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For freedom―悪魔の力を宿した男―  作者: シロ/クロ
第1章:Provocation To this Kingdom
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第1話③:アランフットクローネ 『あくま??』

感想・ブックマークなどよろしくお願いします。

 シュナイトの家を出てからしばらく。均一に揃えられた町並みを横目に歩くアランフットは、不機嫌そうな顔を浮かべて空を見上げた。


「まぁた水の災難かよ」


 黄昏の空の向こう側からは暗雲が立ち込め、大地に冷たい雨を落し始めていた。雨は水滴と同時にひんやりとした空気も運び、その肌寒さにアランフットは再び身体を震わせる。


 アランフットの家は「王都」の僻地、「守護山」の中にある。現在地から家までの距離はまだ随分とあった。アランフットはまた身体はずぶ濡れになるだろうと諦観する。


「濡れるの覚悟しなきゃだなぁ……」


 アランフットは重たいため息をついた。

 疲れきった身体には辛い雨だったが、歩みを止めるわけにもいかないので黙って足を動かし続けた。


 幸い道筋に人影は無く、先程のように石を投げられる心配はなさそうだ。



 遠くで空が鳴る。

 それが雷であると気づいたのはもう少し後のことだった。ぽつりとアランフットの頬に一滴の水が落ちてきた。その一滴が切り込み隊長だったのかのように、その後は容赦なく雨が降り始めた。


 迫り来る、というよりはアランフット自ら近づいていく雨脚は次第に激しくなり、それに伴いアランフットの足もだんだん速くなる。

 家は雨雲の方角。濡れることが避けられないならば少しでも早く家に帰ろうと、アランフットは雨を一身に受けながら息を切らして走った。


 吐く息が白い。アランフットは冷えた指先を唇に付ける。不気味さを感じるほどに気温は低くなっていた。


「うっ……なんだ、これ……」


 もう少しで「北宮」と「百姓街」とを隔てる、羅城の中枢である羅城門に辿り着くというところ。アランフットは自身の身体を襲う穏やかではない異変に気付き、胸を両手で押さえた。


 それはただ全力で走った時にやって来る内臓の痛みではない。今ここで胸を掻っ捌いてその心臓を取り出してもこれが治まることはないだろう。

 もっと嫌な感じの、自らの存在が脅かされるような、得体のしれない何かに身体の全てを弄ばれているかのような、表現しようのない悪寒がアランフットの全身を巡る。


 痛くはない。途轍もなく苦しい。


 苦しみに悶えるアランフットを嘲笑うかのように、激しい雨はアランフットの身体に無慈悲に降り注ぐ。


「かはっ……」


 膝を落したアランフットは短い息だけを吐きだし、意識を失って濡れた地面に倒れこんだ。



 ***



『なはは、いいじゃねーか上物だ!また失敗かと思ったけどうまくいったな!』


 真っ暗な空間で頭に響く声。

 アランフット自身には体を有している感覚はなく、意識だけがその空間にあるようだった。


「……どこだここは。なんも見えねェ」


 開けているのか閉じているのか、そもそも今目玉があるのかさえ分からないが、アランフットは辺りの様子を探った。

 しかし何かを発見することはできず、ただ謎の声が驚きの声を上げただけだった。


『こいつ……この覚醒状態下でまだ意識が残ってるのか。アランフット・クローネ……良い名だ』


「誰だ!」


 アランフットの威勢の良い反応に『くくく』と小さく笑ってから謎の存在は応えた。


『余は死なり、世界の破壊者なり。って言やぁ、多くの人間が震え上がったもんだが……余が寝ている間に『人間界』もずいぶんと変わっちまったようだ』


「何が言いたいのかよく分かんねェけど……早く帰らせてくれ。雨が降ってて寒みぃんだ」


『なっはっは!!まあいいさ。いずれ余が誰なのかわかる時が来る』


「ん?なんで今誰なのか教えてくれないんだよ……」


 待てよと、アランフットは思い当たる節があることに気が付いた。

 今日の奇怪な体験を生んだ原因は何だったか。妖精を殺したことだ。

 妖精を殺したらどうなるとシュナイトは言っていたか。報復に来ると言っていた。

 なるほど、自分は今から妖精の報復を受けるのだと、アランフットは()()()理解した。


「やだやだやだやだ!俺はまだ死にたくねェェェェ!!」


『うるせーガキだ。余はお前の考えている妖精ではない。それに余はお前のことは殺さんよ。貴重な貴重なお前のことはな』


「貴重??」


『今はまだ知る必要はねーな。いつか必ずわかる時が来る。その時までに……』


「その時までに?」


『その時までに悪魔の末裔たるお前が!この『世界』を我が物顔で占領する天使たちを殺して殺して殺しまくれぇ!!!!』


「……」


 アランフットは反応に困った。突然初めて聞くような言葉ばかり並べられ、意味を理解することは難しかった。「悪魔の末裔」「天使」「殺せ」。意味は分からないのだが、脳裏に焼き付くように記憶はされていた。


 そしてそこにはアランフットにとって一番不愉快なニュアンスが含まれていた。

 自分の生き様を勝手に決定されるような、強制的に生き方を限定されるような、そういう指示はもう二度と聞かないとアランフットは固く決心していた。


「なんの話か知らねェけど、俺は絶対に知らない奴の指示は聞かないからな」


『お前……まさか余の意志を継承してねーのか?』


 謎の声に困惑の色が現れる。


「あんたの意志か、なんかのうんちか知らねェけど、他人に頼みごとをするときはまずは面と向かってだな……」


『ふん。いいだろう』


「……えっ?」


 頭に響く謎の声が途切れ、真っ暗の空間の色も薄れていく。



 ***



 はっ、と目を開けるとアランフットは雲の中に浮いていた。


「おいおいおい俺死ぬぞ」


 実際に雲の中に行ったこともなければ見たこともないが、〈妖精術〉で空を飛んでいる感覚があり、視界も悪い。これを雲と言わずしてなんと言うのか。


 雲に触れられるほど上空にいると考えると恐ろしい。日中のようになんとか露店の上に落ちたり湯船の中に落ちたりする以上の奇跡がなければ、このまま力が無くなった時確実に死ぬ。


「そんなことよりも――」


 アランフットは頭を振り無駄な思考を外へ追いやった。

 今重要なのは夢か幻か、とにかくアランフットが見て聞いて話した内容(見てはない)の方だ。


 謎の声を発していた『なにか』は、アランフットの提案に同意してしまった。仮に不気味なバケモノが目の前に来て頭を下げてきたとして、アランフットにノーと言えるかといえば、彼にそんな自信はなかった。

 アランフットとしては相手を退けさせるための言葉に過ぎなかったが、どうやら『なにか』は真に受けてしまったようだ。



「……月だ」


 顔を上げると大きく真っ赤な満月がアランフットのことを照らし出していた。

 ずっと見つめていると吸い込まれそうな気がして、アランフットは咄嗟に目をそらした。


 いつの間にか身体は更に浮上し、雲の海を抜け出していたようだ。


「なんだ……これ」


 アランフットは両手を広げ、宙に浮かぶ自身の身体の変化に、日中とは全く異なる変化に目を見張った。

 昼頃に空を飛んだ〈妖精術〉の花緑青色の力が渦巻き、うねりとなってアランフットを取り巻いているのは変わらない。


 だが、変化はそれだけではなかった。


 得体の知れない緋色の力が身体の底から溢れ出て来るに留まらず、額に刻まれた丸の紋様から漏れ出ていた。

 真っ黒なはずのアランフットの髪の色も瞳の色も服の色も、全てが緋色に染まっている。


「なんか怖ェな」


 力が溢れ出ていることへの快感があるものの、慣れない変化ばかりで戸惑いの気持ちがあるのも事実だ。


 その不安を解消するべくなんとなしに辺りを見渡すと、空中に緋色の輝く粒子が慌ただしく舞っている事にも気が付く。アランフットの身体と同じ色だ。

 その光り輝く粒子に手をかざしてみてもすり抜けてしまい触れることはできない。だがそれらは確実に寄り添うようにアランフットの身体の周辺を飛び回っていた。


 そんな光景にアランフットが顔を綻ばせる間もなく――


『があぁぁぁ』


 恐ろしい唸り声を響かせながら、月の光を覆い隠すように黒い塊がアランフットの目の前に現れた。


「なっ……」


 アランフットは咄嗟に片腕で顔を隠す。

 しかしそれがアランフットに何かすることはなく、一瞬球体で現れたがすぐに不規則な動きで膨張を始めるだけだった。


「……」


 アランフットはただ傍観する他なかった。その奇妙な光景に息をすることすら忘れ、身体は硬直している。


『うぐっ……ごきゅっ……もごっ……』


 ある一部分が伸びたり、またある部分が凹んだり、奇妙な音を立てながら黒い物体は膨張し続ける。


 そして蠢いていたうねりが集結し次第に形を成すと――


「えっ……?」


 目の前には巨大な『影』がいた。ずっと黒い物体だと思い込んでいたものが、気づけば『影』になっている。

 なぜ『影』が生成されていると途中で気が付かなかったのかアランフットにはわからない。ただ確実に途中までは奇妙な黒い物体で、そのような認識でいたら急に『影』が現れたのだ。


 アランフットはあまりの恐ろしさにすぐさま距離をとった。


「お前がさっきの声だな!!」


 目の前のものが夢の中で話しかけてきた『なにか』だということは、アランフットにはすぐに理解ができた。


 月明りで照らされていたはずの雲海は、この『影』の顕現によっていつの間にか漆黒に包まれてしまっている。

 アランフットの視界も黒く暗くなり、頼りは自身に寄り添う光り輝く緋色の粒子だけだ。


 地獄とも呼ぶべき、黒と緋色だけの完全な世界が完成してしまっていた。


「なんなんだよこいつは……」


 アランフットは痰の絡んだ声で悲痛な叫びを上げた。突如目の前に現れた恐怖の象徴が如き存在にアランフットは心の底から震えあがっていた。


 これに逆らってはいけない。


 先ほど口に入った妖精の虫の知らせか、人間であるアランフットの動物的な本能か、とにかくそう思わずにはいられなかった。


 全身から汗が吹き出しアランフットの身体はがくがくと震え始める。アランフットという存在の全てが恐怖に支配されてしまったような感覚だった。



『余に従えアランフット・クローネ!お前の運命は余と共にある!お前は余の物だ。余がお前の全てを導いてやる。余がお前の全てを支配してやる。余がお前をこの世界の支配者にしてやる。だから余に従え!!』


 開かれた口(全身真っ黒でどこが口かはわからない)から発せられた威圧的な言葉に、一時アランフットの心は屈しそうになる。

 このままこの者に従ってしまっても良いのではないかと思わされてしまうほど、強圧的で誘惑的な声だった。


「嫌だ。だめだ。こいつの言うことは絶対に聞いちゃいけねェ」


 『影』の言葉の何かが頭に引っ掛かった。その何かは決して聞き逃していいようなものではない。それが何なのか探れば探るほど、アランフットの恐怖心には罅が入っていく。


「お前のものなんかになるかぁっ!」


 その罅が埋まることはなく、感情から恐怖をボロボロと引き剥がしていく。


『さあ!こっちに来い!アランフット!!』


「っるせェ!俺は俺のもんだ!俺の生きる道は俺が決めんだよ!!」


『そうか……んじゃ、しかたねーよなさすがに。余にも余の立場がある。こんなガキにぴーぴー言われたくらいで引き下がっちゃ部下にも示しがつかねーからよ』


 そう言うや否や、自分に向かって『影』がなにかを伸ばし始めたのをアランフットは感じ取った。

 それが手であるのか足であるのかはこの際問題ではない。漆黒の世界で漆黒の『影』が動いた、と判別できたことが幸いだった。


『お前の完璧な悪魔の力、余が直々に取り込んでやる』


 アランフットはさっと身構える。真っ暗なはずなのだが、なぜだか幸いアランフットの視界は明瞭になった。漆黒の闇に囚われず『影』の動きが認識できる。


 何をされるのかはわからない。しかし「触られたらやばい」と、アランフットはそう直感した。『影』に触れられれば自分は自分でなくなるという予感が全身の毛を逆立てるほどの不安感を煽る。


 取り敢えず逃げようとアランフットは考えた。


 だがここは身体の自由がきかない空の上。アランフットは自分の身体の動きを制御することができない。逃げ場は無限に広がっているはずだが、逃げる手段がない。


 だからと言って動くのを諦められるような状況でもない。逃げなければ終わる。その確信だけは拭い去ることはできなかった。


「逃げなきゃ……逃げなきゃ!逃げなきゃだめだ!動け!!」


 アランフットは全く言うことの聞かない両太腿を叩く。だがここは空の上。地上の動きとは作りが違う。太腿が動いたところで空中を移動できるかどうかは別問題。だが縋りつけるのはもうそこしかなかった。


「ちくしょう……ちくしょう!」


 お気楽だった日中ですらコントロールできなかった飛行能力。今のこの極限状態における火事場の馬鹿力でもどうにもできそうになかった。腹が立つほどに、花緑青色の風はアランフットの身体を呑気にぷかぷかと浮かせているだけだった。


『さあ、こっちに来い』


 『影』の手は刻一刻とアランフットに迫っている。その逼迫する状況にとめどなく汗が流れ出る。


「くっ……」


 アランフットは不意に襲ってきた頭痛に頭を押さえた。


(「……けて……」)

(「と……なって……」)

(「……たち……じゆうに……くれ」)


 またもや得体の知れない何かがアランフットに話しかけている。

 今日は得体の知れないもの多すぎだろと、ツッコミを入れている余裕も無い。頭が割れるほど痛かった。


「うるせェ!!」


 大声を出して上書きしようとしてもその声は掻き消せなかった。声は休みなく頭に響く。それも一つではない。いくつもの声がアランフットに向けて何かを叫んでいる。だが聞き取れない。意味を成す音が一つもない。一つ一つの声が反響し続け、際限なく広がり続ける。


 その感覚に脳が震え、また意識を失いそうになったその時――


(「大丈夫。『■』ならできるさ」)


 かっ、とアランフットは瞳を見開いた。


 唯一鮮明に聞き取れた声。聞いたことのない声だが、なぜかとても親近感を感じる声。その声を聞いた瞬間、アランフットの全身には我慢し難い衝動が駆け巡る。


「そうだ……自分でやんなきゃ意味がねェんだ!!」


 今までアランフットにこれっぽっちもなかった勇気がふつふつと湧き出てくる。


 なぜ逃げることばかり考えていたのだろうか。アランフットは自分の弱い心を不思議に思った。逃げられないならば、動けないならば、今ここであの『影』を倒せばいい。それだけの話だった。


 覚悟は決まった。


 肝が据わると、不思議と今まで聞き取れなかった声までもが鮮明にアランフットの頭に響くようになった。


(「剣を抜け!戦え!」)

(「心を落ち着かせて頑張って」)

(「自然と一体になろう」)

(「力を集中させろ!」)


 その声で初めてアランフットは自身の背中に何かが備わっていることに気がつく。長い棒状の何かが背に当たっていた。


「これが声の言っている剣か」


 錆びた棒を手に取り、妙に手に馴染むその剣をゆっくりと正眼の構えに持っていく。

 そして昂っていた気持ちを一度冷静にするように、アランフットは刀身に自身の身体を重ねるようにして心を落ち着かせる。


「ふうぅぅ」


 目を閉じて深く息を吐く。


 そして目を開けると、アランフットを囲っていた風は剣を覆う鋭い刃となり、周りを漂っていた緋色の粒子は剣に吸収され刀身を赤黒く輝かせていた。


 燃え滾る力が、全身が疼く力が、リビドーが、たった今両手に持った剣に全て吸収されたのだとアランフットは悟った。力が移動しても、アランフットの身体に宿る意志に変化はなかった。


 もはやアランフットに躊躇いなどない。この力が解き放てればそれで、後のことはもうどうでもいい。


『さあ、お前をいただく』


『影』は目前にいる。


 だが、よくわからない誰かに声をかけてもらったアランフットに、恐怖心が無くなったアランフットに、目の前の『影』はただの大きすぎる的に過ぎない。今の欲望の全てをぶつけられる都合の良い的でしかなかった。


「俺は今までずっと不自由な生活をしてきた。物心ついた時からクソ国王に迫害されて、飯はまともに食えねェ、「北宮」に入れば石を投げられる、夏はクソ暑い、冬はクソ寒い家だし、家族もいねェ……」


『余の崇高な目的のためにだけ、お前は生きていればいいんだ。生きてさえいれば、生きていようと死んでいようと構わないと言えるくらい、お前は生きてさえいればいいんだよ。くだらないこだわりは捨てろ』


「だからっ!!シュナイトがいてラミがいる生活だけは!それだけは俺は譲れねェんだよ!今まで全部クソ国王に決められた人生だから!ここから先!俺はもう誰にも邪魔されたくねェんだよ!!」


『なはは。くだらんくだらん、くだらんよお前は。まーそうだな……なんでお前にそんな考えが生まれちまったのかは確認したくもある……が、それもお前の身体をいただけばわかることだ」


「やってみろよ」


 アランフットは自然と頭の中に浮かんだ剣の名前を叫ぶ。


「七星剣!!」


 その声に呼応するように剣の輝きが増し、振動する。

 刀身は更に赤黒く不気味な光を放ち、刀身を覆う花緑青色の風の間から遠慮なくその輝きを漏らす。


「うおぉぉぉぉぉぉ!!」


 アランフットは思うがまま、欲望の波に身を委ねた。そこに美しさは微塵もない。欲望に駆られた獣が無我夢中に暴れまわっているだけの無様にも映る光景。アランフットは形振り構わず全力で剣を振り下ろした。


「うらあああっっ!!!!!」


 ヒュンッ、と剣が(くう)を切る。


 しばしの静寂が訪れる。七星剣が『影』に当たった感触はなく、失敗したかもしれないと、一抹の不安がアランフットを襲う。


 たが次の瞬間、凄まじい爆風が剣の軌道上に発生する。



 ゴォォォォォォォォォ



 激しい音を響かせながら、剣の軌道上に発生した爆風は一つの大きな刃となり、凄まじい速度で『影』へ飛んでいく。


『ま、まさか、この段階でここまで上手く力を操るとは……』


 まだ絶対に対峙することは無いと高を括っていた莫大な力が自らに迫り、目前の『影』は明らかに動揺していた。

 そしてそれは、無為無策の『影』にはとても回避できるようなものでもなかった。


「いけェェェェ!!!!」


『ぐおぉぉぉ』


 緋色と花緑青色の力の奔流に押し流され、断末魔と共に『影』は細かく細かく千切れ、散り散りになって空の藻屑となった。


 『影』を切り裂いた風の刃は尚も進み続け、アランフットのいる空より更に上空へ行き、そこで一気に拡散した。


 周囲の雲などは跡形もなく一掃され、大地は揺れ、大気すらもまた揺れた。


 アランフットの剣は(そら)を切っていた。


「はぁはぁ……はぁ」


 一気に視界が晴れた空を緋色の粒子がキラキラと輝いて照らしていたが、やがてそれも儚く散っていった。


 残ったのは真っ白な大きな月だけ。


『お前は必ず余に仕える……その時まで……』


「そんな時来るか!いいか!俺の名はアランフット・クローネ!自由のために生きる男の名前だ!覚えとけ!!」


 アランフットは荒く息を吐きながら『影』の言葉を即座に否定する。


『くくく……――』


 空に響く『影』の最後の言葉をアランフットは気にしない。惑わされることはない。アランフットは生きる道を誰かに譲る気は毛頭ない。


「終わったぁ……けど、これはやばいやつだ」


 長いようで一瞬だった時間が終わったが、息をついている暇はない。

『影』のことを気にしている余裕もない。


「なぜなら!もう既に落下しているからだ!」


 自分自答のように空元気で大声を出してみるが、それきりアランフットは口を閉じて重力に身を任せた。


 全ての力を出し切った合図か、アランフットを包んでいた力の輝きは薄れ、緩やかに降下を始めていたのだ。

 手に持った剣もいつの間にか消え、身体の変色も元に戻っていた。


 溜まった力を開放しきった爽快感が身体に充満したと同時に、膨大な疲労感もまたアランフットの身体を虐める。

 極度の疲労でまた意識が飛びそうだった。


「まだ……だめだ……」


 ここで意識を失えばそのまま地面に衝突して死んでしまうだろう。そうなれば日中、必死に女湯に飛び込んだ意味も無くなってしまう。

 アランフットは「地面に着くまでは」と必死に歯を食いしばり意識を繋ぎとめた。


 ゆっくり、ゆっくりと、降下していく。

 それが〈妖精術〉の力を操っているから成せる業なのか、偶然かはアランフットにはわからない。だが身体が安全に地面に着地するように意識を研ぎ澄ませていた。


「……やっと着いた」


『影』との戦闘よりも長いかのように思える苦痛の時間にも終わりが来る。


 アランフットは羅城門のすぐ近くに上手く着地することができた。全身から噴き出た汗で衣服が身体に張り付いている。時間にして数分もない。しかし途轍もなく疲れる時間だった。



 身体に異状はない。安全に着地もできた。

 だが身体を家まで運ぶ力は残っていない。せめて人目から隠れられる羅城門の上まで登りたかったが、どうやらその一歩すら踏み出せないほどに、身体のバランスを保てないほどに、力という力は枯渇しているらしかった。


「もういいやっ」


 アランフットは地面に身体を投げだし、自分が今まで浮いていた空を見上げる。


 空には月以外なにもなかった。どこまでも広がっていて、空は限りなく自由に見えた。


 力なく月に手を伸ばすアランフット。何かを掴み取りたかった。具体的なものはわからないが、とにかくなにかを掴み取りたかった。掴み取らなければならなかった。


「俺は……自由にならなくちゃいけない……」


 内から湧き上がるその衝動が何を意味しているのか、今のアランフットが理解することはできなかった。だが、その欲望を叶えなくてはいけないことだけは身体が理解している。刻み込まれている。


「「アラーン!!」」


 耳触りの良い友人たちの声が聞こえたことに安心し、アランフットは静かに目を閉じた。



 ○○○



「王都」より遥かに離れた真っ黒の洞窟の中。巨大な岩と思しきものが砂煙を上げながら動き出した。


『この力ぁ……』


『どうかしましたか?』


『いやぁなんだか懐かしい気がしてなぁ……』


『そう……ですか』


『こっちのこたぁいい。おまえはぁ森の方をしっかりやれよぉ』


『はっ!』


『……しっかし、まさかなぁ……』


 力の発生を感じた方角を薄目で見るそれ。生きる伝説が静かに目を覚ましたことに気が付く者はまだ誰もいない。

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