Approach
「あれっ、ほかの人たちは?」
「みなさん先に帰られましたよ」
確かに店の前には美樹の姿しかない。あとの5人は早々と消えてしまった。
「なんだ、みんな早いな、まだ8時前なのに。二次会の店の心づもりもしてたんだけど」と、今日の幹事役の孝紀。
「今日は週初めだから週末までは先が長いし、一次会だけで軽めに済ませたい、皆さんそんなところじゃないですか」とは副幹事の美樹の推測。サバサバしている。
「なるほどね、じゃあ、我々も帰ろうか」
孝紀が最寄り駅の方に歩き出そうとすると、美樹は少し逡巡する様子を見せておずおずと、
「はい………でも残った二人で二次会というのも………ありますよね」
「ん?笹本さんと二人で?」
「ええ、ダメですか?」
「………そんなことはないけど……、ほら…若い女の子を個人的に誘ったりしたら、セクハラって言われるじゃない、この頃は」
「そんな…あたしは絶対そんなことは言いません。セクハラでもパワハラでもありません。今日は」
「わかった、わかった。じゃあ行こうか二次会。まだ会計報告が残っているけどひとまず幹事役が終わった打ち上げだ。お腹はいっぱいだけど、実はちょっと飲み足りないって思っていたんだ」
「はい。お願いします」
1
斎木孝紀は28歳。仙台で育ち、東京の私大の商学部に進み、都内に本社がある大手食品会社に就職した。最初の2年は金沢の営業所で営業を、その後2年間は茨城工場で生産現場の経験を積んだ。2年前からは本社のレトルト食品の開発部門で働いている。独身で仙台の両親からもそろそろ結婚を迫られていて、本人もその気はないことはないのだが、仕事が忙しいこともあって、こればっかりはね、という状況である。過去にはいたが現在はつき合っている女性はおらず、品川の単身者用マンションで一人暮らしをしている。現在の所属部署レトルト3課は洋食分野のレトルト食品の開発を担当、課長を含めて7人という陣容である。孝紀も美樹もその7人のサムライの中の一員である。
笹本美樹は24歳。尾道に生まれて高校まで過ごし、東京の大学の農学部に進学した。在学中は発酵学を専攻し、ゼミも発酵の分野で実績のある教授の下で学んだ。教授からは大学院に進まないかと誘われたが、専門知識を生かせる食品会社への就職の道を選んだ。入社して最初の一年間は専門家として研究所で開発の基礎的研鑽を積み、その後レトルト3課に配属、先輩たちの中で日夜製品開発に奮闘している。現在大田区のマンションでひとり暮らしである。
孝紀の目から見ると美樹は充分美人の部類に属する方ではあるが、美しさを誇張することなく、控えめな日本的佳人といったところであろうか。もちろん仕事上の話はするものの、チームが違うのでプライベートな話はあまりしたことがない。二人だけで外に食事に行ったり飲みに行ったりしたこともない。ただ、同僚として、異性としてちょっと気になる存在、まぶしい存在ではあった。
今日の宴会は3課の7人の仲間のうちの一人が中華料理分野のレトルト2課に異動になり、その送別会であった。異動となったのは30代の男性中堅社員で、異動といっても隣の課で異動先は同じ社屋、同じフロアである。加えて彼はほとんどアルコールが飲めなかったため、最初送別会を辞退したのだが、けじめだからという課長の一言で開催した宴会であった。そのためか送別会は盛り上がりに欠け、早々とお開きとなった。
2
孝紀が美樹を連れて行った二次会の場所は新橋の駅からさほど離れていないビルの二階にある、だいぶ前に先輩から教えてもらったこじんまりとしたバーであった。ゆったりとした椅子のカウンター席が10席ばかりの落ち着いた雰囲気の店で、一番奥のカウンター席2席は通称「離れ」と呼ばれていて他の席とは少し離れている。人に聞かれたくない話をしたい場合などには好都合の席であった。マスターに無理を言えばその二席の予約も出来るらしい。その夜は他の席に初老の男性三人連れの先客がいただけだったため、孝紀と美樹は空いていた「離れ」に落ち着くことが出来た。
60代、ひょっとしたら70代かも知れないマスターが一人で店を切り盛りしており、無口で注文を受ける時以外は客の方を見ない。お客と雑談を交わすこともなく、常に下を向いてグラス拭きやら何やらの仕事をしている。お客はいい意味で放っておかれる。
カチンとグラスをあわせバーボンの水割りを口に含んだものの、初めての美樹と二人きりの酒の席で孝紀は何を話していいかわからない。しゃべる取っ掛かりとして、
「笹本さんはお酒は結構いける口だよね?」と当たり障りのない話題から始める。先ほどの一次会の様子を見ていてそう思えたからだ。
「はい、嫌いじゃないです。アパートに帰って夕飯を食べる時たまにちょっと一杯飲んだりします。晩酌って言うんですか?でも晩酌って言葉、あたしはあまり好きじゃないです」
「晩酌か、そうだよね、家族が丸いちゃぶ台を囲んでコロッケをおかずにご飯を食べてる時に、腹巻した赤ら顔のお父さんが一升瓶を傾けてるってイメージあるよね」
「フフッ、まるで大正か昭和。そこまで時代を遡らなくてもいいと思いますけど…まあ、そういうイメージかも知れません」
少し空気がほぐれた。
「毎日の仕事はどう?困っていることとか、悩んでいることはない?」
とここは先輩風を吹かせてみる。
「はい、先輩の皆さん親切に教えて下さるので、特に困っていることはないんですけど、自分の力不足を感じてます。もっと勉強しなくっちゃっていつも思ってます」
「でも笹本さんは大学の農学部で食品を専攻してたって聞いたけど。我々文科系の門外漢よりははるかに知識があるんじゃないかな」
「いいえ、専攻といっても発酵というごく狭い分野のことですから、食品一般、現実の業務については先輩の皆さんに教わることばかりです」
これまた模範的な答えである。
「笹本さんはなぜ、農学部で発酵を専攻したのかな?」
「特に深い理由はありませんが、高校の時、たまたま東京N大のK先生の本を読んで発酵って面白そうだなって思ったんです」
「東京N大のK先生か、知ってる。面白い先生だよね。テレビで見たこともあるし、以前新聞にコラムも連載していた」
「そうです。『ちゅるちゅる』とか『じゅわじゅわ』とか食べる時の表現が面白かった」
「大学はそこだったの?」
「いえ、別の大学の農学部です。東京N大のK先生はもう退任されていたので」
「農学部って結構女子学生が多いイメージがあるけど」
「そうです。私の大学の農学部も女子学生が5割と言われてました。昔は農学部というと作物栽培、畜産のイメージがあったんですけど、最近は遺伝子工学、バイオといった最先端科学の分野がメインになっていて、女子に人気があるんです」
「野良着で作業というより白衣を羽織って研究室でってイメージ?」
「そうそう、そんな感じです」
「発酵というと素人はすぐ、お酒とか味噌とかを思い浮かべるんだけど」
「ええ、クラスの中には地方で家業が酒蔵だったりお醤油造りをしているという人も何人かいました。京都の種麹屋さんの跡取りという人もいました」
「やっぱりね」
「でも、発酵というのはそれに限らず食物全般で重要な役割を果たしている現象なんです」
3
「斎木先輩は、学部は?」
「先輩はやめてくれよ、斎木でいい。僕は商学部」
「商学部を選んだ特別な理由はあるんですか?」
「それを聞かれると困るんだけど、しいて言うなら、高校の時、将来は起業してみるのも面白いんじゃないかって思ってたからかな。行くなら経営を学べる経済学部か商学部と決めてた」
「起業!いいじゃないですか。いつごろの予定ですか?」
「待ってくれよ。高校生の時ちょっと考えていただけだから。今は仕事が面白いから、本当に起業するかどうかもわからないし、仮に独立するとしてもまだまだ先のことだよ」
「あたし、楽しみにしてます」
「そう、尻を叩くもんじゃないよ、笹本さん」
「フフッ、ごめんなさい」
空気がだいぶ和んできた。
「笹本さんは大学ではクラブとか、同好会とかは入ってたの?」
「入学してすぐテニス同好会に入りました。もちろん体育会系じゃなくてお気楽なサークルですけど」
「テニスか、いいね、大学に入る前もやってたの?」
「ええ、高校の部活はテニスじゃなかったですけど。テニスは近所の仲間と地域で少しやっていました」
「経験はあったんだ」
「テニスのサークルはキャンパスにいくつかあって、農学部だけで閉じたものや、他の学部の学生も交じったものもありました。私の入ったのは学部を超えたサークルでしたけど」
「4年間やってたの?」
「いえ………いろいろあってそのサークルは1年生の冬にやめました」
「あら、1年未満で。どうしたの?」
「ええ、まあ………いろいろあって………」
「………そうか」
「………」
「あ、無理に話さなくてもいいよ、大学生ともなればいろんなことがあるよね」
「………あ、でも」
「ん?」
「………実は、この話は高校時代からの親友一人にだけしか話してないことなんですけど、たいへん恥ずかしい事なんですけど今夜は斎木さんに聞いてもらおうかな。聞いて下さい、斎木さん。ご迷惑ですか?」
「ちょっと待って。きっと重大な事なんだよね?そんな重大なことを一介の同僚に過ぎない僕なんかに軽々しく話しちゃまずいんじゃないの?無理しなくていいよ」
「いいえ、こうして斎木さんと二人きりで飲んでいてその話題になったのも話してもいいよという神様のお導きかも知れません。ぜひ聞いて下さい」
ここまで見込まれたからには孝紀も男として逃げるわけにはいかない。
美樹は大学1年の時の体験を語り始めた。
4
美樹が入ったテニスサークルは新入りの1年生8人を加えて30人ほど。農学部の学生は1年生の美樹と2年生の女子学生の二人だけ。男女比はほぼ半々だった。土曜日の午前中が練習に充てられ、どういう伝手があるのか知らなかったがキャンパスからは少し離れた場所にあるテニスコート4面が毎週確保されていた。練習終了後の午後は飲み食いを伴う楽しい交歓に充てられ、テニススキルの向上よりもこっちの方がメインのような気がした。
このサークルでは毎年、那須高原で一週間の合宿を行うことになっていて、毎年同じテニスコートとペンションをセットで予約する。例年サークル在籍者の7割ほどが参加し、1年生として美樹も参加したこの年は20名の合宿となった。
午前中は9時ごろから2時間ほど練習し、昼食をはさんで午後も4時ごろまでやはり2時間ほどを練習時間に充てる。時々混合ダブルスの紅白試合を行い、単調になりがちな練習に変化をつけたりした。夕方ペンションに帰って汗を流し、6時ごろから反省会という名の宴会になるのだった。
大学のサークルというのは多かれ少なかれ、異性と付き合うのが目的と言えないこともない。このテニスサークルも可愛い女の子、カッコいい彼氏を見つけるために入ってくる学生も少なくない。というかほとんどそうだと言ってもいいかもしれない。本当にテニスに打ち込みたければ他の道があるはずだ。
果たして美樹には理工学部3年のSが接近してきた。合宿の中盤には仲良くなり、食事や宴会の時には並んで座るようになった。そういうカップルが3、4組出来たようであった。それでもほかのメンバーの目もあるので、合宿中は美樹とSとの仲はそれ以上には進展せず合宿を打ち上げた。
東京に戻ってから美樹とSは頻繁に連絡を取り合い、サークルの練習日でない日も逢うようになった。那須高原から戻って2週間ほどしたころ、美樹とSは美樹のアパートで初めて関係を持った。美樹にとっては初体験、19歳になったばかりであった。その後も美樹のアパートや時には外のホテルなどで時々関係を持った。
そういう状態が数カ月続いた頃、美樹はSが自分以外にも何人かの女性と同じようにしてつきあっているのを感じ取った。Sにとっては大学とは「寝てくれる女の子を探しに来るところ」に過ぎないのだろうか。そう考えると急激にSへの気持は冷めた。言い寄られたから受身的に付き合っていただけで、Sに対する愛情なんて初めからなかったのかもしれない、と気がついた。美樹がSに別れを切り出すとSは意外にあっさりと応じた。美樹一人を失っても寝る相手に不自由しないからなのか、美樹に飽きが来ていたのかわからないがとにかく関係は終わった。Sも地方から東京に出てきてアパートで独り暮らしだとは知っていたが、「散らかっているから」とSは自分のアパートに美樹を連れて行ったことはなく、その場所も明かさなかった。後になってその理由を考えてみた時に、Sのアパートを突然訪ねて来た女性同士がそこでバッタリと鉢合わせしてしまうようなことをSは警戒したのであろうと美樹は思った。
美樹はSと顔を合わせるのも耐えられないと思い、テニスサークルも辞めた。
5
「こんな尻軽女、軽蔑したでしょ」
「いやいや。でもビックリした。そんなことがあったの」
「5年前のことですけど。斎木さん、この話はこの場限りで」
「わかった。この話を知っているのは、他には高校時代からの親友一人だけだと言ってたよね」
「ええ、そうです」
「じゃあ、まず、今日聞いた話は絶対他に漏らしません、死ぬまで自分一人の胸にしまっておくことを誓います。これでいいかな?」
「ありがとうございます」
水割りは二人とももう二杯目になっている。でも話す方も聞く方も内容が内容だけに一向に酔わないような気がする。
「テニスサークルを辞めてから、他のサークルに入ったの?」
「はい」
「へえ、どんなサークル?良かったら聞かせて」
「海外旅行同好会」
「海外、旅行、同好会?そりゃまたずいぶん方向転換したね」
「農学部だけの男子学生のいない同好会です」
「農学部だけ?女子学生だけ?」
「ええ、その方がナンパ目的の不埒な輩がいないと思ったからです」
「その同好会、どんなことをするの?」
「名前の通り。日頃はバイトでお金をひたすら貯めて年に1、2回海外旅行に行くんです」
「どの辺りへ?」
「韓国、台湾、香港、シンガポールなどの近場、それにハワイ、アメリカ西海岸あたりです。本当はヨーロッパも行きたかったんですけどお金がかかるので」
「観光旅行?」
「なんですけど、二人一組で旅行してテーマを決めて現地でチャレンジして、帰国したらその報告会をやるんです」
「面白そうだね。例えば?」
「現地で料理を作ったり、民族衣装を着て歩いたり、お祭りに参加するとか、見るだけの観光ではない参加型体験旅行をするんです」
「うん、さすが大学生の旅行だ」
「飛行機とホテルはパックで安く取ってもらいますけど、現地の行動は独自です」
「何回くらい行ったの?」
「私は大学2年から4年で5回ほど行きました」
「そうか、いろんなことがあった大学生活だったね。もちろん学問もちゃんとして」
美樹は斎木の顔を見て、
「あたしのことばかり聞いて、斎木さんずるい。斎木さんのことも聞かせてください」
「そうか、ずるいか。そう言わてもねえ。特に面白いことはないよ。何が聞きたいの?」
「そうですねえ、せっかくだから………」
と美樹は斎木の耳に口を近づけて、小声で、
「あたしは初体験を告白したんだから………斎木さんの初体験の話も聞きたいっ」
孝紀はギョッとして
「笹本さん、大分酔ったね。夜も更けた。もう帰った方がいいんじゃないの」
「あたしは大丈夫です。結構お酒は強いって言いましたよね。逃げるのはずるいですよ、斎木さん。さあ、男らしく白状して」
「わかったわかった。うーん………実はまだ童貞なんだ」
「ウソつき。ごまかさないでちゃんと本当のことを言って下さい」
「しょうがないなあ」
こうなれば孝紀も腹を決めて本当のことを語るしかない。
6
あれは高校3年の夏休み、大学受験を半年後に控え、夏休みの間も駅前の学習塾で夏の補習講座を受けていた時のことだ。午前中に講座が終わって駅前を歩きながら、バスで10分ほどの自宅にまっすぐ戻ろうかマクドナルドで昼を済ませようかと思案していた時、幼なじみの中野みゆきとバッタリと出くわした。孝紀とみゆきは同い年で、以前はみゆきの家も孝紀の家のすぐ近くにあって、幼稚園も入学した小学校も同じ。小さい頃からお互いの家に出入りしてよく遊んだものだ。しかし二人が小学校2年の時、中野家は駅の近くに引っ越した。
引っ越したとはいえ、両家とも最寄り駅は同じなので、孝紀とみゆきは駅ビルの書店などで、たまに顔を合わせることもあり、あいさつくらいは交わしていた。お互い思春期となり、今では(やあ)という他人が見てもわからない程度の軽い会釈をするだけになっている。
夏休みの補講を終えた解放感もあって孝紀は何年ぶりかでみゆきに声を掛けてみた。
「おう、みゆき、しばらく。オレ、今からマクドでお昼食べようと思ってるんだけど、よかったら一緒にどう?」
と切り出すと、みゆきはちょっと困った顔をして、
「あたしもお昼これからなんだけど、実は昨日もお昼は友達とマクドだったのよ。これから家に帰ってそうめん食べるつもりなんだけど、そうだ、あんたも一緒に来て食べない?すぐそばだから」
と逆に誘われたものだ。
「一緒にって言ったって家の人もいるだろうし、行けないよ」
「大丈夫よ、今、家には誰もいなくて、お母さんは夕方6時ごろまでパートだから二人だけ。気兼ねはいらない。ゆっくりしてって。そうめんいっぱい茹でるから行こうよ」
こうして孝紀はみゆきに押し切られ、駅から歩いて5、6分ほどの中野家にお邪魔することになった。
初めて訪問した中野家の室内を孝紀がきょろきょろ見回しているうちに大量のそうめんが茹で上がった。さすがの食べ盛りの高校生。二人とももう食べれられないというところまで食べた。
そうめんを片付けて、デザートのアイスクリームに取りかかりながら二人はお互いの近況を報告し合った。孝紀は私大W大の商学部が第一志望で、もう一歩のところで合格圏内のところまで来ている。みゆきは国立のО女子大の理学部が第一志望とのことで、こっちはまず合格間違いなしと言われていた。
「みゆきが理科系志望とは知らなかったな」
「去年までは外国語方面に進もうと思っていたんだけど、3年になって進路変更したの」
どういう理由でみゆきは外国語学部から理学部に転向したのだろう。
そのうち二人の話題は幼稚園時代や小学校低学年の時に一緒に遊んだ時の思い出話になる。お互いの家を行ったり来たりして家の中を走り回ってふすまや障子を破いたり、飲み物をこぼしたりとさんざん両家に迷惑をかけたものだが、不思議と厳しく叱られた覚えはない。
「そういえばみゆき、小さい頃二人でお医者さんごっこをよくやったよな。覚えてる?」
「馬鹿ねえ、つまらない事を思い出さないでよ」
というところを見るとみゆきもちゃんと覚えているらしい。
「押し入れの中なんかに隠れてさ。やっぱり子供心にもイケナイことをしてるという罪の意識はあったんだよな。あー今考えても興奮するなあ」
「あんたって、ほんとバカねえ。子どものころはもう少しマシだと思ってた」
7
「笹本さん………お医者さんごっこって知ってる?」
「…知ってます。あたしは経験ありませんけど」
恥ずかしそうに言うところを見るとどんなことをするのかもわかっているらしい。
孝紀は誤解のないようにあえて美樹にその内容を小声で説明する。
「幼稚園児くらいの子供でも男なんだね。異性の体には興味があるんだ。女の子も同じだと思うけど」
孝紀は一層声を低め美樹にやっと聞こえるような声で
「男の子がお医者さん、女の子が患者さんだ。お医者さんは女の子のパンツを脱がせて股間を診察する、言ってみればそれだけのことだ。それで満足していた。不思議なことに誰に教えてもらったわけでもないのにみんな同じことをしていたらしい。本能だなこれは。ということは世界中の子供が同じようにしているのかな」
と、孝紀の話はどんどん脱線していく。
美樹の顔が赤いのは孝紀の話を聞いて恥ずかしいからか、ウイスキーの酔いか。
「不思議に当時は女の子がお医者さん役になることはなかった。自分の経験の範囲では。今の子供たちはどうなんだろう」
私も経験しておきたかったな、と美樹は秘かに思う。
大人になってからでは生々しすぎる。目的や意味も全く違ってくる。小さな子供だから無邪気でなつかしい思い出になるのだ。
8
高校生の孝紀はアイスクリームを食べ終え、当時を振り返って続ける。
「お医者さんごっこをしていた頃がなつかしいな、面倒なことは何もなくて思うがままに振舞っていた」
「………」
みゆきが無言なのは同感のしるしか。無視しているのか。
調子に乗った孝紀は突然とんでもないことを言い出す。
「そうだ、みゆき、久しぶりに………お医者さんごっこやろうか」
「はあ?バカね、何言ってんの。そんなこと出来るわけないじゃない。あの頃と違うのよあたしたち。アホなんだからまったく」
みゆきは色をなして怒る。
「冗談に決まっているじゃないか、冗談。怒るなよ」
「冗談にしてもほどがあるわよ、何考えてんの」
「タチの悪い冗談で悪かったよ。ゴメン。機嫌直してコーヒーでも淹れてくれないか」
「まったくゥ」
とつぶやきながらみゆきはキッチンに立ち、数分後にコーヒーの入ったマグカップを2つ持って戻ってくる。黙ってマグカップの片方を孝紀に差し出す。
二人は無言でコーヒーを飲む。静寂。孝紀にはブラックコーヒーが一段と苦く感じる。つまらない冗談を言ってしまったと後悔しても遅い。時計の音だけが聞こえる。2時半を回っている。
(もう引き上げる頃合いだな。でもこんな状態でのサヨナラは後味が悪いな)と孝紀が思い始めた時、長い間無言だったみゆきがポツリとつぶやく。
「さっきの話だけど………あたし、いいわよ」
「エッ、さっきの話って?」
「………お医者さんごっこの話」
「エーー!」
今度驚くのは孝紀である。
「何よ、本当に冗談だったの?」
「…いや、それは……」95パーセントは冗談だったのだ。
どうやらみゆきは本気らしい。孝紀の5パーセントの本音に食らいついてきた。こうなっては孝紀も後には引けない。
「………よし、十数年ぶりのお医者さんごっこ、やろう。みゆきちゃん、お願いします」
「何よ、気持ち悪い」
瓢箪から出たコマ。とんでもない成り行きになってしまった。
*
二人は順にシャワーを浴びると二階のみゆきの部屋に行く。最初に孝紀が、次にみゆきがお医者さん役になって子供の時とは一変して大人になった相手の身体を目で「目診」し、指で「触診」する。
異性に最も関心がある年頃の若い二人が「触診」までで済むわけがなく、暗黙のうちに「最終行為」にまで及んでしまったのは必然の成り行きというしかない。二人を責めるのは酷というものだ。最後の一線を思いとどまるのは無理であった。期せずして実現した孝紀とみゆきの高3での初体験であった。みゆきが長い間無言でいたのは単に怒っていたのではなく、ここまで行ってしまうことを予測し、覚悟して実行すべきかどうかを自らに問い、決断するための時間ではなかったか、と後に孝紀は理解した。ほんの冗談のつもりが現実に、いやそれ以上の展開になってしまった。勢いで行くところまで行ってしまったが、正直なところ孝紀には最後まで行くことへの躊躇はあった。しかし女のみゆきが覚悟を決めている以上、男である自分はそれに応えなければならない、と孝紀も腹をくくった。
みゆきが避妊具を取り出した時、孝紀は
「そんなものまで持っているのか」と驚いたものだが、みゆきは、
「自分の身を守るためよ。友達はみんな持ってる。女子高生の常識」と平然としていた。
9
「すごい。衝撃的な初体験ですね。高校3年って言うと、17か18ですよね」と美樹。
「そう、僕は18の誕生日を迎えたばかりだった。みゆきはまだ17だったかもしれない」
「そのころの女子高生ってそうなの?」と孝紀が美樹に聞く。
「そうって?」
「その…避妊具を持ってる………って事だけど」
「そうですよ、あたしも高校の時は友達から分けてもらってカバンの奥に忍ばせていました。幸いにというか残念ながらというのか高校時代に使う機会はありませんでしたけど」と、恥ずかしそうに、しかし正直に美樹が答える。
「まいったまいった。すごいね。女子高生」
「男子なんてしたいしたいって思うだけでそういう場になった時の対策なんか何も考えてないでしょ。あの年頃って女子の方がずっと大人なんです」
孝紀は返す言葉がない。
「その後みゆきさんとは会いました?」と美樹が話題を変える。
「それがただの一度も」
「会わなかったんですか」
「そう、もっとも二人とも半年後には東京の大学に入って仙台を離れたし」
「そんな特別な経験を共有した相手だったら、その後もつながりを保ちたい、なんて思いませんでした?」
「うーん、会ってみたいという気持ちが全くなかったと言えばウソになる。どこかでバッタリ会えればいいなとは思っていたけど会うための積極的な行動は起こさなかったね。女性側からするとどうなんだろう」
「そうですね、同じだと思います。甘美な思い出はそのままそっとしておきたいっていうか」
ひょんなことからあの日のことを美樹に告白することで孝紀は11年ぶりにあの忘れられない出来事と改めて真正面から向き合った。今にして思えばあの時、みゆきもあの子供の頃の二人の交歓がよみがえり、孝紀が、もちろん冗談でだが、お医者さんごっこを口にした時、実はみゆきも密かに同じことを考えていて、あれほどみゆきが怒ったのはそれを孝紀にズバリと言い当てられたことで、そんなことを考えていた自分自身に対して腹を立てたのではあるまいか。思い返してみると幼い頃もみゆきの方から「たかちゃん、あれ、しよう」と言い出すことが多かったような気もする。そう、たしかにみゆきが主導権を握っていた。
*
「今考えるとあの体験は、受験勉強をする上でもプラスになったと僕は思っている」
「プラスですか?逆なような気もしますけど」
「確かにあのことがあった直後の数日は、みゆきの肢体が目の前にちらついて、また、とんでもないことをしてしまったという自責の思いもあって勉強に身が入らなかった」
「………そうでしょうね」と美樹。
「でもしばらくたって落ち着いてくると………」
「どうなりました?」
「あの年頃の男というのは、女の子に、まあ女性一般といってもいいけど、大きな関心があっる。はっきり言っちゃえば女性の体に、だけど」
美樹が無言で頷く。
「正直言ってあの頃は受験のことと女体への興味しか頭になかったような気がする」
「そうなんですか」と美樹。
「これは僕だけではなく、その年頃の男全般に言えるんじゃないかな」
「その関心事の一方を、思いがけなく実地に体験することが出来た。これは大きな自信になった」
「自信ですか。わかるような気がします」
「他の同級生たちが、未体験の性の煩悩に悩まされている時、自分はもう最後まで実際に経験してしまって、彼らの一歩も二歩も先を行っている。これが男としての自信にならなくて何だろう」
「なるほど、そういうことですか」
「その後は煩悩が勉強の邪魔をする割合が減った、と思う。それがプラスになったという意味なんだけど」
*
時計を見るともう10時半を回っている。随分話し込んで時間が経ってしまった。もう帰らなければならない時間なのだが、二人とももうしばらくこのままでいたい気分だ。
最も知られたくないことを最も知られたくない人に話してしまった。どうしてだろう、でも後悔はしていない、と美樹は割り切っている。このバーに来て今日はこの人には自分の恥ずかしいことも何でも打ち明けてしまってもいい、と思い、迷わずそうした。さらけ出したことで斎木はただの同僚から、特別な存在の人となった。
「あたし、あのサークルの一件以来少し男性不信になってました。あの後近づいてきた男の人もいましたが、相手にしませんでした。でも社会に出て、そういう気持ちはだんだんなくなりました。私のまわりにも斎木さんのような素晴らしい男の人もいっぱいいるし………今日は私の恥ずかしい話を聞いていただいてありがとうございました」
そうか、美樹にとって大学時代のあの一件は男性不信というトラウマになっていたんだな、と孝紀は思う。
孝紀としても美樹にせがまれたとはいえ、高校時代の初体験をあそこまであからさまに美樹に話してよかったのかと思わないこともない。今までこのことは親しい友人にも誰にも話したことはない。ずーっと自分一人の胸にしまってきたことだ。いや、正確に言えばみゆきがいる。みゆきとはこの秘密を共有している、言わば「共犯者」だ。みゆきには申し訳ないが、今夜美樹という第三者に話してしまった。ゴメンなみゆき。
「こっちこそ、高校時代のろくでもない話を聞いてもらってごめん」
「ううん、あたしが無理にせがんだから。ごめんなさい。でも聞かせてもらってよかった。あたしの場合とは違って、すばらしい青春の思い出じゃないですか。うらやましい。あたしも今日斎木さんから聞いた話は絶対に誰にも漏らしませんから。約束します」
「ありがとう」
今夜、お互いに恥ずかしいことをさらけ出しあったという意味ではこれもまた、二人の間で行われた形を変えた「お医者さんごっこ」なのかも知れないと孝紀も美樹も思った。
*
バーを出て新橋の駅まで歩く間に孝紀は今週末に再び二人だけで会う約束を美樹から取り付けた。3時間ほど前まではお互いに多少の好意や関心を抱いていたとしても、同僚の域を出なかった二人の関係はいまや一変した。秘密を共有したことで劇的に二人の距離は縮まった。孝紀は並んで歩いている美樹と手をつなぎ、駅までの道をゆっくりと歩む。
(終)