Ⅳ 幽鬼のネガイゴト
図書室の引き戸を引いて中へ入ると、左側に本棚がずらっと並んでいた。子ども向けの絵本から少し難しめの小説まで、幅広いジャンルの図書が所せましと収まっており、読書好きにはたまらない天国のような空間だろう。一冊手に取って、すべらかな真っ白なページをめくる。
そこでおかしな点に気がついた。本が新しすぎるのだ。黄ばみも虫食いの跡も見えない。本棚も新しい。壁や階段はあれだけ荒廃していたのにも関わらず、本や棚といったものはまるで新品だ。それは朝比奈の使用していたチェロもそうだ。置きっぱなしになった楽器は調律が必要だ。だが彼の演奏に不快な部分はなかった。もし彼が調律できたとしても、その道具が古く、壊れていては使えない。この建物自体は劣化が激しく、本などは最近運び込まれたようだ。
「お姉ちゃん、どうしたの? 迷子になっちゃった?」
ぼんやり図書室を眺めていると、右側の机の陰から突然、背丈の低い少女が現れた。肩下まで伸ばした髪を左右でハーフアップにまとめ、かわいらしいワンピースを着ている。白藤は彼女に見覚えがあった。思い出そうと、あごに手を当ててうなる。
「君......神崎恵未ちゃん?」
「そうだよ」
ニュースで流れた失踪当日の服装と彼女の外見の特徴が一致した。拉致されてからずっとここにいたのだろう。まだ幼い彼女が感じたであろう両親に会えない寂しさや悲しみを思い、白藤はこの一連の事件の犯人に憎悪を燃やす。おそらく犯人は白藤が会ったあの汚らしい男に違いない。頭の中で奴を殴るシーンを妄想をして今の間は満足する。それと同時に今回のミッション内容である『図書室の少女』とは恵未のことだと思い当たる。ほかに人はいなかった。
恵末に連れられ部屋の真ん中のテーブルへ移動する。絵を描いていたらしくテーブルの上には赤いランドセルと色鉛筆と自由帳が広げてあった。小学生の頃の自分と重なって懐かしく思いながら、白藤は恵未と目線を合わすようにしゃがんだ。
「私に、何かお願い事ある?」
「お願い事?」
「そう。一つ叶えてあげる」
「ホント!? うーん、じゃあねじゃあね」
少し悩む素振りを見せた恵未は、何か思いついたのか、パッと顔をほころばせた。朝比奈とは違う表情の豊かさに、白藤も思わず頬が緩む。幼い子どもはいるだけでかわいいものだ。少女は両手を大きく広げて、白藤に満面の笑みを見せる。『家族のもとへ帰りたい』と請われたら全力で実行しよう。そう決心して彼女の言葉を待った。
「あのね」
「何?」
好きな人の名を友人に打ち明ける恋する乙女のように両手を口に当て、クスクス笑う。
「シンデ!」
「え」
唇が耳の付け根まで裂け、グルグルと闇が渦巻いているような真っ黒な瞳が彼女を捉える。かわいらしい幼子の面影など見当たりもしない。
「恵未ちゃん?」
今の今まで話していた少女とは違う化け物。身体を乗っ取られているのだろう。
「君、恵未ちゃんじゃないね」
「エミだよ?」
ニタニタ笑いながら、首をかしげる彼女に嫌悪感がわく。弱いものを甚振る奴らを根絶やしにしたいと常日頃から思っている白藤は顔をしかめて睨む。エミは無差別に襲っているため弱い者いじめではないのだが、少し冷静さを失った彼女には大差ないことだった。
白藤には誰にも言っていない秘密がある。それはとある能力を使えること。世にいうところの異能や超能力だ。生まれながらに保有し、今に至るまで他人に言ったことはない。言ったとしても奇異な目で見られるのがオチだからだ。
白藤の異能は『エネルギー』。充電の切れたスマホを片手で充電したり、指先や手のひらから光を出したり、水に触れて氷を作ったり。これは身体の中の糖分をエネルギー変換して電気や波として体外へ放出するものだ。彼女の体内に糖分がある限り、エネルギーを作り出すことができる。
波
アニメでもよくある衝撃波のことだ。手から衝撃波を飛ばし、敵や障害物を遠ざける。今までオカルト事件を捜査する中で彼女が身に着けた武器の一つだ。ただし、彼女の能力には条件がある。エネルギーを送るには彼女の手が触れていなければならない。指先や爪でも構わないが、とにかく手が触れてさえいればいいのだ。
「ごめん!」
両手をエミの胸に押し当てエネルギーをある程度の出力でもって放出する。よくわからない化け物が乗っ取っているとはいえ、その身体の持ち主は神崎恵未だ。多少の手加減を加えてしまった。弾き飛ばされたエミは奥の本棚と強く衝突した。口から血を吐き、ワンピースにシミを作る。
「キャハハハハハハハハハッ!!」
甲高い笑い声をあげながら追いかけてくるエミから逃げ回る。ここが図書室でよかった。教室なら机などバリケードにもならない。机の上を通って一直線に向かってくることだろう。本棚は一つ壁を挟んで背中合わせに配置されており、向こう側を見ることは不可能だ。それはエミが白藤を見つける難易度をあげている。白藤にとっても同じことが言えるが、裸足のエミがペタペタと足音を立てるのでだいたいの目星はつく。
しかし。
周りの様子を窺っていた白藤は、エミの足音が消えていることに気がつく。時すでに遅し。完全にエミの居場所がわからなくなっていた。唇の震えを抑えようと歯で強く噛む。若干鉄臭いが、緊張して何も感じられない。
どこからも音はしない。白藤を探し回っているのだから止まるはずはない。獲物は捕食者を観察するために止まっても、捕食者がそうする必要はない。獲物に刃を突き立てることが重要なのだ。ならばどうして音がしないのか。
すでに捕食者の手の内にある可能性。
ブワッと総毛立って、勢いよく上を見ると、エミが飛び掛かってくるところだった。本棚の上にいたのだ。背の低い彼女が登れるはずがないと、先入観から勝手に思い違いをしていた。
「どうしたの、お姉ちゃん。エミのお願い叶えてくれるんじゃないの? ね、叶えてよ」
地面に押し倒され、小学3年生にしては強すぎる腕力に押し負けそうだ。
「死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ死ンデ」
さながら壊れたレコード。狂ったエミを衝撃波で弾き飛ばそうとするが、手首をつかまれており触れることができない。
突如、何かが頭の中に流れ込んでくる。ジクジク痛む頭をおさえて、狂気の笑顔を浮かべるエミに抵抗する。
***
青住絵美は気の弱い子だった。嫌なことは嫌だとはっきり言えない子だった。給食のプリンを譲ってくれとせがまれたときも、帰りの掃除を押し付けられたときも、彼女は一言も文句を言えなかった。周囲はそんな彼女に『伝えたいことは自分の口でちゃんと言いなさい』とたしなめつつ、彼女の性質を利用していた。絵美自身の意思は考慮されなかった。
ある新任の教師が蔑ろにされている絵美に気がつき、声をかけた。
「絵美ちゃんはどうして伝えないんだい? 言わなきゃわからないよ?」
優しく微笑む男に、絵美は気まずそうに顔をそむける。真一文字に引き結ばれた唇が開く様子はなかった。教師は困ったように笑うと、ある提案をした。
「それなら絵美ちゃん、こうしよう。君が言いたいことを1つ言えたら、僕が君のお願いを1つ叶えてあげる。何でもいいよ。新しい服でも菓子でも。勉強を教えてほしい? 運動? それとも、君の好きな絵に関することかな」
「!」
絵美は大きなコンクールで賞を取るほど絵描きの才能があった。しかし家は貧しく、満足に道具を用意することも、習い事に通うこともできない状態にあった。人差し指を立て、柔和な表情の教師の言葉は彼女にとって願ってもないバラ色の内容だった。
(絵をたくさん描ける?)
飢餓状態の人間の前に一杯の水とささやかな食事を差し出す救世主のようだと思った。コクリとうなずいて、絵美はその提案を受け入れる。彼女の頬は桃色に染まっていた。
それからというもの、勇気を出して一歩を踏み出した絵美は毎回ではなかったが、本当に50回に一度くらいの割合だったが、自分から意思を伝えていた。そしてその意見が通るようにもなった。給食のプリンをくれと言われても断り、掃除を押し付けられそうになってもみんなで一緒にやろうと声を出した。
約束通り教師は彼女の願いを叶えた。絵具がほしいと言われれば買い与え、絵の先生がほしいと言われれば、学校で一番絵のうまい教師を探し出して頼み込んだ。
「あ、ありがとう。先生」
「どういたしまして」
引っ込み思案で気弱なところは治らなかったが、少女は以前とは違う自分を好きになっていた。クラスメイトとも仲良くなり、より良い学校生活を送っていた。
「絵美ちゃん、こっち来て」
ある日の放課後、誰もいない教室で絵を描いていた絵美を教師が尋ねる。こっちと指を示された方向には画用紙や筆など美術に使うものがしまわれている準備室だった。絵美は喜んで彼の後をついていった。
準備室には窓がなく、蛍光灯をつけなければ真っ暗だ。男が出入り口の横にあるスイッチに手を伸ばす。
「絵美ちゃん、このイスに座って」
背もたれと肘置きのついた質素なイス。高さがかなりあり、小学3年生の絵美は自分で座ることができない。それを見とめた教師は軽く謝りながら、彼女を抱き上げて座らせる。
そして、部屋の扉の鍵を閉めた。
「? 先生、どうして、」
「絵美ちゃん、君は僕に13個のお願いをして、僕は全部叶えてきたわけだけど」
腕まくりをして、かけていた黒縁眼鏡を外すと教師は絵美の座るイスの前に屈む。ゆっくり彼女の足へ手を伸ばして、上履きと靴下を脱がし、その足を自分の首に押し当てる。
「僕のオネガイも叶えてくれるよね?」
悦に浸った目で絵美を見つめ、うっそりと口を歪ませる。絵美は怖くなって逃げだそうとしたが、男の力に敵うはずもなかった。何より後ろに背もたれ、横に肘置き、正面に教師、おまけにイスはかなり高い。逃げ場はどこにもない。叫ぼうとすると、おかしな臭いのするタオルを口に押し込まれた。下着の中を弄る手が不快で怖くて、ただただ泣いた。両親の優しい笑顔を思い出してさらに涙を流す。
(外に出たい。帰りたい。学校なんて大嫌い)
なすすべもなく抵抗できなくなった絵美は教師にされるがままだった。『絵美ちゃん絵美ちゃん』と普段は悪い顔色を紅潮させて悦んでいた教師は、動かなくなった彼女を見上げる。涙で潤んだ目と視線がかち合って、スッと立ち上がる。
「オモシロイこと、しよ?」
興奮した男の手には蛍光灯に反射して鈍い光を放つノコギリがあった。
***
映像のように頭の中を駆け回った絵美の記憶。白藤は、ものの正しさもまだわかりきっていない小さな女の子を嵌めたあの教師に憤りを感じた。白藤を殺そうと躍起になっている絵美はもっと苦しかっただろう。信頼していた教師に失望して、願いかなわず、死んでしまった。爪をはがされ、指や四肢を切り落とされ、身体を何度も刺された。激しい痛みと絶望が彼女を化け物に変えたのだ。
「絵美ちゃん、今までしんどかったね! 辛かったよね!」
覆いかぶさるようにして襲ってくる絵美を必死に押し返しながら、声を張り上げる。まだ自我が残っているのなら、本当の化け物になる前の絵美なら、わかってくれると信じて。
「約束する! 絶対君をここから出してあげる! 対価は君が攻撃をやめてくれたら、それでいい! 他は何も求めない!」
「ウソ! ウソツキ!」
「噓じゃない!」
「っ!」
顔を歪ませてギュッと唇を噛む。白藤の提案に迷っているようだ。一度裏切られたという事実は彼女の中に深く刺さっている。もう一押し。白藤は真剣なまなざしで絵美を見つめる。
「大丈夫。私が必ず君を連れ出す。信じて」
「......」
「ね?」
「......本当に?」
「当然」
絵美は大粒の涙を流しながら声を上げて泣き出す。悲痛なその様子に、白藤はその小さな身体を抱きしめた。彼女も久しぶりに感じる人の温かさに刺激され、白藤の背中に手をまわしてしがみついた。なんだか白藤自身も泣きそうになった。
「あれが私の骨」
やっと泣き止んだ絵美が指さす先には本棚に収まった一つの箱。埃をかぶった黒い箱は低学年向けの絵本に囲まれていた。殺害直後、我に返った男が証拠隠滅のために焼いたのだ。その骨を捨てに行けず、ずっと持っていた。未練という形でこの世に縛り付けられてしまった絵美は、いつしか復讐の鬼となり、誰彼構わず襲うようになった。
「恵未ちゃんは絵美が外へ連れていく。だからお姉ちゃん。お姉ちゃんが絵美の身体を外へ連れ出して」
少女の心からの願いだ。まっすぐ彼女の目を見てうなずく。すると絵美は満面の笑顔を見せてスーッと消えた。恵未もきっと無事だ。ホッと安心した白藤は、黒い箱を手に取り図書室を出る。
「任せな。私、約束は絶対守る人間だから」
そっと扉を閉めて、2つ目のミッションカードを見る。先ほどのことを思うと少し憂鬱だが、絵美を外へ出すと決めた以上、立ち止まっている時間はない。
『体育館へ行き、彼らの晩餐を手伝え』
やはり情報の少ない内容にイラっとする。舌打ちをして、体育館は北舎2階の渡廊下から行けばいいかとあたりをつけて進む。6年1組、2組、3組。次は――――
「!?」
廊下の中頃、6年3組の教室の前まで来たところで、ゾワリ、と今まで感じたことのない圧迫感を感じて、恐怖がムクムク膨らんでいく。ついさっき死にかけたことを忘れてしまうくらい、ソレを恐ろしいと思った。すぐ近くから見られているような、そうでもないような。曖昧な表現しかできないが、ナニかがいることはわかる。喉がひきつったように痛い。口が閉じない。息が短く切れて、大きく波打つ心臓が苦しい。目を閉じるのが怖い。腹が小刻みに震えている。湿った手が指先から冷えていく感覚。
背後から何かが、白藤を捕らえた。