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第三話 束の間の一時


 昼休み。父からの突然のメールに、正確にはそのメールの内容に黎果は驚愕していた。それは以下のようなものだった。


《黒雫社長たちが何故お前の過去を知りたがるのかは分からんが、立場上断れないので名前だけは送る。当時、鳴鳥町でお前と遊んでいた友達の名前だ。


玉中哲、長田冬馬、農村小太郎、船井満里奈、土家久仁枝、世星優季。


これ以上の情報は与えられない。悪いことは言わないからこれ以上彼女らに詮索させるな。お前のためでもあるんだ。》


 それを見た黎果は、思わず針乘に詰め寄る。


「なんで父からこんなメールが……どういうことですかっ!? 黒雫社長ってまさか……」

「圧力」


 ぼそりと、とんでもない単語が放たれた。

 そう言えば保健室での一件の後、「千は磯辺って言うし」とか意味不明なことを宣いながらスマホを操作し、誰かと電話をしていたのを思い出す。正しくは善は急げなのだが突っ込むのも面倒なのでスルーしていた。まさか通話の相手があの黒雫社長とは思いもしない。

 実は教師が針乘に対して強く言えないのは、針乘の叔母の存在が原因なのだ。

 ALiCE HANDアリス・ハンド株式会社。様々な企業を傘下に加える大会社だ。それこそ日本の経済を背負うと言われる、白黒の時計のマークが特徴的な会社。業界総合でトップを誇るBlackWindブラック・ウインド株式会社という日本を代表する大手会社があるが、アリス・ハンドは唯一そのブラック・ウインドと肩を並べると言われている。

 更にブラック・ウインド、アリス・ハンド共に女性の社長なのは有名であり、そのアリス・ハンドの社長が黒雫充くろだ みつるという。彼女こそ、針乘の母親の妹である。その権力は、言わずもがな。

 因みに黒雫家は結婚したら男女問わず自分たちの姓を名乗らせるので、黒雫家純血の針乘の母親と叔母の充が同じ黒雫なのである。


「さ、最低ですね……」

「いいじゃんいいじゃん、ママの妹の力を使ったって! 充さんねぇ……あんまり格好いいからたまにホテルに誘うんだけど全然振り向いてくれなくて、それがママにばれると殺されそうに……ってそれはいいんだよっ!!」


 何かまた一人コントが入ったような気がしたが、針乘はチェシャ猫のような笑みを形作り、言った。


「兎に角、これで情報は手に入ったわよねん?」

「でも、書かれてるのは友達の名前だけですよ」

「うーん……あわよくば過去を洗い浚い話してくれることを狙ったんだけどねん。名前以外教えないってのは予想外だったけど、確かに充さんにお願いしてこれじゃ黎果たんが戸惑う訳だわ」


 無駄と分かっていても非難の眼差しを送るのは避けられない心情だったが、仮にも自分を守るためにしてくれたことであり、この手段なら確かに黎果が父を裏切ったことにはならない。何も知らない父からすれば、黒雫充とその従姉妹が探りを入れているに過ぎないといったところか。なんというか、黒いものを感じる。


「結局、分かったのは当時の友達の名前だけですけど……調べるんですか?」

「当然っ! 当時、遊んでたってことは何か知ってるかも知れないじゃないのん? 今度の土日、一緒に行きましょうよん」


 もしかしたら黎果のように引っ越しているとか、行きたい高校があって学生寮に入っているなど地元を離れている可能性もあるが、六人もいれば一人くらい捕まるかも知れない。

 そもそも黎果すら覚えていないことなので、彼らが情報を持っている可能性は低いだろう。それでも、針乘の言う通り黎果と遊んでいたということは何かあってから引っ越したとか、そういったことをうろ覚えでも記憶しているかも知れない。

 今は、飽くまで“かも知れない”という憶測に縋るしかないだろう。


「ところで黎果たん。軌鹿って言っても広いよねん? 何処に住んでいたのかな?」

「ああ……このメールにも書いてありますが、鳴鳥町めいちょうまちというところですよ」


 針乘にはまだメールを見せていなかったので、黎果はスマホを針乘に見せながら言う。

 荊茨県の中でも軌鹿市は一番規模が大きく、何故か田舎っぽい範囲と都会っぽい範囲に分かれている。黎果が在住していたのは、田舎っぽい範囲の方だ。


「げっ……それって隣に二ノ上町にのかみまちがあるところじゃんっ……。うわぁー……出たよ……そうだよ……」

「何か問題でも……?」


 芋虫を噛み潰したような顔をして、あからさまに拒絶の意を示す針乘に、黎果は不審な視線を向けた。


「一言で言うと、黒幕のテリトリーてこと。いや、それじゃ甘いかな……うーん……支援を一切受けられない丸腰の兵士が、一人で敵地のど真ん中にいるようなもんかな」

「……それって大分とんでもない状況なのでは……?」

「まぁ、でも何れは対峙しなきゃならん相手だし」


 端折っているので、黎果には今一分からない。保健室でもトート神と話していたが、針乘は黒幕である人物を知っているようだ。


「というか、あの色の抜けた妙な街中。あれって黎果たんが住んでた鳴鳥町じゃないのん?」

「恐らくそうでしょう。ただ、記憶にはないんですが……」


 美しい瞳を伏せ、申し訳なさそうに少しだけ辛そうな顔をする黎果。

 今、彼女の心を痛めているのは、例の罪悪感ではなかった。訳が分からないが心は知っているという例の罪悪感を覚えて新たに生まれた、何かしてしまったみたいなのに分からなくてごめんなさいという、自らを責める自らの罪悪感だった。


「じゃあ余計に鳴鳥町に行って確かめた方がいいわん、そうしましょう! 僕も黎果たんとデートし――ゴホッ、ゲフッ! ……調査だ、調査! 調査したいしねっ!!」


 そんな黎果の曇った心を晴らすように、また針乘のボケが始まる。まさか気を利かせた訳ではないと思うが、なんだかんだ針乘はいつも黎果を傍で救ってくれていた。少し癪だから、認めたくはないが。


「今、本音が漏れましたね?」


 そんな針乘を前に、黎果も悲しげな顔から平素の無表情に戻り、腕を組みながら針乘に恐ろしい軽蔑の眼差しを向けた。


「分かったよ、悪かった、今回は素直に認めるよ! 勿論、黎果たんの命はちゃんと守るつもりだけど、事態が切迫してるのは重々理解しているけれど、僕は黎果たんと二人切りで調査とかもうワクワクドキドキムラムラが止まらないんだよ!!」

「こんな状況でワクワクドキドキも問題のような気がしますがこの際それは許容するとして、最後は女としても人間としても身の危険を感じるのですが? 不潔です」

「え、何その僕がインキュバスか何かみたいな言い方……」

「え、違いました?」

「マジ顔で言わないでよ!! 僕、女の子だから! 人間だから! 忘れないで!?」


 やっぱり針乘は阿呆なのだろうか。そう考え、溜息を吐くいつものパターン。黎果の苦労はまだまだ続きそうだ。


「でもさ。マジで黎果はどんな状況だろうと好きな人と二人切りってったら嬉しくない? てかこんな状況だからこそ、自分が力になれるかもとか、ここで助けて好きな人の命も守って輝かしい未来も手に入れてーみたいに思ったりさ! 不謹慎かも知れないけど、本能的にはどうよ?」

「それは……」


 そう言われ、いくら真面目な黎果でも前否定出来なかった。考えたのは、彪のこと。もしも自分が針乘の立場で、彪が自分の立場だったら……と。確かに不謹慎だが、針乘の言うように本能的には。本能とは、斯くも醜いものであるのだ。

 というか今、さらりと好きな人と言われた。それこそ冗談で言っているのか本気で言っているのか分からない言葉。

 よく仲のいい女同士で男女役が分かれていたりする場合がある。それは本気の愛ではなく、友情だと誰から見ても明らかだ。

 だが、針乘の今の発言は果たしてそれに当て嵌まるのだろうか。今の発言だけではない、普段の言動もだ。もしかしたら針乘も、黎果が彪に抱いているのと同じ――。


「でしょう? ……彪しぇんぱい」


 何故かこのタイミングで、黎果が最も敬する先輩の名を出した。


「なっ……」


 カッと顔が熱くなる。まずい、駄目だ、とは思ったが体というものは正直な反応しかしない。怖い時は膝が笑ったり、ショックで腰が抜けたり、驚いた時は表情に出たり、嬉しい時はたとえ普段から無表情な人でもちょっと表情が明るくなって来るし。黎果はあまりにバカ正直な自身の体を恨んだ。


「あーあ、僕のお嫁さんなのに悔しいなー」

「なっ、なんの話ですかっ!?」


 ある訳ないが牙が生えているのではないかと錯覚するほどの勢いで黎果が噛み付くが、その鋭さも針乘には無効とされてしまうようで、何処吹く風と口笛を吹き出す始末。比喩ではなく、本当に犬にでも噛み付かれればいいのではないかと黎果が思った時、聞き慣れた声が頭を揺らした。


「黎果?」


 他でもない彪の声であり、針乘はにやけ出したのだが、愕然とした黎果は反射的に針乘を突き飛ばしてしまう。


「ぼぉっふっ!?」


 盛大に壁に激突し、今度は壁とキスした針乘。無様だった。

 何故、驚いたから針乘を突き飛ばしてしまったのかは黎果自身にも謎である。もしかしたら何処かの神からの天罰か、もしくは悪戯かも知れない。例えば鳥の頭を持つ古代エジプトとかの。


「だ、大丈夫か?」

「はい大丈夫ですっ!!」


 混乱しているらしく、針乘の激突に驚いて声を掛けた彪に対し、何故か返事をする黎果。そしてあんまり大丈夫じゃなさそうな針乘の両肩を掴み、無理矢理にぐるりと正面に向かせた。


「お、驚いたのは分かるけどなんで僕、突き飛ばされたのかな!? しかも勝手に返事してるし! 僕、大丈夫じゃないし!」


 真っ赤になった鼻を押さえ、鼻をやられた所為で涙目になりながら針乘が訴えるも、


「あ、あのどうかしましたか?」


 と彪にしおらしく問い掛ける黎果は既に針乘のことなど眼中になかった。


「いや、何やってんだろうなと思って。もし昼休みも生徒会の仕事で潰れちまうようなら、手伝おうかなーなんて。それでちょっと、探してた」


 彪も彪でジェット級の切り替えの早さを披露する。先ほどまで驚いて針乘の心配をしていたというのに、今はもうその目に映るのは黎果だ。


「このドS共め……」


 ぼそっと呟きながら睨む針乘だが、そこまで不満はなさそうである。

 これが奇人変人の連なる一人として、当たり前のことなのだ。心配されるが心配されず、相手にされるが相手にされない。不満は言うが、泣く時は泣くが、本気であるが真剣ではない。複雑であるが、実は単純だ。基本的にこういったポジションが“奇人変人”なのだ。黎果たちが酷いのではなく、針乘たちがこのような扱いをされるように育ったのだ。

 わざと、と言うのは不自然だが。

 自然に、と言うのも不適切だが。


「そうだったんですか……。有難うございます……!」


 ドキン、と高鳴る胸。わざわざ自分を気に掛けて探してくれていた。素直にその事実が嬉しかった。


「どうやら私の後輩は無理するのが好きみたいだからな。過労になる前に制御してやる人間が必要だろ?」


 わざと尊大な言い回しで、悪戯っぽく微笑む彪。心配してんだぞコノヤロー、と眼が言っていた。優しく澄んだ、落ち着きのあるその眸が。


「……すみません」


 ふっと小さな笑みを浮かべ、今度は黎果が悪戯っぽく、彪とは違い頬を膨らませて見せた。


「でもお互い様ですよ! 彪先輩も就職のことで……ちょっと頑張り過ぎなんじゃないですか?」

「あ、はは。バレてたかー……」


 黎果の切り返しに、彪はバツが悪そうに後頭部を掻きながら苦笑する。

 彪は物腰こそガテン系が似合いそうな体育会系ではあるものの、商社やIT系も十分勤まるような人間だ。

 なら最低限大学は出ていた方がいいように思う。というか出ていないと幹部や重役などの地位は望めないだろうが、本人は大学イコール親の脛齧りという思い込みがあり快く思っていない。無論、自分で働いてお金を稼ぎながら大学へ行くという選択肢もあるのは分かっているが、それならとっとと手に職つけて親に楽をさせてやりたいという思いが強い。

 また、いい大学を卒業したにも関わらず、いざ就職したら使えないと営業で飛ばされてしまったなどの人間もいることから、進学の選択肢を排除してしまっているのだ。すっぱりと切り捨ててしまうところはなんとも男らしいが、行き当たりばったりというか頑固というか、そういうところがある。

 しかし企業は即戦力として使えるかどうかで見ており、あまり学歴が重視されないのもあり、彪は人事などを勤める知り合いたちから勧誘されていた。就職先は決まっているのか、うちに来ないか、などと黙っていても話が舞い込むのだ。

 高校生になってからはバイトに勤しんでいるが、中学の頃は男子に混じって野球部でピッチャーとしてもバッターとしてもエースを凌ぐ実力で務めており、地元の女子サッカークラブにも所属してキャプテンとして活躍し、強豪校から勧誘が来ていたほどだ。今でもスポーツをしていて体を鍛えることを忘れてはいないし、資格も取れるだけ取っている。

 頭脳、身体能力、人間性……何処を見ても申し分なかったであろう。

 大手の社長、有名な学者、スポーツ選手、世界的ピアニスト、巨匠小説家、カリスマモデル、大病院の医師、人気俳優まで大物出身者が占める月華紫蘭ほどではないが、この羅幕学院もそれなりの出身者は沢山いるのだ。そのため彪くらいのレベルなら別段珍しくもないのだが、黎果は彼女のこういうところも憧れ尊敬すると同時に、劣等感を抱いてしまうところでもある。

 黎果自身、規則の鎖故か下手にバイトをするのは許可されてないので経験はないが、彪に同じく資格は高校生でも取れるものを取れるだけ取っている。学生からは嫌われるが、大人に混じっても違和感がないという評価を父親の人脈からは必ず受けている。それに、高校生での経験など限られている。それでも、彪に対する劣等感が拭えなかった。

 恋慕するが故に。

 焦がれるが故に。

 だが、黎果の胸は劣等感から来る痛みだけでなく、とても温かい何かにも満たされている。相反する感情に、戸惑う。


「もう……どうしたんですか? 彪先輩レベルなら、無理するまで頑張らなくとも……」


 彪への疼く心を押さえながら、黎果はそう言った。二〇一〇年から続く就職氷河期は終わっておらず、大卒でさえ就職率が低下しているとはいえ、彪ほど引く手数多な人物ならもう疾うに就職活動を終えていてもおかしくはないと考えたのだ。


「それが……ブラウイからスカウトあってさ……」

「えっ……!」


 黎果は思わず声を上げた。ブラウイとはブラック・ウインドの略だ。

 ブラウイ社と言えば、有能の宝庫。学歴より他を重視しているにも関わらず、社員の大半はただ出ているだけではない大卒者で占められ、高卒も有能な者しかいないエリートの集合体のようなもの。

 普通の企業じゃ先ず有り得ない厚遇に加え、不況知らずとしても知られており、一生安定と言われている。


「す、凄いじゃないですか! 大卒でも至難の会社を高卒で勧誘が来るなんて、彪先輩は天才と認められたんですよ!」

「ははは、有難う。知り合いにブラウイと繋がりの深い奴がいてさ。そいつから話を聞いたとかで、重役に気に入られちゃって……それだけなんだけどな」


 重役に気に入られるなんて、それだけではなく凄いことだと素直に思う。黎果は改めて、自分は凄い人間に可愛がって貰っていることを光栄に感じていた。自分は彪に気に掛けて貰っている。それだけでも十分、幸運なことなのだろう。


「いやいや、本当に凄いですよ。流石は彪先輩です! 尊敬します!」

「そ、そうか?」


 それだけと言った彪はしかし、後輩に賞賛されて満更でもなさそうに少し照れ笑いしている。黎果としては心臓がドクンとさせられる様子だった。


「……」


 二人の穏やかな談笑の様子を、先ほどから除外されている針乘は無言のまま見詰め、和やかな笑顔を見せる。針乘には珍しい、嫌らしい笑みではなく優しい微笑み。

 黎果と彪は気付かず、また誰も見ていないからこそ見せた笑顔であり、針乘が清楚な可愛い女の子にしか見えないほどだった。

 今だけ二人切りにさせてやろう、と思った針乘は有り得ないほどの気配のなさでその場を退散する。命が懸かっている状況とはいえ、寧ろだからこそ今だけは穏やかな彪との時間の中にいて欲しかった。

 それでも、変人の針乘は胸を痛めたりしないのだろうか。

 それでも、奇人の針乘は僅かな嫉妬さえないのだろうか。

 好きな人が好きな人と、過ごしているのに。自分の時とは違い、明らかに嬉しそうに過ごしているのに。

 自分には向けられない笑顔を、

 自分には掛けられない言葉を、

 一身に受けているとしても――。


「えっ……と……」


 彪の照れ笑いに照れてしまい、急に恥ずかしくなって来た黎果は、何か話題を振ろうと思考回路を駆けずり回って模索する。

 と、項を掻く彪の長い腕が視界に入る。視線はそのまま腕から肩に掛けられた鞄に向き、その鞄につけられているキーホルダーで止まった。別段気にするほどのものでもないと思うが、たまたま目に止まったし、何か話題になるかも知れない。

 それは黒い機関車のモチーフで、言っちゃ悪いがものとしては凄くお粗末な感じだ。小学生がカプセル自動販売機で手に入れるような、若者言葉で言う“しょぼい”造り。更に黒色なのにところどころ白く、つまり剥げているのだ。ストラップの金具部分も多少錆びている。どうやら古いものらしい。


「彪先輩、それは?」


 高校生が付けるには不釣り合いというか、恥ずかしいという感情さえ湧きそうなキーホルダーであり、黎果は思わず尋ねていた。

 黎果の視線の先に目を向けた彪は、何処か照れ臭そうに苦笑する。


「あ、あぁー、これか? 近所の子供がくれたものなんだ。車両とか好きな子でさ、大分前にガチャで出したやつなんだよ」


 それを聞いて黎果は合点がいった。

 成るほど、優しい彪のことだ。幼い子供が折角くれたものを無下に出来ず、つけているのだ。それに彼女はものを大切にする人間でもある。

 以前、もうかなり古くなっているのにずっと同じストラップを携帯につけている男性がいた。買い換えないのかと同僚が聞いたところ、幼い娘から貰ったプレゼントなのだと答えたとか。

 彪も似たような感じなのではなかろうか。この優しい女子なら、今時の女子からすると笑われそうなことも納得出来た。


(やっぱり私は……この人のことが……)

「あれ? そういや、針乘は?」


 照れ臭そうに頬を染める彪に見とれ、己の気持ちを再認識させられた黎果だが、彪の口から紡がれた名前で現実に戻される。それは宛ら夢から覚める時の感覚に似ていた。


「え……」


 疑問に思い周囲を見るが、あの珍奇な僕っ娘の姿は何処にもない。


(さっきまでいたのに)


 彪に夢中で全く気付かなかった。一定期間相手にされなかったので、またふらふらと何処かへ徘徊してしまったのだろうか。針乘がこっそり離れたことを知らない黎果は、困った放浪癖だと思った。

 話が終わったのならいいのだが、もしかしたらまだ話があるかも知れないので探しに行くかどうか黎果が思案していると、彪がこちらをじっと見ていることに気付いた。


「え……どうしました?」


 妙にドキドキと高鳴る胸と動揺を抑え、平静を装って尋ねる。


「あのさ、ちょっと気になってたんだけど」


 妙に真摯な顔付きで、彪は言った。


「黎果……なんかあったか?」

「……!」


 その言葉で、一気に残酷な現実に突き落とされる。そうだ、今は悠長に彪にデレデレしている場合ではない。別にデレているつもりはないが。

 しかし、やはり鋭い。黎果は彪に中学の時から可愛がって貰っていた。彼女は人をよく見る人間で、心理学をやらせても凄い。だから周りから冷徹人間として認識されている黎果の本質も、直ぐに見抜いたほどだ。よって、今現在かなりの危機に瀕している黎果の変化に気付かないはずがなかった。


「何かって……何がですか?」


 敢えて聞いてみると、答えはあまりにも簡潔に単純だった。


「分からん」

「え?」

「ただいつもと違うような気がしたから聞いた。何がとか何処がってのは特にない。直感」

「……」


 黎果は彪を見詰める。彼女の何もかもが真摯に感じられた。

 あの灰色の世界でのことを思い出す。日常生活ではよくあんな大きな車を操れるな、くらいにしか思わずに見ていた大きなダンプ。それが自分に向かって突っ込んで来る恐怖。

 事故の報道と言えば、“頭を強く打って”や“全身を強く打って”のように配慮された言い方をしているが、このように言われている遺体は実はミンチだったりバラバラになっていたりする状態であるらしいと聞いたことがある。それは酷く“日常的な恐怖”だった。

 悪霊に呪い殺されるなどは最早例外として、殺人鬼が襲って来たとか一口に言っても、正直ホラーノベルのような展開のようで今一ピンと来ないはずだ。実際に遭遇するまでは。しかし事故などとなると、普段から学校や職場に通っている人々、仕事はしていなくとも専業主婦や年金生活の高齢者が買い物に出掛けたりなど、誰にでも例外なく日常と隣り合わせだ。況して高校生にもなれば、原付などで通う者も出て来る。股がっただけの全身を晒した状態で、大きな鉄の塊である車と同じ場所を走るのだ。

 怖い。死ぬのが怖いというのもあれば、死ぬ前の恐怖が嫌だというのもあり、死ぬ前に味わう苦しみが怖いというのもある。

 事故にあった人の体験談によると、病室で目覚めた時は痛かったが、事故時は認識する前に意識が飛ぶから正直痛みは感じないということだった。飽くまでその人が遭った事故の場合は、だが。この例と同じで死ぬとしたら、「えっ」と思った瞬間には訳も分からずお陀仏になっているということだ。あんまりである。

 更に、黎果を襲って来る呪いが同じ手口を使って来るとは限らず、もしかしたら殺人鬼など出て来るやも知れないし、怨霊など非科学的な反則手段を使って来る可能性もある。実際、黎果は保健室から灰色の世界へ飛ばされた。何が起こるか分からないのだ。


(彪先輩……)


 話しても誰にも信じて貰える訳のない、荒唐無稽な話だ。しかし人をよく見る彪は、嘘も直ぐに見抜く。黎果がもしこの話をしたら、彼女は決して笑ったり疑ったりはしないだろう。それくらいの自負はある。困惑するかも知れないが、否定するということはないはずだ。

 目の前の、男気があり皆から頼りにされる愛しい先輩に縋りつきたかった。黎果には針乘という頼もしい味方がいる。それでも、不安で怖くて仕方なくて、そんな時に一番に頭に浮かぶのは、心に映るのは、彪だった。


「私……は……」


 思わず目頭が熱くなる。怖いです助けて下さいと形振り構わず叫んでその胸に飛び込むことが出来たら、どれだけ楽になれるだろう。


「黎果……? 泣いてる、のか……? 悪いっ! 私、踏み込んじまって……!」

「ち、違うんです……いいんです……嬉しかったんです……」


 人の触れられたくないプライベートに不用意に踏み込んでしまったかと思い、本当に申し訳なさそうに慌てて謝る彪に、首を横に振って否定する黎果。


「え?」

「その……私、今っ……」


 戸惑いながらも、とても真剣な眼差しで耳を傾けてくれている彪を前に、黎果は言った。


「……今、凄く大変な事態になっていて……それで、彪先輩を前にして安心してしまったというか……感情的になってしまったのでしょうね。だから、彪先輩は何も悪くないです。すみません……」


 彪に相談してもよかった。だが敢えてそれをしなかったのは、彼女を危険な目に遭わせる必要はないと思ったからだ。

 超能力だかなんだか知らないが、針乘には何か特別な力があると見て間違いないだろう。その針乘は、わざわざ自分から関わって来た。いくら針乘でもまさか下心なんてオチはないだろうし、理由は分からないが色々とあるのだろう。

 だが、彪は違う。黎果は当事者であり、自分から関わった上に何か力があるらしい針乘は兎も角として、太陽の下で輝くのが似合う彪までそんな訳の分からない非科学的な世界に身を投じることもないだろうと思った。彼女には、黒いものが巣くう闇の中で闘うのではなく、陽の光のあたる道を歩いていて欲しい。今の黎果に出来る精一杯の強がりだった。


「……そうか」


 じっと黎果を見詰めていた彪は、やはり見抜いていたらしく何か言いたげではあったが、敢えてそれ以上言葉を紡ぐことはしなかった。言いたいことはあるが、何かあるなら頼ってくれてもいいのだが、黎果には黎果なりに色々とあるから今は何も言わないということだった。


「でも、何かあるなら直ぐに言えよ? 言い辛いことなのかも知れないけど、私に出来ることならなんでもするからさ。壊れそうな時に無理するのだけは、やめとけよ。……私はどんなことがあっても、黎果の味方だから」


 それだけ言って優しく微笑む。菩薩のように見える彪が眩しい。思わず子供のように泣き叫びたくなるも、ぐっと堪えた。


「有難う、ございます……!」

「ああ。じゃあ、私はもう行くわ。黎果も色々、頑張ってな」

「はい。彪先輩も、頑張って下さい」

「おう」


 優しい微笑みだけを残し、軽く片手を上げて去って行く彪。

 その姿を見ていると、正直に話せなかった後ろめたさと、黎果を思って深く言及しないでくれた優しさへの有難さと、身勝手な私情とがごちゃ混ぜになって、温かくて切ない訳の分からない気持ちが押し寄せて来る。


「あ、ラブシーン終わった?」


 そして監視でもしてたのかと言及したくなるほどにグッドタイミングで現れる、校内切っての変人。髪を人差し指にくるくると巻き付けては、しゅるしゅると外れて行く仕草を繰り返しながら飄々とニヤケ顔を浮かべている。


「誰が! ラブシーンですかっ!!」

「イケメン彪しぇんぱいと美少女黎果たん」


 本気で聞いている訳ではなく怒っているだけであるのに、バカ正直に返答をする辺り黎果が頭痛を覚えこめかみを押さえるも、気付いていない様子の針乘。

 針乘には冗談の時と正真の天然ボケの時があるらしい。


「美少女……?」


 だがふと浮かぶ疑問を黎果が仏頂面で口にすると、変人は何故か少し嬉しそうに捻くれたような表情を作った。


「うわ、やっぱり自覚ないよこの人! なんか、あの人みたい。誰だっけあのー……夢の人。久遠くどうだっけ? あの人も自分が美人だっていう自覚ないよね? ま、アイツ側の人間だし僕にとっては敵なんだろうけどさ」

「……あなたはさっきからなんの話をしているんですか?」

「いんや、こっちの話。ごめんなさいねん。でも、あの天才少女と逢ったことあるみたいだから黎果たんも認識してると思ってたけど知らないのねん? まあ、いいや。次の授業は美術だよん。なんとペア組んだ人とお互いを描き合うという嬉しいシチュウェイション! さあ、僕と黎果たんの愛の世界へ行こう……!」


 クドウという人物は心当たりがなかったが、あの天才少女というのはよもや一姫のことではなかろうか。そう考えるも、針乘が直ぐに話題を切り替えたため、黎果も直ぐにシチュエーションの発音が怪しいなどという思考に移っていた。


「ええ、行きましょう授業に。授業以外の何ものでもない授業に。別に黒雫さんでなくとも構わない誰でもよかったペアでお互いを描き合う授業に」

「ド級毒舌!?」


 針乘のボケ漫才と、黎果の聞いていて気持ちいいほどの斬り込みが繰り広げられる地上を見下ろしながら、空を飛び交う鴉がアホーアホーといつまでも鳴いていた。

















 あの子がしゃがみ込んでいた。周りには同い年くらいの子供たちがいて、しゃがみ込むあの子に罵声を浴びせている。

 俺は真っ先に駆け寄り、罵声を浴びせている連中を追い払った。男子はいつも突っ掛かって来るけど、俺には叶わなくて悔しげに逃げて行く。いつものパターンだ。

 大丈夫かと手を差し伸べると、俺の手に掴まって立ち上がったあの子は静かに頷いた。

 そして、有難うと言って微かに笑う。とても、寂しそうな笑顔。

 あの子は泣かない。泣いているところを、見たことがない。強い子。だから俺は、あの子を可哀想と思ったことはなかった。助けるのは、ただ連中が許せない一心だ。

 だけど、寂しそうに微笑むあの子を見るとなんだか胸の奥がむずむずする。痒いけど、掻けないから変な感じ。

 俺は落ちている小枝を拾うと、地面に連中の顔を書いた。そこに石を当てる。

 バーンッ!

 いてえぇ!

 なんて聞こえるはずもない効果音と悲鳴を口にすると、あの子はくすくすと笑ってくれた。

 あの子が笑うと俺は嬉しい。

 あの子が悲しむと俺は悔しい。

 あの子が喜ぶと俺は誇らしい。

 あの子がいると……俺は幸せだ。

 あの子は、不意に私の所為で嫌じゃないのかと聞いて来た。私がいるから、俺まで嫌な思いをするのではないかと。

 俺は、激しく頭を振った。そんなことないと。悪いのはアイツらだから、気にする必要はないのだと。

 本当かと聞くあの子。

 深く頷いてみせた俺。

 安心したように笑ったあの子は次に、私たちは友達かと聞いて来た。

 それを聞いて、胸の奥にトゲに刺されたような痛みが走る。友達という言葉。別に何でもない言葉のはずなのに、何故だか分からなかった。

 でも、それも直ぐに忘れて俺は言った。俺たちは友達だと。ずっとずっと、一番の友達だと。

 俺が小指を差し出すと、あの子も嬉しそうに小指を出した。小さな小指同士が絡まる。


 眩しい陽の光に照らされて、俺たちは指切りをした。


 何より大切な、約束を――。






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