第一話 日常
『なんで?』
吹き荒ぶ風がヒュウヒュウと不気味な音を立てるだけの真っ暗な空間の中、問い掛ける声がする。酷く抑揚のないその声はしかし、確実に彼女を責めていた。
『どうして、あなたは、いきているの?』
尚も問い掛けて来るその声音は幼い子供のそのものだったが、見詰めて来る目は子供らしい無垢な瞳だったが、子供らしくない感情のない死んだ瞳でもあり、その奥に潜む芯は大人以上に大人で、強烈な違和感とうすら寒いものを覚える。
『ねえ』
幼い子供は、手を伸ばす。小さくて蒼白い、手を。
『なんで』
嫌。叫んだつもりが、声に出ない。目を見開いた悍ましい白い顔が、徐々に近付いて来る。
『いきているのが』
蒼白な顔に、相反する赤い液体が流れ出て行く。
『あなたなの?』
ドクン、と心臓が跳ねる。知らず分からないのに、何か沸き上がって来るものがある。手首と胸の奥にズキズキとした痛みが広がるが、それも分からない。全てが、分からない。
『ひとごろし』
その言葉に、引き裂かれるような痛みが胸に広がる。何も分からないのに、その重さが心に突き刺さる。
罪悪感――。
人殺しなんて、したことはない。あるはずもない。なのに感じる、罪悪感。まるで自分がこの子を殺して、にも関わらず自分だけのうのうと普通に生活しているような、いきなり自分が無罪判定の犯罪者だと知らされたかのような気分。怖くて泣きたくて苦しくて、押し潰されそうな心。
だが刹那、その感情は恐怖に塗り潰されることになる。
『あなたも、しんじゃえ』
酷く徐に、放たれた言葉。とても子供のものとは思えない、大人でも無理がある強い怨憎を感じ、あまりの鬼気に、狂気に、脅威に、恐怖に、硬直した体はぴくりとも動かせず、声も出せなかった。悲鳴さえ上げられぬ、恐怖。
不意にぐにゃりと、目の前の子供が崩れる。見る見る内に子供の姿は、筆舌に尽くし難い姿へと変貌していった。
四肢は千切れ、全身バラバラ。頭の一部は破裂し、一応人の形をしてはいるが、それは子供の粘土遊びのように崩れた人形のようでしかなかった。
破裂した頭からは脳漿と脳味噌が零れ、切断された胴体から臓腑が長々と伸び、その目を背けたくなる悲惨な姿でケラケラと笑っている。心を引き裂くような、壊れた笑い声。
そして、子供は最後に、決定的な台詞を――。
『ころしてやる』
落下して行くような感覚がした次の瞬間、体がビクンッと跳ね上がるように痙攣し、その少女は目を覚ました。
「はっ……はっ……」
激しく早鐘を打つ心臓と、中々落ち着かない呼吸。全身に嫌な冷や汗をかき、体は小刻みに震えていた。
(怖いっ……)
起き上がった少女は両手で顔を覆い、前のめりに上半身だけ布団に突っ伏した。
最悪な、悪夢。なんのことだか分からないのに、心はそれを知っている。自らを責める自らの心に、戸惑いを隠せなかった。
彼女は暫くそうしていたが、やがて少し落ち着いて来ると、目に溜まった涙を拭い、薄闇の中スマホで時間を確認する。
「支度、しなきゃ……」
心を鎮めようと殊更大きな声で呟き、学校へ行く準備を始め出した。
少女の名は、一淨黎果。
優等生だなんて実際に使ったりはしないであろうが、彼女はその呼び名が相応しい、真面目の上に糞がつくような人間だった。
電子書籍よりも紙の本が好きな彼女の部屋に設置してある本棚には、参考書やら難しそうなお堅い本などがところ狭しと並べられ、隅の方に少し趣味の小説が置かれている。部屋を見れば、彼女の勤勉さはよく分かった。
学校でも小中学校と学級委員長や生徒会役員を務め、中学三年の時には当然のように生徒会長。高校に入学し、一年の時は学級委員を務め、二年の現在は生徒会役員と学級委員長を兼任している。それは飽くまで建前で、実際は黎果が生徒会長のようなものだったのだが。
生徒会なんて仕事が多く面倒なため誰もやりたがらない上に、誰かを任命しても仕事をサボりがちになる。今の三年の生徒会長もそんな生徒であり、黎果が孤軍奮闘している状態だ。
お人好しとも言えるが、自身の中で“決して無駄にはならない”と答えを出していたためでもある。また、黎果が逃げたところで誰かがやらなければいけない。彼女はそれをちゃんと理解していた。
無論、そんな黎果の厳格さは学校だけではない。
先ず黎果の家庭環境は決して良好とは言えなかった。別に虐待だとか両親が不仲だとかそういった問題がある訳ではなく、寧ろ関係自体は良好だったが、単に黎果はいつも広い家に一人だったのだ。
彼女の父はいわゆるエリートで出張などは頻繁にあり、今現在は海外に出張中だ。母は、黎果がまだ幼い時に病気で亡くなったのだと聞かされていた。
男手一つで、女の子のことなど分からないことも多いだろうに、一生懸命育ててくれた父親。仕事では、皆のためにと無理してくれているだけであるのに、エリートの“なんでも出来る男”として先輩後輩、上司や部下たちから常に頼られ常に気を張り、疲れているであろうにたまの休日にはそんなことおくびにも出さずに構ってくれた、優しい男だった。
黎果はそんな父の言うことはなんでも聞くし、そんな父に少しでも自分は何をしてあげられるだろうといつも考えていた。
だから、父親のほとんどいない家でも彼女は律儀に規則を遵守する。
渡されているカードに振り込まれる生活費も、黎果は本当に必要最低限しか使わない。たまに欲しい本などがある時は、きちんと父に金額などもメールで連絡してから使い、細かく家計簿に記録しているのだから宛ら主婦のようだ。お金は毎月多過ぎるくらい振り込まれるので、生活費に使っているのに残高は上がる一方だった。
そんな彼女は、周りからこう呼ばれていた。
“規則の鎖”と――。
そんな彼女は今日もまた、誰もいない家に行ってきますと挨拶をして、学校へと向かうのだった。
「おっぱろぉーん!」
羅幕学院の校門前。黎果の目の前に奇異な挨拶をする奇妙な生き物がいた。阿呆にバカを重ねて軽忽をトッピングした、哀れで憐れな人物である。
朝一番に学校に登校した黎果は今、黎果より少し遅れて到着した生徒会役員たちと共に朝の挨拶運動をしていた。
凛とした立ち姿に、きりっとした挨拶。大きな声を出しているが張り上げただけの不快なものではなく、よく通る澄んだ声音。ただ挨拶運動をしているだけであるのに、その姿は妙に格好よく見えた。無表情で凛々しい顔立ちが美人と言えるものであることも関係しているであろう。
今目の前にいる人物が、一瞬にしてそれを台なしにしてしまったのだが。
「あれあれぇ? 僕には挨拶してくれないんですかぁ? 実質的な生徒会長ぉー」
見てくれだけはショートヘアが妙に似合う可愛らしい少女であるそいつは、そう言って黎果の顔を覗き込んでいる。
「……黒雫さん、お早うございます」
絶対零度の視線を向けながら思わず静止してしまった黎果は、溜め息混じりに挨拶を返した。
毎度のことながら、少女の逸脱した格好には驚かされる。
先ず、少女はワイシャツを着ていない。着ているのは、金ボタンの付いたシャドーストライプ柄のパーカーだ。フードを被っているが、フードに分厚い猫耳が付いており、正直バカっぽい。そして下にはスカートではなく、男子制服のパンツ。そのパンツを留めているベルトも白色の派手なもので、両耳たぶにはダイヤカットのピアス。一見して、不良と言えた。
と言うより、どうやら頭の中が常にイベント状態らしい。世界の平和のためにも精神科に連れて行った方がいいような気がする。
「あらん、僕のことは愛を込めて“はりのん”って呼んでって言ったじゃん黎たん!」
「遠慮しておきます」
片足を上げ、両手を曲げてWの形にしたふざけた仕草で上目遣いに言ってくる少女を無表情にあしらう黎果。
この奇怪な未確認生命体にも名前が付けられており、黒雫針乘といった。
あしらわれた針乘は別段気にした様子もなく、目を細めチェシャ猫のような嫌な笑みを形作る。
「なんだかいつも僕に冷たいけどつれないけど、これが一時期流行ったツンデレというやつだとは分かっているけどもう少し僕に対して素直に接して欲しいというか、もっともっと愛情を向けて貰っても構わないんだよ?」
これだけ聞くと頭がおかしい人と思われるだろうが、全く以て正解だ。この少女は頭がおかしい、可哀想な奴だった。普通にストーカー臭がする。
「黒雫さん、昼休みに生徒会室まで来て下さい」
針乘のナルシ発言というか勘違い発言というか、本気で言っているのか冗談で言っているのか分からない吐き散らしを一々相手にしていたら晩年を迎えそうなので、全て無視して表情もなく告げる。針乘と同じ気にしない部類でもなければ、黎果だからこそ出来る芸当かも知れない。
「あれ無視されたような? 僕のプリチィなフェイスに加え折角萌える格好もしていて、漫画やアニメ化してれば破壊力抜群なのに悲しいわん……。絶対にギャルゲーの結婚候補タイプなのになぁ」
「貴女は一度、現実と妄想の区別をつけましょう」
「照れているのねん。分かった、触れないでおいてあげましょおー! てか生徒会室ってなんで?」
小首を傾げて可愛らしく――しているつもりが、頭をカクッと傾けたホラーな図になってしまっている針乘の問いに、黎果は答える。
「反省文の提出をお願いします」
「えぇえええ!? そんな漫画みたいなぁああ!? この学校にそんな規則あったっけ!?」
「ありません」
「ねえのかよ!!」
黎果は相変わらず無表情を保ったまま、針乘の渾身の突っ込みもものともせず、こともなげに言い放つ。
「貴女だけです」
「……ほぇ?」
「貴女だけ、“特別に”反省文の提出をお願いします。それこそ原稿用紙二十枚ほど」
「…………え、なんて言ったの? 特別とか素敵な響きの言葉なのに不穏な空気が漂って聞こえるけど、もしかして他の生徒にはなくて僕にだけあるのカナ? しかも膨大な量? わぁー、すっごい嬉しくない!」
「嬉しくなくて結構です。罰ですから。昼休みが終わるまでに提出すること。提出が出来なければ、そうですね……毎日遅刻、いえ欠席ということにしましょうか?」
「ストップ、ストップ!! それ単位、全部落とすから!! てか行き過ぎなような!? ちょっと酷くないかい!?」
「安心して下さい、貴女の格好に勝る行き過ぎなどこの世には存在しません」
「この世とまで言っちゃった!? 世界規模!? 日本だけじゃなくて!?」
突っ込みしか脳のないつまらない針乘とこのまま無駄に話していたら文字数が幾ら増えるか分からないため、黎果はそろそろ締め括ることにした。
「ん? 上のところでメタ発言してない?」
「兎に角、反省文はちゃんと提出して下さいね。異装に私服にピアスに髪染め。他にも多くの校則違反を犯しています。これ以上、野放しにすることは出来ません。他の方は何も言わなくとも、私は見逃しませんよ。反省文が無理なら今言った校則違反を全て正すことです」
「んなバカな!? ……あらん、でもそれは僕を見捨てないでくれているって受け取れるわねん? アタシも愛しているわよぉん、嬉しいワ」
凛々しい表情でビシッと人差し指を突き付けて指摘する黎果に、痛い僕っ娘は頬を染めて眉を下げ、くねくねと体を気味悪くくねらせながら上目遣いに黎果を見上げる。ホラーだった。
「……校則に、嫌悪感を与える言葉遣いや仕草をしてはならない、を追加出来るか生徒会で議論してみます」
「嫌悪感って言った!? てか偏見!?」
「ええ、貴女に対してだけの特別な偏見です」
「更に酷い!? 個人差別!? 何それ全然嬉しくない! てか偏見って言っちゃったよ!!」
「それより、もうチャイムが鳴りますが」
ギャーギャーうるさい針乘に澄ました顔で言いながら、ガラガラと門を閉める黎果。いつの間にか、残っているのは針乘だけになっていたのだ。
これ以降の登校は遅刻と見做され、学校が運営している時間は常に開放してある裏門から入って貰うのである。
こんな調子で、それまでに正門を越えなければ遅刻となる時刻まで残って挨拶運動を実施する生徒会役員たちは、いつもギリギリで授業に間に合わせる。故に事前準備は怠らないのだ。挨拶運動を始める前に一時間目の授業の準備をしておかないと、忙しない思いをして準備したり、周りから遅れたりする。これも生徒たちが生徒会をやりたがらない理由の一つだ。
「やばばばばんっ!? 僕、平常点ヤバいんだよ遅刻はアリエェーンティ!!」
「有り得るならいいんじゃないでしょうか」
「違う!? 有り得ない! 有り得ないだから!!」
単位が取れる条件は、テスト点数と平常点数というものがある。テストが赤点なら単位に響き、平常点というのは日頃の態度である。遅刻はないか、授業態度が悪くないか、常日頃の言葉遣いが悪くないか、提出物の期限を守っているか、などなど様々なことで平常点数は上がったり下がったりする。それが一定ラインまで下がれば当然ながら単位を落とす。針乘はそれら全てが絶望的であった。テストの点数以外は。片や黎果は、テスト点数から平常点から何もかも完璧である。
「そうですか。因みに貴女のクラスは“体育”ですよ。私は現国なので教室ですし、“時間の掛かる着替え”という作業も必要ありませんから間に合いますけど。そう言えば着替えをせずに行くと“平常点”が下がりますよね」
「嫌味!? なんか刺々しいよ、黎果ちゃん!? 何か悩みでもあるのん? 例えば、本当は好きなのに僕に対して素直になれなくて辛いとか」
「では失礼します」
「あっさりスルーされた!?」
叫ぶ針乘を完全スルーしてスタスタと校舎に入って行く黎果。彼女が教室で席についたのと、針乘が体育館の一歩手前でずっこけたのと、始業のチャイムが鳴ったのは同時だった。
六時間目も終わり、部活には入っていないが放課後に生徒会の活動があるため、黎果は残って仕事をしていた。
下駄箱の近くにある丸いスペースの前を通った時、壁沿いに囲う椅子に呆然と腰掛けている針乘を見掛ける。黎果はそんなアンニュイな針乘の前を、そのまま普通に通り過ぎた。
「あのさぁ!!」
通り過ぎたら叫ばれた。
「なんでしょう、ナルシさん」
「名前!?」
「それでご用件は?」
「うんまあ、僕は優しくだいらかな女だからね。名前のことは置いといてあげよう」
「だいらか?」
「それでなんだけどね、僕がこんな風にしょんぼりと元気なくいるのに、こんな普っ通な顔してスタスタスタって酷くないかい? もうちょっとね? もうちょっとこう、なかったのかな? 例えば大丈夫、黒雫さん何かあったのとかさ」
「ダイジョウブデスカ、クロダサン。ナニカアッタノデスカ?」
「あからさまな棒読みやめれ! 虚しいから! 凄い虚しいから!!」
「では、失礼します」
その場を去ろうとした黎果の前に神速と言える速さで立ち塞がる針乘。彼女はいつものチェシャ猫のような笑顔に怒りと苛立ちを乗せた邪悪な表情で語った。
「待て待て待て聞いてよ! 僕、あれから結局、体育の単位落としちゃったんだよ!! 体育館の前で! 一歩手前で! ずっこけてしまったんだよなんと! それと同時にチャイムが鳴ってさ? それがなければ間に合っていたのに、たったの一歩なのに、それくらい見逃してくれてもいいと思うのようん。しかもそのあとあの体育教師はね、この僕に! 皆の前で公然と説教を始めたのだよ説教を! それだけならまだしも、なんとそのあとあのチビマッチョは僕に何をさせたと思う? この“針刻のチェシャ猫”に、世にも稀な美少女に、何をさせたと思う? 僕だけステージの上で授業!! つまり僕は女子だけでなく男子もいる中、薄い体操服姿でストレッチとかをみんなに個人披露したようなものであり、こんなことを言うのはあれだけど、僕も歴とした年頃の娘であるのに奴はあろうことかステージ披露とかどんなイジメだよ。公開処刑か? 僕は道化をお披露目する芸人じゃないんだよ。というかセクハラだ体罰だ覚えていろあの野郎、僕が契約したパトロンを使って恐怖と苦痛と恥辱を与えて復讐してやるから黎果たんも協力してくれ!」
「それはよかったですね」
「よくない!? 話、聞いてる!?」
相当腹が立ったのだろう、こんなに長々と息吐く間もなく恨み言を吐き散らす針乘は少し珍しいかも知れない。普段から口数が多い人物だが、今日は更に多かった。
今回はその発言に色々と突っ込みどころはあれど、針乘も同じ年頃の女の子として分からなくもないことを言っているのだが、黎果の耳には入っていなかった。
体育教師はそういう人間で、単位を落とすほどに平常点を下げられる行為を日頃から行っていたのは針乘だ。偏見かも知れないが、奇人変人と呼ばれる部類に入る針乘は、そこまで精神的に傷付いていたようには見えない。見えないだけかも知れないが、針乘のような人種はどんな真面目な人物であろうと大概は話を聞き流されて終わりになる。そしてその後の本人と言えば全く気にしていないのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだろう。
(そう言えば、あれもやっておかないと……)
「いや、ちょ――」
何か言い掛けた針乘を無視して、思考の海に浸かりながら歩き出した。
あれだけ延々と長い長い台詞を吐き散らされて顔色一つ変えず、苦笑する優しさも迷惑そうな顔をする態度すらも示さずにスルー出来るところは、凄技と称してもいいとさえ思える。
――だが。だが、それ以上に。自然に不自然だ。
冷たいと言われる、いつものスタイル。これが一淨黎果だった。
……正しくは、“一淨黎果のイメージ”だった。
彼女はクールで無表情。黒真面目と言われるほど真面目で、規則を重んじる性格。厳しい父親に育てられ、幼い頃から人に使われる人間ではなく人を使う人間になれと言われて来た。規則を重んじて育ち、規則を作る人間になれと。常に正しき人間でいろと。
だから彼女は正しくあり続けた。針乘に対するあしらいのような個性はあれど、いつも正しいことを言って、自分にも誰にでも厳しくして来た。
廊下は走ってはならない。
授業中は私語を慎む。
制服はきっちりと着る。
そんな正しく当たり前だが、学生にとってはなんだよそんなことくらい、一々ウザいんだよと思われるようなことを、言って来て、して来た。時には教師さえ指摘する。教師も立場上、正しいことを言っている生徒に反論出来ず、言うことを聞く。
故に彼女は嫌われ者だった。
「アイツ、ウザくね?」
「マジ消えろ」
「規則が全てかよ」
「まるでロボットだな」
「一々、細かいんだよ」
「いつもそんな窮屈に生活してんの?」
心ない言葉の数々。それでも負けなかった。深く傷付いたことの、何度もあった。でも正しいことを言って正しいことをしていれば必ず報われる時が来ると、今は苦しくともいつか光は見えると、信じて彼女は彼女であり続けた。悲しみも隠して、疲れていてもおくびにも出さず、涙は孤独に流して怒りは内に抑え、生きて来た。
……しかし。一淨黎果は規則が全ての冷徹女――いつの間にかそんなイメージが出来上がっていた。
不当だった。そんなことはない、と思った。けれど彼女は何も言わない。そう思わせておけばいいと、自分は正しい言動をしているのだから、と。そうやって、全てを抱え込んで……。
「…………」
生徒会室に移動するため廊下を歩きながら、彼女はぼーっと、不覚にも表情を曇らせていた。
「黎果たーん?」
しかも気付かせてくれたのは針乘だった。どうやらあれだけ盛大に無視されたにも関わらず、黎果の後ろを付いて来ていたようだ。考えても仕方ない考えごとをしてしまっていたせいだろう、気付かなかった。
しまった、見られた、と後悔する。だが、まだそのくらいならば然して問題はない。黎果は直ぐに無表情に戻ると、
「なんでしょう? 付いて来ないで下さい」
と相変わらず軽くあしらうのだった。
「えぇー? 僕が何処へ行こうと僕の勝手でしょう黎たん?」
「では、お先にどうぞ」
「ノンノン! 僕は黎たんとのコミュイクィションがとりたいんだけどねん?」
「コミュニケーションですね、発音を練習した方がいいです。それと私は生徒会の仕事の最中ですので、黒雫さんの都合は関係ないです。邪魔しないで下さい」
「邪魔とは失礼なっ! 僕は文武両道、容姿端麗、才色兼備なんだよ? そんな僕を邪険にして罰が当たるよ」
確かに間違ってはいない。この女は奇人ではあれど頭脳明晰で、成績はどの教科も“国語以外は”毎回必ずトップ十位以内には入っているし、スポーツだけでなく武道にも長けている。容姿端麗も間違ってはいない。才色兼備も、容姿を誉める言葉が二つも入っているのが気になるところではあるが、針乘は当然のようにその両方を合わせ持っていた。
「そんな理不尽な罰を与える癲狂な神様が何処の世界にいるんですか」
「癲狂って言った!?」
「癲狂な人には関わりたくありませんので……」
「また言った!?」
冷たい言葉に対して律儀に返す針乘に、黎果は少しだけ感心すら覚えた。律儀に返すと言うより、つまらない突っ込みしかしないだけか。毎度毎度、疲れないのだろうか。大変そうである。
しかし本人には言えないが針乘は突っ込み以外に取り得はないので、致し方なしといったところか。
「まぁ……本人には言えませんが黒雫さんは突っ込み以外に取り得がないので、致し方なしといったところでしょう」
「突っ込み以外の存在理由を否定された!?」
「あ、口に出てました……すみません」
「ガチで申し訳なさそうに言うのやめて!? より本音臭がするから!」
「というか容姿端麗とか才色兼備とか自分で言います?」
「そこが茶目っ気って言って可愛いところじゃないのん? 自分で言っちゃったテヘッ! 可愛いー! みたいな!」
分かっていたが言っても無駄だった。
「そうですか、よかったですね」
冷めた口調で適当に答え、歩みは止めない。
黎果も黎果でかなりの美人で文武両道であるため、周囲からは基本的に嫌われているのだが、唯一、精神の幼い男子連中からは騒がれている。
だがあまり自分の容姿に関して自覚がないため、男子に対して大体の異性に興味を持ってしまう時期なのだという認識しかなかった。
同時に針乘に対する嫉妬すらもない。自分の容姿に自覚もないのに、容姿はいいと認識している針乘に対する嫉妬の気持ちも抱かないということは、つまり執着がなかった。
そんな黎果には分からなかった。可愛い女の子に難癖つけて、アイツ調子こいてるからハブるとか言い出す女子や、格好いい人を見てイケメンは死ねだとか嘆く男子の心理も。容姿とかそういったものなど、二の次ですらない。身嗜みは気にしなければならないが、千差万別な顔立ちなど気にする必要性があろうかと。元から色恋沙汰などもっての他であったのもあり、余計だった。
愛に幼く、
恋に無縁。
ただ、そんな黎果でも唯一、いた。出来てしまった。
一目見て、全てを奪われた人間が。
一瞬だけで、全てを奪える人間が。
「黎果たーん」
無視しても尚も話し掛けて来る針乘。黎果は立ち止まり溜息を吐いて、そんな変人に向き直った。
「なんなんですか?」
「いや? 様子がおかしかったからさ?」
「え?」
「さっき」
不意を突かれた。
どんな人間でも、よほど異常な精神か心理でもなければ、不意を突かれて少しも表情に出ない者はない。黎果は無表情の中に確りと、驚きの色を浮かび上がらせてしまっていた。
見抜いていたのだ。針乘は、変人で阿呆で何かあってもヘラヘラ笑って流すと思っていた針乘は、黎果の微々たる変化に気付き、話し掛けていた。
「……少し、考えごとをしていただけですよ」
ほんの少し、僅かな間が出来たが、直ぐにそう答える。視線を逸らしてしまったのは失敗だった。
だが詮索される謂われはない。友達でもない針乘には関係のないことだ。
「黎果」
呼び捨てにされ、固まる。更なる不意打ち。振り向くと真剣な、深刻な、今まで見たことがないほど真面目な顔付きで黎果を見詰める針乘がいた。
無表情であるくせに、妙に威圧感を、畏怖を覚える視線。その瞳はただ一点を、黎果の目だけを見詰めていた。
一見、虚空を映しているように見えるが、相手に簡単には目を逸らさせない気魄を湛え、黎果はなんだか侵してはならない領域を、誰にも許したことのない自分の内側を、無遠慮に不法侵入されているような気持ちになった。精神的な陵辱、とも言えるほどの強い瞳。
嫌な視線。耐えられない。なのに黎果は硬直したまま動けなかった。逸らしたいのに、視線が逸らせない。
「黎果はさ――」
「でしょお!? 超ー有り得ないよね!?」
針乘が言い掛けたところで、年相応の、女子高生らしい大きな声がその続きを遮った。
二人が声のする方を見遣ると、複数の女子が階段から降りて来ているところで、無駄にデカい声でトーク中であった。先ほどまで静かだった廊下は、針乘が煩いせいで静かとは言えなかったかも知れないが、それでもそこまで煩くなかった廊下は、女子たちが屯して話し始めたせいで一気に騒がしくなった。
「あらん、厄介ねん。場所移そかー?」
さっき雰囲気がガラリと変わった針乘はいつもの調子に戻っており、チェシャ猫のような質の悪い笑顔に多少迷惑そうな色を覗かせ、さらさらのショートヘアを右手で撫でながらそう言った。
確かに黎果だってこんな煩いところはとっとと去りたかったが、針乘とのんびり話などしている場合ではない。先ほどの雰囲気に気圧されてしまったが、黎果は今、生徒会の仕事の真っ最中なのだ。
油断するとあの視線や雰囲気をまた向けられそうで、どう断ろうか逃げてしまおうか黎果が考えていると、耳に入る。少し遠くで屯していて、黎果や針乘の存在に気付いてはいない、女子連中の会話が。
「ないわー、マジ。一淨ってそうゆうとこあるよね!」
聞こえて来た名前に、反応する。針乘はきょとんとした顔を女子連中に向けていた。黎果は無表情は無表情でも先ほどより冷めた無表情になり、瞳から色が消えて行く。
――言わせておけばいい。そう思い、全てを耐え抑え込んでしまう哀愁がそこにはあった。
「この前なんかさ、プリント持ってったら提出物の期限は今日の昼休みまでとか言い出しやがってさ! 私、ちゃんと持って行ったのに未提出ってことにされて平常点下げられたかんね!? ぶっ殺すぞ」
「アタシもさぁ、五千回も書かなきゃいけない英語の課題のやつ一個足りないとか言いやがってさ! その場で書き足したのに駄目とか融通利かなさ過ぎ! 誰だってそれくらいの間違いはあるじゃん! 最悪だよね、アイツ! 先公もアイツの言うこと聞き過ぎ。マジ死ねよ」
「うわ……調子乗りすぎだろ、あの女。キモッ」
身勝手で自分勝手で、だが学生らしい、そんな意見。意見と言うより、批判が正しい気がするが。
最初の子の場合、教師に予めプリント提出の期限は伝えられていた。その日の昼休みまでに持って来なかった人は未提出になりますよ、と。未提出の人だけ特別な課題を出します、と。それを彼女は、やってあったが昼休みまでに持って行くのを忘れていたからいいだろうと抗議をしていただけである。抗議に折れ掛けた教師に黎果が意見し、結局、課題地獄に陥った悪因悪果の逆恨みだ。
次の子の意見も、確かに人には誰しもミスをしてしまうということはあるだろう。ただ、それに対し融通を利かせてくれる人が単に優しいのであり、それをミスした側が声を大にして求めるのは間違っている。
社会に出れば、仕事でこれと言われれば“これ”でしか有り得ず、これより少しでも違ったというだけで重大に取られることもある。忘れていただけだからいいだろう、その場で書き足したからいいだろう、なんて言い訳でしかない。彼女たちはそれに対し、我が儘を主張している子供であった。
「勉強も運動も出来るからって人のこと見下してんじゃね?」
「バカ男子共に騒がれて勘違いしてんのもあるよね! 顔いいっつーか、能面女なだけじゃん」
「つーかさ! アイツ絶対、先公に色目使ってるよね!?」
「分かる分かる! 先公もアイツに対して妙に弱いもんね。体でも売ってんじゃねー?」
「キンモッ! ガチで死ねばいいのに」
「調子こいてんじゃねえよ、糞ビッチ! 殺すぞ」
いつものことだった。こういうことを言う女子が大半を占めている。男子は騒いでいる一部の幼稚男子以外は、真面目すぎてウザいというストレートな意見であることが多い。だが女子は違う。ネチネチと難癖つけて、粗探しして、悪意をぶつけて来る。
しかしそれが女であるとも言えるし、学生であるとも言える。
何かあれば直ぐに“死ね”、“殺す”。若気の至りで許されるレベルなのかは分からないが、若者は当たり前かのように物騒な言葉を平気で使う。
黎果は何も言わず、彫刻のように美しいが動かない無機的な表情で踵を返し、今度こそ生徒会の仕事に戻ろうとしていた。
「おい」
だがその声に、振り返る。聞き覚えがあり、聞き覚えのない声。
見ると針乘がスタスタと女子連中の近くまで歩いて行っており、女子連中は怪訝な顔をしていた。
「ちょっ――」
「君らさ、何言ってるの?」
引き留めようと声を発し掛けたが、遮られる。
間違いなく針乘が発した声であり、だがそれは普段のおちゃらけたそれではなく、刺突するような鋭い声音であった。
……まるで、針の切っ先が突き刺さるような、大したことないようでいて甘くない痛みを持つ、そんな鋭利さ。
「は? 何が?」
屯している女子の中の一人、金に近い髪色に染めているピアスを大量につけた人物があからさまに刺のある鋭い口調で聞き返す。
「いきなり来てなんなの? ウザいんですけど」
するともう一人の、アッシュ系カラーの髪色をしたブレスレットを何連にもつけている女子も追い討ちを掛けた。
どうやらバカには針乘の雰囲気が伝わらないらしい。
弱そうなオッサンを見掛けた若いヤンキー連中が、ただのオッサンだと思って恐喝しようとしたら実はその男がヤクザで大変なことになった、ということは本当にあるものだ。それはそういうヤンキー連中がバカで鈍感だったからである。この女子達も同じだった。針乘が持つ“狂気”に、まるで気付いていない。
「へぇ……」
針乘がドヤ顔で、女子連中を見る。そうか分かった、ならば仕方ない、とでも言いたそうな雰囲気だった。
彼女は左手だけ袖の指穴から親指を抜き、右手を左手の甲に添えるようにして袖を捲ろうとした――その時だった。
「針乘の言う通りだな」
今度は別の、ややハスキーで低めだが女性と分かる格好いい声が、黎果や針乘のいるのとは逆の廊下から飛んで来る。
「あ……っ」
針乘は何をしようとしていたのか。そのただならぬ空気に圧倒されていた黎果だったが、その声を聞いた途端、彼女の心臓は跳ね上がる。
「あらん、彪先輩じゃないですかん!」
そんな黎果とは真逆に、ついさっきまで妖しげな雰囲気を放っていた針乘は、けろっとした顔でその人物を受け入れる。
短めのアシメに整えられた黒い髪に、凛々しい切れ長の目。それこそ素行の悪い男子連中も教師でさえ震え上がらせるくらいには目付きが悪いとも言えたが、何故か女子人気が高い、この学校では有名な人物だ。
その格好いい女子は、二人に一度優しい笑顔を向けてから、女子連中に厳しい視線を送る。
「お前らさ、そうやって自分たちのこと棚に上げて人のことばっかり言って、恥ずかしくないか? 人のこと言う前に自分はどうなんだよ。お前ら、そんなに偉いの? ただの妬みだろ。しかも殆どお前らが勝手に言ってることだし。教師に色目だとか、体売るとかさ。どっからその発想に辿り着く訳? ウザいだのキモいだの言ってるみたいだが、そういうこと言ってるお前らが一番ウザいしキモいよ」
相手が何か反論する前に、有無も言わさない迫力でズバズバと容赦のない言葉のマシンガンをぶつける、イケメン女子。
彼女は炬彪。黎果や針乘の先輩、つまり三年生で、スポーツ万能。陸上部だとかではないが足が速く体力もあり、持久走や体育祭の時など、男子もそうだが主に女子から黄色い歓声を上げられていた。
名前の字面が格好いいことからも、“疾風の炬彪”などと中二的な異名で呼ばれることもしばしば。実はその呼び名を広めたのは針乘という極秘情報が隠れているが、いつの間にやら“豹(彪)”のイメージがつけられていた。イコールで、“しなやかな筋肉を持つイケメン女子”なのである。或る意味被害者とも言えたが、本人は特に気にしていない。
「……」
彪の正論に、女子連中は何も言えずに黙った。
彼女らは見た目通り不良と呼ばれる人種に入り、だがこの学校に入れるくらい勉強は出来るという質の悪い部類だ。
怖い者知らずで厄介な今時の若者なだけあって、相手の老若男女問わず基本的にはちょっと注意されたり怒られたりしたくらいでは退かない。例え自分たちが間違っていたとしてもそんなことは関係なく、酷い時は間違っていると分かっていて生意気に反論して来る。そして関係ない話題に発展させて、人をバカにしたりする。その極めて残虐な言葉の暴力により、深く傷付いた人間の数は計り知れない。実際に三年の太い眉毛が特徴的な男子が「つーかさ、あんた眉太くてキモいよ?」などとバカにされて傷付いたという話もある。
しかし相手が彪となると、まるで蛇に遭遇した蛙の如く大人しくなるのだ。今の彼女たちの図は、まるで虎を前にした鼠のようであった。
その理由は極めて単純で、この彪という女は人脈が幅広い。老若男女関係なく知人や友人が多いのだ。真面目な人間が大半だが、不良は不良でも彼女らのようにおかしい言動をしない部類の連中とも仲良くしており、そういった不良連中は彼女らのような人種を嫌っている。その少年少女らに加え、各OBやOGらの数は百人は軽く越えると言われており、目を付けられたら堪ったものではない。
しかも人徳というか、彪は何故か上の方の人間に好かれる傾向にあり、大人の知り合いというと何処ぞの社長だとか、何億売り上げた実業家だとか、そういった人間も割りといる。それは単純に偶然であったが。
例えば金持ちが行く個人料理店の店主と知り合いで、特別にバイトさせて貰っていたら対応が気に入られ、更に店主と仲がいいということでよくして貰っているだけだったり。たまたま出逢って共通の知人がいて、その関係で仲良くなっているというのが多い。そんな、友達といて自然に新たな友達が出来るような感覚。
そしてそういった人間はやはり人脈が広く、顔が利くのだ。
自分たちが間違ったことをしている手前、彪が言わなくとも万が一話が漏れれば誰に知れるか分かったものではなく、もしかしたら自分のバイト先の店長と知り合いだったら、進学する学校の関係者だったら、など懸念はいくらでもある。これから進学や就職する時に悪印象を与えるのは勘弁という話で、もしかしたら暮らして行くのにも不利があるかも知れない。
実際、彪の知り合いの社長が彼女らのような人間の話をたまたま聞いていて、人間性を重視して面接で落とされたとか、進学する大学の関係者が知り合いで気まずい思いをしたなんて話は彼女らもよく耳にしていた。
おかしいと、間違ったことをしていると知っている人間を取るくらいなら、別の人間を取る。それだけのことである。
だから、女子連中は黙った。自分が一番可愛い彼女らは、自分可愛さに黙った。
「分かったら人の悪口は控えろ。お前らが勝手に愚痴る分には私たちには関係ねえけど、根も葉もないことで人をバカにするのは許せない」
悔しげに縮こまる女子連中を睨みながらそれだけ吐き捨てると、彪はやや男らしい動きで黎果たちのところへ歩いて来た。
「黎果。気にすることねえからな?」
そして連中に呆れたように小さく笑いながら、黎果の小さな頭を優しく撫でる。イケメンだった。
「あ、あのっ……有難う、ございます……」
黎果は頬を紅潮させ、いつもの無表情の中に少し動揺の色を覗かせながら、お礼を口にする。
その手の感触が心地好く、嬉しく、胸が締め付けられるような言葉に出来ない熱が全身に広がって行く。
「タイマツ先輩! 格好いい! キャー、付き合ってー!」
そんな黎果をニヤニヤと横目に、針乘はわざとらしく両手を口元に当てて前屈みになった姿勢で、彪のファンの女子たちがいつも上げている黄色い声音をバカにした口調で真似ていた。
真似ているのは黄色い声だけであり、こんな漫画のような台詞ではないし、それは彪のファンの女子たちを小バカにしているからなのだが、わざとカガリをタイマツと言っている。
「こら」
そんな針乘の額を、少し笑いながら右手で小突く彪。彼女は後輩に寛大な人でもあった。
「というかタイマツ言うな!」
「そうですよねん、タイマツじゃなくて焔が合ってますよねん先輩はー」
くねくねと体を揺らす気色悪い針乘にも、豪快な笑顔を見せる彪。
そんな中、黎果は赤面したままじっと彪のことを見詰めていた。
彼女の整ったポニーテールは、未だ彪の左手の中で心地好さげにさらさらと揺れている。煩わしいと感じるくらいに、心臓が早鐘を打っていた。
早く生徒会の仕事を終わらせなければならないことは忘れてはいない。けれど、惜しい。この時間が。彪に優しく髪を撫でて貰っている、この切なくも愛おしい時間が……。
「というかさ、黎果。お前、生徒会の仕事だったんじゃないか? 悪いな、引き留めて」
「あ、いえっ。大丈夫です」
パッと彪に髪を離されたことに一抹の寂しさを感じながらも、黎果は曖昧に微笑し、首を横に振る。
「寧ろ、感謝の気持ちで一杯です」
確かに、自分のことで怒ってくれている彪を置いて生徒会の仕事に戻るなんて黎果の性格ではしないし出来ない。結果的にそれは、黎果を引き留めてしまったことになっているだろう。だが黎果には、生徒会の仕事よりも彪が重要だった。だから全然構わなかった。寧ろ嬉しかったのだから。
やるべきことよりも、私情を優先してしまっていた。糞がつくほど真面目と言われる、黎果が。
だがそれは端から見て、庇ってくれた先輩に対する健全な態度としか言えないだろうから、別段問題はなかった。それでも、心に負けた事実が消える訳ではないが。
「そうか? でも時間食っちゃったよな……。よし! 私も手伝うぞ!」
「え……っ!?」
彪の言葉に、黎果の心臓は跳ね上がる。願ってもない、嬉しいことだ。
だが真面目な黎果はここで、いいんですか有難うございますと答えるのもどうかと思ってしまった。それに“規則の鎖”という異名を持つ彼女には、それ以外にも断らなければいけない理由があった。
「そ、そんな……そんなの悪いですよ。それに……これは生徒会の仕事ですから。彪先輩は生徒会役員ではないので……そんなの……規則違反です」
首を力なく横に振りながら視線を逸らし、俯き気味になる黎果。
そんな彼女を見て、微笑を崩さない彪はしかし、その微笑みは寂しげなものになっていた。後輩のこういうところが、寂しいと同時に心配な彪。
「いいんじゃーん? 別にぃー」
刹那、間延びした声がその意見を否定する。ここで何故か、針乘まで同意して来たのだ。
「……はい?」
「こういう時はさ、規則とか忘れてもいいんじゃないのんって! だーって社会に出たってさぁ、そこ担当とかじゃないけどたまたま手伝ってくれるっていうのを無下に断るのもどうかと思うのよねん僕は。まぁ資格がないと出来ないって仕事をだったりしたら駄目なのは分かるけどさー。高が生徒会の仕事でしょ? 誰がやっても変わんないじゃないのん?」
口調はいつものように気持ち悪いが、何故か熱心に説得して来る針乘。その際、黎果を見ているが時たまちらりと、思わせ振りに彪の方を見遣る。
「で、でも……」
「僕もお手伝いしたいし、とゆうか最初に引き留めちゃったの僕だし。先生とかになんか言われたら、僕たちが無理矢理付いて来たって言うからさー。ね、先輩?」
そう言って、いつものチェシャ猫のようなニタニタとした嫌らしい種類のものではなく、茶目っ気のある可愛らしい笑みを浮かべてウインクする針乘。
(あ、れ? なんか私……黒雫さんのこと誤解してた……?)
黎果は、戸惑う。
針乘は奇人変人と呼ばれる部類の、連なる一人だ。奇抜で珍奇で、誰が見ても普通とは言わないだろう。この子変わってるな、というのは誰もが共感出来るであろう人物だ。それは揺るがない事実であろう。
だが、違った。飄々としてちゃらんぽらんと生きてこういったことに気を使うタイプではないと思っていたが、今の対応は明らかに黎果や彪に対し気を利かせていた。確かに奇人変人ではあれど、だからと言って常にちゃらんぽらんと生きている訳ではない。今までの認識は間違っていたのだ。
「そうか……そうだな! よし。そうと決まれば生徒会室、行こうぜ!」
嬉しそうに同意し、先頭切って張り切って歩く彪。
「イェーイ、レッツゴー!」
「あの……」
その後ろに、彪に同じく張り切って続こうとした針乘に、赤面したままの黎果は声を掛ける。
「なんだい、告白かなん? うふふふん、それは照れるなー。勿論、返事はオーケーだよ?」
「じょ、冗談じゃないっ!!」
「え、なんか論外みたいに叫ばれた。酷い振られ方した」
思わず叫んでしまった黎果は、はっとして申し訳なさそうに視線を横に逸らし、
「……有難う……黒雫さん」
そうポツリと呟いたのだった。
漫画なら間違いなく美しいキラキラトーンが貼られた感動シーンになるであろうその場面で、針乘は真面目な顔をして言葉を紡ぐ。
「何それめっちゃ萌える興奮した。ツンデレ最高。今度ホテル行かない?」
……数秒の時が流れる。黎果の後ろに阿修羅が見えるような気がするが、気の所為であろう。
「……黒雫さんは明日、反省文を五十枚提出に加え、生徒会室への立ち入りは永遠に禁止です」
「嘘だぁああああああ!?」
心からのお礼を口にした自分はバカだったと改めて針乘への認識を戻し、さっさと彪を追い掛ける黎果と、悲痛な絶叫を響かせる針乘。それは自然すぎるくらい自然な、いつもの光景であった。