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捕獲

作者: 坂中心中

よく晴れた日でもなければ、雨が酷く降っているわけでもない。やや湿気を含んだ空気が気になる、どんよりとした日の午後、私は目を覚ました。

 近くには男が一人立っていた。見知らぬ男だった。知らない人間が傍で自分を見下ろしているなんて緊急事態のはずなのに、身体が全く動かない。それどころか、さっきからずっと目が合ったまま少しも動かず、一言も話さないこの男を、私は危険だと思えなかった。


「成功だ」


不意に男が漏らした言葉は、無表情から出てきたとは思えないほど喜びを感じられるくらいの声音だった。その一言を皮切りに、男は両手を天井に勢いよく突き上げると、今度ははらはらと涙を流し始めた。喜怒哀楽がコロコロとよく変わる忙しい人らしい。なんとも奇怪な光景なのに、私はなんだか面白くなって声を上げて笑ってしまった。

男は私を見て一瞬だけ驚いた顔になったが、下がっていた眉がどんどん吊り上がり、そのまま黙って見ていると、ついに耳まで赤くなった。


「笑うな!」


「だって、あなたはとても賑やかだなって。泣いたり怒ったり、見ていると面白くなってしまったんです。ごめんなさい」


「面白くない!」


「うわっ」


 変わらず笑っていたのが癪に触ったのか、ベッドに乗り上げてきたと同時に腕をとられて、気づいた時には痛いくらいに抱きしめられていた。


「面白くなんてないよ、ずっと悪い夢のようだったんだ。君が僕の世界からいなくなるなんて、絶対に嫌だ」


 肩が湿ってくるのが分かる。声も出さずに泣くなんて器用な人だと思ったし、乱暴に抱き起こされたはずなのに、痛みを感じなかったことにも驚いた。


「ねえ、あなたは誰? ついでに、私も誰? 申し訳ないんだけれど、全然思い出せないの」


 嘘偽りのないことだ。よく見れば病室のようにも見える清潔感が漂う部屋。壁際に設置された台の上には、銀色に輝くメスやその他の器具がある。ベッドの脇には定期的に音を発する機械もあった。状況はよく分からないけれど、あらかた私が事故にでもあって入院することになり、その時のショックで記憶が曖昧になっているとか、そんな感じではないだろうか。


「僕の名前は言えないんだ。でも、君に危害は加えないと神に誓う。君の名前は今、君自身に決めてほしい。そしてその名前は君だけのもので、例えば今決めたとしても、それを僕には言わないでほしいんだ。僕たちはこれから一緒にいることになるけれど、お互いを仮名で呼び合うことになる」


 私は特別頭は良くないけれど、それなりの理解力はあると自負している。それでも、真剣な表情で男が言った言葉の羅列を、全くと言っていいほど理解出来ない。私は確か、相手の名前と自分の名前を教えてほしいと言っただけだ。想像していた入院して記憶が混濁しているだけなら、せいぜいこの男は医者か家族のはずだった。それとも名を名乗れない、危ない立ち位置の人間なのか。


「落ち着いて聞いてほしいんだけれど、君は一度死んでいる。賭けで負けて、真名を悪魔に取られたんだ。真名は魂と等しいものだから、君の体は空っぽになってしまった。僕は急いで悪魔を裁いたけれど、悪魔の魂の近くにいた君の魂は、君の体と上手く同調してくれなかった」


「私が死んだ? それなら、悪魔を裁いたあなたは天使ってこと? 私はもう私じゃないの? 人間じゃないの?」


 まるで幼子のように質問攻めにする私に、男は考える素振りを見せながら片っ端から答えてくれた。その端々には曖昧に濁すこともあったが、私の前には男が一人いるだけで、今のところこの人以外に頼れる人はいなさそうだ。自分で聞いておきながら、私はもう私じゃないのって、文章として変だなと、男の説明を聞きながら頭の隅で考えた。


「僕の仮の名は、そうだね……。リツにしようかな。どうか君の仮の名も教えてくれないか?」


「私の名前は、えっと、うーん」


 仮の名前だとしても、結構重要なことをその場でぱっと決めるって、難しい。私はうんうんと暫く唸って、結局適当に決めることにした。今日は曇り、窓から見える空は、厚い雲で覆われている。


「私の名前は、イズモにする」


 よろしくねリツと言うと、リツは何度目か分からないけど泣きそうになって、でも今度は泣かなかった。


「僕たちにはお互いに秘密がたくさんあるけれど、それは存在が近いからだ。大切だから、守りたいから、僕は君に嘘を吐くし真実を隠すこともある」


「うん」


「もうイズモを離さない、絶対に」


 リツは真名は魂と一緒だと言ったけれど、仮の名だとしても、リツに呼ばれるとイズモって響きが特別に聞こえるのはどうしてだろう。


「あと、僕は天使じゃなくて人間。イズモが天使だったんだよ」


 抱きしめられているからリツがどんな顔をしているのかが見えない。肩越しに、囁くように教えてくれたのは、私が人間じゃなくて天使だったということ。


「じゃあ、私が天使なら、空も飛べる?」


 どんよりとした空を見ながら、思いついたことを言っただけだった。天使なら羽があって、空を自由に飛べるんじゃないかって。


「もう離さないってさっき言ったじゃないか。もしも羽が生えても、僕が見たらもいでしまうから、ちゃんと隠しておくんだよ」


 恐ろしいことを言われている。リツが言う離さないは、もしかしたらとんでもなく重い意味なのかもしれないと、今更気づいてしまった。腰のあたりで交差されていたリツの腕が、しきりに肩甲骨の辺りを撫で上げる。背中に嫌な汗が伝った。口の中に唾液が溜まって、飲み込む時にゴクリと喉が鳴る。

 私は居心地が悪くなってしまって、両手をリツの胸について距離を取ろうとしたけれど、それよりも早く手を繋がれてしまった。


「繋いだ手を、離さない」


 窓から見える景色がそのまま私の心を映しているようで、わたしはそっと目を閉じた。


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