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俺は無造作に、柔道着の袖を掴まれた。
「ねえ、月山君」
柔道少女は、身体の向きを変えずに俺の袖をつかんだまま、横顔で話しかけてきた。
小柄な女の子なのに、その袖をつかむ力はとても強く感じられた。
いやな予感がするなあ。
うん、間違いない、これは、柔道部に勧誘される。
部員が少ない部活の新人勧誘の必死さは、入学時にいやというほど味わった。
アニメ鑑賞部とかがあればそりゃ少しは考えたかもしれんけど、残念ながらそれ系の部活もなく、野球部だのサッカー部だのボート部だの書道部だの文芸部だの応援部だの、襲いかかる数々の勧誘を断り続けたんだ。
もちろん柔道部なんてごめんだ。
俺は、絶対に断るぞ。
いやまあそりゃさ、結構かわいいなって思っていたクラスメートと部活だなんて、青春の一ページとしては悪くない気もするけどさ。
でも、こいつ、黒帯の使い込みようからして、どう考えてもガチっぽいし。
キャハハウフフの甘ったるい目的不明な謎のクラブ活動ならともかく、汗と涙にまみれた燃え上がる青春系筋肉系部活動なんて、ごめんだ。
そう固く決心した俺の袖を掴んだまま、羽黒が小さめの声で、おずおずと言った。
「あのさ、月山君、柔道、やってみない? さっきはああ言ったけど、やっぱり練習相手はほしいんだよね」
ほらきた。さ、俺はこんなの、さらりと断るぞ。
「いや、興味ない」
「あ、そう。じゃあいいや」
あれ。思ったよりもあっさりと引き下がるんだな、と思ったところで、羽黒は続けて言う。
「あのさ、月山君、さっきまで野上先生に受け身、教わってたんだよね?」
「ああ、腕がしびれていてえよ」
「じゃ、大丈夫だよね」
なにが、と問う暇もなく。
気がついたら、羽黒は小さな身体をするりとすべりこませて、俺の正面に立っていた。
少女の右手は俺の襟を持ち、左手は袖を絞り込むようにして握っている。
羽黒の身長は俺より頭一つ分低い。
俺を見上げてくるその瞳は、本当に黒くて、輝いていて。
突き刺すような視線でまっすぐ見据えてくる。
「ごめん、一本だけ、投げさせて。ケガはさせない」
「いや、おまえの体格じゃ無理だろ」
控えめに見ても体重差は十キロじゃきかないだろう、もしかしたら二十キロは違うかもしれない。
「大丈夫、痛くはないと思うから」
「え、冗談だろ」
「ごめんね」
羽黒は俺の襟をもった右手首をくいっとひっぱる。
小柄な女の子の力だ、そんなに強くは感じられないはずなのに、あまりに瞬間的に襟をひっぱられたせいで、俺の身体は反射的にバランスをとろうとする。
俺の意志とは関係なく、俺の身体の重心は、反対方向へ動いた。
次の瞬間。
俺は、思い出すことになる。
昔遊園地で乗ったジェットコースター、そのレールの頂点から一気に下るあの感覚を。
自分自身の身体から重力がなくなる、その瞬間を。
小柄で力もそんなになさそうな羽黒が、身体全体を使って俺の身体を斜め上方向へとひっぱり――重心を動かされていた俺はなすすべもなくつま先立ちになる――そして、羽黒は消えた。
いや、消えたんじゃない、背中を向けて俺の懐にすっぽりもぐり込んだのだ。
上へと誘導されて思わず重心を低くしようとする俺。その俺の身体の動きにあわせるかのように羽黒は腰を落とす、羽黒の頼りないほど小さな背中に多い被さるような姿勢になり、あ、俺この子を押しつぶしちまう、と思って、なのにそこにあったはずの羽黒の背中はすでになく、いや違う、ひねりを加えた重心の移動によって俺の身体がくるりと回転させられたのだ、今はもう俺の身体は畳の上にあった。
見えるのは、天井と、そしてこちらを見つめる羽黒の……きれいな、黒い瞳。
電光石火の背負い投げだった。
痛みなんか、ぜんぜんない。
投げられた、というよりも、なにがなんだかわからないうちに回転させられてふわりと優しく畳に置かれた、そんな感じ。
信じられない。
なにが起こったっていうんだ?
「ね、大丈夫だったでしょ?」
まだ俺の襟と袖を持ったまま、少し嬉しそうな笑顔で羽黒が言う。
「へへ、久しぶりに人を投げたよ。気持ちいいね」
教室では決して見たことのない、屈託のない笑み。
羽黒は俺の胴着から手を離すと、あふう、と息を吐き、
「やっぱ、人を投げるのは、いいね、んー……あはぁ、ほんっと……きんもちいい……快感だぁ……」
と言った。
俺はまだなにが起こったのかわからないまま、立ち上がる。
なんだ、今の? 無重力状態って、こういうのを言うのか?
嘘だろ、こんなちっちゃな女の子が、男の俺をこんなに簡単に投げたってのか?
目の前の少女の顔を見る。
羽黒は、教室では決して見せたことのない、まっすぐな笑顔で、ニッコリと笑った。
「ね、あんたはどうだった? 気持ち、よかった?」
普通に考えれば、畳の上にぶん投げられて気持ちいいとか言う奴なんて、変態以外にはありえない、俺にはそんな趣味はない。
なのに。
なのに、確かに、俺は思ってしまったのだ。
気持ちよかった、と。
「ね、どう? 私の、気持ちよかったの?」
とりようによっては誤解されるような聞き方をする羽黒。
「まあ、たしかに、痛くはなかったし、……気持ち、よかった」
俺はあほみたいに、正直に答えてしまうのだった。
「あは、じゃあ、もう一回ね!」
「え? まじで? ちょっと待って――」
羽黒はかまわず、再び俺の襟と袖を持つ。そして、鋭い声で、
「腰引かないで背筋のばして!」
ついついそれに従ってしまった次の瞬間、またもや俺の身体から重力が失われた。
全身がくるりと回転して、気がつけばもう天井を向いている。
――やべえ、これ、本当に、……気持ち、いいぞ……。
なんというか、中毒性すらある気持ちよさだ。
いやいや、俺が傷めつけられて喜ぶM体質だとか、そういうことじゃなく、普通なら味わうことのない無重力状態に陥るのが、ただ本当に純粋に気持ちがいい。
「なんだこれ、野上先生に投げられたときはただ痛いだけだったのに……野上先生だって、同じ黒帯だろ」
「野上先生、専門はレスリングだもの、道着になれてないんだと思う。昇段審査会って実践形式だから、レスリング選手が中学生や高校生に勝って黒帯とるなんて、結構あることなんだ。でも、私はね、」
もう、それが自然で当然、というふうに俺の襟と袖を握る羽黒。
「私は、三歳の頃から柔道一筋だったんだから。道着のどこを持ってどう力を加えれば、相手のバランスが崩れるか、それだけを――」
全身の筋肉をバネのように伸縮させ、羽黒の小さな身体が軽い体重のすべてを利用して、俺の重心を崩しにかかる。
あとは、今までと同じ。
無重力、くるり、そして見える天井と羽黒の瞳。
「それだけを考えて過ごしてきたんだから。ね、月山くんってさ、すごく投げやすいね。スポーツやってるようには見えないけど、体幹の筋肉がしっかりしてるんだと思う。くにゃくにゃしてなくて、投げやすい。そういう人は大抵強いんだけど。じゃ、もう一回」
初夏の風が吹き込む広い柔道場、密かにいいなと思っていたクラスメートと二人きり。
真剣な、でも人を投げられる悦びを隠し切れないような、そんな表情の羽黒と向き合う。
彼女はその場で軽くトントンとジャンプする。それにあわせて羽黒のポニーテールもピョンピョンと飛び跳ねる。
教室ではどちらかというと地味なおさげのくせに、いま目の前にいるこいつは、どうみても快活なスポーツ少女だ。
女の子って、髪型がちょっと違うだけでこんなに印象が変わるんだな。
「ほらほらいいでしょ、も一回、ね」
羽黒の言葉に、俺は催眠術にでもかかったかのようにコクンとうなずき、彼女と組み合う。
次の瞬間に見えるのは、やっぱり天井と黒真珠のように輝く大きな瞳。
「よし、じゃ、もう一回」
投げられる瞬間、自分の身体から重さというものが消え去るのがおもしろくて、俺はつい応じてしまう。
こうして、そこから何十回もクラスメートの女の子に投げられ続けるのだった。
時間を忘れてしまうほどに。
俺は投げられ続ける。
五十回目だろうか、百回目だろうか。
いくらほとんど痛みを感じないとはいえ、ここまで繰り返し投げられて受け身をとり続けていると、さすがに少し身体がジンジンとしびれてきた。
羽黒も小さな肩を上下させて呼吸を荒くしている。
ふと、俺はいたずら心を出した。
いくらこいつが柔道の有段者だといっても、男と女なのだ。体重の差、そして筋肉の差は歴然とあるはずだ。
こんなに簡単に投げられ続けるっていうのも、なんだかシャクだ。
今までは投げられるのがおもしろくてそんなことはしなかったけれど、もし、全力で背負い投げを阻止しようとしたらどうなるのか?
羽黒が襟と袖をつかんでくる。
柔道少女はそろそろ体力を消耗してきたのか、額から汗を流し、はあはあと荒く息を吐き出している。
今なら、男の意地ってものを見せられるかもしれない。
「じゃ、もう一本」
羽黒は額を袖で拭うと、俺と組み合う。
そして今まで通り、俺の襟と袖を自分の方へとひっぱりあげる。
――今だ!
俺は思い切り腰を引き、投げられまいと全力で重心を後ろにかけた。




