五話『決心と共に』
あの惨状を見た後、彼女は頭の中が真っ白になった。
そして、今の自分に出来ることはただこの場から逃げる事だと。
そう判断して、自身の我が家である氷城へ逃げ帰った。
◇◇◇
一夜、吹雪の中を布切れ一枚で走り続けて氷城に帰ってくる。
一回も足を止めずに、ただ無我夢中に走り続けて、ここに帰ってきた。
一か月ぶりの帰還だというのに、『嬉しさ』はこみ上げて来ることはない。
─────嬉しさ?
それは一体、なんだったか。
それは当の昔に、忘れてしまった。
いつか、聞いた気がする。
外はもうとっくに日が沈み、暗闇が支配していた。
氷城の一番上の階層へと裸足で階段を駆け上がり、その階層に鎮座する自室へと入った。そして、自室に入るや否や彼女はフカフカのベットに潜り込む。
どすん。と、鈍い音を立てながら。
「─────」
コトバなんて、彼女の喉からは生まれることはない。
もう、何も考えたくない。雪の姫の現心境は、その一心であった。
ただただ、曇天に沈む気持ちを抑えつける。
ただただ、自分の我欲を抑えつける。
ただただ、抑えつける。
─────。
ふと思う。なんだろう、この感情は、と。
気が付けば、彼女の頬には水溜りが出来ていた。
それは言うまでもなく─────涙。
(なんで、私。泣いているんだろ……?)
彼女は、自分自身でも泣いているのに理由が見つからず。
困惑一色であった。
何故、自分が泣いているのか。
(私、やっぱり酷い魔女なんだな……)
自覚する。
人を殺しておいて、逃げて、被害者ぶるとか。最低にも程があるだろう。
そう、自覚する。それは、あまりにも酷い魔女だ。
訳もわからず、理性さえも崩壊して、ただ被害者として生きている。
死ぬことさえも許されない。
逃げに許しを請うなど、それこそ自分にとって許されていない事だ。
─────雪の姫。彼女は独りきりで、そんな風に悲観した。
「あーーあ、私。ダメだな……やっぱり」
何故だろうか。この何世紀もの間、こんなにも感傷的になったことなんてないのにな。なんで、今。私は、泣き崩れているのだろう?
─────彼女は、ただ独りきりで、ベットにうずくまって、泣きじゃくっていた。
何故だろうか。悲しいとか、そんな感情。
忘れてしまっていたはずなのにな。
なんでだろう。
彼女はそう思う。そして、それと同時に不思議とこみ上げてくる我欲に腹が立つ。
─────それは単純なもので『彼に、シノヤに、会いたい』。
そんなあまりにもわがまま過ぎる、その感情に。
腹が立った。
ただ彼女はうずくまって、泣きじゃくる。
彼も、私も守るために貴族に歯向かっていた姿を見た。
今頃、彼は処刑されしまっていたりするのだろうか。
いいや。それはもう。
(それは、考えないでおこう。─────だって、もう、それは、私にはなんの関係もない事なんだから。もう、寝よう。こんなつまらない世界は、いや)
彼女はそうして。
目を瞑る。
だが、なんかの間違いか────ある一人の、男の声が聞こえてきた。
「姫!! おい、起きろ。……なぁ、寝てないで起きろよ、雪の姫さん!」
「─────え?」
「────えーーーーと、雪の姫さん? どうしたんだよ、そんなに俺の事見ちまって。……怖い、とか?」
眼を見開いて、部屋の入口を見る。
すると、そこには、一人の男が立っていた。
男の名は『柊志乃也』。
アルシュダイスト騎士団に所属する、ただの一般人である……。
~シノヤ視点~
雪の姫が、彼女は、貴族であるガッシュを氷漬けにした後、吹雪の先に消えてしまった。その状況を理解したのは、彼女が逃げてから実に一時間も先のこと。
一時間も経っていたというのに、その状況は全くもって変わっていなかった。
このアルシュダイストを支配するメーディカリア家の令嬢である バティライット・メーディカリアは、ただひたすらこの惨状を目の当たりにして叫んでいる。
一時間も、ずっと。膠着状態だった。
俺も困惑していた。
たった一か月、共に過ごしただけの彼女であったが。
その間で、何度もの会話を繰り返したが。
今日のような、彼女の一面を見たのは始めてのことだった。
「─────」
正直に言うと、怖かった。
とっても、怖かった。
だけど、それは彼女に対して失礼だ。
なにせ、彼女だって被害者なのだから。
彼女があのクソ貴族に強姦されかけなければ、こんな事態にはならなかったはずなのだから。悪いのは、ここに死んでいる死体だ。
そうだ。そうに決まっている。
ある話をしよう。
俺は未だ名前も知らないあの美しい雪の姫に、始めて出会った時に一目惚れした。
最初、アルシュダイストで有名で、恐れられている雪の姫を捕獲したから監視していろと命令された時は、終わったと思っていたが。
実際に会ってみれば、どうだ?
彼女は、ただのいたいけな少女であったではないか。
彼女をそんなにも恐怖の象徴として掲げているのは、例の呪いという所為なのだろう。でも彼女と一か月、話していれば─────感じたのだ。
彼女は不運な存在だと。
彼女は一回だけ、愚痴を吐いてくれた。
それは、なんでこんな呪いを持っているんだろう。なんて話だ。
その内容はシンプル。
『私さ……人に触れたら、その人を凍らせてしまう呪いを持っているんだけどね。それが、とても怖いの。なんでそんな力を持っているのかも、分からないし』
なんて事を告げていた。
なんだそれは、もし俺がそんな力を持っているならば─────。
それは、酷く辛くて死にたくなると思う。
だというのに、彼女は健気に生きていた。
誰にも迷惑をかけないようにと、独りきりで氷城に籠っていたのだ。
他に彼女は何か隠しているかもしれないが、そんなの関係ない。
俺だって、彼女に隠している事はある。
彼女はただ、普通に生きていたのだ。
だというのに、俺らアルシュダイスト騎士団は……。
なんとも身勝手な理由で、彼女を捕縛したのだ。
そりゃ、辛い。
逃げたくなる。
絶対に。
「─────」
俺が呆然とその場に立ち尽くしていると、騎士団の団長がやってきた。
部屋のドアを大きく開いて、独りきりでやってきたのだ。
それに気がつくと同時に、俺も体を起こして立ち上がる。
彼は怪訝そうに眉をひそめた。
いいや、予想通りだと笑うピエロのようにも見て取れる。
「くくく、だから言っただろうガッシュ。……なんとも、馬鹿な貴族だな。氷の魔女に、生身で挑むとは」
アーロバイトは薄気味悪く笑っていた。
この血生臭い惨状を見て。
ああ、そうか。と理解する。
この状況さえも、コイツの予想通りなのか……と思う。
昔からアーロバイトを見てきたが、コイツは凄い。
あらゆる知恵と、圧倒的な頭脳と、それに対応する技術を持っている。
だから、どんな戦地でも生き残り自軍を勝利へと導いてきた。
まるで、人外的な存在。
あらゆる戦況を己の手の平で弄ぶ。
まるで、悪魔のような存在。
だが、今はコイツなんてどうでもいい。
俺はどうしても、彼女の所に向かいたい。
だから、コイツを無視して扉を通り抜けようとした。
すると─────アーロバイトは、話しかけてきた。
「ヒイラギシノヤ」
「……っ、やっぱり呼び止めるんだな」
「当たり前だろう? お前、それは死にに行っているのも同然だぞ? どうした? シノヤ、お前は優秀な兵士だったはずだ。こんな所で、そんな選択肢を取るような人間じゃあない。─────だよな? シノヤ”副団長”?」
そして、そんな妄言を吐いてくる。
ははは、馬鹿にするのも程々にしろよ天才が。
心の中で舌打ちをする。
俺が優秀な兵士とか、ふざけんな。
俺がアルシュダイスト騎士団の副団長までこれたのも。
全て、戦地で何人もの屍を踏み越えてきたからこそだ。
何も、誇れることじゃあない。俺が、彼らの命を略奪してきたからこそだ。
そこには、誉とか、何もない。
俺のプライドなんて、当の昔に崩れ果てた。
というかコイツ─────そんな事で呼び止めて、俺が諦めるとでも思っているんだろうか?
いいや、違うな。
コイツは、遊んでいるだけだ。
そう断定する。
「……どうせ、お前は知ってるだろ?」
「ああ、そうだな。どうせ、ここで呼び止めた所で貴様は”氷の魔女”の城へと向かうだろう。まぁ、良い。それもまた一興というものだ。なにせ、貴様はあの魔女に惚れているのだろう? ……恋は盲目とは、実に言い得て妙」
「─────」
「そうだな、言っておくが。貴様がアイツの城へ言ったところで、何も変わりはしないぞ? 彼女の呪いは既に消えかけている、そして、今回。ガッシュを凍らせる為に魔女が発動した魔術で、アイツの呪いは完全に消えた」
「ということは……」
俺の気持ちは、どうやら簡単に見抜かれていたらしい。
だが今は、そんな事どうでもいい。
思い出す。
確か昔に、コイツは言っていたはずだ。
コイツの目的は『彼女の力を殺す』というものだったな。
そうか。
そうして、合点がゆく。
「そうだ。つまるところ、これにて俺の目的は完了したということ」
呪いというのは、体内に蓄積された魔力を常に消費して発動しているのだ。
所謂、魔力とは体内蓄積された生命力。
それすなわち、呪いの効果が消えるということは、体内からの魔力消失。
同時に、生命力の消失を意味する。
つまり、死に至る。
─────。
絶句する。彼女は、儚く散っていくのかと。
そしてアーロバイトの目的の、真の意味を理解した。
「そうか、お前は……アイツを、殺そうとしてたんだな」
「ああ、そうだ。やっと理解したか、お前にしては遅かったな。─────今更、彼女の所に向かっても、もう遅い。凍結された魂は急速に解凍されて、感情が暴走しているはずだからな」
「はは、そうか……」
気力を、少しそがれる。
─────ダケど、ダメだ。
それが、コイツの狙いかもしれないだろう。
そう言って、俺の行く気を逸らす作戦かもしれないだろう。
「貴様は行っても、無駄死にするだけだ」
「そう、か……」
腕をぶらんと、脱力させる。
そして、その次に。
聞きたい事を問う。
「聞きたい事がある……」
「なんだ?」
「お前はさ、これからどうするつもりなんだ?」
「そりゃあ決まっているだろう。アイツはもう放っておいても死ぬ存在だが、俺は彼女の魂に定着した消えても残る呪いを回収する為に。彼女を殺しに行く」
「─────、ッ」
空気が凍る。
またしても。そう、か。と理解する。
そうか、お前はアイツを殺しに行くのか。
じゃあ、俺が城に行けば。俺が彼女を養護すれば。
俺も、殺される……か。
そんな未來が、あまりにも容易に想像される。
分かり切っている事だ。
実に分かりやすいことだ。
─────だけど、歩みを止めるわけにはいかないだろう。
「彼女はもう魔法なんて、使えないのだ。魔力なんて、彼女には一ミリも残っていない。魔法が使えない魔女など、俺の敵ではない」
隣で嘲笑するアーロバイトは、そんな事を告げた。
だから、俺もそれに返答する。
─────進み続ける。止まりなんて、するものか。
だって、俺は彼女に─────アイツに。
「─────そうか、ありがとう。でもな、俺は……アイツに惚れちまったんだ。お前もさ、理解してるだろ? 俺はチョロい男だしクズだと、自分で思ってるんだ。だってまず彼女の容姿を一目見た時に欲情して好きになっちまった。それから、仕事だの言って言い訳して彼女に話しかけた。彼女のことが知りたかった、でもさ。そんな我欲を出し切っている自分が本当に、彼女を見ていると厭になった。彼女はなんでこんなにも真摯に俺の話を聞いてくれているのに、俺は体目的なんだろう……ってな。馬鹿か俺は、クズすぎるってな。完全に心を入れ替えたって訳でもない、ただ自分が本当に面白い、素敵だと感じた事を色々な事を話してやったのさ……。俺の自慢話とか、最初はしてたけど。そんなくだらない話はやめて。本当に、”彼女が欲している楽しい世界の話”をしてやったんだ。それで、彼女と話している内に、気付いたんだ。彼女は本当に不運で、呪いの力なんて持っていなければ、普通の可愛く愛おしい一般人の少女だったんだろうなって。─────気が付けば、俺は彼女の心に浸食されていて、彼女を見ていないとソワソワしてきたんだ。彼女はさ、健気で、純白で、美しい雪の姫。
なあ、アーロバイト。お前には分かるか……? 俺はな、そんな無邪気にも健気な彼女を、気が付けば自分の今までの立場を捨てる様な行動をしてまで助けようとするほどさ、惚れていたんだ。例え冗談だったとしても、彼女は俺に『貴方が消えれば、退屈する』と言ってくれたんだ。こんな狭い空間、たった一か月の関係での間の話だけどさ……。その中で、彼女は俺を必要としてくれてたんだ。
俺は本当に、それが”嬉”しかった。彼女の本心は知らない。だけど、彼女もそれは同じだ。だからさ、俺は彼女に自分の気持ちを伝えにいくんだ……」
だから、俺は止まるわけにはいかない。
それはあまりにも酷い我欲。
自己中心的すぎる独りよがりな言葉。
だけど、俺には本当に、彼女が必要だ。
ただ一か月話しただけなのに─────。
なんともちょろい男だ、俺はよ。
そして。アーロバイトのそれを聞いたら、余計に。
俺は彼女に会いたい衝動が強まった気がした。
なんでだろうな、俺は馬鹿だろうか。
「成程、実に醜い我欲だ。これが貴様の美徳か、シノヤ。もう一度言う、貴様が行っても無駄死にするだけだぞ?」
「ああ、ご忠告感謝するよ。だけど言ったはずだぞアーロバイト。俺も変わらない、俺は彼女に気持ちを伝えて、その結果がどうであろうと……彼女を、助ける」
「ふむ、俺もクズで狂っているが。貴様も俺と同じぐらい、狂っているな─────」
「そんなのとうに理解している。……俺はもう、決めた」
過去を償う為にも、俺は行かなければならない。
もうすでに、決心した。彼女を助ける。そう、今ここで宣言した。
俺は吐き捨てる様にアーロバイトに感謝を告げて、部屋を後にする。
例え、それが傲慢だろうと。例え、それが偽善だろうと。
例え、それが自己満足だろうと。
俺は、止まるわけにはいかないんだ。
外に出れば顕現する凍り踊る粉の舞。
白雪。白昼夢にまばゆい、冷たく暖かい灰が降る。
一面雪景色に冷やされた外気は、吸えば肺さえも凍結させた。
その錯覚。痛みと共に、意識をより強く保ち。
その瞬間。
決心は、より強く結びついた気がした。
外に降る吹雪は、いつもより強く。
儚く。
美しかったのを、俺は覚えている─────。