Ⅷ 希望の足掛かり
人が
たくさん たくさん たくさん
シンデいる。
その事実は変えられないもので、二度と戻ってはこないものたちで。
私は目をそらしたくて、仕方がないんだ。
***
「開けるよ?」
『いいね?』と念押しするように一度目くばせをした朝比奈は、体育館の入り口の取っ手に手をかける。何が起きるか、何があるかわからない。4人は息をのんで、その扉の向こうを待った。
結果は、無残なものだった。誰だか顔もわからないほど焼かれ、あるいは潰されたそれらは、遺体。いたるところに犯人の憎悪がありありと伝わるそれらがゴロゴロ転がっており、いくつかの山を成していた。どれほどの恨みがあったのだろう。どれほどの苦しみがあったのだろう。その思いは計り知れない。
「やあ、いらっしゃい。僕の希望の足掛かりたち」
不気味なほどその場に溶け込んだ男に、4人は初めて気づいた。遺体に目を奪われていたとはいえ、立っている男に気が付かないほど、彼は異様に気配のない男だった。思えば、白藤が出会ったときもそうだ。いつのまにか背後にいた。朝比奈のときも。そして、他の被害者のときも。
「数時間ぶりですね」
彼こそがこの空間の主、そして被害者を拉致し、この遺体の人々を殺害した張本人。いち早く冷静さを取り戻した朝比奈は、男との会話を試みる。白藤がこの空間へやってきたとき、すでに朝比奈は音楽室へ向かっていた。彼は今まで欠かしたことのないバレー部の練習をわざわざサボり、萩野を探しに来たのだ。結果として萩野は見つかったが、男の目的がはっきりしない今、彼に直接聞くしか方法はない。
「おやおや、時間でも計っていたのかい? 涙ぐましいねぇ」
歪んだ笑みが気味悪いほどに張り付いている。よどんだ目をぎょろりと動かして、のぞく黄色い歯が不潔だ。被害者らを外の世界へ出す気はないのだろう。4人を憐れみ、あざ笑った。
しかし、彼は知らない。その少年がいかに頭の切れる人間かということを。その少年がいかに仲間思いかということを。
朝比奈という男の恐ろしさを。
ゆえに、朝比奈を見下すことしかできなかった。警戒など、思考の片隅にもなかった。
朝比奈はため息をついて、何の感情も感じられぬ目を男に向ける。
「俺がなぜあなたと会話をしたか、まだわかっていなかったんですか」
「どういう意味だい?」
不敵に微笑むでもなく、朝比奈は淡々としていた。彼は気づいていたのだ。この空間へ招かれる条件に。萩野を捜索する際に見つけていた。彼が消えたけやき公園へ出入りできなかった期間に、朝比奈は他の被害者の恵未と沢田が失踪した場所も調べている。異能を使って。そして、けやき公園も。そう早く出入りはできないはずだが、見張りの警官がいないのをいいことに朝比奈は規制線をくぐった。彼を教師に従順な優等生だと勘違いしてはならないのだ。
「カーブミラーの出現、及び維持。対象との会話。対象をカーブミラー、いや、鏡に映すこと。俺はそのすべての条件を満たした」
「......」
被害者の失踪した現場には必ず鏡があった。屋外であればカーブミラーが。屋内であれば、何か代用品が。沢田がいい例で、彼はガラス張りの窓を背に男と話したのだ。突然社内に侵入した男を不審に思い、注意した。それが条件をすべてクリアさせてしまうものとも知らずに。ガラスは夜の暗い外のおかげで姿を映す鏡と化していた。
「気づいていたのに、わざわざ僕の空間へ入ったと言うのかい?」
「ええ、そうですよ」
「......なぜ?」
「なぜ、ですか」
うつむいて、こぶしを握り締める男に、朝比奈は毅然とした態度で言い放つ。恐れはない。あるのは彼自身の強固な信念だけだ。
「決まっているでしょう。俺の友人を助けるためです」
白藤も捕まっているとは思わなかったが。朝比奈は親指で後ろの萩野を示す。当の本人はポカンと間抜けな表情を見せ、理解したのか感激の涙を流しだした。手を組み、拝むような姿勢でむせび泣くところは少々気持ち悪い。口に出すんじゃなかった、と後悔しながら、朝比奈は男の言葉を待った。
うつむいたままの男はしばらく沈黙を保った。握った拳が震え、彼に何らかの激情が渦巻いているのが察せられたが、朝比奈はおとなしく彼が自ら口を開くのを待った。
そうこうしているうちに、男が顔をあげる。沢田や白藤はその顔に絶句した。貼り付けていた笑みが消え、落ちくぼんだ眼窩が病的なまでの異常性を象徴しているかのようで、たいそう不気味だ。
「......だから、君たちが嫌いなんだ」
ドス黒い感情が彼を覆う。言い尽くしがたい憎悪が彼を縛る。カサついた唇から紡がれた言葉は雁字搦めになった男の本音。
(な、にこれ)
男から感じるプレッシャーはひどく不快だった。陰険教師に授業中に当てられたときも、テストの結果がかなり芳しくなくて両親の怒髪衝天を想像したときも、こんなにも息苦しい重圧は感じたことがない。白藤は普段は割と落ち着いた人間だ。緊張することもほとんどない。しかし、彼女は今、歯をキツく食いしばり、笑う膝に力を入れている。その重い憎悪は真正面から相対し、彼女の恐怖を煽った。慣れていない萩野や沢田も顔を青ざめさせ、平然としているのは朝比奈だけという状況。
ところが、そんなものは小鳥のさえずり程度のかわいらしいものだった。
『かわいそうなツジイ。大丈夫よ。私があなたを助けてあげるわ』
突如、ツジイと呼ばれた男を抱きしめるようにして少女が現れた。あの付喪神である。聖母のような微笑みを男に向けて、愛おしそうに頭を撫でる。
4人は彼女の姿に目を見張った。気配など微塵も感じなかったというのに。男と同じような、それ以上の不気味さがある。白藤と沢田は盾代わりのまな板を突き出し、朝比奈と萩野は包丁とライターをそれぞれ持ち直す。付喪神の敵意が鋭くうなる。
彼女の口端がゆっくりと上がっていく。妙に力が入っていて自然らしさがない。
『我が声に耳を傾けよ。我が姿をその眼に焼きつけよ。我が名をその魂に刻め』
「離れろ!!」
叫んだ朝比奈に反応して萩野と沢田、朝比奈と白藤のペアに分かれて付喪神から逃れる。4人がいた場所には白いベールが落ちていた。付喪神の少女が被るには少々大きい。そこから、何かが腐ったような、すえた臭いがする。4人は思わず鼻を覆った。
「走れ!」
朝比奈は萩野らに逃げるよう指示すると、白藤の腕を掴んで走りだした。急なことに驚いた白藤だったが、さっきまで平気そうだった朝比奈のただならぬ様子に後ろを振り返って後悔した。
布の下からわらわら湧き出る小さな子ども。いや、胎児、だろうか。手のひらサイズのそれらは目から赤黒い涙を流しながら、白藤へ襲い掛かろうとしていたのだ。
「ヒッ!」
「前向いて、白藤! 足動かせ!」
胎児たちの狙いは白藤なのだろう。少数は萩野らを追いかけていったが、大多数は彼女をつけ狙っている。匍匐前進ではなく、飛んで。あまりの光景に白藤は吐き気を催していたが、止まれば危ないことは目に見えている。一生懸命、足を回した。筋繊維がかわいそうだ。
狭い体育館を走り回って、やっとのことで2人は遺体の山の陰に隠れることに成功した。バレー部の速い足について走った彼女は息切れしていた。酸素を取り込もうと全力で空気を吸い込む。ゼェゼェと肩で呼吸する白藤の背中を撫でながら、朝比奈は周囲を注意深く観察する。
「ねぇ!」
近くから声が聞こえるのはきっと幻聴だろう。白藤は度重なるアクシデントに疲れ切っていた。朝比奈の背中に隠され、白藤は自分を強く抱きしめる。
「ね! ねぇ! ねぇったら!」
ステージ脇の放送室から小声で2人を呼ぶ少女がいた。ずっと隠れていたのかもしれない。特に怪我はなさそうで、扉を軽く開け、小さくなって座っている。第3の被害者、三隅華菜だ。
「こっち来て!」
彼女は死んでいなかった。独りで取り残されてもいなかった。無事でいてくれた。ホッと安堵して、白藤は胸をなでおろす。
手招きする彼女に従って白藤と朝比奈は屈んで、その扉に身体を滑り込ませる。ツジイには見えていないようだった。
「白藤、あと三隅さん。俺から絶対離れないで」
真顔であるが、真剣な目でツジイを見つめる朝比奈は剣呑な空気をまとっていた。