終章 真実は
はっとした時には、目の前の景色は灰色に染まっていた。
場所も先ほどまでいた寂れた公園ではない。踏切が近くにある。アスファルトだが踏切の周り以外は白線なども皆無の、如何にも田舎の道といったところだった。
引き剥がされたのではと一瞬不安になるも、隣にはちゃんと針乘がいて、黎果は一先ず安堵の息を吐く。
玉中も少し離れたところで呆然としていた。
「ここ、は……もしかして……?」
黎果が疑問符を投げ掛けたその時、何処からか声が聞こえた。
『黎果ちゃんってつまんない!』
声のした方を見ると、そこには三人の女の子がいた。それは幼い頃の船井と土家、そして黎果だった。
『ちょっと悪戯しようって言っただけで怒るんだもん!』
『怒ってないよぉ……。先生も、パパとママも、駄目だって言うから……』
高校生の今でこそ悪口を言われたり突っ掛かられたりしてもそれなりに対応は出来るが、幼い黎果は気の強い女の子たちを相手にオドオドとしていた。
『ちょっとくらいならいいじゃん! 黎果ちゃんって、いっつもそうだよね!』
黎果は真面目な女の子。それは幼い時からで、だからこそ今の黎果と同じ状況なのは正しく自然だった。
そんなやり取りをしていると、そこに男の子たちがやって来る。
『何やってんだよブス!』
如何にもガキ大将っぽい雰囲気を持つその男の子は、玉中だった。後ろにはまだ園児であった長田と農村を引き連れている。この頃から体格はよかったようで、体は普通の小学一年生より一回りくらいデカそうな感じだった。
『ブスって言っちゃいけないんだよ!』
『先生に言っちゃおう!』
女子二人から非難を受ける中、玉中は構わず三人に近寄った。
『黎果! お前、小太郎のこと先生に言ったな!?』
『だ、だって……。好き嫌いはいけないのに、小太郎くん嫌いな人参こっそり捨ててたんだもん……』
どうやら、農村が給食の時にやってはいけないことをやったらしい。それを黎果が先生にチクったことを責めているようだ。
『お前が先生に言ったから、小太郎が怒られたんだ! 謝れ!』
玉中はリーダー的な存在だったのだろう。彼がそう言うと、四人は口々に謝罪を求めて罵声を浴びせた。
『俺が小学校行ったからって、幼稚園で威張らせねえぞ!』
『威張ってないよ……だってだって……』
『うるせえ、ブース!!』
泣きそうな顔をしながらも懸命に堪えていた黎果。そんな彼女に、男子三人は小石をぶつけ出す始末。
『玉中っ!!』
その時、鋭い声が飛んで来る。
ツンツンの短い黒髪に、くりっとした大きな瞳。ラグランシャツに七分丈パンツといった男児の格好をしたその子は、直ぐ様駆け寄って来て玉中に蹴りを食らわせた。
理不尽に苛められていた黎果を助けに来たヒーロー。それは紛れもなく、世星優季だった。
『何すんだよ、バカ優季! やんのか!?』
如何にも派手な喧嘩を始めるとばかりに怒鳴る玉中だが、そうして始まった喧嘩は優季の圧勝だった。手加減すらしていたようだが、体格がいいだけで素人まる出しの玉中に対して、優季は習っているのか空手技を使っていた。
『先生に言ってやっかんな! ブス! うんこ!』
ボロ負けした玉中は見苦しい台詞を吐き、距離を取る。
『だっせ! 弱いくせに黎果ちゃんのことは苛めやがって!』
尤もなことを言う優季に、歯噛みする玉中。黎果が優季に駆け寄り怪我の心配をすると、彼女は大丈夫だと笑った。
……この時、二人は踏切の直ぐ近くにいた。
「やめろ!! これ以上はっ……!!」
その時、過去の幼い玉中ではなく現在の高校生の玉中が叫んだ。
……何か隠しているようだった彼。見られたくない、見たくないことがこの先にあるのだろう。
現在の黎果は、遠くに見える踏切の警報機が赤く光るのを見た。こちらの踏切はまだだが、間もなく反応するだろうと思った。
刹那、小学生の玉中が優季に思い切り体当たりをする。不意打ちだった。喧嘩に負けて悔しかったのだろう。
流石に優季も不意打ちには対応出来ず、盛大に転倒した。鈍い音が鳴り、優季の頭が弾む。相当強かに打ち付けたであろうことは、瞭然だ。更に立っていたのが踏切の直ぐ手前だったため、倒れ込んだのは完全に踏切内だった。
そして……なんと不運なタイミングだろう。赤い光と、カンカンカンという断続音。下りてしまった遮断機を前に、流石の玉中たちも動揺していた。
『お、俺っ……知らねっ……!』
自分の所為だというのに、玉中は真っ先に逃げ出してしまう。長田と農村もあとに続く。
「ま、待って……! 助けてあげてよ……!!」
高校生の黎果は思わず叫んでいた。これからどうなるか分かっていても、そうせずにはいられなかったのだ。
だが、これは既に過去に起きてしまったことだ。逃げ去る幼い玉中たちが、黎果の呼び掛けに反応する訳がない。残像のようなものらしく、彼らは立ち塞がる高校生の黎果をすり抜けてしまう。
『くっ……』
優季も事態は理解しているらしく、立ち上がろうとしているようだったが、手が僅かに動いただけだった。
『ねえ! 電車が来ちゃうよ……!』
船井と土家は逃げはせずとも遠巻きに見ているだけで、近寄ろうとすらしない。園児とは言え、二人もいれば助けることは出来ただろうに。
……誰一人として、優季を助けようとはしなかったのだ。
『優季ちゃんっ……優季ちゃんっ……!!』
そう。誰も動かない中、黎果だけが遮断機を潜って真っ先に駆け寄った。
だが、優季は玉中とまでいかなくとも女子にしては体格がいい方だった。黎果はまだ園児なのに加え、少食だったのもありガリガリで、力も全然なかったのだろう。中々助け出すことが出来ずにいた。
それを見ても、船井と土家は手を貸そうとはしない。それどころか、彼女ら二人も最終的に玉中たち同様に逃げ出した。怖くなったのだろう。
『黎果ちゃ……ん』
優季がどんな状態なのか、今の黎果にも分からない。ただ、彼女は動かないであろう体で、それでもちゃんと黎果の細い体に縋り付いていた。
今の黎果なら同じくらいに成長した優季でも、なんとか轢かれないくらいのところまで引き摺って行くくらいは出来ただろう。爪が食い込むくらいに拳を握り締めるも、過去の光景に対しては何も出来ない。
――そして。大地を揺るがす振動が、頭を震えさせる。
『た……す、けて……!』
その悲痛な叫びは、はっきりと突き刺さった。
それを受け、幼い黎果は――。
優季の手を、振り払った。
絶望すら入る余地を許さない一瞬の後、無機的な鉄の塊は無情にも通過した。
金属の擦れる悲鳴と振動音に混じり、バキバキという生々しく凄まじい異音。何かが飛び散る様子さえ、見えた。
電車は丁度、車体が踏切を通り抜けた辺りで停車する。車両は直ぐには停まれない。遅過ぎる、停車。
広がった、血とピンク色の肉片。いつまでも鳴りっ放しの踏切の警報が虚しく響く中、大人たちが集まって来たところでその光景は跡形もなく消えた。
目の当たりにした信じられない光景に、黎果は表情筋を固まらせて佇んでいた。
優季を殺したのは、自分だ。
優季は、自分の所為で死んだ。
黎果はそう考えてしまった。悪いのは、その原因は、体当たりをした玉中であるはずなのに。黎果の心には玉中が入り込む余地はなかった。一番悪いのは、体当たりをした玉中でも逃げ出した四人でもなく、優季が助けを求めていたのに見捨てた自分だと……。
「お前っ……! なんでっ、なんで優季を助けなかったんだっ……! お前があん時助けてりゃあ、俺たちは今こんなことになってねえだろうがっ……!」
玉中は、茫然自失と佇む黎果に掴み掛かって叫んだ。掴み掛かったのではなく暴力であったならば、彼女の細い体では派手に吹っ飛ぶくらいには凄まじい勢いだった。
死の恐怖に直面しているからだろうが、それにしたって酷かった。自分のことしか考えていない。こんな光景を見ても尚、優季への罪悪感や哀悼ではなく、“俺の安全”。
「そう……だ……。私が……私の、所為で…………」
目の前にいる玉中さえ視界には映らず、譫言のように呟く黎果は、玉中とは対照的に罪悪感の塊だった。
「貴っ様……! 自分のことは棚に上げて黎果非難か!? ッざけんな!! 元はと言えば、お前の所為だろうがっ!! 幼かったとか理由になんねえぞ、悪戯も度が過ぎんだよコラァッ!!」
即座に玉中の胸ぐらを掴み、我を忘れて怒鳴り散らす針乘は、それこそ当事者の立場と同じくらいに考えているようだった。目が少し充血している。自身の過去でも、重ねているように。
「てめえは当事者じゃねえから言えんだ……!!」
針乘と玉中の一触即発かと思われたが、それはまさにぶつかり合う一歩手前で中止させられる。
玉中が、吹っ飛ばされたことによって。
「ぐおっ……!」
醜い呻きを上げて叩き付けられた玉中は、険しい顔をしつつ直ぐに立ち上がるも、その場で青ざめる。
何が起きたのかは言わずとも分かったが、玉中は悲鳴にも近い声を上げた。
「体が動かねえっ……!!」
玉中が吹っ飛ばされた場所は、踏切のド真ん中。今から何が起こるのかは、どんなバカでも想像出来るだろう。
「……自業自得でしょ」
嘗て見せたことのないような不機嫌そうな顔をして、苛ついたように頭を掻き毟る針乘。そっぽを向いており、助ける気は更々なかった。
棒立ちを決め込む針乘に、喚き散らす玉中、呆けたように立ち尽くす黎果の耳に、あの狂気にも思える警報機の音が伝わる。最早、便利な乗り物ではなく凶器にしか見えない鉄道が、玉中のいる踏切に向かって来ていた。
「い、一浄! 助けてくれえ……!!」
嘗て優季を見捨てて逃げ出した男が、華奢な黎果を相手に情けない声を上げていた。
子供だったとは言え、見捨てたのは黎果も同じだろう。だが、玉中がふざけなければ優季の未来は奪われなかった。そして、黎果と優季は親友だ。
玉中さえ体当たりをしなければ、黎果は優季を失い、ショックで記憶が飛んで引っ越すことにもならなかったのだ。
「玉中先輩……!」
けれど、助けを求める声を聞いて弾かれたように駆け寄る黎果の頭には、そんな考えはやはり微塵もなかった。
黎果が、玉中の屈強な腕を掴む。
「くっ……!」
「頼むっ、なんとかしてくれえ!!」
黎果が体重を掛けて引っ張ったが、玉中の体は石像のようにびくともしなかった。
「糞っ……! 僕の嫁さんはお人好し過ぎだよ……!」
黎果の行動に愕然としていた針乘も、それを見て流石に加勢した。
そうしている間にも、巨大な凶器は迫っている。
「チッ……!」
直ぐに人力ではどうにもならないと察した針乘は、左の袖を捲った。晒された腕には――古代エジプトの王権や神性、守護のシンボルであるウラエウスの形の痣がくっきりと浮かび上がっている。
「トート……!」
それが決して故意に入れたタトゥーなどではないことを象徴するように、呼び掛けに反応した痣は緑の斑に光った。
一瞬で淡い緑色の光明が広がり、何もない空間から降り立つようにバサリと羽音を響かせトート神が現れる。
「トート、玉中を助けてくれ!」
『承知』
トート神が両手を広げると、猛然と差し迫る車両が止まった。
止まったと言っても停まったのではなく、車輪が線路と擦れて金切り声を上げていた。火花も上がっており、押さえていると言った方が近い。
「なんだ……玉中は動かせないのか?」
『……無念。我にもこれが限界よ。だが、人力でも踏ん張ればなんとかなろう』
トート神の言葉通り、玉中の体は引っ張った時の感覚が先ほどまでとは明らかに違った。先ほどは設置された石像のようだったが、今はかなりの重量物といった感じだ。
「これっ、百キロ超えてる感じだろ……! もうちょっとっ……なんとかっ、ならなかったんかいっ……!」
黎果と共に玉中を引っ張りながら悪態を吐く針乘。確かに相当重く、本来は女子二人では無理な重さだったが、殆どは針乘のバカ力だったかも知れない。
だが、これで一先ずは助かるだろう。そう思った矢先、割り込まれた。
「天照!」
突如聞き慣れない声が聞こえ、失明するんじゃないかと思う光輝が一面を覆い尽くす。
『ギャアッ!』
瞬間、悲鳴が聞こえトート神が消滅する。恰も鳥が打ち落とされた有り様。同時に針乘と黎果は吹っ飛ばされ、トート神が止めていた電車も動き出した。
「ふぎゃ!?」
針乘は猫のような悲鳴を上げて叩き付けられるも、確り黎果のことを抱えていた。別々に飛んだために通常は不可能だろうが、人知を超えた力を使ったのか何故か彼女が黎果の下敷きになったようだ。
「私の物語の邪魔はさせないよ、“針刻のチェシャ猫”さん?」
くせのある、独特の声色。そこにいたのは、全身を黒い服で包んだ、可愛らしい少女。鎖骨くらいまでの黒髪を風に揺らし、邪悪としか言い様がない三日月形に裂けた嗤いを浮かべている。
そしてその後ろに浮かんでいる、この世もあの世も引っ括めて何より神々しい女性は言わずもがな。日本国民の総氏神、天照大神そのものだった。
「てめっ、収集家ぁ!!」
タフな針乘はやはり直ぐに立ち上がり、黒い少女を睨んだ。
だが、黎果は立ち上がれなかった。起き上がりはしたが、座り込んだ体勢のまま硬直する。
(な、にっ……これっ……)
黎果が感じていたもの。それは、畏怖だ。雰囲気だけで圧死するのではないかと思わせるほど、その華奢で小柄な少女は威厳に満ち溢れていた。
「少々気の毒だが、ね。一浄黎果か……少し小夜子くんに近い……」
「……え?」
少女の独り言に反応するも、踏切から聞こえた叫びに現実に引き戻される。
見れば、電車はもう玉中の近くまで迫り――。
「母ちゃああああん……!!」
泣き叫ぶ玉中を轢断する――ことはなく、停まった。
きつく目を瞑っていた玉中だが、暫しの間の後、ゆっくりと目を開ける。
「あ、れ……? と、停ま……った……?」
涙だけでなく鼻水さえ垂らした玉中が間抜けな声を発する。
助かったのかと思ったが、黎果は黒い少女が不気味な薄ら笑いを浮かべてるのを見て、悪寒を感じた。
また、針乘も険しい表情のまま見詰めている。こちらは何か気付いているようだった。
……まだ、終わってはいない。
「動いてるよ」
酷く聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、見回しても誰もいない。黒い少女ではなく、針乘でもなく、玉中の声はそもそも質が違う男性のものだ。誰の声音とも一致しない。
そして、その意味に気付いた。
「そんな……動いてる……!?」
玉中を轢断する直前に停まったように見えた車両。だが、それはかなりゆっくりと動いていたのだ。言われなければ気付かないくらいに、少しずつ少しずつ。それは、車両の時間だけをスロー再生にしたかのような現象だった。
針乘は、即座にそれに気付いていた。
更に黎果が愕然としたのは、電車の動きがスローになった意味を察したからだ。
「な、なんだよ……。別にゆっくりなら…………!?」
玉中も言葉の途中で気付いたらしい。一瞬にして老人のようになった酷い顔を晒す。
――電車は、超スローで玉中を轢断していった――。
本来なら一瞬で終わる踏切事故。それを、痛みも苦しみもそのままにゆっくりと味わわなければならないのだ。轢断を通常では有り得ないスローで味わうというのは、想像を絶する痛み。
黎果が思わず耳を塞ぐような玉中の絶叫が響き渡る中、黒い少女はそれをじっと見詰めながら薄ら笑いを浮かべたままだった。
それから、長い時間を掛けて玉中は死んだ。千切れた手足の断面は赤と茶色のものが露出していて、内臓と肉の塊があっちこっちに散乱し、割れた頭からは何かが盛大に飛び出していた。鼻までしか割れていないために残った口はぽっかりと空いて、もの言わぬ飾りと化す。胴体は残っていたが、シャツが捲れてズボンは脱げ、裸体を晒す様は哀れだった。
周りには黎果も、異能力持ちの針乘も少女もいるのに、誰にも助けられずに。まさに、優季と同じだった。
凄惨な現場を前に、嘔吐するということさえ忘れて座り込む黎果の耳に、靴音が響く。少女が近付いて来たのだ。
「……目には目を。次は、君の番だ」
少女が冷酷に言い放つ。黎果は、異質と言える少女を前にしても酷く落ち着いていた。
「……あんな酷いことが、あったんだもの……。恨まれても、仕方ないよね……。優季ちゃんが……私の死を、望むなら……好きにして……」
まるで人生に疲れたような顔をして呟く黎果は、正常な判断が出来なくなっていた。黎果の心に、優季の事故の真実は重過ぎたのだ。今まで生きていた玉中が無惨な遺体と化した光景も、精神的に相当なダメージだった。
優季が玉中を撃退するあの光景を見ただけで、思い出せなくとも分かった。きっと、いつもいつも優季は黎果を助けてくれていた。黎果はこんなにも黎果を想ってくれていた優季を、裏切ってしまった。助けを求めるその手を、振り払ってしまった。
それだけではない、黎果は優季を忘れていたのだ。園児だった黎果は凄惨な踏切事故、轢断の瞬間を目撃した。それも被害者が親友の優季という最悪のケース。ショックで記憶を置き去りにしてしまったのだろう。見捨てた上に忘れて、自分はのうのうと元気に過ごしていたという罪悪感は計り知れない。
その上、関わった子たちが全員殺されてしまっては、もう生きたいとか助かりたいとかいう醜い生存本能は吹き飛んでいた。
「違う」
だが針乘は、黎果の言葉を否定する。
「復讐をしようとしてたのは、生きた人間だ。それも僕たちの身近にいた……」
黎果は思考が上手く働かなくなっていたが、針乘は既にそれを伝えていた。けれど、身近というのは初耳だった。
黒い少女は微笑を浮かべ、黎果に手を翳す。
「猫の言う通りだね。ここから先は、君の最も見たくない真実が待っているよ」
少女がそう言った瞬間、辺りは一瞬だけ濃い闇に包まれ、或る人物が現れた。酷く見覚えのあるその人物は、劣化した黒い汽車のキーホルダーを弄んでいる。
「……お久し振りです。彪先輩」
黎果が目を剥いて絶句する中、針乘は真顔でそう言った。
「昨日振りだろ? 針乘」
仮面のような無表情に加え、発せられた声はゾッとするほど冷たい。それは、あの明るくて優しい彪のものとは到底思えなかった。
「針乘……お前、なんで分かったんだ?」
彪とは思えぬ表情と声色のまま、本当に何気なく問い掛けた。針乘は生きている人間だと言っていたが、いつ彪と気付いていたのだろうか。
「僕も今日、あの玉中って男子から話を聞くまではただの勘だったんですけどね。いや、恐らく何処までも勘だったんでしょう。玉中から聞いた、世星優季は生前車両が好きだったって話。そんで彪先輩と黎果が話してた、その汽車のキーホルダーのことでもしかしたらって思いましてね。……それ、世星優季の形見でしょ?」
「……そうだな。私がガキの頃、優季から貰ったもんだ。お前の勘の鋭さには参ったね……こればっかりは、どうしようもねえや」
自嘲とも取れそうな含み笑いを込めて、彪はそう言った。
「復讐を望んでいたのは君だ。決行したのも君でしょう? 異能力持ちか?」
針乘はここで、敬語を消した。信じられない問い掛けだった。異能力とは、針乘のような常識を外れた力。それを、彪が持っていると。
「絶対領域……って言うらしいな。私のこの力。そこの道玄が教えてくれたよ。指定された時間やポイントに、異空間を出現させる能力だってさ。お陰で簡単だったよ」
黎果はうっすらと涙が滲むのを感じた。太陽の下で輝いていた彪が、ずっと好きだった彪が、復讐心に駆られ人を殺していたのだ。
「……やはりな。ブラウイの犬共の一人と同じ力か。噂で聞いたがブラウイ社に勧誘されたようだが? それは“月の眼”への勧誘か?」
「さあね」
針乘の言っていることは、黎果には分からない。ただ彪に道玄と称された少女は、ぴくっと眉を動かした。
この黒い少女、道玄こそ針乘が言っていた“黒幕”であり、彪が言っていたブラウイ社に勧誘される元になった“知り合い”なのだろう。
「彪先輩……!」
ここで、やっと立ち上がった黎果が声を発する。そんな黎果を見る彪の目は、冷酷だった。
「どうして……ですか……? なんで、人殺しなんかっ……!」
「なんでだって?」
彪はふっと嘲笑し、忌々しそうな視線を黎果に向けた。
「優季はな。私の父さんの姉貴の娘……つまり、従姉妹だったんだよ」
「っ……!?」
「学校は別だったけどな。どっちも男勝りだし、友達はいたけどやっぱり一番気が合うのは優季だった。よく一緒に遊んだよ」
少しだけ目を細め懐かしそうに語った彪はしかし、直ぐに怨嗟の籠った瞳に変わる。
「……だけど十一年前の六月、私は優季の訃報を聞いた。あまりに突然の死に私が悲しみに暮れる中、伯父さんと伯母さんも精神を病んで自殺。……分かるか? 下らないガキのお遊びで、一つの家庭がぶっ壊されたんだよ! 三人もの命が消えちまったんだ!」
その通りだった。玉中にすればただふざけただけだったのかも知れない。だがそれが悲劇を、惨劇を巻き起こしたのだ。
「そんで中学に上がった時……黎果。お前と出会ったな。優季を忘れ、元気そうな顔をしたお前にな」
大好きだった彪に指摘され、黎果は罪悪感の海で喘いでいた。
「玉中たちもだ。当時一緒にいた連中を調べてみたら、元気に楽しく生きてる連中の糞脳天気な顔を見てね。全身の血が逆流したよ。三人もの人間の命を奪った連中が、ヘラヘラと未来を生きている。優季が迎えられなかった、未来をっ……! だから私は決行した。罪には罰が下るってことを、連中に思い知らせてやるためにね」
その時、何処からか声が聞こえた。彪や黎果を呼ぶ、その声は……。
「優季。ごめんな。怖かったな……悔しかったな……? 私も、何もしてやれなかったな……。でも……でもな、私が直ぐに……」
聞こえる切なげな声に反応し、幽鬼のような顔をして呟く彪は、そこで怨憎に満ち満ちた鬼の形相に変わる。
「お前の一番の親友も、連れて逝くからな……!」
あまりにも一瞬だった。黎果はいつの間にか、踏切内で立ち尽くしていた。そして、少し離れたところから電車がゆっくりと迫る。玉中の時と同じだった。
「やめろっ!!」
針乘が駆け寄ろうとするも、道玄が立ち塞がる。
「ぐぁっ……!」
軽く足を引っ掛けただけのように見えたが、針乘は弾き飛ばされたように六、七メートルほど転がってその動きを止めた。
「おっと、邪魔はさせないよ。それとも、ご自慢のトート神を呼ぶかね? 日本じゃ私の天照に敵わない、異国の神を?」
「っ……彪ぁ!! 黎果を殺してなんになる!? 優季が戻って来る訳じゃねえんだぞ……!!」
針乘の絶叫も、彪には届かない。弄ぶ汽車のキーホルダーに視線を落とし、ボソボソと優季への想いを呟いていた。
「やれやれ、それを君が言うかね? 想い人の危機にトチ狂ったかい、猫?」
文字通り見下しながら嘲笑し、左袖を捲ろうとした針乘の腕を踏み付ける道玄。ミシミシと嫌な音が鳴った。
「糞がぁああ……!!」
動きを封じられた針乘が痛みと無念が入り交じった悲痛な叫びを上げるも、黎果に迫り来る電車は――止まらない。
(ごめんね……優季ちゃん……。ごめんねっ……!!)
黎果が死を覚悟した、その時。
黎果の直ぐ近くに、優季が立っていた。遮断機すら越えて、当時真っ先に優季に駆け寄った黎果と同じくらいの距離。
最初に灰色の世界で見た優季や、悪夢に出て来た優季と違って顔がはっきりと分かるため、余計に悲愴が漂う。
「……優季、ちゃん……」
とても懐かしかった。ずっと逢いたかった人に逢えたような感覚に近い。
動けない黎果に、優季が無言で手を差し出す。死人らしい無表情に、その行為の真意は量れなかった。
黎果は、差し出されたその手を……。
「……有難う」
一度だけ握り、直ぐに離した。
「は……?」
黎果の行動の意味が分からず、怪訝そうな顔をする彪。幼い優季も、きょとんとした顔で黎果を見上げている。
普通なら、あの時の優季と同じように助けを求めて縋るのだと思っていた。死の恐怖に怯え、今は高校生でも構わずに小学一年生の姿の優季に無様に救いを懇願するのだと。
だが、違った。黎果の放った有難うは、最後に形だけでも手を差し伸べてくれたことに関してのお礼。
「もう、いいよ。十分だよ」
黎果は優季に、そう言った。
「優季ちゃんはずっと私を、いじめっ子たちから守ってくれたもんね。優季ちゃんが助けを求めてる時に私は、助けてあげることも出来なかったのにね……。だから、もういいよ。もう十分、生きたよ。貴女よりずっと長い時間を、のうのうと生きちゃったよ」
優季の小さな頭を優しく撫でる。現実では鉄道に轢かれて割れてしまった、その頭を。
「見捨てた上にショックで忘れるなんて甘えていた私は、やっと罰を受ける。これから味わう痛みと苦しみで、然るべき罰に反省出来る。優季ちゃんの無念を知れる。……ごめんね。本当に、ごめんね」
そう言った黎果は、優季に微笑んだ。
ゆっくりと近付く電車は、もう目前まで来ている。
「……ころすな……」
震える声で、針乘は呟いた。
「こんなひとは……ふつういないでしょうが……。こんなやさしいひとを……ころすなよ……」
黎果すら泣いていないのに、道玄に押さえられている針乘が両目から涙を流していた。
「何言ってんだよ……」
声が震えていたのは、針乘だけではなかった。彪が憎々しげに睨みながら、黎果に近付く。
「自分がよければ、それでよかったんだろ……? 自分が助かりたいから、優季の手を振り払ったんだろ……? なのに今更、何言ってんだよ!?」
「彪先輩。貴女と過ごした時間は……私の宝物です。彪先輩がいてくれたから、頑張れた。今まで、有難うございます。お世話になりました」
「ふざけんなっ……! これじゃ罰にならねえよ! もっと恐怖して、泣いて、助けを求めろよ……!!」
黎果は轢かれる寸前だと言うのに、彪は直ぐ近くまで来てその肩を揺さぶった。だが黎果は、ずっと覚悟した顔をしていた。
「遅いんだよっ……今更っ……! ……遅いんだよっ……」
彪の頬を、一筋の滴が伝う。
優季が何かを察したようにそっと彪の手に触れ、気が付くと灰色の空間は消え去り、玉中と話していたあの寂れた公園に戻っていた。
「バカな……復讐の、全滅の物語だろう……? あの人の未来視は……」
呆然と呟く道玄に、その踏み付けからいつの間にか逃れていた針乘も立ち上がって愕然と周囲を見回す。
時おり車が通り過ぎるその色付いた光景は、まさしく人々が生きる現実世界だった。
「なんで……? 私は……私の罪は……」
『大丈夫だよ』
動揺する黎果に、薄く透けた優季が話し掛ける。
『黎果ちゃんに、罪はないよ。黎果ちゃんは、ちゃんと俺を助けようとしてくれた。必死で俺の手を引っ張ってくれたあの感触、俺は覚えてるよ』
黎果が感じていた、彪が思っていた、罪。それが今、被害者自身によって否定された。
「……でも……私の所為で……」
『黎果ちゃんの所為じゃない。だから俺は、ホラーになっちゃったけどあの血文字で伝えたんだ』
優季はそこで、彪を一瞥した。
『玉中たちの所為でもないよ。あれは、俺の不注意。踏切があるんだから、もっと離れておくべきだった。それだけ』
小学一年生が電車に轢断される。そんな悲劇を、被害者自身が単なる不注意で片付けた。ただの自分の過失だと。
『ていっ!』
次に優季は彪に近付き、正拳突きを繰り出した。触れるはずがないのに触れた拳は、高校生の屈強な彪に全くダメージを与えられていない。
「優季……?」
『反省しなきゃいけないのは、彪だ。俺みたいな悲惨な目に遭う人を増やしてどうすんだよ?』
彪ははっとした顔をする。そして申し訳なさそうに目を逸らした。
『異空間を出現させる能力なんて格好いいもの持ってんなら、俺と同じような人を助けてあげてよ。彪は、そういう奴だったろ? 苛められてた黎果をほっとけなかった俺と同じで。なのに、人殺しに使うなんて彪はバカだ!』
「私……私は……」
小さな優季に睨まれて、泣きそうなほどに顔を歪める彪。それを見て、優季は寂しげに笑った。
『でも……有難う。俺のためにそこまで怒ってくれて。あと、ごめん……。俺が踏切に注意してれば、彪をこんなに悲しませることも……パパとママを死なせることもなかった……。全部、俺の所為だ……』
「優季は被害者だろ! 何も悪くねえよ……!」
『有難う』
そう言って、優季は笑う。それは、生前に黎果や彪と遊んでいた時と同じ、子供らしい輝く笑顔だった。
「……ちょっと待って。最初に黎果が灰色の空間に連れ去られた時、僕とも逢ったと思うけど……あれは君なの?」
『あれも俺だけど、彪が作り出した俺というか……イメージだよ。俺、死んだ時は確かにちょっと理不尽な怒りとかあったけど、もう誰のことも恨んでないもん』
針乘の問いに、優季はそう答えた。
「私も……本当は分かってたんだ。これは優季の怨念なんかじゃねえ。優季を失った、私の恨みだ。けど、優季を奪われたことはどうしても許せなかった……。もう、制御が利かなかったんだ……」
彪はそのあと、玉中たちがより恐怖するだろうと思ったことも付け加えた。
小さいとは言え、あんなことがあったら完全には忘れられないだろう。目の当たりにした黎果は兎も角、遺体も現場も見てない玉中たちならば単に嫌な記憶くらいだ。それを、高校生になって妙な灰色の世界に迷い込んだ時に思い出せば、その恐怖は相当なものだったであろう。
「彪先輩……」
辛そうに顔を歪める彪は、不意に顔を上げた。
「針乘……悪いな。全然関係ねえお前にも、酷いことしちまった」
「僕は愛しい黎果たんさえ助かれば、あとは直ぐ忘れちゃいますよん」
気持ち悪い口調でウインクする針乘は、いつもの調子に戻っていた。先ほどまで泣いていたというのに、どの口が言うのだろう。
長い間離れていたような気さえして来る、いつもの日常と変わらない光景に黎果は胸を撫で下ろした。
「はは。針乘らしいや」
少し掠れた笑いを溢し、今度は道玄に向き直った彪は、こうべを垂れた。
「復讐って言って協力して貰ったのに、すみませんでした」
「……私の物語を改変した罪を、どう償うと?」
「望むがままの罰を、なんでも受けます」
「じゃ、君も轢断事故で死んで貰おうか」
とんでもないことをさらりと宣った道玄は、直ぐにドヤ顔を作り、腕を組む。
「なんてね。折角この私が脚色をしに来たというのに他人に改変された物語なんてもう興味はないね。よって、主人公になるはずだった君への興味も失せた。全く嘆かわしい、主人公がそこのポニーテールの美人さんで君がヒロインに置き換わってるじゃないか。まぁどっち道、脇役にすらならないチビ猫に勝手に参加されてる時点で論外だが」
「最後、僕のこと言った!? 今回、彪先輩がラスボス的に出て来るシーンまで僕がめちゃくちゃ頑張ってたのにヒロインじゃないの!? 黎果が主人公で彪先輩がヒロインなの!? 僕、モブキャラでしかないの!?」
「大らかを“だいらか”と読むバカにヒロインが務まると思っているのかね? 君はバカかね?」
思わず吹き出しそうになる針乘の叫びを聞き流した道玄は、くるりと反転して去って行った。
『一件落着かな? じゃあ俺も、もう行くね!』
「待て……!」
消え掛かっている優季に、彪が訴える。
「……私も、連れて逝ってくれ……」
「彪先輩……!?」
黎果、針乘、優季までも驚愕に目を見開くが、彪は死を覚悟した時の黎果と同じ顔をしていた。
『なんで? 駄目だよ。折角、生きてるのに……』
「私は……五人も人を殺しちまった。しかも警察に自首するにしても、異能力を使った犯罪で証拠もねえ。もう、戻れねえんだよ。頼む……一緒に逝かせてくれ」
『……』
必死の訴えに、押し黙る優季。
黎果は堪らずに、彪にしがみ付いた。
「確かに、殺人は許されることじゃないです! でもっ……でも、だからって……!」
「私さ……黎果を殺すこと、実は躊躇してたんだ。最終的に、憎悪に負けちまったけどな」
そう言って頭を撫でる彪。これでお別れだと言われているようで、胸が激痛を放つ。
「……帰りましょうよ、彪先輩」
針乘が彪の手を取ろうとするも、彪はやんわりとそれを払った。
「聞いてただろ? もう戻れねえって。私は……優季と一緒に逝きたいんだ。頼むよ……」
本当は、優季と一緒に生きたかったのだろう。彪にとって優季はそれほど大切な存在であり、五人の殺害に対する罪の意識も芽生えていた。
「……それでいいんですね? 先輩」
悟ったように針乘が聞いた。
「ああ」
頷いた彪の意志は固い。これ以上引き止めれば、針乘たちの身勝手な我が儘になってしまうだろう。
それっきり、針乘も押し黙った。
「彪先輩……私はっ……!」
黎果だって分かっていた。無理に彪を引き止めることは、自分の我が儘になると。
「彪先輩のことがっ……好きだったんですよ……。ずっと……ずっとっ……!」
それでも、その想いは抑え切れない。大粒の涙を溢し、伝えた。ずっと秘めて来た、想いを。
「……驚いた。男に興味がないように見えたけど、そういうことだったか。……って、もしかして意味間違ってる……?」
しゃっくり上げながら首を横に振る黎果を前に、彪は頬を染めて後頭部を掻いた。
「ははっ。そんな風に想われてたなんてなぁ……知らなかったわ。有難」
そう言って、黎果を抱き締める。温かい彪の体から、少し速い心臓の音が伝わって来た。
「本当に、ごめんな。有難う……有難う」
何度もお礼を口にし、刹那――黎果の額に柔らかいものが触れた。
それは、最初で最期の接吻。
「さよなら」
優季に無言で差し出された手を取る彪の体が、透けて行く。宛ら、優しく生命を吸い取って行くようだった。
『悔しいなぁ……』
優季は――最後に、満面の笑みを見せた。
『俺も黎果ちゃんのこと、好きだったんだぜ?』
小さい頃に黎果が大好きだった笑顔で、優季が。
中学の頃からずっと大好きだった笑顔で、彪が。
空に溶けるようにして消えて行った――。
「優季ちゃんっ……!! 彪先輩っ……!!」
黎果の叫びに、返事はない。その場に泣き崩れた彼女を、針乘はずっと支え続けていた。
‐END‐