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ドタン。
バタン。
畳が、揺れる。
うるせえな、ゆっくり眠れねえだろ。
そう思うけど、耳許で鳴る音は止む気配がない。
あれ、ここどこだっけ。
そうだ、学校の武道場だ、ついつい眠っちゃったんだな。
俺は目を開け、上体を起こした。
武道場の、開け放されたままのドア、そこからの西日がまぶしい。
音がしているのはそちらの方からだ。
ドタン。
バタン。
音の主が、そこにいた。
柔道着を身につけた、小さな人影。
太陽が作り出す逆光のせいで、顔はよく見えない。
突き刺すような西日の中、そいつの輪郭だけが浮き出ているように見えた。
その輪郭が、俺の目の前で、小気味よい音をたてながら小さな身体をくるくると回転させている。
マット運動の、飛び込み前転に似た動き。
くるりと身体を回転させ、腕を畳に打ちつけ、そして立ち上がり、また打ちつける。
激しい動きなのに、背筋に芯の入った姿勢は揺らぎがなく、一つ一つの動作がきびきびとしている。いや、しすぎていて、人間の動きじゃないんじゃないか、とすら思わせる。
――まるで踊っているみたいだな。
俺は寝起きのぼんやりとした頭でそう思った。
夕日の強い光で俺は目を細める。
その襲いかかる光から逃れようとしているかのように、小さな人影は回転し続ける。
映写機が映し出す影絵みたいだ。
俺、今夢でも見ているのか?
いや、夢じゃない。
だって日の光でこんなにも目が痛い。
それに、この動きは俺も知っている。
さきほど体育教師に何度もさせられていたやつだ。
柔道の、前回り受け身。
立っている状態から前転するように片手から畳に飛び込み、一回転して受け身を取る。
俺がやると、陸にあげられた魚のようにみっともなく畳の上でビチビチとのたうちまわるだけの運動だ。
だがそいつの受け身は、俺のとは違って流麗で滑らかで、なんていうか、馬鹿みたいな表現だけど、美しさすら感じさせるものだった。
右腕から畳に向かって飛び込む、一回転する、バン、と小気味よい音を響かせて受け身を取る、そのまま勢いをつけて立ち上がり、今度は左腕から。
ドタン、バタン。
それが、音の正体だった。
ふーん前回り受け身って、こんなに綺麗にできるもんなんだなあ。
感心しながらしばらく眺める。
と、そいつは、俺が上半身を起こしているのに気づいたようだ。
受け身の練習をやめてそばにやってくる。
西日は強く、逆光のままで顔はやっぱり見えない。
俺の他にまだ補習を受けるやつがいたのか、と思った。
だけど、すぐにそうじゃないことに気づく。
強い日差しの中、光を吸収する色――つまり、黒――だけが、くっきり見えたのだ。
それは、帯だった。
黒い、帯。
確か、柔道で黒帯を締めることができるのは、初段からのはずだ。
授業の時だけ柔道をやるような生徒は、黒帯なんか普通持っていない。
つまり、補習ではなく、部活ということだろう。
近くで見ると、その黒帯はところどころ布がほつれて、中の白い生地が見えていた。よほど使い込まれているのがわかる。
しかし、丈夫そうな作りをしているのにここまでボロボロになるとは、どれだけの間この黒帯を締めて練習してきたのだろう。
柔道の帯ってのも使い込むとこうなるのか、などと思いながら目の前の黒帯を眺めていると、
「目、覚めた?」
黒帯の主の声が聞こえた。すっきりとしていて、心のまっすぐさが感じられる声。俺は慌てて答える。
「あ、す、すいません、邪魔でしたよね、柔道部の練習……」
「違う。柔道部は廃部になってるでしょ」
「え、でも……その黒帯……部活じゃないんですか」
「これは中学の時とったの。……柔道部がなくても、練習はしてもいいっていうから。ま、危ないから乱取りは禁止って言われたけど、相手がいなくちゃ乱取りのしようもないからね。っていうか。同じクラスになってもう一ヶ月も立つんだし、同級生相手に敬語はいらないと思う」
同級生?
そこで初めて俺は顔をあげ、そいつの顔を見た。
同時に太陽が校庭の木の影に隠れる。
逆光が消え、はっきりとそいつの姿を見ることができた。
目の前にいたのは、見知らぬ女の子だった。
ポニーテールにまとめている黒い髪、白い肌に意志の強そうなはっきりとした眉、俺を見下ろす黒い瞳、真っ白な柔道着に黒い帯。
目に眩しい白と、重厚な黒のコントラストが、小柄な少女の身体に存在感を与えている。
あれ、こんな奴、教室にいたっけ?
ちょっと頭を巡らす。
いや、いなかったような。こんなかわいい娘がいたら、誠に残念なことに普段は普通の女子と会話を交わすことのない俺でも、必ず記憶に残っているはずだ。
えーと……。
顔を凝視する。
少女は、びっくりするくらい大きな瞳で見つめ返してくる。
主張しすぎない綺麗な鼻筋、きゅっと引き締めている薄桃色の唇、そういや見たことあるような気もするけれど、うーん……?
でもまあ、会ったことないと思うんだけどなあ。
いやでもこの大きな黒い瞳は確かに見覚えがある。
この瞳の持ち主に、入学式の日に少しときめいた記憶がある。
でも、まさか?
少女の柔道着に視線を移す。
その胸には、室側女子、と刺繍がされていた。
聞いたことのない学校の名前だ。
なんだか混乱している俺の表情をどう思ったのか、少女は腕を腰に当てて短くため息をついた。
その拍子に黒帯が揺れる。
その黒い帯には、赤い文字で、羽黒、と刺繍が入っていた。
「あ。……羽黒、……楓……?」
「あは。さすがに、同級生の名前くらいは覚えていてくれたんだね」
羽黒は快活な笑みでそういう。
「ま、月山くん、あたしの顔は覚えてなかったみたいだけど」
「え、嘘だろ、お前、ほんとに羽黒なのか?」
「そうだよ、毎日一年四組の教室で会ってるじゃない。あなたは、えっと、月山淳一くん、だよね?」
俺はコクン、と頷く。
なんだか信じられなくて、目の前の少女を改めて見る。
この学校に入学して一緒の教室になったクラスメート。
でも、俺が知っている羽黒楓は、こんなじゃなかったはずだ。
メガネをかけた、おとなしそうなおさげの女の子。
内気なのかクラスに馴染めず、休み時間にはいつも一人で文庫本を開いている文学少女、それが羽黒楓のはずだった。
先生やクラスメートに話しかけられても、おどおどしてまともに受け答えもできない、そんな目立たない女子。
俺の斜め前の席で、普段からなんとはなしに目に入ってきていた。
よく見れば整った顔立ちで、白い肌と長いまつげが印象的。
こういうおとなしい子って、ちょっといいな、好みだな、と思っていたのだ。何よりかわいいし。
腰に手をやり、その大きな瞳で俺を見下ろしている――いや、睥睨している目の前のこの少女と、全然つながらない。
髪型も違うし、メガネもかけてないし、それに、内気さなんてちっとも感じさせないその表情。
顔形はそっくりそのままだけど、まとっている雰囲気が違う。別人にしか見えない。
あ、わかった、これ、羽黒本人じゃない、きっと、
「えーと、羽黒の双子の姉妹とか?」
言われて、羽黒は「む」と不快そうな声をあげ、眉をくにゃりと曲げた。
「何言ってるの、この学校に姉妹とかいないから。私は私。あなたと同じクラスの、羽黒楓よ。変なこと言わないで、不愉快だから」
「あ、ああ、悪い……。いや、あまりに印象が違うから……」
「で、月山君、君はここで柔道着を着て、なにしてたの? もしかして、あの、柔道に興味ある、……とか?」
「補習だよ、柔道の。さっき野上先生にさんざん投げられてた、受け身の練習とか言って」
野上というのは、元レスリング選手の体育教師の名前だ。
「……あ、そう。じゃ、別に、柔道部に入部しにきたってわけじゃあ、ないのね」
少し落胆したようすで羽黒はそう言う。
「はあ」
とため息なんかついて、なんだかがっかりしている。
肩を落とすと、ただでさえ小柄な羽黒の身体が、さらにちっちゃく見える。
俺にはチビとアダ名をつけてやった中学生の妹がいるが、その妹くらい体格が小さいのだ。
ちなみに妹をチビ、チビ、と呼んでいたらめちゃくちゃ嫌われて今は口もきいていない。
ま、今はそんなことはどうでもいいか。
しっかし、羽黒ってこんなちっちゃくて、ほんとに柔道とかできるのか? ま、いい、俺には関係ない。
「あーあ、残念だな、期待しちゃったのに」
本当に残念そうな声を出して俯く羽黒。ポニーテールの先っぽが揺れる。
「柔道部は廃部になったんだろ?」
「今、復活の申請中。先生に聞いたんだけど、別に一人でもやる気があれば部活として認めてもいいって言ってた。少子化時代だから、部員集めろとか無茶いわないって。でも、私は自分自身に勝つために柔道やってるようなとこあるからね。一人でもいいんだ。そうは言っても、絶対勝ちたい相手が一人いてさ。そいつにだけは勝ちたいから、こうして練習してるんだけど。そうね、県大会までいけば対戦できると思うんだけど、まずは公式の部活たちあげないと公式試合でられないからね」
経験者とはいえ、たった一人で部活を立ち上げようとしているとは。
教室でのイメージと違って、なかなか芯の強いところがあるみたいだ。
しかしまあ、俺には関係のないことではある。
だいたい、部活で青春を燃やすだなんて。
それも、たった一人の部活で。
自分自身に勝つとか言ってたが、俺にとってはあまりにも理解できない世界だ。
学校が終わったらまっすぐ家に帰って、BSで録画しておいたアニメでも見てた方がよっぽど有意義な時間の使い方だと思う。
今期は期待しているアイドルもの(新作オリジナル)と動物擬人化もの(二期)のアニメをやるのだ、それを見ずしてなんのための青春か。
うん、あまり関わらないことにしよう。
顔は好みだったけど、まさか柔道一直線少女だったとはなあ。
「じゃあ、うん、羽黒もがんばってくれよ、俺は着替えて帰る。悪いな、邪魔しちゃって」
そう言って、立ち上がる。
仁王立ちしている羽黒の隣をすり抜けていこうとしたとき。




