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友人が失踪した。しかし彼女には遠い親戚しかおらず、友人もほとんどいなかったため、騒がれることはなかった。
また、彼女は有名大学のなかでもトップクラスの学力を誇り、研究室で何かを開発するたびに実験のために出かけ、数日後ふらっと戻ってくることがしばしばあったため、数少ない友人もさほど心配しなかったようだ。
かくいう俺もさほど心配しなかった友人の中の一人である。
というか、失踪したことにすら気づいていなかった。しばらく目にしていないな、程度にしか思っていなかった。
そんな俺が彼女の失踪に気付いたのは、貸していた本を返してもらいに彼女の下宿先を訪れたからである。
インターホンを鳴らしても返事がなく、携帯電話にも出なかったので、もしかすると研究に没頭しすぎて部屋の中で倒れているのではないか、という仮説が俺の頭に浮かんだ。だとすると危ない。
だから、どうせ開いていないだろうと思いながらも俺はドアノブに手をかけた。
これがすべての始まりだった。
ドアノブがすんなりと回る。
小さなワンルームの部屋だった。入った右手側奥には何着か服を掛けることができるスタンドと衣装ダンス。前にはデスクとノートパソコン。左手奥にはいつも彼女が寝ているのであろう布団が小さくたたまれており、その手前には大きな姿見があった。
研究しか頭になさそうな彼女に少しだけ姿見と言う女の子らしさを感じつつ、俺は彼女の姿を探した。
……部屋の情景描写をしている時に気付くべきだったが、中には誰もいなかった。
これではただの不法侵入者である。
このまま帰ると本当にただの不法侵入者になるため、せめて当初の目的である本の返却だけ済まそうと俺は目的のものが置いていそうなところを探した。
自然とノートパソコンの置かれたデスクに足が進む。
そこで俺は初めて彼女の失踪に気付いた。
ノートパソコンの横に、手紙が置いてあったのだ。
「この手紙を読んでいるのはおそらく柊君でしょう。本を返してもらうために私の家に来て、家におらず電話にも出ない私を、きっと君は心配してくれるはずです。って、柊君じゃなかったら恥ずかしいですけどね。」
完全に読まれていた。
やはり彼女は頭がいい。手紙はまだ続いている。
「さて、柊君。今までわたしは色々なものを発明してきました。記憶に新しいのは傘ですね。傘に自動飛行機能と追尾機能をつけ、手で持たなくても勝手に頭の上を傘がついてきてくれる、なんてものを発明したのは君も覚えているはずです。」
当然覚えていた。しかしあれは結局実用化には至らなかった。自重に耐えられない傘と言うのも珍しい。
「今までに作ってきたものはすべて、どこか残念なモノばかりでした。しかし今日……君にとっては何日前かわからないけど、わたしはついに作り上げた。世紀の発明品を。」
あまり自分の頭脳を自慢することのない彼女が世紀の発明品を自称するということはおそらく本物なのだろう。
俺はその発明が一体何なのかが気になったため、二名目に差し掛かった手紙の続きを読んだ。
「名付けて、『微積装置』」
微積……装置。微積と言うのはきっと高校生の時に苦しめられた微分積分のことだろう。はて。微積装置とはいったいなんなのだろうか。
「よく、漫画やアニメが好きな人、いわゆるオタクが言うセリフ。『二次元の世界に行きたい』 これを実現することができるのがこの微積装置。」
……
俺にはよく意味が分からなかった。
「Xの三乗を微分すると二乗の式になる、というのは当然知っているよね。もしかすると君は、三次元に住んでいる俺らを微分して二次元へ、という妄想をしていたかもしれない。この機械はね、それを本当に実現させるの。」
人間を微分することができる、だって?
「君と言う人間は、Xと言う変数で表すことができる。当然二次元や一次元の世界には住んでいないので、二次の係数や一次の係数はゼロ。つまり、柊君はXの三乗と言う式で表すことができる。」
ここまでは納得できる。Xの中身は俺や他人などで変わるが、基本生物は三次元に住んでいるからな。
「この機械を使えば、詳しい理屈は飛ばすけれど、自分自身を微分して二次元の世界に飛ばすことができる。正直わたしもこれを書いている今現在、二次元世界がどんなものなのか想像がついていない。だから今から人体実験をしに行くのだけれどね。」
となると彼女は今、二次元の世界に行っているのか。……待てよ、それって帰ってこられるのか?
「柊君のことだからきっと今頃帰ってこられるのかどうかの心配をしているのでしょう。質問の答えは、もちろん、です。はじめにわたしは言いました。これは微積装置だと。この機械を使えば二次元世界と三次元世界を自由に行き来することができるのです。」
そこまで読んだところで、俺はノートパソコンの横に置いてある小さな機械に気付いた。
「わたしは今から二次元世界へと旅立ちますが、柊君のために微積装置をもう一つだけ残しておきます。当然危険が伴いますし、どんな誤作動が起きるかもわかりませんので、使えとは言いませんが、『どうして俺の分を作ってくれなかったんだ』とごねられても困りますからね。」
装置の形は、体育の授業で使う笛……口で吹くタイプではなく、ボタンを押したら音が出るような歪な刀のような形だった。地の色は黒で、それに赤いボタンと青いボタンが付いている。
「使い方ですが、赤いボタンを押せば微分、青いボタンを押せば積分されます。自分自身を微分するときは、鏡を媒介にして平面の世界に行くので、鏡の前に立ってから使ってください。あと忠告ですが、二次元世界と三次元世界以外の行き来……例えば四次元世界に行く、などはしない方が良いです。」
鏡を媒介にして……そうか、そのための姿見だったのか。と俺は勝手に納得した。しかし四次元に行くな、と言うのはどうしてだろうか。
「鏡を媒介に、と言いましたが、二次元世界と三次元世界は繋がっているのか、だとか鏡に入るのならば三次元世界からわたしは見えるのか、などと言ったことは全く分からないです。これからの実験です。あ、でも、世界の往来は一往復のみにしてくださいね。それではわたしはそろそろ行きますね。柊君も、ぜひ二次元世界を楽しんでください。それでは。」
手紙はそう締められていた。
微積装置。俺も研究者の一員として、正直使ってみたいという気持ちしかなかった。しかし本当に使ってもいいものなのだろうか。彼女の発明にどこか不備があれば、例えば次元のはざまに永久に閉ざされてしまったりするのだろうか。
色々と考えてみたが、結局俺は、微積装置を使うことにした。好奇心に軍配があがったのだ。
姿見の前に立ち、機械を手に取る。
と、その前に俺は彼女の書置きの最後にこう書き足しておいた。「柊青葉です。俺も実験に参加します」
それから俺は、ボタンを押した。
視界が暗転する。
次に正常な視界が戻ってきたとき、俺は鏡の中にいた。
さっきまでいた部屋を、姿見の中から俺は見ている。目の前にはノートパソコンの乗ったデスクがあった。
という事はもしかすると、世界は繋がっているのだろうか。俺から向こうが見えるように、向こうからも俺が見えるのだろうか。しかし目の前に三次元世界に人間がいないため、それはわからなかった。
では横はどうなっているのだろう、と思い横を向いた俺は、二次元世界の本当の意味を知った。
横など、なかった。
きっと正面から俺を見たら、横を向いている俺の姿が見えるのだろう。けれど、横を向いた俺は、何も見えなかった。
「どういうことだ……?」
思わず声が出た俺は、そこでまた新たな事実に気付く。
今声を出したのは俺だけではなかった。
あわてて横を振り向くが、横は見えない。横目で彼女の部屋が少し見えるだけであった。
「誰だ!」
と叫んだその声もまた、複数人があげたように聞こえた。
「俺以外に誰かいるのか?」
その声もまた重なる。しかし今度こそ正確な人数が分かった。
俺以外に二人、つまり三人同時に声を上げている。
何が起きているのかわからなかった俺は自己紹介をすることにした。
「俺は柊青葉だ。お前たちは誰だ。」
そのセリフも、左から聞こえてきた。
……これは左から自分の声が聞こえてくるという、二次元世界に来たことへの副作用か……?いや、待て。
彼女は手紙の中で、柊君はXの三乗だといった。
Xの三乗を微分すると、Xの二乗の三倍になるんじゃなかったか……?
高校二年生で習う一番初歩の簡単な微分法。もしかして隣にいるのは。
「俺、なのか。」
もう三人の声が重なるのにも納得がいった。何故か思考は独立しているが、彼らは俺なんだ。同じことを考えるに決まっている。なるほど、納得した。
「これからどうする?」
「この世界の探索に決まっているだろ。」
「でも思考回路が同じだから、好き勝手探索したら全員が同じところに行くことになるぜ。」
「どうせ三次元世界に戻れば思考が統一されるのだろう。なら別々の方向に行った方が得じゃないか。」
「じゃあ右の俺は右、左の俺は左。横を見ると無、ということは前や後ろにはいけないから、真ん中の俺はステイで。」
「なんでやねん」
ここまで全部三人同じセリフを吐いているのだった。
結局右の俺は、一人で右に向かって歩くことになった。
彼女の家の姿見の端まで進む。
この前が見えないのに進むという感覚は奇妙なもので、横目で彼女の部屋が見えているからまだ歩けるものの、正直恐怖を感じる。
あれ?この姿見を出たらどうなるんだ?
そう思い至ったのは、妙な浮遊感に包まれてからだった。
浮遊が終わり、あたりを見渡すと、彼女の家が見えた。
外に出た? 状況がしっかり把握できない。
落ち着いて記憶をたどる。たしかこの家の前にはコンビニがあった。そうだ、この風景はコンビニで立ち読みをしている時に見えるそれと同じなんだ。
つまり今俺は、コンビニのガラスの中にいるのか?
しかし彼女の家の壁に平行に立てかけられていた姿見からジャンプして、どうして彼女の家の玄関に平行なコンビニのガラスにジャンプできたんだろう。
その答えには一瞬で思い至った。
そうか、姿見を延長すれば、ここのガラスに接する。延長して接する鏡には飛べるという事、なのか。
その理屈で行くと、きちんと手順を踏めばねじれの位置にさえ辿り着くことができる。
つまり俺は、好きな鏡に行くことができるのだ。
しかし二次元の世界というからてっきりアニメの世界に入り込むことができると思ったがそんなことはなかったのね。
まあ当然ではあるのだが。
「さて、これからどうしようかな。」
とりあえず、この世界から向こうは見えるが向こうから俺のことが見えるのかを確かめなければいけないが、さっきから数人俺の目の前を通過しているが気にも留めないことを考えると、見えていないのかもしれない。見えたうえでかかわっていると無視している可能性もなくはないがだとすればポーカーフェイスがうますぎる。
もう三次元世界に戻ろうかとも思ったが、俺はやはりもう少し探索することにした。
鏡をつたい、人の大勢いるところまで飛ぶ。
やはり誰も俺のことは見えていないようで、それなら女性の試着室とかに飛ぶことができたら青葉君大勝利なのでは、と考えたがきっとそれをするともう二人の自分にも出会ってしまうので気まずい空気を想像してやめた。
地元で一番大きいスクランブル交差点前の服屋のガラスの中で、俺はぼうっと人の流れを見ていた。
目の前の何百人もの人の流れがよぎる。そう、そういうことは三次元だからできるのだ。きっと奥行のないこの世界に何百人も入ってきたら、すぐに詰まってしまうだろう。
そんなことを考えながら、目を泳がしていると、俺の目の前―つまり服屋のガラスの前に、一人の女の子がやってきた。女の子と言っても俺より少し下の、おそらく女子高校生と思われる人だ。
その子に俺は数秒目を奪われた。
微積装置を開発した彼女も、白衣を脱ぎ髪の毛をケアすればすごい美人なのだが、この女の子が可愛いという言葉が似合う、とても華奢な女の子だった。
触れられないとわかっていながらも俺は手を伸ばしてみる。
手を伸ばしたつもりだったのに、手のひらが前に見えないのはわかっていた。きっと前から俺の姿を見れば少し手のひらが大きく描かれ、遠近法によって手を突き出しているように見えるのだろう。
そう。手を突き出しているように、見えたのだろう。
「ひっ」
突然女の子は俺の方を見て驚愕の声を上げた。
「が……ガラスの中に誰か…いる?」
え?
「君、俺が見えるのか……?」
思わず声が出てしまった。どうして。さっきまで誰にも見えていなかったのに。
「あなたは、なんなの…ですか……?どうしてガラスの中に……」
恐る恐る、でもしっかりと声を出し質問をする少女。どうやら声もしっかりと聞こえているらしい。
「ごめん、怪しいモノでも妖怪の類でもなんでもない。俺は普通の人間なんだ。知り合いが鏡の中に入ることのできる機械を発明して。いま実験中。」
我ながら信じてもらえるとは思えない説明だった。「怪しいものじゃないから。」
しかし不思議なことに、少女以外の人間が俺を見ている様子はない。数人がこちらを見てひそひそと喋っているがきっとそれはガラスに向かってしゃべっている彼女に向かってだろう。
「鏡の中にはいる機械ですか!」
と、少女は突然笑顔になった。「それは本当ですか?」
どうやら彼女、信じてくれたらしい。
「ああ、本当だ。正確に言うと鏡の中にはいる機械じゃないんだけど……」
彼女をガラスと喋っている可哀想な人間にしたくなかったので、俺は三次元世界に戻ることにした。
「ちょっと待っていてくれ。」
俺は左手に持っていた微積装置の青色のボタンを押す。
視界が暗転。
あれ?Xの三乗を微分した俺はXの二乗かける三の三分の一、つまりXの二乗なわけだ。
それを積分すると、どうなるんだっけ。
暗転した視界の中で俺はそんなことを考えていた。
意識が戻る。
体が熱い。熱い。熱い。熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いアツイ。
「ひっ……」
目の前の少女から声にならない悲鳴が上がった。手に持っていたスマートフォンが転がる。
俺は横を見る。無事三次元の世界に帰ってこられてはいるようだが、視界がやけに低い。
そして何より。
「…痛い」
体が痛い。あまりにも痛すぎて逆に思考がクリアだった。目の前には顔の引きつった少女と、俺を見て悲鳴を上げる通行人。
どうして俺を見て悲鳴を上げるのか、それは簡単なことだった。
Xの二乗を積分すると、三分の一になるのだ。
俺は今、本来の三分の一しかない。それがつまりどういうことになっているのかはわからないが、俺はこのままでは死ぬのだろう。
死ぬの?
「そう……だ…び……もう一度……ねえ君……」
どうして声が出せるのかわからないくらい体は欠損しているが、声を絞り出す。
「この……機械の……赤いボタンを……俺に…押させて………」
恐る恐る少女が近づいてくる。
勇気があるな。と思いながら俺は彼女に、微積装置を使わせてもらった。
友人の手紙には、世界の往来は一度だけとかかれていたが、それが何故なのか考えることもせず、俺の視界が再度暗転する。
突然ぐちゃぐちゃになった人間が現れ、そして消えた街は騒然となったが、少し経つとそんなこと誰も気に留めなくなった。
そして俺は今、少女のスマートフォンの中にいる。
「もう二人の俺と、何とかして会わなければ。」
彼の未来は、誰も知らない。