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ミッチが捻挫した。
突いてしまった手首をアクロフレームに潰され、負荷がかかった足首もまた骨折寸前までひどく捻ってしまっていた。
診察室から、松葉杖を突いて出てくるミッチの暗くうつむいた顔を見れば、結果は分かった。
私はもうなにも言えなくなる。
インターハイには間に合わない――
「大丈夫。予定よりちょっと早くなっただけだから」
翌日、教室で会ったミッチはいつもより化粧が濃い。
包帯を手首と足首に巻いて松葉杖を机に立てかける彼女は、平気大丈夫とクラスメイトに対して気丈に笑っている。
「どうせ、もう引退するつもりだったから」
そう言って、マネージャーをやってくれている女子部員に声をかけて手伝いを申し出ている。私はなにも言えなくて、隠して拳を握る。笑ってみせてるミッチの横顔がひたすら悔しい。
どうせ諦めるなら、早いほうが賢いってこと?
林さんの言葉に影響されてるじゃないか。
たとえば青春マンガなら。
ミッチの分まで私が頑張る! なんて言えばよかったのかもしれない。ミッチの悲しみを受け止めて、無念を引き継いで、私が頑張ればよかったのかもしれない。
でも違う。
ミッチは、ただ頑張りたかっただけだ。
彼女の手足で。彼女の努力で。たったそれだけを励みたかっただけなのに。
頑張ることさえ奪われて、誰かが代わりに慰めるなんてできるもんか。
私は決めた。
自分がどうしたいのか。
ミッチの選んだスポーツがアクロフレームであることに感謝したい。
-§-
インターハイ当日は、バカみたいに晴れた。
熱が直接のしかかってくるような日差しのなか、私は蒸れるハーフパンツをはたきながら隣のミッチを見上げる。
「ミッチ。大丈夫?」
「だいじょーぶ。痛くないし、動きやすいよ」
「上々だね」
私は嬉しくて笑った。
もう一度、ミッチの頭から足元まで眺める。
ミッチは小さな体をめいっぱい調節したアクロフレームに包み、機体の両足でしっかりと国立競技場の赤いトラックに立っていた。
右足は特に厳重なフレームに包まれて、太ももで固定されている。ギプスに覆われた足首は宙に浮くような形だ。足に負荷をかけないように。
うん、とうなずく。しっかりミッチの体に調節されていた。
「さすがパラ競技にも使われるアクロフレームだね」
パラリンピック競技の幅を、通常競技以上のものに押し広げたスポーツ。
それがアクロフレーム競技の持つ、もう一つの姿だ。
だから当然、義足には様々なバリエーションが存在する。故障した選手のリハビリ補助を兼ねて作られた脚を支持するタイプもその一つだ。
使えない足がぶら下がっているのは一種のビハインドに間違いないのだけど、そこは仕方がない。
ミッチは少し戸惑ったように微笑む。
「あの……ザッキ。なんて言ったらいいのか」
「そんな顔しないで! 私、もともと記録出すのにあんまり興味なかったんだよね。やってる以上はいい記録出したいなーってだけ。だから、」
この新しいアクロフレームに慣熟するため、そしてミッチにバッチリとフィッティングさせるために私は付きっ切りでミッチの練習に付き合った。自分の練習なんて放り捨てて。
だから、私はインターハイに出場していない。
ミッチはようやく私の挫折を割り切ったようで、ぎゅっと唇を引き結んで顎を引く。
「私、頑張るからね」
「わかってる。ミッチ、全力でね」
「うん!」
背の高いアクロフレームが弓状の足を歩ませて、フィールドに歩いていく。
大きなちびっこの背中を見送っていると、
「手崎さん」
声に振り返った。
林さんだ。
アクロフレームは着ていない。私とは違う紺色のジャージを羽織って、前を開けたジャージの中は競技用のタイトなタンクトップ。ゼッケンの赤い数字は他ならない競技者の証だ。
林さんはスタート地点に歩いていくミッチに視線を向ける。
「尾道さん捻挫したって聞いたけど。あれ、パラ競技用の?」
「そう。リハビリの途中なんだけど、お医者さんを口説き落として大会には出させてもらった」
思わず笑みが浮かんでしまう。
医者には止められたけど、強く反対はされなかったという。
捻挫した状態で無理に出場して、また転倒したら目も当てられない。踏ん張れない足という不利がつくこともある。
あくまでも、そういう心配だけ。
頑張るだけなら、なんにも問題がない。
私は嬉しくなってミッチを見た。ミッチは緊張と気力のみなぎった顔を引き締めている。
もう、なにも諦めなくていい。
「手崎さんは?」
ミッチを眺めている私に、林さんが声をかけた。
林さんは私をまっすぐ見つめている。いや、にらみつけている。
「手崎さんは走らないの?」
「私は引退。あれから走るのやめちゃった」
さっと顔を赤くした林さんは、荒く息を吐いて唇をかんだ。勢いよく顔を背ける。
「そんな簡単に諦めるなんて思わなかった……!」
「そう……だね。私もびっくりした」
本当にびっくりした。まさか林さんにこれほど惜しまれるなんて。
寂しさと後ろめたさがゾロリと背中に這い上る。
毎朝走って、メンテして、体幹鍛えて、いろんなことを勉強して。
私は、私だけが頑張ってきたわけじゃなかった。家族に友達にコーチに。たくさんの人に支えられて、初めて頑張ることができた。
――私も頑張らなきゃ。
そんな焦りにも似た盲目的な目的意識に流されそうになって、顔を上げる。
ミッチが入念にストレッチをしている。
「でも。私はけっこう気持ちよく諦められたんだよね。もっとズルズル後悔したり迷ったりするかと思ってた。だけどさ」
訝る林さんに、とっておきの秘密を見せる。
腰に下げた工具箱。アクロフレームのメンテナンスキットだ。
「私、アクロフレームをやめたわけじゃないから」
「……まさか、手崎さんあなた!」
そう、と満面の笑みでうなずく。
「ミッチのアクロフレーム、私が整備したの」
今の私は、アクロフレームの競技者じゃない。
メカニックだ。