。どうして自分だけ、と恨む時もあった。しかしそれ以上に、自分の存在意義の方が大切だったのだ。
ここに居ていいという理由が、男であることで得られるのであれば。それでよかった。
「これが、貴女の婚約者である“アーノルド・ディ・ノールズ”が女性である、という件に関しての説明だ。理解してもらえたかな」
***
アーノルドの説明は、とても分かり易かった。マダム・ポピンズの長いお話よりも端的で、しかも無駄がない。声も聞いていて心地よいし、かといって眠たくなるわけでもない。いい声だなぁ、と思っている間にするする話が入ってくる。
でもその内容は、簡単なものではなかった。彼女が男として生きていかなくてはいけない理由が、家のためだなんて。しかも男じゃないと生きていけないようにするなんて、そんなの、ひどい。私だって確かに自分の生まれを嘆いたことはあった。でも、ここまで苦しい思いはしていなかった。
「私は、確かに生物学的には女なのだろう。だがずっと男として育てられてきた。今更女として生きることはできない」
「でも、それじゃあ……家は、どうするのよ。いくら貴女が男として育てられたとしても、子供を作るなんてことはできないのよ?」
「ああ。それもわかっている」
「どういうことなの? さっきから貴女が何を言っているか、よくわからないわ」
結局この結婚は、フィカーリア家の強い魔力を欲しいがために行われるものだ。そのためには私の魔力を受け継いだ子供を産む必要がある。まるで人間を道具みたいに扱うことは気持ちがよくないけれど、彼女の言うことを簡単にまとめるとつまりそういうことだ。
しかも、私は歴代のフィカーリア家の中で一番と言うほどに魔力が強い。この、真っ赤な瞳がその証拠だ。どこまでも澄んだルビー色の瞳は、すなわち魔力の強さを表していた。お母様の瞳も赤いけれど、私のはそれよりもっと澄んでいる。光をたくさん吸い込んで、たっぷりと溜め込んで、そうしてそこからまた光を放つように。
国民が私のことを愛するのもそれが理由だ。これほどまでに強い魔力を持った王女となれば、きっと良い子供が生まれるだろう。そうなれば、この国は安定だ。
そう言われて、育ってきた。アーノルドは、子供を作ることを。私は、子供を産むことを。ずっと切望されていた。でもそれは叶わない。どうあがいても、天地がひっくり返っても、ありえないのだ。
「要するに、フィカーリア家の血がノールズ家に混ざればそれでいい。それが、私の血でなくても」
「……含みのある言い方ね」
「簡単な話だ」
そう言って、彼女は私の着ているドレスを指差した。
アーノルドを池から引き上げたり濡れた服を預かったりしたせいで、ドレスはもうすっかり汚れてしまった。こればっかりはもう隠しきれない。まあ、よくこういうことで怒られているから気にしてもしょうがない。
そんなことよりも、アーノルドが怪我をしていないかと言うことの方がよっぽど重要だったのだ。
「貴女の服は、今もう濡れていないな?」
「そ、そうね」
「私の服もおそらく乾いているだろう。違うか?」
「……違わない」
そう、先ほどまでびしょ濡れだったアーノルドの服は、籠の中ですっかり乾ききっていた。もちろん私のドレスも。汚れまでは落ちないけれど、乾かすくらいだったら簡単にできる。もしアーノルドが怪我をしていたら、おそらくその傷は癒されているだろう。この部屋にいる限り、もしくは私の近くにいる限り。
まるで結界のように、私の魔力に包まれる。
本来なら詠唱によって初めて魔力が生まれる。魔法というのは詠唱を引き金に発動するものだ。だから普通にしていたら誰が魔法を使えて、誰が使えないかというのはわからない。しかし私は違った。何も唱えなくとも、何かをしなくとも、魔力は常に溢れている。体に収めきれないのだ。最近になってようやくコントロールできるようになったけれど、そうだとしても今みたいに何もせずとも周囲に影響を与えてしまうのだ。
だから着ているだけや、部屋に置いているだけで服が乾いた。それほどまでに私の魔力は、強くて多い。
「その力が次の世代に受け継がれたらそれでいい。私にはないものだ。目に見えてわかる。父親が誰かは分からずとも、母親はすぐにわかるだろう」
なぜか、胃の中が重たくなった。彼女が次に言う言葉が、恐ろしく感じた。聞きたくない、知りたくない。聞かされてしまったら、私はきっと、平静ではいられない。
本能的に、そんな気がした。
「私にとって必要なものは、貴女じゃない。ロザリア」
「……っ」
そっと手を伸ばして、私の頰に触れた。細い指先には、剣を握り続けたせいだろうか、硬いタコができている。柔らかくほっそりとしているというのに。その手は、今まで何人の人を殺してきたのだろう。どれほどの間、刃を握り続けてきたのだろう。
冷たい剣筋で首元をなぞられるような、そんな気がした。手つきはどこまでも優しい。でも、そこに愛情はなかった。悲しいまでの冷たさしかそこにはなかった。
「私が、いや、ノールズ家が欲しいのは。貴女のその瞳だ」
目の下を、親指が撫でる。
赤い瞳は魔力の証だ。
私の目は、強い魔力の証拠だ。
「それから、この髪」
耳に一房かけて、そのまま撫でる。
ピンクブロンドの髪はフィカーリア家特有のものだ。
私の髪は、私がフィカーリア家の者だという証明だった。
「そして、この痣」
「んっ……」
首筋を指がなぞり、鎖骨を撫でる。
赤い、大輪の花は。
この家の血が混ざっている、何よりもの証だった。
「これらがあれば、それでいいんだ」
「何、それ……」
アーノルドの目が、すっと細められた。深い菫色の瞳には、一滴の淀みがあるように見える。その濁りが一体何なのか分からない。彼女は、それを振り払うかのようにぎゅっと硬く目を閉じて、それから覚悟を決めたかのようにそっと開いた。
そこにはもう、なんの迷いはなかった。
「子供は他のところで作ればいい」
「は……?」
「言葉の通りだ。フィカーリアの血が入ればなんの問題もない。だったら別に、私である必要もないだろう」
「何よ、それ。私に浮気をしろっていうの!?」
「そうだ」
「そう、って……貴女、それ本気で言っているの?」
彼女のいうことが、信じられなかった。
確かに生い立ちや生き方は辛かったろう。好きで女性に生まれたわけではない。好んで男として生きてきたわけではない。ただ、時代が悪かった。ただそれだけの話だ。だから少しだけ、ほんの少しだけど彼女に同情していたのだ。
でもそれは撤回する。
何よ、それ。
ただでさえ決められた結婚で、私は嫌だと思っていた。おまけにものすごく現実主義者で、冷たくて、見た目はいいけれど非情な人間だし。その上、まさか、浮気を強要されるなんて。
この人は私のことを、ただの道具としか思っていないのだ。
敵を斬りふせるために剣を握るように。
書をしたためるためにペンを取るように。
家を遺すために、私と結婚する。
彼女にとっては、ただそれだけの話なのだ。
「私とは形だけ結婚すればそれでいい。貴女もそれがお望みだろう?」
「どういうことよ」
「私は、ロミオにはなれない。貴女の望むようなロマンスを与えることはできない。だからそれを望んでいいと、そう言っているんだ」
恨むのであれば、貴女が長女として生まれたことを恨め。彼女は噛みしめるようにそう言った。
その言葉に、頭の中の何かがぷつりと切れた。胃がくるりとひっくり返る気がした。首とか、顔とか、耳に熱がたまる。胸の中に、どろりとした何かが流れ込んできて、それを吐き出さないと気が済まないような気持ちになった。
「ふ、っざけないで!」
どこか遠いところで、キアーラの悲鳴が聞こえた。まるで違う世界にいるかのようだ。右手に鈍い痛みが走り、乾いた音が部屋じゅうに響いた。ブルネットがふわりと舞う。スローモーションのように静かに波打っていた。目の前に赤く腫れた頰が見えて、ようやく自分が何をしたかに気づいた。
アーノルドの、白くて美しい顔を、私は全力で引っ叩いたのだ。
「ロ、ロザリア様! 一体なんてことを!」
奥歯がガチガチと鳴っていた。人は、怒りが限界まで達すると震えるのだ。そんなこと初めて知った。人を叩くと、自分の手のひらが痛むなんて。そんなこと知らなかった。目の奥が熱い。唇がわななく。血が沸騰するとはこういうことか。
アーノルドは左頬を真っ赤に腫らしていた。魔力を使えば防御できただろうに。それをしなかったのだろう。そうやって自分が傷つくところを見せてくるところも、ますます私の怒りを助長させた。
嫌いだ。この人、私大嫌い! たとえ政略結婚だとしても、形だけだとしても、それでも絶対!
「貴女のこと、好きになんてなるものですか!」
怒りが過ぎると今度は涙が出てくるのか。目の前がじわりと滲んで、声が湿って震えていた。
「なられても困る。好きにしろ」
「なっ……!」
ぎゅっと右手を握りしめる。爪の先が肌に食い込んで少し痛い。でも、それよりも何よりも。私の胸奥はじくじくと痛み続けていた。一体どうして、私に与えられた人はこんなにも酷い人間なのだろう。少しでも同情した自分が馬鹿みたいだ。
いくら複雑な生き方をしてきたからといっても、彼女は結局「男」なのだ。家のことしか考えていない。血統のことしか考えていない。強い魔力が得られたらそれでいい。そんなことでしか結婚を考えられない、悲しいほどにどこまでも、彼女は「男」だった。
「嫌いよ、貴女のこと」
「そうか」
いくら私が嫌いと言っても、それだけしか返してこない。きっと私のことなんてどうでもいいのだろう。ただこの魔力が手に入りさえすれば。ボロボロと涙をこぼしながら、私はきっと彼女を睨みつけた。
その瞳には、やはり深い濁りがあるように見えた。
いざ、決戦の地へ。
戦闘、開始だ。