聖地
ある日の放課後、私は教室の掃除を終えると共に学校を飛び出し、眩い夏の日差しの中を自転車で疾走した。
私には、岸村祥太郎という幼なじみがいる。超がつく程の野球バカで、地元でも野球の強い名門校に通っている。
ガシャガシャガシャ、キキーッ。私は、とある病院の駐輪場に自転車を停めると、走って病院の中へと駆け込んだ。
「おばあちゃん! おめでとう!!」
「……あら、美木ちゃん」
祥太郎のおばあちゃん。体の調子が思わしくないらしく数年前から入院している。でも、お母さん達はそんな和らげた言い方でいつも私を煙に巻くけど、意識もハッキリしている人がこんなに長く入院しているなんて、つまりはそういう事なんだろうと思う。昔からおばあちゃんに遊んでもらっていた私にくらい、どんな病気か教えてくれても良いじゃんって気はするけど、きっとそういうものなんだろう。
「あらあら。わざわざお祝いに来てくれたの?」
「うん」
おばあちゃんが全快した――って話なら良いんだけど、それなら退院してる。
「甲子園出場、おめでとう」
祥太郎が四番を務めるチームは、今年甲子園出場を決めた。三年目にしてようやくの祈願達成だと祥太郎のお父さんや町の人々は大騒ぎしている。私には、その凄さというものがいまいちピンとこないけど、とりあえず凄いっていうことぐらいはボンヤリと理解してる。
「ようやく、おばあちゃんの夢が叶うかもね」
私は笑ってそう言った。
「そうだと良いけど」
おばあちゃんも優しく笑った。
――祥太郎が甲子園で優勝する姿を見るのが夢。祥太郎が野球の強い高校に入ってから、いや、きっとその前から、おばあちゃんはそう言っている。
「でも、簡単な話じゃないからねえ」
おばあちゃんはそう言って苦笑した。おばあちゃんは昔から甲子園にやけに詳しい。去年も一昨年も、毎年この時期は病室のテレビで甲子園に釘付けになっている。だから、きっと高校時代は野球部のマネージャーをやっていたんだろうと私は勝手に推理してるけど、なんとなく確かめる気にはならない。
(今年ぐらい、球場で試合を見れたら良いのにな……)
でも、それはきっと難しいんだ。おばあちゃんの弱っていく姿を見ていて私はそう思う。
(!)
閃きが頭の中を照らす。
「そーだ! 大丈夫、大丈夫だよ!」
私は立ち上がり、病室という事を忘れ少し大きめに声を張り上げた。
「ど、どうしたの? 突然」
「ううん、何でもない!」
私は顔の前で両手を振った。
「それより、今年の祥太郎には期待しててね。きっと大活躍するから!」
それを聞いて、おばあちゃんはまた笑った。
――自転車を漕ぎながら、思わず笑みがこぼれる。私は、ちょっと遠出になるけど祥太郎の通う清陵高校を目指した。
***
「……ここか」
息は切れ、汗が頬を伝いながら、私は清陵高校に辿り着いた。
「うわー、やっぱ凄いな。立派なグラウンド。ウチのオンボロ高校とは大違いだや」
もう七時を回っているのに、野球部は練習をやめる気配は無い。
(ウチの連中なんてもうとっくに練習終わってるよ。やっぱ違うなあ。……当たり前か)
フェンスの外にいるのに、熱気が伝わってくる。とても「祥太郎ー」なんて声を掛けられる雰囲気じゃない。
(……しょうがない。待つか……)
私はフェンスに寄りかかった。
足を交差させたり、小石を蹴ったり、金網のほつれをいじったり。流石に、ポロシャツ一枚じゃそろそろ寒い。膝を抱える様にしゃがみ込み、顔を膝にうずめた。
「おい。美木」
……誰かが私を呼んでいる。
「おい」
フェンスの後ろから私を呼ぶ声。私は後ろを振り返った。
「祥太郎!」
「お、やっぱ美木だった。何やってんだこんなとこで」
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。もう真っ暗だ。
「久しぶり。ちょっとだけ時間取れる?」
祥太郎は少し訝しげな顔をした。
「ま、別に良いけど」
む。なんか偉そうにしやがって。
「祥太郎、私スゴイ力を手に入れたのよ」
私はフェンス越しに話を始めた。
「あ? いきなり何言ってんだお前」
「フフン、まあ説明するより実際に見た方が分かりやすいよね」
「?」
祥太郎は少し憐れみすら含んだ目で私を見ている。
「祥太郎。バラの花言葉って知ってる?」
祥太郎は、あまりに想定外の質問だったのか一瞬私が何の事を言っているのか分かっていないようだったが、まあ少しでも落ち着けば質問自体はこれ以上ない程に単純で。
「知ってるわけねーだろ。なんだお前」
「こんばんは」
祥太郎は、私に向かって丁寧におじぎした。
一瞬、空気が固まった後、我に返ったように頭を上げる。
「うわっ! なんだ今の!?」
「ふふ、これが凄い力よ。簡単に言うとね、さっきみたいな質問に答えられなかった人が予め私が決めておいた行動をとるの。一つの花ごとに一つの行動」
質問を聞きながら、祥太郎の顔色が変わる。
「さっきは、私がバラの花には『挨拶』を設定しておいたから質問に答えられなかった祥太郎が突然私に挨拶したわけ。ね? 凄いでしょ?」
私は自信満々に親指を立てた。
「す、すげーっ! なんだこれ! まじすげーじゃん!」
祥太郎はまるで子供の様にはしゃぎだした。フェンスを掴み顔を近づける。
「何でもできんの?」
「何でもできます。常識的に考えて無理って事は無理だけど」
「うっわ、マジびっくりした。普通に信じられねー」
祥太郎はすっかりテンションが上がりきってしまっている。私はそれが嬉しくて。
「それで、私ね、今でも時々祥太郎のおばあちゃんのお見舞いに行ってるんだけど、やっぱりおばあちゃんの夢は祥太郎が甲子園で優勝する姿を見る事なの」
私は、カバンを開いてノートを取り出そうとしていた。だから、この瞬間だけ祥太郎の顔から目を逸らしていたけど、当然の様に笑っていると思ってた。
「美木」
「だから、私が二人の夢を叶えてあげようと思って。『優勝』とかって書けばきっと祥太郎は甲子園で優――」
「美木!」
私は、思わず体を震わせた。
「あー……、そういう話かよ。聞いて損した」
祥太郎の表情は、信じられないくらいに冷めていて、それが私には信じられなかった。
「言っとくけど、そんな事死んでもするなよ。そんなんしてもらって優勝したって嬉しくもなんともねーよ」
祥太郎は淡々とした口調で続けた。
「は……はあ!?」
私は、思わず語調が強くなるのを自分で感じていた。
「なに言ってんの!? ずっと甲子園で優勝したかったんでしょ!? おばあちゃんだって、ずっと応援してくれてたんじゃん! それに応えようとかって気持ちは無いわけ!?」
その瞬間、祥太郎の目は怖いぐらいに私を睨みつけた。
「お前には分かんねえよ」
祥太郎はそう言うと後ろを振り返り、グラウンドの奥へと歩いていった。
「な……、なんだよそれ!」
ガシャン! 私はフェンスを叩き、揺らした。唇が震え、否が応にも口調が強くなる。
「待てよ、祥太郎!!」
それでも祥太郎は、二度とこちらを振り返りはしなかった。
「な、なんだよ……」
意味が分からない。せっかく、夢を叶えてあげようと思ったのに。
「バカァ!!」
小さくなってゆく背中に向かって、私は思いっきり叫んだ。