第1話②:アランフット・クローネ 『それはちょっとね世間は許してくりゃぁせんよ』
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長いので分けました。
「――ちとまずったかな」
アランフットは頭を掻く。威勢良く飛んだまでは良かったが、考え無しに飛んでしまったことをすぐに後悔した。
滑り出しは好調。根拠のない確信通りに無事空を飛ぶことができた。
身体が風を切る感覚が気持ち良く、普段の生活では体験できないような浮遊感と開放感を感じていた。窮屈さからの解放というものに快感を覚えた瞬間でもあった。
初めからこれを望んでいたかのような、ずっとこの動きを求めていたかのような錯覚すらあった。
風が服をなびかせ髪をなびかせ、額の不自然な「丸の紋様」が露わになるが、それを気に留めることもない。
鳥たちがアランフットに身体を寄せ並んで飛ぶ。そのことにアランフットはなんとも言えない満足感を感じていた。
そして序盤の元気のよいスピード感で「百姓街」を抜け、すぐに「北宮」の上空に入った。
「百姓街」には農耕地も多く、眼下の光景は季節柄緑色が多めであったが、「北宮」は建物の面積が圧倒的に多い。
羅城に囲まれた「北宮」の内部では、七条・六条あたりの下京は窮屈そうに建物がひしめき合っているが、貴族の住む三条・二条あたりともなると一つ一つの建物がゆとりを持って建てられている。
その壮大な景色はとても一言では表せないような素晴らしさだ。
「うーーーむ。非常に困った状況ですな」
だが、普段見ることのできない俯瞰的な景色に目もくれず、アランフットは頭を悩ませていた。
アランフットは尚も直進し続ける力を制御することもできず、空中で胡坐をかき、腕を組みながら「どうしたもんかね」と思考を巡らせていた。
生じた問題は二つ。
一つ目の問題はアランフットが「北宮」に無断で入ることを許されていないということ。謎の力を得た興奮からそのルールを完全に忘れていた。
許可無しに入宮すると厳しい処罰を与えると散々言われてきたアランフット。処罰の内容は具体的にアランフットに知らされてはいないが、地下牢獄に一生閉じ込められるだとか、奴隷として一生こき使われるだとか、役人には色々と嫌なことを言われていた。
「あいつらは絶対に許さねェ」と、彼は役人たちに静かに恨みを抱いているが、それはまた別のお話。
二つ目の問題は着地する場所を全く考えていなかったということ。
周囲に高層建築も無ければ、大都会の中に背の高い木などあるはずもなく。それどころか、着地できるか否か以前の問題として、そもそもアランフットは空を飛ぶ自分の動きを制御することもできていない。
このまま進めば、かの憎き国王が住む王城へと激突する。そんなことになれば命などという儚いものは一瞬で――。
「それだけは……やべェ」
恐ろしい未来を想像したアランフットの顔からは血の気が引く。
だが、それも束の間。
「んーと……これはどういうことだ?」
初め、自分が置かれている状況を理解するのに時間を要した。だがそれを理解するのに多くの時間は必要なかった。
横移動だった景色が突如縦移動に変わった。それが意味することは一つしかないだろう。
今まで身体を浮かしていた力が跡形もなく消失したのだ。
天地が逆転し、頭から地面へ垂直落下を始めた時、想定していた問題はあくまで希望的な杞憂に過ぎなかったのだとアランフットは悟った。
「やばいっ!やばすぎるっ!!!!」
そのまま飛び続け王城に勢いよくぶつかっていれば死んでいたかもしれない。たとえその瞬間生きていたとしても、結局国王に殺されていただろう。
しかしその間、そこに辿り着くまでの距離は、しっかりと呼吸をし、生きることができただろう(飛んでいるときの呼吸は苦しいが)。
だが今は地面までの幾許もない距離で命の灯は消える。
「うわあぁぁぁぁ!!」
理解が喉元まで追いつき、遅れて叫び声を上げるアランフット。
だがアランフットが大きな声で何を叫ぼうと、絶命という回避不可能な運命を前にして成す術は無かった。
先程まで身体に寄り添い優しく頬を撫でていた風は、突然牙をむき、アランフットの身体を切り裂くように通過していく。
「このままじゃ死ぬ!それだけは!それだけはだめだ!!」
アランフットはすぐに恐怖心に抗い、ギュッと閉じた目を少しだけ開け、自分の状況の把握に努めた。
このまま真っすぐ落ちれば地面に直撃。死は免れられない。
「北宮」の道路は広く、たった今真下に建物がないのであればクッションになり得る屋根の上まで移動することはほぼ不可能だ。
「くそっどうすりゃ……」
アランフットが少し目を凝らすと、落下予測地点より少し横に何やら露店があることを発見する。その上に墜落することができれば、地面よりかは生存率は高いだろう。
「行くしかねェ!!」
風の所為か恐怖の所為か、瞳に涙を浮かべたアランフットは何とか身体を横にして空を泳ぐ。その滑稽な姿は誰が見ても吹き出すだろう。しかしアランフットの顔は真剣そのもの。命がかかっているのだ。アランフットは全力で泳ぎ続けた。
「うぉぉぉぉぉ!!!」
全力平泳ぎの甲斐あって、徐々に落下速度は減速する。ギリギリのところで目的の露店の上空に入り、そして勢いそのままに激突した。
ドゴンッという激しい音と共に露店が崩れ、砂ぼこりが立つ。
「――っいっててて」
アランフットは頭に乗っている容器を乱暴に投げ飛ばした。
容器から流れ出た液体がアランフットの頭を濡らす。顔に付着した液体を拭い、そのベトベトした感触にアランフットは「うえっ」と顔を顰める。
地面に着いた手はその粘着性から砂利を纏い、払えども払えども完璧には綺麗にならない。不愉快な感覚だ。
そんなアランフットが好奇心から身体に付着した液体を舐めてみたのと、一つの影がアランフットに落ちてきたのはほとんど同時だった。
「てめぇ……よくやってくれたな……」
「えっ?」
アランフットは目の前に立った人物を見上げる。
頭には髪の毛の一本もなく、その代わりに上半身は強大な筋肉で包まれている男。逆らおうものなら片手で頭を握りつぶされてしまいそうな、そんなことが余裕で可能だろうと思わされるような凄味がある。
そのツルツルの額とモリモリの上腕二頭筋に血管を浮かべた男は言うまでもなく怒っていた。
「俺は先祖代々この家業を続けてんだ。それをぶっ潰しやがってよぉ。てめぇも潰されてぇか?」
店主の男は手に持っていたリンゴを表情を変えずに握り潰す。
その破片がアランフットの額まで飛んでくるが、アランフットは恐怖のあまり反応することができなかった。
「ごごごごごごごごごご、ごめんなさ――」
「ちょっと待て!!」
アランフットは飛び上がりスライディング土下座の体勢に入ろうとしたが、店主は血相を変えてアランフットの胸ぐらをつかむ。
店主の瞳にはアランフットの首に刻まれた濃い紫色の鎖の印が映っていた。
「――俺の店を潰したことは許してやる。早くどっかに行きやがれ」
「で、でもせめて謝罪ぐらい……」
「いらねぇ!!お前と、下級民と関わってるなんて知れちゃぁ商売になんねぇんだよ!とっとと消えろ!!」
アランフットは店主によってそのまま大路に放り出される。
「痛って……」
アランフットは店主を一瞥した。
彼は店を潰されたことの怒りよりも、アランフットと関わってしまったことの恐怖に震えているように見える。
それに――、
「ちょっと、あれってもしかして……」 「うわ、店主さんかわいそうねぇ。あの子と関わっちゃうなんて」
騒ぎを聞いて駆けつけてきた人々はアランフットに後ろ指を指している。どれもがアランフットへの誹謗と店主への同情だが、自らその二人に関わろうとする者はいない。
アランフットは諦めたように小さく息を吐いた。
このままこの場に留まっても店主にも自分にも良いことは何もない。
「……行くか」
アランフットがそう呟き、歩き始めようとしたと同時に、コツンッと、アランフットの頭になにかが当たった。
「はぁ……今日は小石かぁ」
アランフットにとっては珍しくもないプレゼント。
悪意は、初めの一つが明らかになると、その後堰を切ったように、怒涛のように押し寄せてくる。アランフットに投げられ、ぶつかる小石の数も次第に多くなっていく。
「お前がここに来るな!」 「近寄らないで!!」 「死んじまえ!」 「悪魔め!」
「っるっせェな!!」
雨のように降りかかって来る小石を避けながらアランフットは走り出す。このようなことは彼にとっては日常茶飯事で些細な出来事に過ぎない。
「うわっ、服めっちゃ汚れてんじゃん」と、洗濯への心配が勝つほど、気に留めるほどの事でもなかった。
ただ、その人々の反応が鬱陶しいことに変わりはない。
「もっかい飛ぶか!!」
アランフットは妙案が浮かんだとばかりに顔を輝かせる。このまま道を走っていれば石を投げ続けられるが、飛んでしまえばその石が届くこともない。
そう考えたアランフットは力に集中するための場所を探す。しかし広い道で誰にも見られずに物陰に潜むことは難しい。
「来れるもんなら来てみろよー!」
そこでアランフットは身のこなしが器用なことを活かし、近くの建物の屋根の上に登った。
それを見上げる人々は怒号を上げるが、具体的に何を言っているのかはアランフットの耳には届かない。
「よしよし。我ながら今日は冴えてるな。このまま一気にシュナのとこに――」
アランフットがもう一度空を飛ぼうと、足に力を入れた瞬間――、
「あ、あれ?」
木製の屋根が軋み、片足が屋根を抜け、もう片足も抜け、そうして全身が屋根を突き破りそのまま屋内へと落ちていく。
ボッチャーーーン
大きな水柱が立った。
無防備に墜落したアランフットの身体は温かい水の中に墜落した。身体はすぐに底の硬い部分にぶつかったが、水によって緩和されたエネルギーはアランフットを壊すほどのものではなかった。
運が良いのか悪いのか。なんとか怪我を免れたアランフットは息絶え絶え温水から這いずり出た。
「――どこだ、ここは」
一面に立ち込めた白い靄のせいで視界は悪い。だが周囲に人の気配は感じる。
周りを見渡してみても、見える人影がこちらに近づいてくる様子はない。明らかにアランフットのことを警戒している。
「なんかおかしいぞ」と、アランフットは身を固くした。
ジンヤパ王国の「王都」という、世界でも類を見ないほど極めて安全な場所とは思えないほど、ここは不穏な空気で満ちていた。
ゴクリと、アランフットは生唾を飲み込む。経験したことのない緊張感。額には脂汗が滲み出る。
髪先に集まる水滴は徐々に大きくなり、それが床に落ちてやけに大きな音を鳴らした。
と、同時に――、
「ちょっと!!」
背後から恐ろしく殺気の籠もった、甲高い声が発せられた。全身に電流が流れたかのように震えるアランフット。
おそるおそるその音源へと眼を向け、そして驚きの声を上げた。
「ラ、ラミ!?」
「やっぱりアランなのね!なにしてるの!こんなところで!!」
「なにって……そんなことよりラミはなんでそんな格好――」
身体に布一枚纏っただけの少女――否、眼は引きつり、明らかに激昂している、顔をよく知る少女。
お湯に濡れ艶やかになった綺麗な赤髪、恥ずかしさに濡れた赤色の瞳。そこに立つのはアランフットがよく知る少女。
彼は全てを悟った。
この瞬間だけは全知全能の神にでもなった気分だった。途轍もない量の情報を一瞬で脳みそが解析し、たった一つの真実を導き出したかのようだった。
或いは温水に落ちた時点で分かっていたのかもしれない。単に現実から目を背けていただけなのかもしれない。
女湯だ。要は女湯だ。桃源郷だ。男の理想郷だ。アランフットが落ちた場所は。
激しい動悸が身体を襲い、ただでさえ悪い視界が点滅して見える状況にアランフットは片手で両目を覆った。正(性)と負、両方の感情がアランフットの心拍数を著しく押し上げていく。
この目を塞ぐという行為は彼にとって正解だったかもしれない。何も見えないということは何も感じない――はずだ。
「なんでっ!ここにいるのかっ!聞いてるのっ!!」
ラミの怒りも頂点に達し、アランフットの胸倉を掴み尋問(拷問)を試みる。だが理由もなくただ偶然女湯に落ちてしまっただけのアランフットには、ラミの要求に見合う答えが出せるはずもない。
だから口を噤む。余計なことを言い、ラミの怒りの炎に油を注ぐことを恐れたのだ。
「やっぱり!わざわざこんな場所にまで来て覗いてたのね!どうなの!答えなさいよっ!」
だが醜く抗う蟻んこの、「黙る」という選択は悪手だった。
アランフットだって事故だったんだと叫びたい。無実なんだと叫びたい。しかしそれを裏付ける証拠もなければ信頼もない。
若干十歳の平凡なエロガキアランフットに全くやましい気持ちが無いかと問われれば、返答に困るぐらいには下心もある。
アランフットは女湯とわかった途端なんとかこの光景を脳裏に焼き付けようと、両目を塞いだ手がラミに胸倉を掴まれた拍子に解けたことを良いことに、ラミには目もくれず周囲の環境の凝視に全勢(精)力を注いでいた。
「なんとか言いなさいよっ!!」
アランフットがなされるがまま身体を預けていると、ラミの拷問(尋問)はどんどんエスカレートしていく。
アランフットは答えられることが無いため口を噤んだままでいる。するとラミがアランフットの身体を揺らす力が強く、速度が速くなっていく。だがそれでもアランフットは口を開かない。だからまたラミの尋問にも力がこもる。これの繰り返し。
なんとかアランフットを懲らしめようと彼女も必死だ。必死になればなるほど視野は狭まっていくもの。
アランフットを揺らすのと同時に、自分の身体も揺れているということに彼女が気づくことは無かった。
「こぉぉぉぉらぁぁぁぁ!!」
ぶんぶんとアランフットの身体が揺らされ、ラミの腕も残像が見えるほどに動かされている。
はらり、と何かが落ちた。
銭湯において、それが有ると無いとでは大きく効力が異なるあれが床に落ちたのだ。
その瞬間だけは全てがスローモーション。恥じらいの少女と鼻の下を伸ばす少年。二人の目は同時に大きく開かれていく。
「あっ……えっ……」
アランフットは咄嗟に目を閉じた。力強く、ぎゅっと。
アランフットには全てが見えてしまっ――否、見えていない。ギリギリ見えていない。そう、見えていない。見えてしまったことを悟られてはいけない。いや、見えていないのだ。アランフットは脳みそに言い聞かせた。「……なにも!なかった!」と。
時の流れが元に戻った世界で、ラミは静かに自分の姿と目の前にいる不格好に目を閉じたアランフットの顔を交互に見る。二度見三度見四度見。彼女なりに現実を受け入れるために必要な回数を踏む。
なるほど。ラミは諒解した。自分は素っ裸で少年の前に立っている。しかもその少年は彼女にとっての……。
「きゃーーーー」
「うるせェーー!!」
若干の沈黙の後、空間を引き裂くほどの、鼓膜を突き破るほどの空気振動がアランフットを襲う。
「ああ……やべェ……」
それと同時に、強烈な倦怠感が身体を襲い、地面が揺れたような感覚をアランフットは覚えた。悲鳴から身を守るために耳を塞ぐことすらできない。
ラミの悲鳴が遠のいていく。アランフットの視界は次第に暗くなっていった。
どさっと、最後に聞こえた音が自分の身体が倒れた音だと認識することもできずに。
○○○
芯まで冷えきったアランフットの身体を起こしてくれたのは、親しい友人から浴びせられる冤罪への批難だった。
「アランがね!急に上から落ちてきて女湯に飛び込んだの!スケベアランは女湯を覗いていたのよ!」
「んー……俄かには信じられないな。アランがそんなことをするなんて」
「でもでも、びちょびちょのままここに運ばれてきたでしょう?私のわがままぼでぃを見て気絶したのよ!」
「んー……それもまた信じられないんだよなあ……」
「絶対にそうなのっ!このスケベは欲望が抑えられなくて女湯に飛び込んできたのっ!」
目を覚ました途端一方的に浴びせられていた悪評に、アランフットは「おいおい……」と呆れ顔を浮かべつつ、自分が今置かれている状況の把握に意識を巡らせた。
アランフットはベッドに寝ている。傍らに立つのはラミ、少し離れた場所で椅子に座るのはシュナイト。二人ともアランフットの幼い頃からの友人だ。
シュナイトが居るということで、自分が寝ている場所がシュナイトの家であるという判断ができる。
シュナイトが継嗣であるアルミネ家は、ジンヤパ王国で強大な権力と財力を誇る王侯貴族。
そしてなんだかんだ言いつつアランフットの身体を労り、傍にいてあげるほどの優しさを持つ少女ラミ・ケニスはアルミネ家に仕えるメイド。
二人ともアランフットと比べてしまえば想像を絶するほど高い身分だが、平民以下、王国唯一の「下級民」であるアランフットとも友好的な関係を築いている。
そう、アランフットは下級民だ。唯一国王から公式で迫害されている身分。そして首に鎖の印を焼き付けられた唯一の国民。
まともな思考があればそのような身分に貶めてまで生かしておく必要など無いと考えるだろう。しかし国王はアルミネ家になぜかアランフットへ生活支援を命じた。
日々の生活物資の支給や教育などは全てアルミネ家の管轄。アランフットがシュナイトの家に訪れることも多く、シュナイトやラミと仲良くなることは難しいことではなかった。
今回も気絶したアランフットに親切に綺麗なベッドを提供し、濡れていた服はいつの間にか乾かされ、それどころか女湯に落ちたあの時よりもきれいな状態に洗濯してもらっていた。
アランフットが「北宮」に無断侵入したのにも関わらず何事もないのはアルミネ家の取り計らいが大きいのだろう。
アランフットはアルミネ家に頭が上がらない。
「――事故だよ」
まだ完全復活とはいかない乾燥した喉で掠れた声を絞り出し、アランフットは友人二人に声をかけた。
これだけはしっかりと否定しておかねばなるまい。いくら恩人たちと言えど、冤罪を見過ごすわけにはいかない。
「アラン!目が覚めたんだね!」
シュナイトは真っ先にアランフットの快復を喜んだ。上半身を起こしながら、シュナイトの嬉しそうな声を聞いたアランフットも表情を綻ばせた。
「ああ、ありがとうシュナ。こんな所で寝かせてもらって」
「いいよいいよ。それにしても驚いたよ、アランがずぶ濡れで運ばれてきた時は」
「いやーあはは……」
アランフットはラミが差し出した水の入ったコップを受け取りつつ、情けなさに人差し指で頬を掻く。
「それで今ラミに事情を聴いていたんだけど、どうにも信じられなくてね」
シュナイトの言葉を聞いたラミは心外だとばかりに頬を膨らませた。
「本当ですー。アランは覗いてたんですー」
「……と、ラミは言うんだけど、真相はどうなんだい?」
肩をすくめたシュナイトの問いに、アランフットは力強く首を振った。
「見に行ったわけじゃない!見えちゃっただけ!」
しっかりきっぱり、自信満々に事実のみを伝える。「そうだよな。アランがそんなことするわけがない」とシュナイトも頷く。
だが一人、その返答では事態を収拾できない者がいた。
若干の沈黙の後、意味を理解したラミは段々と大きく目を見開き、顔を真っ赤に染める。酸素の足りない金魚のように口をパクパク動かし、言葉を辛うじて紡いだ。
「や、や、や、やっぱり、見えてたんじゃない……」
羞恥心が完ストしたラミは肩を落とし、上半身を起こしたアランフットの胸に拳を重ねるように、ポスッと力無く殴る。
アランフットはそんな少女を憐れんで頭を撫でるが、復活する気配はない。
シュナイトはラミを横目に見たが、一瞬の逡巡の後、他人への心配よりも自分の興味に従って話を進めたいという欲望が勝った。アランフットが女湯を覗いたのは良いとして(良くはないが)、不審な要素が多すぎる。シュナイトは今回の事件には少し懐疑的だ。
「えーっと、アランが本当に女湯に行ったことはわかった。でも……」
「ん?」
「でもどうやってそこに行ったかが問題なんだ。屋根を突き破ったということは少なくとも銭湯の壁をよじ登ったということだろう?途中で周りの人に止められないわけがない。それに今日はアランが僕の家に来る日じゃないから「北宮」に入ることすらできないだろう?どうやってそこまで行ったんだい?」
「あっ!」
シュナイトの言葉でアランフットはとんでもないことに気が付き、ベッドの上で飛び上がった。その動きのせいでベッドの上で伏せていたラミの頭に、アランフットが持ったコップの中から零れた水がかかったことは言うまでもない。
「やべっ」とアランフットは下を見たが、ラミは少し呻いただけで反撃してくる気配はない。そのためアランフットは気にせずにシュナイトとの会話を続けた。
「このこと、国王は知ってるのか?」
「うん、でも大丈夫。父さんが対応するってことで話は収まったみたいだよ。明日のこともあるし」
「あぶねェェ」
今回の無断入京に関しては手枷足枷を付けられることも、地下牢に閉じ込められることも、奴隷として働かされることも回避できたということだ。
アランフットはほっと胸をなでおろし、静かにベットの上に座りなおした。
「で、どうやってここまで来たんだい?」
「それは本当に私も気になる」
シュナイトは改めて問う。その質問への答えが気になったのか、ラミも頭を上げた。
二人に見つめられたアランフットは一口水を含み、自分の語り出しを待つラミの赤眼、シュナイトの碧眼を交互に見つめる。
どうやってここまで来たのか、という質問は「北宮」への侵入経路の話をしているのだろうとアランフットは判断した。なぜ風呂屋の屋根に登ったかは上手く弁明する自信がなかった。故にそこには触れずに、忘れたふりをして話を進めることをアランフットは決めた。
そして水を飲み込み、一度短く息を吐いてから口を開いた。
「空が飛べたんだ」
「「――――」」
思いの外沈黙が流れる。アランフットはもっと称賛されると思っていたのだが、まさかの沈黙。果たしてそれが正しい答えのか。
うるさい沈黙だとアランフットは感じていた。空気の音なのか、なんなのか、よくわからない耳鳴りのような音をやけに大きく感じていた。
「あはは、そんなわけないでしょ。やめてよまったく」
「妄言が過ぎるよ、アラン」
そんな沈黙を破ったのは二人の失笑だった。
笑われるのかと、アランフットは少しだけ驚いた。彼は紛れもない事実を話しただけ。そこに諧謔の要素は微塵もない。
大真面目な顔をして二人を見つめるアランフット。
その表情を見たシュナイトは事の重大性に気づき始めていた。そして怪訝な顔をして問答を始める。
「君は本当に空が飛べたと言ってるの?」
「もちろん。嘘つく必要がない」
アランフットは頷く。
「空を飛ぶってことは、上空を長時間移動したってことだよね?」
「うん」
是。何も間違っていない。
「ということは、空中を自由に動いたってことだよね?」
「まあ一応そうだな。制御は難しかったけど」
『難しかった』ではなく『できなかった』が正しい。だがそこは少しだけ見栄を張ったアランフット。
「ということは、空を飛んだってことでいいんだよね?」
「ん?うん。……えっ?どういうこと?」
「ああ、あはは、あははははは」
「大変だ!ラミがアホになった!アラン!助けてくれ!」
「怖ェーよ!!」
シュナイトはラミの口と身体を必死に抑えるが、アランフットはその豹変の気味悪さに動けないでいた。
二人は動揺しすぎていた。もしくはアランフットが平然としすぎていた。
「いいかいアラン。空を飛べるっていうのは、ラミの頭よりもおかしなことなんだよ」
「……どういうことだ?」
「空中戦力は、それが有るか無いかで国の存亡を左右するって言われているくらい珍しくて恐ろしいほどの戦闘的価値があるんだ。飛行能力があれば敵軍がどんなに堅固な隊列を組んでいようと、上空から攻撃しつつ一気に後ろで控える上層部を叩きに行けるからね」
「す、すげェんだな……」
「かつて存在した鳥人間たちは国境を越えて今もなおその武勇伝が語り継がれているくらいの伝説なんだよ!!――憧れるよね」
空を飛ぶ術を持つ者は、比肩されることのない高い戦闘能力から一騎当千、一騎当万とも言われている。その凄絶な力を持っているとアランフットは主張するのだ。
本当ならば女湯を覗いただなんだの騒ぎではない。二人の動揺の仕方にも頷ける。
「君の話もっと詳しく聞きたいから、とりあえずアホになったラミを正気に戻して!」
少しでも早く真相を究明したいシュナイトは切実に訴えた。
「アランは覗いた……アランは飛んだ……アランは覗いた……アランは飛んだ……」
光を失った虚ろな目をしたラミは譫言のようにブツブツと何か呟いている。
ラミはアランフットの「女湯のぞき容疑」の完全無実を認めたわけではない。だが彼女は自分が居合わせた状況からの情報と、飛行の非合理さを鑑み、アランフットの話が事実であると一瞬で結論づけた。しかしラミの脳は納得しきれないその情報にパンクしてアホになってしまった。
アランフットの前では醜態を晒し続ける彼女だが、普段のラミはしっかりと賢いのだ。
アランフットはラミの両肩に手を置き、真っすぐにその深紅の瞳を見つめる。
「ラミ?」
「あはは~アランだ~な~に~」
アホになったラミの口元は緩い。
「今日はもう仕事は終わったの?」
「今日は夜からだよ~」
「そっか……残念だな」
「なんで~」
「いやさ、ラミのメイド服姿可愛いからさ。今日は見れないんだなって――」
「――っ!」
ラミの綺麗な赤髪を撫でながら、恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく投下するアランフット。短くはない付き合いから導き出された一撃必殺、一撃悩殺のセリフ。対ラミ最強の戦術・クサイセリフ攻撃。アランフットにはラミを正気に戻す自信があった。
電流が走ったかのようにびくっと身体を震わせたラミ。
「ばばば、バカ!そんなお世辞を言ったってなんにも出ないんだからっ!」
案の定、アランフットのその言葉を聞くや否や、急に目に生気が戻ったラミは頬に手を当てた。バシンッとアランフットの背中を叩き、何を思ったのか物凄い勢いでラミは部屋を飛び出して行ってしまった。
ラミには確かな頭脳がある。ただし恋には適応できない。チョロくて初心な少女がそこにいた。
「はぁ、まったくあの子は……」
思いの外簡単に口車に乗せられた従者を、自分で頼んでおきながらシュナイトは呆れた顔で見送った。
だがすぐに気を取り直す。ここからは真面目で楽しいお話だ。
「それじゃあ詳しく聞かせてよ!鳥人間のおもしろ体験談をさ!!」
「うん。俺のこと鳥人間って呼ぶのだけはやめてくんない?」
シュナイトはアランフットの近くにいそいそと椅子を移動させて座った。
シュナイトの興味に満ちた瞳に若干の引け目を感じながらもアランフットは姿勢を正し、一連の流れを説明する。
昼寝をしていたら妖精なる生物に絡まれたこと。殺してくれと頼まれて気持ち悪いから断ったこと。気を失った後、気づいたら空が飛べたこと。飛んでたら飲み物屋の屋台に墜落したこと。「北宮」の人々に石を投げられ逃げるために屋根の上に登ったこと(さりげなく)。そして今は全く力を感じないこと、を手短に話した。
「まだ身体に違和感は残っているけどな」
手を握ったり開いたりしてアランフットは身体に違和感が残っていることを確かめる。空を飛べたような力は全く感じないが、言葉では説明できない何かがあることは確かだった。
「災難だったね。それにしても妖精かぁ……」
アランフットの話を聞き、シュナイトは額に手を当てた。
「――――」
シュナイトは自分では決して認めないが、かなり頭が良い。そして顔も良く、綺麗な紺色の髪に碧眼を持つ。秀外恵中のシュナイトはそこらの凡人とは比にならない、自他の他が認める天才である。
シュナイトが何か思案しているのなら、アランフットは余計な口を出さない。シュナイトが知らないことをアランフットが知っているわけもない。必要な情報を提供し、シュナイトの熟慮タイムが始まったのであれば、あとはアランフットは答えを待つだけでいい。
「一つ確認だけど、結局妖精のことは殺してはないんだね?」
「うっ……」
痛い所を突かれたアランフットは思わず変な声を漏らす。それを見逃さなかったシュナイトは目を細めアランフットを問い詰める。
「なんだい?まだなにか隠しているんだね。言いなよ。僕たちの間に隠し事は無しだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
これ以上黙っていると汚い手で脅してきそうなシュナイトを、アランフットは手で制した。
アランフットにはまだ心の準備ができていなかった。
妖精は、つまりアリーはアランフットの口の中に入ってきて、その後姿が見えなくなっていた。その事実が示す可能性は二つある。
一つは、アランフットが信じたい方だが、口の中に入った後諦めてどこかに飛んで行ったという可能性。
もう一つは、アランフットが食い殺したという可能性。
そのどちらかを自身で判断する勇気がまだアランフットには無かった。後者ならあまりにも気持ちが悪いからだ。
「なぁんか怪しいけど、アランの空を飛んだ力については仮説ならあるよ」
シュナイトはそう言うとアランフットに人差し指を向ける。
「ただし、教えてあげるから僕が話し終わったらさっきの質問には答えてね」
「わ、わかった」
「よろしい」
シュナイトはアランフットの返事に頷き、咳払いをした。
「君の力は〈妖精術〉だよ、たぶんね」
「ようせいじゅつ?」
「うん。妖精を殺すと〈妖精術〉っていう妖精だけが使える能力が人間にも使えるようになるんだよ。空を飛んだり、風を操ったりね。妖精は滅多に人間の前には姿を現さないらしいけど、たま~に人間に接触してくるって幼い頃に絵本で読んだことがあるんだよ。たしか童話だったかなぁ」
シュナイトは立ち上がり部屋の本棚を探るが「ここにはないか」と諦め、アランフットの元に戻って来る。
「で、もう一回聞くけど、君は妖精を殺していないのかい?」
「そういうことか……」
アランフットは大きく息を吐いた。シュナイトが何を言わんとしているのかは理解ができてしまった。
アランフットの能力の異常は〈妖精術〉によって全て説明できる。だが〈妖精術〉を得るためには妖精を殺さなくてはいけない。
アランフットの場合、仮に彼が妖精を殺したのだとすれば状況的に噛み殺したことになる。
答えはもう出ているようなものだ。あとはアランフットがその事実を受け入れられるかどうかだ。
「くっ……」
アランフットの脳裏と舌には嫌な感覚が蘇ってきた。もう二度と思い出したくないあの感覚が。巨大な羽虫が口の中で暴れまわる最低の感覚が。
これを認めてしまえば、自分は一生もののトラウマを抱えることになるかもしれない。
だが、認めよう。男なら誰もが憧れる特殊能力の証拠が提示できるのならば、虫を食したことなど大した記憶にはなるまい。アランフットは諦めた。
「お、俺は……」
「うん」
「俺は、妖精を……」
「うん」
「た、食べました……」
「うん――食べたぁ??」
こいつは何を言っているんだと、シュナイトは本気で心配している表情でアランフットの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ああ……問題ない」
涙声のアランフットはコップに残った水を一気に飲み干し、舌の上の嫌な感覚を記憶と共に胃に流し込む。
「実は妖精に殺してって頼まれて断ったあと、妖精が俺の口の中に飛び込んできたんだよ。そのあとすぐに気を失っちゃったけど……ちょっと変な液体とか感じたし――」
「ああ、ああ、もういいよ。そんな話はもう忘れよう」
いよいよ泣き出しそうになったアランフットの語りをシュナイトは慌てて止める。アランフットが泣き出すのを見たくなく、なにより妖精を食べたリアルな感想など聞きたくもなかった。
「君の力が〈妖精術〉って判明しただけいいじゃないか。空を飛べるなんて本当にすごいよ。世界でも本当に片手で数えるほどもいるかいないかじゃないかな」
「うわーすごいなぁ」と興奮気味に頷くシュナイト。
ただアランフットはふと一つ疑問を抱いた。
「でもさ、本当にこれがあり得る話だったら、俺の他にも同じ力が使える人がいてもおかしくねェよな?」
「……たしかに昔の鳥人間たちはそうだったのかもしれないね。でもそもそも妖精が人間の前に姿を現すことがまず珍しいんだよ。それに僕が知っている物語だと最後に妖精の仲間たちが報復に来て、妖精を殺した人は殺されちゃうんだ。あはは!アランも気をつけてね!」
「――えっ??」
シュナイトは可笑しそうに口を押えて笑うが、アランフットには何が面白いのか全く理解できない。
何一つ笑えない話だ。死ぬのだけはどうしたって避けたい。
「そ、その話が本当なら俺は死ぬかもしれないんだぞ?なんでそんなに他人事なんだよ!!」
「根拠が物語だからね、信憑性は薄いよ。ただ本当だったら凄いねってはなし」
シュナイトの言葉を聞き、アランフットは「それもそうか」と、ベットに深く座り直して深い溜息をついた。
なんだかよくわからない。信じていいのか否か、その判断すら難しい。しかし、もしかしたらすごいことになるのかもしれないという期待もあることにはある。
不安と興奮が入り混じった不思議な気分だった。
今日あった不思議な体験は親友に共有でき、冤罪も一応晴らすことはできてアランフットは安心した。これ以上長居をしてアルミネ家に迷惑をかけるわけにもいかない。
「取り敢えず今日はもう帰るよ。ここ、ありがと」
アランフットは貸し与えられたベットから降り、シュナイトに礼を言う。
「うん。生きてたらまた明日会おう!」
「っんなこと言うなっ!」
いちいち不安にさせる言葉をかけてくるシュナイトの肩をアランフットは小突いた。
「ってか明日も遊びに来ていいのか?いつもは来れない日だぞ?」
緊張感の無いアランフットの言葉にシュナイトは首を振った。
「なにを言っているんだい君は。明日はコレジオの入学式だよ。明日からはほとんど毎日会えるんだよ!」
「そうだったのか!」と、アランフットが両手を上げ喜びを表そうとした瞬間、タイミング悪く、大きな音を立てて扉を開けたラミがズカズカと部屋の内に入ってくる。
「アッラーン!着替えてきったっよー!」
アランフットは両手を上げたまま固まった。
彼の言葉に惑わされ、わざわざメイド服に着替えてきたラミの健気な声は、その発端となった人物の耳には届かない。
出端を挫かれたアランフットは感情の所在無さに、両手をだらんと下ろし、喜びを自虐へと変換させ憎き少女への無視を図る。
「そうか、まずいな。入学式を前にして女湯覗きはまずいな。友達出来ないかも……」
「まあ変な目で見られることは確実だね。大丈夫!アランに新しく友達ができなくても僕たちがいるよ!どこの馬の骨ともわからない人間にアランを取られるのも嫌だし!丁度良かったじゃないか!」
フォローにならないフォローを入れるシュナイト。彼は全くの善意で話している。
だがアランフットの心の回復には何の効能もない。
「ねぇねぇアランー見てよー」
一方ラミはアランフットの気を引くため、彼の袖を引っ張りながら上目遣いで話しかける。身長は彼女の方が高い。わざわざ腰を低くして話しかけるという努力の跡が見える。
だがしかし、アランフットは全く耳を貸さない。視界にも入っていない。
自虐から不安へ。彼の頭はもう新生活への不安に占領されている。
「一日目から憂鬱だなー。はぁ……まあ……とりあえず帰るか」
「うん。じゃあくれぐれも気をつけてね。アランの家は遠いんだし不審者にはついていかないこと。あと妖精の報復にも気を付けて」
「だーいじょうぶだよ。母親みたいなこと言うなって」
母親がどのような存在かは知らないが、下がった気分を無理に取り繕ってぎごちなく笑ったアランフット。アルミネ家の従者が綺麗に洗い乾かした服を手に取り、さっと着替えた。
そして暗い影を纏い、重い足を動かし、力なく部屋の扉を開け出て行く。「友達ができない」「俺は女子からも嫌われるのか」などと、ぶつぶつと呟きながら。
「ねー……見てよー……」
完全無視の無反応を決められたラミは遠のく背中に消え入りそうな声をかける。しかしアランフットが振り返ることはなかった。
肩を落としたラミにシュナイトは優しく声をかける。
「泣くなラミ。明日からは毎日会えるんだ」
「うん……そうだね……」
衣装を用意してきたのにも関わらず、アランフットからは一瞥ももらえなかった不憫な少女ラミ。だが主の言葉に「よしっ」と顔を引き締め、いつもの姿へと戻る。
恋する少女ラミはこの程度の事では諦めない。
そして働く少女ラミは、なにもアランフットに自分の姿を見せるためだけに着替えたわけではない。それ程完膚なきまでに馬鹿になることは常人には難しい。
常人少女ラミは咳払いをしてシュナイトに頭を下げた。
「ではシュナイト様、夕飯のご用意ができますので食堂へどうぞ」
頑張る少女ラミの仕事の時間が始まった。