異世界に転勤するようです。
第2回目です。
どうぞ、良しなに。
(今朝、普通に出勤しました。つい先ほどのこと。妻と挨拶を交わし、人の賑わう駅から電車に乗って)
「降りたら、森。湖」
(あぁ、神よ。何という試練をお与えになるのですか……)
まさに、神の御業。
「はぁ……。悲観していても状況は変わりませんね。非常時にこそ、冷静に。冷静に。スー、ハーー。
ふぅ。
この際、電車やホームが消えたことは端に置いておきましょう。ないものはないのですから……。
携帯電話のマップで検索すれば、たとえ目の前が明らかに森の中であってもここがどこかわかるはず。
ん? まず、電波は通っていますかね?」
すぐさまスーツの右ポケットから黒い携帯電話を取り出す。
ホーム画面を開くと、幸い電波は全快だった。
「はぁ~、ひとまず安心ですね。見渡す限り、電柱らしきものは見えませんが電波はあるようで」
ホーム画面からマップを開き、現在地の確認をする。
が。
「おや? ショックのあまり認知障害でも発症してしまったのでしょうか?」
思わず私は目を疑った。
マップは正常に開いているにもかかわらず、現在地とその付近500mしか映されていなかった。
いつも降りる駅を検索しても情報がなく、出勤するはずの会社、自宅、果ては全国チェーンのコンビニや県名、国名まで調べてみたが何一つ表示されなかった。
そうこうしているうちにも刻々と時間は過ぎ、普段の出勤時間はとっくに過ぎている。
(もうすぐ、朝礼の時間。
社会人にもなって遅刻は……。しかも、よりにもよって今日は大切な会議があるというのに!)
「ッチ。仕方ありません。とりあえず連絡を取らなければ。
けれど、この現状。一体、何と説明すべきなんでしょうね」
(混乱のしすぎですね。独り言ばかりなんて)
マップを消し、連絡先から上司の番号に電話をかける。
1コール鳴りやまないうちに電話がつながった。
携帯電話の奥からは少々焦りを含んだ男性の声音が聞こえる。
「もしもし? 物集か? お前、こんな時間にどうしたんだ、珍しい。
体調不良にしたって、いつものお前だったら――」
「申し訳ございません、社長。本日は不慮の事故により、出勤できません。
今後も出勤できるか不明です。ですので、本日よりお暇を頂けませんでしょうか」
「へ? お、お前、事故って! 大丈夫なのか!? しかも、暇? 会社を辞めないといけないほど重症なのか!?」
電話越しから耳をつんざくような爆音が聞こえ、思わず顔をしかめた。
(この人、既に三十路だというのに落ち着いてものを考えられないのでしょうか)
どうにかして欲しい、と心から思う。
「いいえ、大丈夫です。いたって身体は健康です。でなければ電話なんて。
ただ、少々私にも想定外の事故に巻き込まれ、出勤できるかどうかわからないのです」
「は? 全くもって意味がわからんぞ、物集。完璧なお前が具体性に欠けるなんて、頭でも打ったのか!?」
(ですから、頭を打って重傷なら電話なんてかけられませんよ! もし、そう思うのなら声のボリュームがおかしいでしょうに)
心の中で年の近い上司に悪態をつく。
「いいえ、頭どころか身体のどこにもけがはありません。もちろん打撲もしていません。が」
(打ったのではなく、突発性認知障害を発症したのではないかと)
携帯電話からはひたすらに30代とは思えない落ち着きのない声が伝わってくる。
パッと携帯画面を見れば、朝礼の10分前。若くして社長である我が上司、上條 司は、この後、私も出席するはずだった重要な会議があるのだ。
自社だけの会議ならまだしも重要取引先の社長や役員が来る会議だ。
マズい。大変、マズい。ただでさえ私も出席できないと思しき現状なのだ。このままでは相手先になめられる。
「社長。私が申すべきではないとは重々承知ですが、お互い一旦落ち着きましょう。このままではこの後の会議に支障をきたします。
私自身、現状把握ができず戸惑いの渦中にありますが、時間もございませんので早急にお答えいたします。
よろしいでしょうか」
「お、おう……」
あえて矢継ぎ早に返答し、相手をひるませる。
電話越しから社長から固唾を飲む音が電話越しに聞こえた気がした。
「今朝、電車から降りたら、私は森の中にいたのです。あらかじめ申しておきますが、何の偽りもございません。
私が乗車していたはずの電車は、あたかも元からなかったかのように忽然と消え、目の前には湖と一面の森林が広がっていました。
地図を見ても現在地以外は表示されず、検索をかけても日本という国ですら情報が出てきせんでした。
ですから、こんなにも混乱しているのです。
現在地しか把握できない以上、会社へ出勤することは愚か自宅に帰れるかどうか。
以上の理由により、本日からお暇を頂戴したく思います。会議に出席できず申し訳ございません。
失礼いたしま――」
「待て」
先ほどまでとはまるで異なる社長の静かな声が、自然と口を閉じさせた。
「なるほど? まさかお前の口から、今どきのファンタジーみたいな体験談を聞かされる日が来るとは。
人生何があるかわからんもだな、えぇ、おい。
つか、お前が俺に対して嘘をつくような奴じゃないことは、小さい頃から知ってるから。心配すんじゃねぇよ。俺を信用しろってんだ!」
「はぁ」
(大いに信用、むしろ信頼しているからこそ連絡しているのですが。
というか、今どきのファンタジーとは?)
今どきのファンタジー、とは何のことだろうか。
「んで、今は森の中なんだな? 五体満足、どこも怪我してねぇんだな?」
「はい」
「ならヨシ! お前、電話が繋がってるんだ。いつもポケットWi-Fi持ち歩いてるだろ? それ、今電源つけろ!
あと、スマホの充電残量の確認もだ」
言われた通り、カバンの中の中央ポケットから普段持ち歩いている赤いポケットWi-Fiに電源をつけ、携帯電話の充電残量を確認する。
すると、ポケットWi-Fiは携帯電話と同じくどこからか電波を受信し、驚くことに携帯電話の充電は電池を消費するマップを使用したのに、100%のままだった。
「ポケットWi-Fiの電波も携帯同様、良好です。それに、なぜか携帯電話の電池残量も変わりがありません。一体、なぜ……」
「クックック。そりゃ、十畳十畳。まさにファンタジー。何でもアリだな」
また、ファンタジー、だ。
「先ほどから気になっていたのですが、そのファンタジーとは何を指していらっしゃるのです?」
「あ? そりゃ、今のお前の状況以外ねぇだろうよ。お前、今、森ん中なんだろ? んじゃ、普通電波が繋がるはずねぇよな?
お前はどっかに電波塔がある、とか考えそうだけど、それだけじゃ携帯の電源が100%のままなんて説明がつかねぇよ。
しかも、電車降りたら森の中だぁ? それをファンタジーと言わずしてなんて言うんだ」
「ファンタジー……」
「クックック。そうだ。いや、少々SFも入ってるかもだけどよ。物集、お前、きっと今どき流行りの”異世界転移”ってヤツ。体験してるんだぜ?
いやぁ~~! こりゃ、特ダネだわ! お前のスペックなら余裕で生き延びるだろうし、帰る手段も見つかるんじゃねぇ? か~、羨ましい!
もう、神様に合えたかよ?」
社長が何を言っているかは全くもって理解不能だが、確かにこんな綺麗な湖は日本に存在しないし、マップが正常なのに現在地しか映さないのは、まるでRPGの中のダンジョンマップみたいだ。
先ほどは簡単にお暇を、なんて言ったが、家族を支える収入源は私。妻に連絡を入れれば出来た妻なので何とかなるだろうが、子どもたちもいるし忍びない。
かといって、会社に迷惑をかけ続けることもできない。突然、こんな意味の分からない場所に来てしまって、帰ることなど可能だろうか――
深みにはまりかけたとき、心を落ち着かせる声が耳孔に響いた。
「おい。ま~た、余計なこと考えてんだろ……? いいか、物集。
お前の暇は異世界に行ったごときで出さん! むしろ、そっからいろんな情報を得て報告書にまとめて会社貢献しろ!
電波が繋がって充電が切れねぇんだから、PCも同じはずだ。万々歳な環境だろ。
よって、お前の申請は却下だ。仕事できる奴にいなくなられると逆に困る。
本日から”異世界”へ転勤しろ。そして、報告書は1日ごとにまとめて提出すること。
いいか、転勤だからな? ちゃ~んと報告書出して、会社に帰って来いよ!
ご家族には俺から転勤になったことを伝えとくから心置きなく、な。じゃ」
後に残ったのは通話が切れたときの電子音だけだった。