第二話 呪い
――荊茨県。荊に茨と書くその県は、修羅県という別名がある試練の地という噂が極一部で存在する。まさにいばらの道を歩くような、過酷な運命を背負うのだと。
そんな噂とは裏腹に、黎果の住む峰津市羅幕町は平和だ。田舎と言えば田舎だが、町中の方は割りと高めの建物が建ち並び、人通りも多く活気がいい。
隣には祁栖市があり、祁栖市の隣には軌鹿市が並ぶ。
この軌鹿市には黎果の憧れる超エリート学校もある。間違いなく国内一と言っていい、月華紫蘭第一高等学院という凄まじい名前の学校だ。実は彼女はトップに近い成績でその学校に受かっていたのだ。
だが彼女はそれを断り、敢えてこの羅幕学院に入学した。こちらの学校は滑り止めで、成績トップで受かっていたのだ。この学校も多少頭がいいくらいでは入れない、本来ならば滑り止めなどではなく本気で勉強して臨む高レベルな学校だったのだが、黎果の敵ではなかったため滑り止めとして受験し受かっていた。にも関わらず黎果が軌鹿市の月華紫蘭学院を諦めたのには、或る事情があるのだ。
黎果は元々、軌鹿市に在住していた。だが幼い頃、親は彼女を連れて峰津市に引っ越した。その時の記憶はほとんどなく、理由を聞いてもいつも曖昧に流されてしまう。
ただ、父は本当はもっと遠くへ引っ越したかったのではないかということは、なんとなく感じていた。
月華紫蘭学院への入学を希望していた黎果は、反対を押し切って受験だけはしたが、学費を払わないとまで言われ、仕方なく滑り止めとして受けていた羅幕学院に入学することになったのだ。同じ中学だった彪がこの学校にいたこともあり、憧れの月華紫蘭学院が駄目ならどうしても羅幕学院へ行きたかった。
そんなこんなで期待に胸膨らませ入学した学校で出逢ったのが、針乘という未確認生命体だ。何故か猛烈アプローチされる被害に見舞われ、唯一の救いは彪だけという高校ライフ。
ただ、そんな針乘も黎果は心底嫌っている訳ではない。寧ろ、黎果が気付いていないだけで彪以外の救いは針乘かも知れなかった。
昔からそうだ。真面目な子とはたまに話すが、周りが真面目過ぎる黎果を批判するのもあり余計に浮いてしまい、心からの友達というものはなかったから。
そんな黎果にも唯一、胸を張って友達と言える人間がいた。ただその人物は、黎果の通う学校にはいない。
……夢を見た。
飛び散る赤。
広がる赤。
何かがぶつかる重い音と、何かが飛ぶ風を切る音。
自身に染み付く、ねっとりと粘性を帯びた生暖かい感触。
それは紛れもなく……。
「っ……!?」
落下して行くような感覚がした刹那、急に驚かされたようにビクンッと体が震え、黎果は目を覚ます。少し荒い呼吸と、早鐘を打つ鼓動。昨日の朝と同じパターンだ。
(なんで……こんな……)
いつも悪夢は同じ。グロテスクなもの。
寝る前にスプラッター映画を観ていたとかなら分かるが、そんなものは観ていないし、そもそも黎果にそんな趣味はない。また、寝ている時に外で犬が吠えていて夢に犬が出て来たりなどはあるようだが、黎果の夢は曖昧にぼやけているものの日常生活では有り得ない内容だ。
夢というものは目が覚めるとほとんど内容を覚えていないというのが大半だろうが、黎果の悪夢もそうだった。ただ、恐怖という感情だけ。更に具体性に欠け、夢占いなどで気休めを得ようとすることすら不可能。
黎果は少しの間、深呼吸を繰り返したが、軈てゆっくりと立ち上がって支度を始め、学校へ向かった。
朝食作りや洗濯をやっている間も足が小刻みに震えていたが、いつものように登校し、いつものような朝の光景を目の当たりにしていく内にいつの間にか収まっていた。
生徒会の挨拶運動も終わり、一時間目が数学という朝から憂鬱になりそうな授業を苦もなく澄ました顔で受けながら、黎果は考えごとをしていた。
梅雨の時期で窓の外には細糸のように白い雨が降り注ぎ、頬杖を突く黎果の耳にパラパラとした音を響かせる。
「じゃあ、黒雫。問い一を前に来て書いて」
「んぁ……? ふぁい……」
教師に指名され、明らかに居眠りしてただろと思うような返事をして怠そうに立ち上がる針乘。
黎果はその姿を横目で見詰めていた。
針乘は今日は珍しくちゃんと制服を着ていた。と言ってもピアスは健在で、ワイシャツはスカートから出している上にボタンを三つも開けててリボンもなし。しかも開けたワイシャツから派手な柄の明らかに校則違反のシャツが見えてるし、どうやったのか不明だがなんか懐中時計繋げてるし。スカートは階段を上っている時に下から見たら確実にパンツが見える短さに、ニーハイなんかを合わせていて、コスプレかと突っ込みたくなる有り様。しかし普段の服装の酷さを考えると、男子制服のパンツではなくスカートを穿いて、ちゃんとワイシャツも着てきたところは誉めるべきところか。
いや、やはり甘やかすべきではないだろう。針乘の服装について注意出来るのは、黎果しかいないのだから。教師たちが針乘に何も言えないのは針乘の叔母を恐れてのことだろうから、彼らに注意しろというのは酷だろう。
「いい夢見たか、黒雫」
思いっ切り机上に突っ伏して寝ていた針乘に気付いていた男性教師が、腕を組みながら怖い笑顔で少し近付く。
「いやん、エッチ! 僕に何する気!?」
頭を掻きながら答えを黒板に書いていた針乘が、両手で自らを抱えながら体をくねらせ上目遣いに数学教師を見遣ると、教室中から笑いが巻き起こる。
「そうだな……黒雫には特別に超難問だけを詰め合わせた問題集を二、三十枚くらい宿題として出そうか?」
「すみませんでした許して」
教室内に再び笑いが巻き起こった。
「こんなもんかなー? うん、大丈夫だね多分。これで合ってるはず、きっと。どうかなー、先生?」
「おお、正解だ」
「よっしゃ! やっぱり僕、天才!」
「そんな黒雫には特別に難解問題集を十枚プレゼントしよう」
「なんでやねんっ!?」
何故か定番の関西弁でマジ突っ込み。ふざけているようにしか見えないが、本人は割りと真剣である。
針乘によって教室内は笑いで満たされ、和やかに賑やかだった。
変人であるくせに、変人であるから故かも知れないが、ムードメーカー的存在でもある針乘。友人はと聞かれると沢山いると答える彼女だが、彼女が友人と言っている多くは知り合い程度の存在だろう。だからこそ、対人関係は手広いと言えるが。
奇人変人である色々と残念な針乘。ムードメーカー的存在である針乘。何処へ行っても必ず誰かから声を掛けられるような、交流が幅広い針乘。大概、いつも笑っているか飄々とちゃらんぽらんとしていられる針乘。勉強は出来るのに不真面目である針乘。その全てが、黎果とは対照的だった。
奇人変人とは対照的に色々と完璧で、ムードメーカーとはかけ離れ、薄っぺらい上辺以下の人間関係しかない黎果。いつもクールで無表情で、真面目な優等生である黎果。
「……」
見詰めていた針乘が不意に振り返り、目が合う。
胸がざわつく。その時抱いた感情が羨望だったことは、黎果には分からなかった。
(……いっちゃん……)
ふと別の学校に進学した或る人物を想う。
その人物こそ黎果が心からの友達と言える唯一の存在、時神一姫。無表情だがふんわりいた印象で、非常に頭がよく天才少女と称される子だ。
だがその子は軌鹿市にある、黎果の憧れる例の月華紫蘭学院にトップ入学してしまっている。たまにメールや電話などするが、忙しいようで長い間会えずにいた。
彼女がいれば、なんて何度思ったことか。だからか、いつも必ず誰かが傍にいる針乘が羨ましかったのだろう。
そんなことを考えながら、授業時間は刻々と過ぎていった。
放課後。黎果はいつものように生徒会室に残り、やらなければいけないことを処理していた。
他の生徒会役員たちは疾うに下校しており、外で部活動の片付けをする生徒以外の影はない。
様々な書類に目を通していた黎果だが、その文字が視界から消えて行く。またもやぼーっと考えごとをしてしまい、頭に入らなくなっていた。
考えるのは、夢のこと。思い出したくもない、悪夢。高が夢だが、そうとも一蹴出来ない何かがある。リアルな罪悪感、胸の痛み……。あれはただの夢ではないと、このまま野放しにしてはいけないと、危機感にも似た何かを感じていたのだ。
処理中の書類を手にしたまま、思考の海に沈んで行く。
――軌鹿市には何があっても絶対に行くな。
と言うのは、父がいつも言っていたことだ。もし行ったら勘当だとまで忠告されていた。父親も本気で縁を切るつもりではないことは黎果も分かっていたが、真面目な娘にそこまで言うほどの理由があるらしいのは確かだ。
もしかしたら、これは最近の夢に関する手掛かりなのではなかろうか。以前、住んでいたという軌鹿市。転勤でもなく引っ越したこと。その理由を話そうとしないこと。何があっても行くなという忠告。……どうも無関係ではなさそうだ。
(お父さん……)
胸の奥がむず痒く疼く。
父のことを考えれば、過去を掘り返して詮索したりしないのが一番であるのは確かだ。
だが、明確な危機感がある。本能が警告しているような、焦燥感が。父を裏切りたくなどないが、本当にこのままでいいのだろうか。
それに、それだけでなく黎果の心が耐えられない。好奇心とは似て非なる、追求心。胸の痛みも罪悪感も夢に出て来たあの子のことも、兎に角全てを“知りたい”と強く願っている。それが今の彼女の本心であった。
突然ガラララッと乱暴な音を鳴らし勢いよく開いた扉に、沸き上がる疑念ともやもやした感覚が吹き飛ばされる。
「あー、やっぱりまだ残ってた! れーれーたん!」
扉の方を見遣ると同時に、見なくても分かる煩わしい声が鼓膜に突進した。咄嗟の反応で見てしまったが、見なければよかった。
「立ち入り禁止のはずですが? ナルシさん」
「酷いってば! てか名前で呼んで!! お願い!!」
「私に名前を呼んで貰いたければ同一の寺社に百回参拝するか、百往復して祈願して来て下さい」
「お百度参りが必要なの!?」
「というか人に名前を呼んで貰いたければ、自分からちゃんと呼ぶべきではないでしょうか」
「分かりましたー。んっふっふ、私に名前を呼んで貰うと神になれるんだよん? 黎果!」
「なんか格好つけて決め台詞的に名前言ったみたいですけど、そんなことで人を神にしてくれる螺の外れたトチ狂った存在は流石にいないでしょう。いるとしても常軌を逸した狂気の神になりそうで嫌です」
「言い過ぎじゃない!? 螺の外れたにトチ狂ったに常軌を逸したに狂気ってどんだけ非難してるの!?」
「当たり前じゃないですか」
「本当に本当に当たり前かのようにさらりと言わないで!?」
たまに外から部活動の片付けをしている生徒の声が微かに聞こえて来るだけの静かな生徒会室は、針乘一人が来ただけで忽ち喧騒と言って良いほどに賑やかになってしまった。
相変わらずのフランクさに黎果は溜息を吐き、特別教室用の大きな机の上に広げていた書類などをかき集めて整理する。
「それ、何?」
針乘がその中の一つに興味を示した。
「これはリクエストボックスの中に入っていた要望メモです」
「あー、なんかそんなん一階に置いてあったような気がする」
針乘の言う通り、この学校には一階にプラスチック製の箱が置いてある。そのまんま“リクエストボックス”と書かれた横長の紙が前面に両面テープで貼られ、上面に横長の口が空いているだけの、簡易な物。後ろは引くと簡単に開くようになっており、集計の時はそこからメモを取り出すが、たまに間違えて入れた生徒や書き忘れたことに気付いた生徒がそこから取り出している。
その箱の横には、ペン立て付きのメモケース。何処かの受付にあるような、家庭で電話の横に置いてあるような、あの透明のありふれた物だ。そこに“要望”と印刷された、これまた簡易なメモサイズのプリントが束になっている。
そこにもっとこうするべきだとかこうして欲しいとか、そういった要望を生徒が書いてボックスに入れることで、リクエストを送ることが出来る。部活の費用だとか、催し物の要望など届くものは様々だ。それを管理するのが生徒会で、要望が多いものは生徒会会議で話し合ってどうするかを決める。少数派の意見も、思うところがあれば議論に出して議決するのだ。
しかし、興味を示しそれに何枚か目を通した針乘は、面白くなさそうに唇を尖らせる。
「何これ。ほとんどおふざけじゃーん」
針乘の言う通り、束になった要望メモはどれもこれも遊びで面白がって入れたとしか思えない、あまりにふざけたリクエストばかりだった。
《全員エロ本を読む読書の時間が欲しいです》
《修学旅行を世界一週旅行にして》
《女子の体操着をブルマにして下さい》
《挨拶運動ウザい》
《髪染めを校則でOKにして下さい》
《募金をみんなで使う金にすればいい》
《保険の授業はAV観賞の時間にすればいいと思います》
そんなものばかりが並んでいた。女子かも知れないものもあるが、主に男子がふざけて書いたものだろう。
「黎ちゃん、バッカバカしいよー。止めちゃおうよー。うん、そうだそうしよう。こんなもん、バラバラにしてゴミ箱の中にダイブさせればいーと僕は思うよー?」
「でも……ちゃんと要望を書いている子もいるから」
針乘は、黎果があとは自分がやっておくと言って他の生徒会役員を帰らせ、面倒臭い仕事の数々をいつも一人で頑張っているのを知っていた。この要望の集計などもその一つである。
確かに真面目に要望を送っている生徒もいるからおざなりには出来ないというのは分かるが、こんなふざけたものを毎度毎度きちんとチェックして自由な時間が削られているのだ。普段はへらへらして適当に頑張って黎果の苦労を真面目ちゃんと笑ってるような、そんな連中のせいで。
「うん、よし来た! じゃあ僕が筆跡から誰が書いたか特定してお仕置きをしよう! あれだ、体育館のステージでケツ丸出しにさせてお尻ぺんぺんとかどうだろう? 分かるこれ? 一生の問題だよ?」
おちゃらけた調子だが中々腹が立っているらしく、そんなことを宣う。笑っているが、怒気は伝わって来た。無論、本気で言っている訳ではないだろうが。
「筆跡から特定って……出来る訳ないじゃないですか」
自分のために怒ってくれているのは、喜ぶのは不謹慎だろうが悪い気はしない。だが、一応突っ込みは入れておく。これが黎果と針乘だ。
しかし針乘は、不意ににたりと笑った。チェシャ猫のように。
「いや? 今のは勿論、冗談だけどさ。マジな話、出来ないこともないよん?」
背中が粟立つ、企むようなぐにゃりとした笑顔。不穏で禍々しい、そんな空気が漂う。
「……どういう、ことですか?」
「黎果ちゃんは聞き流してたかも知れないけどー。僕、言ったよね? 僕には、“パトロン”がいるんだ」
そう言って、にこっと可愛らしい笑みに戻る針乘の右手は、左手に添えられていた――。
「復讐を望むのかい?」
星空をバックに、少女が問い掛ける。暗闇に問い掛けており、影は見えるが相対する相手が誰なのかは見えない。
問い掛けた相手の返事を待たず、少女はくふふ、と邪悪な含み笑いを響かせ流暢に語った。
「報復をしたってなんにもならないとはよく言ったものだ。本当に何がどうなる訳でもないしただ傷付き傷付けられ終わるだけで愚かな行為だし間違ってないと思うのだが、何がどうなるとかじゃなく愚かだろうがなんだろうが関係なくただ復讐してやりたいって気持ちはよく分かるよ。私もつい一、二ヶ月くらい前、あの値段の安い名前の和風人間にちょっとやられてしまった時、絶対に許さんと思ったしね。いや参ったまさかこの私があんな醜態を晒すとは……まぁ、あの“偽白”はもういないからいいのだが」
意味深な、恐ろしいことを連想させるような言葉を最後に放ち、しかしその笑みを崩さない。
たまに言葉の区切りがなく繋がったまま喋っているのはせっかちなのか、それにしては少女はとても落ち着いて佇んでいた。
「まあ君が、今回の物語の“主人公”である君が復讐を望むなら私も協力させて貰うよ。シナリオを傍観し集めるのが私の生業で本来はそれだけだが今回君の物語に私は協力しよう“干渉という名の脚色”というやつだね。物語が面白くなるように脚色するのも私の役割だたまにやるよこれ。そりゃやるせない復讐してやりたいであろう君の気持ちも分かるからね。その復讐は理不尽だが理不尽なのも私だからね何も言わないさ」
語りながらカツカツと移動し、給水タンクの梯子を片手で掴む。その、次の瞬間。
ひらり、と。
飛躍し、着地する。
少女は、給水タンクの上にいた。まるでファンタジーの世界の神魔か何かのように幻想的に、柔らかな風の波に髪を乗せ、星月夜の満天の綺羅星に蒼白く照らされた顔に自信に満ちた笑みを浮かべている。
その宇宙を連想させる闇色の双眸は、星々の目映い煌めきさえ吸い込むが如く、ブラックホールのように螺旋状に揺らめいていた。少女の宿す、異能力だった。
それを見上げる人物は、人知を超えた脅威を前にし、確信する。こいつなら間違いないと、こいつならなんとかしてくれるだろうと。
そう思い、揺るぎない信念を宿した瞳だけ狂気的に爛々と、表情もなくその口唇を開いた。
「……頼んだよ、道玄」
未だに根強く残っているキラキラネームと呼ばれる名前よりも酷いと称される、古風で男のようなシワシワネームを持つ少女は、それを聞いて三日月に裂けた笑みを作り出し、肯んずるのだった。
(パトロン……)
昨日、針乘が放った意味深な単語。その考えても仕方ないことかも知れない意味を、黎果はつい考えてしまっていた。
挨拶運動や授業はいつも通りこなしたが、それが終わると物思いに耽ってしまう。今は各授業の間の、五分休みだ。
パトロンの意味など勿論、黎果は知っている。男性の後援者のことだ。
だが、そのままの意味ではないだろう。恐らく針乘は何かを当て嵌めている。そう感じていた。
というか高校生でマジのパトロンがいたら色々問題のような気がする。リアルホラーだ。だがそれ以上に、また針乘のオーラが変わっていた。
察するに、針乘を助けてくれる存在がいるということだろうが、どうにも不穏な感じが拭えない。警察関係者か何かにコネでもあるのかと考えたが、違うような気がする。何かもっと、危険な……。
「っ……!」
そこまで考えた時、遮られる。原因不明の頭痛。ズキズキとしたものではなく、何本もの細かい棘が頭の中で飛散するような質の悪い痛みだ。
(……疲れてるのかな……)
そう思った。肉体ではなく、精神的な疲労ではないかと。
仕方ない、相手にしないように、と諦めているとはいえ心ない噂や悪口を囁かれ、傷付いていない訳ではない。
無意識に拳を握り締め、顔を上げた刹那、視線は黒板に釘付けになる。
いつものように千差万別に動き回る生徒たちのいる教室内、いつも通り過ぎる喧騒に溢れた中、一つだけ目を引く異様なものが存在した。
鼻に付く、金属的で生臭いにおい。梅雨で雨天や曇天が続く中、久し振りに晴天で窓から差し込む陽射しに光る赤い液体。
《一淨黎果 お前は殺される》
そこには、確かにそう書いてあった。
「っ……!!」
反射的に体が動き、声も出せずに立ち上がると変にぶつかって机がゴトッと重い音を立て、同時に椅子が倒れてガターンと鋭い音を響かせた。
ちらっと一瞥するだけで特に気にせずお喋りを続ける生徒もあれば、何ごとかと話を止めたまま見詰める生徒もあった。
「一淨さん、どうしたの? 大丈夫?」
ただならぬ様子で怯える黎果を見て、例の精神的に幼い男子連中に分類される一人が話し掛ける。
「も、文字が……」
黒板を凝視し、震えながら掠れた声でそう呟く黎果。
男子が不思議そうに黒板を見遣るが、その時にはもう血文字のような悍ましいメッセージは跡形もなくなっていた。というか、なくなっていなかったにしても他の生徒の反応を見る限り、黎果にだけ見えていたのかも知れない。
ああやってぶりっ子して、心配して貰おうとして、などとまたひそひそ噂しだす女子連中に、
「一淨さん、めっちゃ顔色悪いよ。ほんと大丈夫? 具合悪いなら俺、保健室まで付き合おうか?」
と少しニヤけながら下心見え見えで提案する男子。
「てめっ、何抜け駆けしてんだよっ! 一淨さん、俺が保健室まで送ってくよ!」
「うお、お前っ! どけって!」
「いやいや一淨さん、僕が送ってくよ! ねっ!?」
「一淨ちゃーん、俺が抱っこして送ってくよー?」
「何言ってんだよ、てめー! 抱っこなら俺がするわ!」
黎果ファンの複数人の精神の幼い男子が我先にと揉め出し、それに女子が氷柱のように冷たく鋭い、路上で股間を女性に見せ付けて反応を楽しむ変質者を見るような酷い視線を向けていた。
だが今の黎果には、それらを気に掛ける余裕などない。
「黎果たーん、取り敢えずバカ男子共は置いといて僕と保健室行こっかー?」
いつの間に来ていたのか、針乘がそう言ってコミカルな動きで近寄り黎果の肩を抱き寄せるように掴む。
針乘はクラスは違うが国語以外の能力は黎果と同じ上級クラスなため、よく教室が同じになるのだ。昨日の数学の授業もそうで、今回も政治・経済の授業で教室が同じだった。
「ということでお姫様は僕が貰ってくよーん。うわぁー、僕イッケメーン!」
そのまま男子連中におちゃらけた敬礼とふざけた台詞を残し、針乘は教室をあとにした。
「うぉおおお黒雫に取られた!?」
「でもなんか黒雫なら許せるぜ、チキショー!」
「くっそ、悔しいけどマジイケメンだわ黒雫……」
針乘が出て行った後、訳の分からないことを宣う男子連中は、女子陣が凍て付くブリザードの視線をぶつけ続けていたことさえ気付かずにいた。
「……もう一度お願いします」
保健室で、落ち着いて来た黎果が冷めた口調と視線で聞き返す。
保健の先生は優しく穏やかな女の人で生徒たちにも人気なのだが、彼女は少し留守にしており、保健室には黎果と針乘の二人だけがいた。
「だからぁー」
針乘は嬉々として狂喜的に少し鼻息を荒げながら興奮した様子で、先ほど口にして黎果が聞き返したよからぬことをもう一度宣う。
「保健室で二人切りで、若い二人はお互い興奮して……声を我慢しながら……ってシチュ萌えるよねーって言ったの!」
「……それはつまりどんなシチュエーションでしょう」
「僕と黎たんが……」
上目遣いに頬を染めながら、両手でハートを作る。前も言ったような気がするが、ホラーだった。
「はぁー? マージキモいんですけどぉー、ないわー」
「そこだけ今時の女子高生口調にならないで!?」
「黒雫さんのために使ってみました」
「ためになってない!?」
「ホラーな展開は遠慮したいですね……」
「割りとマジ顔でホラーってどういうこと!? あれかな? ネットで容姿の悪い人の顔面無修正画像を載せて『グロだ』とか言ってるのと同じようなものなのかな!?」
「お察しが早くて助かります」
「学級委員長兼生徒会役員が否定しない!? それって中傷だよね!? もの凄く酷いことだよね!?」
流石に何処も授業中でシンとしているため、いつもより声のトーンを抑えてはいるが、やっぱり針乘がいるだけで騒がしい。ただ、冷たくあしらいながら今の黎果にはそれが救いでもあった。
「……さて、私はそろそろ授業に戻ります」
「え、何故に?」
「落ち着いたことですし、具合が悪い訳ではありませんから健康な人が保健室にいるべきではありません。落ち着いたなら戻るべきです。黒雫さんも付き合っていただけたのは有り難いですが、授業に戻りましょう」
「相変わらず真っ面目なのねん。でも付き合うなんてそんなぁーん! でゅふふふふっ……」
今度は冗談でなく本気でホラーな、不気味な笑いを発する針乘を見て寒気と苛立ちを覚えた黎果は、
「さて、と」
と呟いてスタスタと引き戸の方へ向かった。
「無視された!? てかちょっと待ってよ、黎果! 僕、話あるんだけど!」
「今度はなんですか?」
「何に関わっているの?」
唐突に尋ねられ、見当はついているが針乘に分かるはずもないことなので、なんのことか分からずに時間が止まる。
「さっき」
またあの、精神を裸にされているような感覚を与える眼をして、針乘は訊く。
「黎果は、何を見たの?」
言葉が、出て来ない。迷い、止まる。だが針乘にはその反応だけで十分だったようだ。
「やっぱりなんか見えてたんだねん?」
「それ、は……」
怖い、と思った。あの視線を、雰囲気を向けられるのが。
「……なんでもないですっ。見間違いくらい、誰にだってあるでしょう? 一々なんなんですかっ?」
「黎果――!」
呼び掛ける針乘の声を遮って、保健室を出て行く黎果。ピシャン、と引き戸を閉め、政経の授業が行われている教室を目指す。
針乘は直ぐに引き戸を開けその後を追おうとしたが、引き戸を開けた先には誰一人としていなかった。
右を向けば左側に下駄箱があるのが見え、奥に廊下が続いており、左を向けば階段と踊り場が視界に入る。階段手前には廊下が左右へ伸びているのが見えるのみ。どちらの廊下からも気配は感じられず、階段の踊り場にも影は見えず、何処にも先ほどまで人がいた様子さえない。
「ああ……だから言ったのに……」
針乘は顎をしゃくり額を押さえて呟くと、次に左手のみ腕捲りをした。その手には……。
「探しに行くよ、トート!」
その場に誰もいないにも関わらず、針乘は何かにそう言い放ち、駆け出した。
(おかしい……)
黎果は一人、見慣れない街中で茫然と立ち尽くしていた。
それもそのはず。先ほどまで学校にいたはずなのに、保健室を出て廊下を歩き出して間もなく景色が変わるというファンタジーに現実で身を置いているのだから、誰だって茫然とするだろう。
……いや、あの例外だけは「あれー? 何処だろ、ここー」とか恐怖や驚愕の欠片もなく暢気に飄々と切り抜けそうな気はするが。
兎に角、目に入る景色は見慣れない街中。それも昔の白黒写真のようにモノクロで色がなく、昼間だということは分かるが空まで灰色で、感覚がおかしくなって来そうであった。
ただ、黎果の格好。制服姿で履き物は学校指定のシューズということから、自分が先ほどまで学校に、しかも校内にいたということは間違いなかった。
(でも……ここ……)
見慣れぬ、見知らぬ街中――であるはずなのだが、実際そうなのだが、何処か懐かしさを覚える。不思議で、違和感があった。
だが感じたのは、不可解な感覚だけではない。ドクンドクンと、静かに早鐘を打つ鼓動。
(やだ……何か……怖い)
――恐怖。
何故感じるのか分からないが、訳も分からず怖い。それは一人でいきなり学校から見慣れない街中に飛ばされて怖くない訳がないのだが、それとは違う。今黎果を襲っているのは、もっと得体の知れない類の、明確な恐怖だ。
ここにいてはいけない。直感的にそう思った瞬間、ぞわりと、これまでの人生で感じたことのない悍ましい悪寒が全身を駆け巡った。RPGの世界に登場するような、舌にイボのついた怪物に全身を舐め回されたかのような、強烈な嫌悪感を伴う寒気だ。
強張る体が、痙攣するように動くくらい激しい悪寒に血の気が引き、同時に背後に感じる気配。己の肉体が心臓になったかのように、バクバクと加速する鼓動。
(何か……後ろに……いる……)
嫌だ、怖い、振り向きたくない。そんな気持ちとは裏腹に、勝手に振り向きそうになる体を必死で抑え、震えて耐える。
『れいかちゃん』
親しげに呼ばれ、振り返る。振り返るつもりはなかったのに、友達を呼ぶかのようなあまりに自然なその声に体が反応してしまったのだ。
「え……」
振り向いた先にいたのは、一人の子供。女の子だった。
七分丈パンツに、ラグランシャツといった男の子のような格好。髪もベリーショートだった。
目を凝らすも、顔は見えない。見えないはずがないのだが、その子の顔以外のものははっきり見えるのに、何故かその子の顔だけが靄が掛かったように分からなくなる。
(あ……れ?)
その時、強烈な違和感があった。何に対する違和感か分からないが、恐怖を覚えるほどの不自然さを感じ取った。訳の分からない感覚に、動揺する。
子供は黎果が違和感の正体が分かるのを待っているかのように、じっと何も言わずにそこにいる。
(あ……)
そして、気付く。
子供はまだ幼い。それに七分丈パンツに、ラグランシャツといった格好で髪もベリーショートなのだ。……なのに。なのに何故、子供が“女の子”だと分かったのか。
顔が見えるか格好が明らかその性別以外有り得ないものならいざ知らず、個人差はあれど男女の体の差などまだない声変わり前の幼い子供であるなら、男女の区別はつけられない。なのに黎果はこの顔の見えない子供に対し、“男の子のような格好をした女の子”だと感じ取った。
はっとして靴を見るも、デザインはまんま男もの。キャラクターが描かれており、それを見て黎果が幼い頃にやっていた、なんちゃらレンジャーとかいう類のヒーローアニメのものであることを思い出した。どうやら、無意識に靴を見ていてそれが女ものであったからという訳でもないようだ。
では何故、黎果は分かったのか。幼い頃、小学校や近所にこのような子供がいただろうか。懸命に考えるも、考えれば考えるほど激しくなる偏頭痛に思考は揉み消される。
『れいかちゃん』
また子供が親しげに黎果を呼ぶ。不思議と、落ち着く声音だった。
『まってたよ』
「待……ってた?」
『うん。おれ、まってた』
黎果が問い掛けたことにより、やっとこの得体の知れない子供との会話が成立する。
(……俺?)
子供は自らを俺と言った。いわゆる俺っ娘というやつか。そういう子はたまにいる。
が、その一人称に頭の片隅がズキリと痛む。昔、身近にそんな子がいなかっただろうか。手繰り寄せた記憶には、この子はいない。
(待って。記憶にあるのって、小学校の……それって確か……)
『いこう』
思考は子供の言葉に遮られる。歳上を急かす幼い子特有のものではなく、一緒に遊んでいる友達を促すような、自然な口調。自分が高校生である手前、違和感でしかない。
だが先ほどまで人っ子一人いなかったこの街で唯一出逢ったのがこの子だ。しかも黎果の名を知っている。何か意味があるのだろう。対応しない訳にはいかない。
「行くって……何処へ?」
『おれと、おなじところ』
脳内思考回路が数秒停止する。言葉の意味を考えてしまう。その意味を理解した途端、停止していた思考が一気に爆発しそうになる。
同じところ。
今、目の前にいるこの子は、顔の分からぬこの子は、まさか……。
この世のものではないのではなかろうか――。
つまり、この子は黎果を連れて行こうと、連れて逝こうとしているのではないか……。
口には出していない。が、そう考えた瞬間、目の前の子供は黎果が何を考え付いたのか察したようにぐにゃりと笑った。目許は相変わらず靄が掛かったように見えないが、口許は分かった。
口裂け女のように弓形に裂けた笑み――いや、表現ではなく、本当に裂けていた。
「あ……ぁ……」
悪夢で視た、顔面が崩れて行く子供。それが現実に、目の前にいた。
動けない。
動かない。
体が、視線が、口が、全てが。あまりの恐怖に、自分のものであるはずの人体が正常に作動しなくなっていた。
そんな黎果に、子供は物々しく言った。
『ころしてやる』
あの悪夢と同じ、悪夢のような台詞を。
その台詞が頭に響いた瞬間、黎果はぴくりとも動けずに道路の真ん中にいた。石化してしまったかのように体が動かない。
だが、見える。まだ距離はあるが、こちらへと走って来る一台の車が。正式には、一台のダンプだ。かなり遠いがあの大きさからして十トンダンプだろうか。それもかなりの猛スピード。高速道路でも普通は出さないのではないかと思えるほど、有り得ないスピードだったように感じる。
ダンプはどんどん接近して来たが、黎果は道路の真ん中で突っ立ったまま動けない。このままでは間違いなく正面衝突する。撥ね飛ばされるのか轢き潰されるのかは分からないが、あのスピードでは間違いなく体はバラバラだろう。
(嫌だ……怖い!)
動けない恐怖。分からなくとも、想像出来るグロ遺体。そんな状態になどなりたくはないと、まだ死にたくはないと、恐怖、混乱、焦燥、絶望、無念、様々な感情に乱れる心。
猛然と暴走するダンプは軈て数百メートル先まで迫り――。
突然、世界が引っくり返った。
一瞬の内に何が起きたのか理解など出来る訳がなく、分かったのは天地が反転したかのような感覚と、強い風。そして景色が流れて行くような感じがして、止まった。
衝撃は感じなかったが、それは一瞬のことであるから麻痺して分からなかっただけで、自分は轢かれたのではなく撥ね飛ばされたのかと思った。もう風を感じてはいないし、黎果に見えるのは一定の景色であるから、撥ね飛ばされて叩き付けられたのではないかと。
「あ、ててっ……つーかイッタァアアアアアッ!?」
だが、妙に現実味のある声が鼓膜を震わせた。
異様にはっきりする五感に、自分が意識を失うような状態ではないのだと気付く。いくらなんでもあんなダンプに撥ね飛ばされて、意識をはっきりと保って無事である人間などいるはずがない。というかあんなダンプなら撥ね飛ばされるのではなく、並んだタイヤに巻き込まれて、挟まれ轢き潰されているのが普通ではなかろうか。つまり、今、黎果は無事に助かって生きているということだ。
「飛び込んで好きな人助けちゃうって超格好いいハリウッド映画みたい! なんて夢想で飛び込まなきゃ良かった! もっと別の助け方すればよかった、出来たのに!」
またもや鼓膜にビンビン来る煩わしい声を聞き、黎果は茫然と口にする。その、“妙に現実味のある声”の主の名を。
「……黒雫……さん?」
「ん、ああ黎果たぁあああん!! 無事でよかったよぉおおおおおお!! ぶちゅううううううノォオオオオオオオオオ!?」
黎果に勢いよく抱き着き思いっ切りキスしようとした針乘は、黎果がダンプが突っ込んで来る時以上に命の危険を感じて反射的に避けたため、勢いあまって道路に突っ伏しアスファルトと熱い接吻をしていた。途中からそのことに気付いた針乘は、台詞をぶちゅうからノーに変えて絶叫していたのだ。
「え、あの……わた、私……」
黎果は何を言おうかなんて言えばいいか定まらずにテンパリ気味の口調で、呆けた面を晒す。反射的に避けはしたものの、それはいつもの調子に戻ったからではなく、まだ現状把握など出来ていなかったのだ。
そんな黎果に、突っ伏した状態から起き上がり、アスファルトにキスしてしまった唇を袖で拭う針乘は、
「ん」
と或る方向を指差した。
針乘が指差す先には走り去ったダンプが遥か遠くに見え、それはほどなくして溶けるように消えていった。
今、黎果は尻餅をついたような状態であり、針乘は黎果に覆い被さったような状態。なんだか、黎果が針乘に押し倒されたみたいだ。
どうやら黎果が感じた強い風や天地が引っくり返った感覚は、ダンプが到達する前に針乘が飛び込み、そのまま対向車線に黎果を抱えて転がったからのようだ。
そこまで認識し、黎果は先ほどの針乘の台詞にも合点がいった。よく漫画などでそのように助ける描写があるが、まさかあれを現実で実行するとは。しかも格好いいという夢想で。一歩間違えばミンチになる危険があるのに、恐るべし針乘。
「うふん、間に合って良かったわん」
汗もかいていないのに、まるで一仕事終えたかのようにわざとらしく額を腕で拭う無意味な仕草をした針乘は、立ち上がって黎果に手を差し伸べた。
妙な気持ちでその手に掴まり、黎果も立ち上がる。針乘は黎果より十五センチ以上も背が低く、掴まって体重を掛けたらよろけそうに見える華奢具合であるのに、黎果が立ち上がる時も安定感があった。掴まった華奢で白い小さな手が、とても逞しく感じる。
その時、黎果が抱いた気持ちは、宛らひ弱でもやしだと思っていた男子に助けられたヒロインが、華奢に見えてもやっぱり男の子なんだと感じる時のものに似ていた。だが、黎果には不可解な気持ちという感覚しかなかった。
(そうだ……あの子は!)
こんな時でさえ、こんな場所でさえ変わらない針乘の日常的な様を見て気が抜けてしまったが、自分が何故こうなったのかを思い出して血の気が引く。
ぞくっとして振り返った先には、先ほどの子供が何をするでもなく突っ立っていた。顔は相変わらず見えないが、怨めしい目で黎果を睨んでいるであろうことは犇々と伝わって来る。
子供が一歩、踏み出した。
「黎果に手を出すな。僕が許さない」
だが、直ぐに針乘が立ち塞がった。おちゃらけた口調は鳴りを潜め、獲物を狙う鷹の眼差しを容赦なく得体の知れない子供に注ぐ。
ただ体を強張らせていることしか出来ない黎果に見えるのは、針乘の小さな背中。決して逞しくはないのに逞しく、頼りないのに頼もしい。また不可解な気持ちが黎果の心を揺さぶった。
『……ここじゃ……じゃまがはいる……』
立ち塞がる針乘を危険視したのか謎の子供はそう呟くと、徐々に薄くなり、景色に溶け込むようにその姿を消した。
『れいかちゃん……あのばしょで……まってる……』
最後に、意味深な恐ろしい台詞が何処からともなく響く。それと同時に、溶けて形の崩れたチョコレートのようにぐにゃぐにゃと景色が歪み出し、軈て視界はモノクロの街中から見慣れた保健室の光景へと変わった。
色付きのある、いつもの世界。
「……戻った……?」
茫然と呟く黎果に、厳しい表情で床を睨む針乘。
ああいう状況に陥った針乘は、本当に別人になる。これが本当の針乘かも知れないが、やはり気持ち悪い喋り方の残念女子という印象が抜けないため、慣れない。
「兎に角!!」
不意に声を出されて一瞬構えてしまったが、振り返った針乘は別段普通だった。普通というか、いつものおちゃらけた針乘である。
「黎果たんが無事でよかったけどさ! 君は僕の将来のお嫁さんなんだよ? 気を付けなきゃ駄目じゃん、もっと自覚持ってよ!!」
「え? 生理的に無理です」
「まだショックが抜けてなくて半ば呆けてるのに、なんでそういうとこだけはっきりしてるのかな!?」
真剣な顔をして何を言い出すかと思えば、これだ。
とはいえ、針乘は黎果を助けに来てくれたのだ。あんな、異質感漂う灰色の世界に。
「まあ……助けてくれたことは……感謝します」
やはり目を逸らしながらの礼。素直になれない。針乘以外なら、こんなことはないのに。というか針乘がもう少しまともだったらよかった。
「でゅふっ。やっぱり最高だねツン――」
「次、ツンデレと言ったら反省文百枚提出の刑に処します」
「百枚!? 僕を殺す気!? 死刑!?」
「というか……」
やっといつもの調子が戻って来た黎果は、疑問に思ったことを尋ねる。
「黒雫さんはどうやってあの場所へ?」
「ん? ああ、それはね」
と、針乘がいきなり胸元を強調したグラビアポーズをとり、いわゆるアヒル口と言われる唇の形を作る。
言われなければ気付かないくらい慎ましく慎ましい胸元に、折角のグラビアポーズも無に帰している。黎果が氷柱のような視線を送るが、針乘はポーズを維持したまま潤目に上目遣いをした。
「知・り・た・い……?」
「さて元の世界に戻れたことですし、今度こそ授業に戻りましょうか」
「聞いて!? 聞いてよ!?」
かなりセクシーな声も出していたが、黎果のガン無視に何もかも無意味にされていた。
黎果は廊下を歩いていたはずだが、戻ったのが保健室であったため、また針乘と二人切りである。早々に出てしまおうと思ったが、針乘がさっと有り得ない素早さで引き戸の前に立ち塞がる。先手を取られてしまった。
「ストーップ!! 僕、話があるって言ったよね? 黎果はさっき教室で何を見たの?」
「……」
黎果が答えに窮していると、彼女は諭すように言った。
「黎果たん。今、君が直面していること、僕に話してくれないかな? 僕の思うところ、このまま放っておいたら君は多分死んじゃうよ」
そしてさらりと、砂のようにさらりと口にした。このままでは、死ぬと。
先ほどの出来事を思い出す。今、生きているのが奇跡だ。針乘が来てくれなければ黎果は……。
針乘の真剣な瞳に射抜かれて、長い沈黙の後、黎果は絞り出すように言葉を紡いだ。
「分から、ない。まだ何も……。でもさっき黒板に、血みたいな赤い文字が浮かんでて……私の名前と、殺されるって……書いてあったの。最近、見る悪夢も……あの子供が出て来たような気がするけど……」
「うん、それだけ分かれば十分」
針乘はあっけらかんと無邪気に無垢な笑顔を見せ、右手で左手の袖を捲った。そう言えば針乘は常に長袖だが、今まで何故か不思議にも思わなかった。今は六月で夏服の時期だというのに。
一体、左手がなんなのだろう。針乘はこれまでにも頻繁に左手を示唆する仕草を見せていた。黎果には、それが気になって仕方がない。
それ以前に、針乘は何もなかった黒板に殺すなんて物騒な文字が書いてあったということをあっさりと信じているが、先ほどの非現実的な出来事も当然のように受け入れていたが、それが何を意味するのか。この時の黎果にはまだ分かっていなかった。
「じゃあ授業終わる前に、というか先生が戻るかも知れないし、その前にちゃっちゃと済ませよっかー?」
針乘が無垢な笑顔のままそう言った瞬間、パアァーと効果音でも入りそうなほど目映い緑がかった白い光が保健室内を満たした。
黎果は目を細め手を当てる。眩しいが、それだけで目を開けていられないほどのものではない。
「トート」
綺麗な強い光の中、針乘は少しも動じた様子がなく、平然と目を開き自然体で、整った唇が何か呟いた。
黎果が、それが古代エジプトの知恵の神の名だと気付く前に、針乘の背後に背の高い何かが現れる。
長く鋭い嘴に、手足の爪も尖っていて鋭い。頭は鴇のような、鳥の頭だった。その頭部分は、緑色と黄金の飾りで彩られている。体は正に男の肉体美といった感じで盛り上がった胸筋と腹筋が雄々しく、黎果が頬を赤らめるくらいには綺麗な肉体を持っていた。
下半身は腰布のみで、足は裸足。首飾り、腕輪、足輪、腰布を留めているベルトのようなものに付いているプレートなど装飾品は全て黄金で、その黄金は細かい彫刻で装飾されている。それぞれ宝石やガラスで豪奢に彩りが加えられていた。
身長は非現実的というほどでもなく、海外のバスケの選手なら普通であろうくらいのものだ。明らかに二メートル以上はあるだろうが。
「ということでジャジャーン! 僕の契約パトロン、トート神でーす! 僕があの変な場所まで白馬の王子様をやりに行けたのは、このトートに空間を破って連れて来て貰ったからよん」
手を広げ、自分で効果音を発しながら針乘が紹介するが、黎果は唖然と茫然としていた。当たり前の反応だった。
いや、でーすとか軽々しく言われても……という心境である。愕然とトートを見詰める黎果は、最早パニックを通り越して冷静になっていた。何せ本日二回目の非現実的な現実だ。
『我に用か、針乘』
トートが声を発する。いや、声とは言えないかも知れない。低く、澄んだ凛々しい美声だが、音として出されたのではなく頭の中に直接響いて来る。脳味噌に自動で鳴る楽器を放り込まれたような、波紋がむわんむわんと広がるような感覚だった。
そして普通に話されたはずの声に、圧倒される。その姿、声、全て圧倒的な神々しさと威厳を湛えていた。畏怖で自然と震え出す体に、あまりに強大な威厳に押し潰されそうな心。人知を超えるとんでもない存在だけが放つ、特有の感覚だった。
「トート! 今、黎果たんに何が起きているのか教えて!」
『承知』
妙に格好いい声でそう呟き、ふっと笑ったような気がしたが気の所為だろうか。頭が鳥なので分かり辛い。
トートが手を翳すと、一閃の強烈な光が室内を満たし、パァンッという強く激しく弾くような音が一回だけ響く。同時にバチッとした静電気のような感覚も走り、一瞬だけ何かが見えた。女性の顔のようなもの……。
「っ……!?」
ぞくん、と凄まじい悪寒が走る。
目の前にいるトート神以上に凄まじい、神々しさと威厳。それを通り越して悍ましさすら覚え、自然と萎縮する感覚。そして、この存在には逆らってはいけないと、この存在を崇め奉らなければいけないと、何故か考えてしまう。そうしなければいけない、そうしなければ駄目だと、本能が頻りに全身全霊で訴えて来る。
……否が応でも理解する。自分がここまでになるのは日本人だからだと。つまり、この存在は日本の神なのだと。
「なんだ、今のは!?」
精悍な顔付きで驚愕する針乘は口調も勇ましいものに変わり、一廉の武士のようになっていた。やはり普段とは別人だ。
『……天照だ』
「なんだと……。じゃあ、まさかあの“収集家”が……。雑誌に書かれてた占いは当たってたようだな。厄介な相手だがどんな理由にせよ僕の大切な人に手を出すのは、僕の邪魔をするのは許せない。気を引き締めてくぞ、トート」
『言われずとも。我もあの女には幾度となく妨害されている。今回ばかりは邪魔立てさせんぞ』
爪を噛み、不愉快そうに険しい笑みを作り怖い顔付きで語る針乘に、不機嫌そうに冷静に返すトート。
そのRPG染みたやり取りを見聞きし、黎果は混乱していた。何が起きたのか分からない上に、話も全く見えない。
いや、トートが出現というか召喚と言っていいと思うが、古代の神が召喚とかされた時点で既に現実がRPG化していたが。
ただ一つだけ、聞き覚えがある単語が出て来た。トートが古代エジプトの神なら先ほど出て来た単語は、素戔嗚尊が姉と呼んでいるなど女性神説が有力な、日本の最高神であり太陽の神である、あの“天照大神”のことではなかろうか。
「そう言えば妨害されたが、黎果の身に何が起きているのかくらいは分かったのか?」
針乘が訊くと、トートは妙に緊張感の漂う低い声で、徐に言い放った。
『一つ、そこの娘は呪われている。一つ、呪われている者はそこの娘だけではない。一つ、呪いはそこの娘の過去に関連している。それくらいだ』
「成るほど、先ずは過去を洗い出せばいいのねん。他に呪われている人間も分かれば、共通点もあるはずだしん」
針乘は平生の気色悪い口調で、だが妙にシリアスな顔でこともなげに告げた。
「黒幕は分かったんだ。奴は思い通りの物語を創り上げようとしてる。天照まで使って探りを無効にするってことは、呪ってる人間も完全じゃないはずよん」
『そうだろうな。だが容易なことではないぞ』
「わぁってますよん。あの収集家の野郎、人生がストーリーだとかふざけたことを宣う訳の分からん……そもそも僕は文学が苦手なんだ。人の一生が物語だと? ああ、考えたくもない。本当に一生が物語だったら僕、死んじゃうよ。それはどうでもいいとして、先ずは黎果たん自身に何か思い出して貰うのが手っ取り早いかしらん」
『そうなるな。いくら我でも天照が守っている手前、手出し出来ん。さて、我はそろそろ戻るぞ』
「はいよん。お疲れーん」
茫然と固まる黎果を置いて話は進み、終いにはトートはいなくなってしまう。
現れた時と同じ光に包まれ、トート神は一瞬にして消えてしまったのだ。そうなると、果たして今までのことが夢だったのか現実だったのか曖昧になって来る。当然とでも言うように先ほどまでいた存在は、今は当然のようにいない。何が当然なのかさえ分からなくなって来る。
「と、いうことで黎果たんには心当たりがないか、記憶を探って何か思い出して欲しいんだけど……混乱してるよねん?」
だがやはり当然のように話を続ける針乘に、現実なのだと改めて実感する。夢でも幻でもないとは分かっていたが、実感が湧かなかったのだ。
「……えっと……」
「うん、分かってる、大丈夫。当然の反応ですわよん。でも今は茫然としてる場合じゃないんだ。だから受け入れて欲しい。このままだと黎果たん、マジで殺されちゃうよ。それは黎果たん以上に僕が嫌だ。まあそれはいいんだけど、非現実的を現実として受け止めることも大事さ。世の中にはね、科学じゃ説明のつかないこともあるのよん」
諭すように言われ、黎果は深呼吸をする。
そうだ。どんなに非現実的で非科学的なことであれど、実際に今、黎果の身に何かが起きているのだ。幻覚で済ませるのはあまりにも愚昧すぎる。その呪いとやらは明らかに殺意を示しているのだ。夢だとか幻覚だとか暢気なことを言っていたら、殺されてしまう。
そこまで考え、今度は戸惑いながらも確りとした強い瞳で針乘の顔を見た。
「分かりました。えっとでも……今までの人生で殺したいと思われるほど怨みを買った覚えなどありません。少なくとも、今の私には……」
「人は十人十色、千差万別。世界には色々な人がいて、時にはえーって思うような考え方の人もいる。だから黎果たんにマジで覚えがないんなら、あれじゃないかしらん? 逆怨みってやつ」
「そんな……」
逆怨み。その単語を聞いて、絶望にも近い無念が沸き上がって来る。もし本当に逆怨みなら、勘弁して欲しい。逆怨みで殺されなければならないなんてあまりにも酷すぎる。
「それか、幼い時になんかしちゃったとか。それなら遠い記憶で覚えがないのも納得だし。僕だってまさか自分が子供の頃、父親が幼少時代を懐かしんで通販で買った爆竹を持ち出して蟻とか蜂の巣なんかを爆破させてたとんでもない子供だったなんて覚えがないじゃーん? ……なんだよその子供!? 爆竹で虫の巣爆破とか何を思ってやったんだよ何してんだよ!? 僕は一体、何者なのさ!?」
途中から何かスイッチが入ってしまったらしく叫ぶ針乘だが、黎果は固まっていた。
針乘の言葉に、記憶を手繰り寄せる。幼い時に、何かしていないか。幼い時に……。
『なんでいきているのがあなたなの?』
響く、言葉。突き刺さる胸の痛み。
そして、先ほど子供に会った時に感じたこと。黎果は小学校や近所にこのような子がいたのかと考えたが、記憶にはなかった。そう、軌鹿市から“引っ越してからの”記憶には。
幼い頃、親が黎果を連れて越して行った時の記憶は殆どないのだ。母が生きていた頃は幼稚園に行っていたのだと父には聞いていたのだが、もしかしたら……。
「…………」
無言で固まる黎果に、叫んでいた針乘が反応し、顔を覗き込んで来た。
「何か、心当たりがあったのん?」
ふざけた口調に真摯な眼差し。精神的な凌辱とさえ感じたその視線が、今はとても頼もしく見える。
「最近……悪夢を見るって話しましたよね……」
「うん」
「妙にリアルで……私、何も分からないのに罪悪感に苛まれていて……」
黎果は針乘に断片的な夢のことを詳しく話した。夢を見ると感じる胸の痛みや罪悪感のことも、簡潔に纏めた過去のことなどを順番に。
針乘が信用に足る人物かはまだ分からないが、実際にトートを見て、天照だとか聞いて、悠長に信用がどうのとか言っている場合ではないと判断したのだ。
「それ、多分ビンゴだよねん?」
針乘は何故だかにまっと笑った。相変わらずの気色悪さに黎果は多少、眉を顰める。
「取り敢えず、君のお父上にお話を聞いた方がいいかもよん。てかそうしよう決まり」
「それは……えっと……恐らく……無理、かと……」
黎果には珍しく、曖昧な返事をする。その深刻な表情は、針乘が今口にしたことの実行が容易なものでないことを示していた。
その様子をドヤ顔にも近い顔で尻目に見ていた針乘は、前屈みに黎果の顔を覗き込み、ぐにゃっと歪んだ苦笑とも取れそうな顔を作って尋ねる。
「何か、問題があるのん?」
命が掛かっている時に気にすべきではないと分かっていたが、黎果は出来れば父を裏切りたくないことを正直に話した。また、軌鹿市に行ったら勘当だとまで忠告されていることから、まともに取り合ってくれない可能性が高いことも。
「黎果たんの気持ちは分かったわん。まさか過去を話さないとあんたの娘が死ぬぞなんて言う訳にもいかないものねん。でも、大丈夫。僕に任せて」
にやりと、白い顔を歪ませて針乘は笑った。企むようなその表情に何か不穏なものを感じる。
一瞬非難の視線を向けた黎果だったが、直ぐに諦めたように溜息を吐いた。
「……黒雫さんに、任せる……」
黎果に拒否権はない。命が掛かっている、黎果には。
「そいえば」
満足気に頷いた針乘は“う”のない発音で、何か思い出したように天井を仰いだ。
「僕と君は友達だと認識してるけど、今まで堅苦しい敬語で寂しかったのよん? でもさ、なんか今日はやけにタメ口っぽく喋ってくれるよねん?」
言われて初めて気付いた事実に、黎果は暫しフリーズした後、カッと顔を紅潮させた。
「あっ……わ、私っ……」
「うふふふふぅん……こんな可愛い黎果たん見れるとか、ぶほほぉうぅ……マジ俺得だぜ、でゅふふふふっ……」
「……黒雫さん?」
口調が大変なことになり、鳥肌が立つようなドン引きの笑いを連発する針乘に、笑顔で鬼気を送る黎果。
「あ、はい、なんでもないですおすし」
目をパチクリさせ、笑顔で可愛く誤魔化す針乘だが、
「通じません。半径十メートル以内に近寄らないで下さい」
冷徹な眼差しを向けられ、きっぱりと切り捨てられていた。
「接近可能範囲、決められた!?」
針乘のどうでもいい一人コントも含め、色々あったが結局は針乘の企みに乗ることになってしまった。
彼らは彼らで大変なことがあるのだろうが、見上げた茜色の空を飛ぶ鴉の鳴き声が、今の黎果には酷く能天気なものに聞こえて仕方がなかった。