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引退する。
あれだけ頑張った部活は全部やめて、受験勉強して進学して、十年後か二十年後に楽しかったねって笑いあって、それでお終い――
ゾッとした。
これじゃあ、なんにもならない。
私はそのために努力しているんだろうか。朝起きてランニングしてマシンをメンテして、また夜まで練習して……思い出になって「よかったね」って。
それで満足するのだろうか。
頭のなかがぐるぐるする。うまく考えられない。
「ザッキ」
びくッと肩が震えた。
振り返れば競技場のコンクリートでできたぬるい通路に、ミッチがいる。
浮かない顔をしたミッチが、小柄な体に似合わない大きなリュックを背負い上げて私を見上げた。稼働しないアクロフレームは重荷だ。
「帰ろっか。ザッキ」
「う……うん」
顔を正面から見れなかった。
陸上競技場は、大きいだけに町の外れにある。
バスで揺られている間、私は露骨に口数が少なかった。でもミッチはなにも聞き出さない。巨大なリュックを膝に乗せて、夕暮れの日差しが突き刺さる車窓をぼんやりと眺める。
ミッチも、林さんの話が聞こえていたのかもしれない。
「ねえザッキ」
ミッチがつぶやく。
「私、インターハイが終わったら引退する。受験勉強して、東京の大学行って……今のところ、アパレルの仕事に就くつもり」
「え」
びっくりした。志望校の話は聞いていたけど、その先まで考えていたなんて思いもしなかった。
ましてやアパレルって。それ、アクロフレームまったく関係ない――。
「林さんの話、聞こえてた。言い方ひどいと思ったけど、言ってること自体は、間違ってないかもって思う」
息を呑む。釘を刺されたような心地だった。
浮かない顔のミッチだけど、彼女の目は真剣だった。
「でも私はインターハイまで頑張る。それが終わったら受験勉強。それで、なんにも間違ってないと思う」
私はなにも言えなかった。志望校すら「近くていいとこ」くらいしか考えのない私だ。なにも言えることなんてなかった。
ミッチは笑う。
「私ね。すごいちっちゃいでしょ? サイズが合ってオシャレな服って、ぜんぜんないんだよね……。下手すれば子供服売り場で済むもん」
ぶらぶらと、椅子から浮いた足を振っている。確かにミッチは小柄だ。
この体格でスポーツらしいスポーツをしようと思うなら、身体能力を補ってくれるアクロフレームという選択は嫌でも目に入っただろう。
「だからアパレル。将来をしっかり考えてるわけじゃないよ。でもね」
ぎゅっと。リュックを抱きしめてミッチは言う。
「自分のために頑張れるのって、今だけだと思うの」
自分のため……。
ミッチは言いにくそうに声を低くして、しかし言葉そのものに迷いのない口調で続ける。
「最悪な話するね。部活ってべつに、結果が残せなくたっていいじゃん。自分が頑張って、頑張る仲間を応援して、結果が出れば嬉しいねって。ただ頑張りさえすればそれでいいの」
驚いてミッチを見た。ミッチも少し困ったふうに笑っている。
でも、そうか。考えてみればそうかもしれない。
名門校だと、実績とか伝統とか重圧がありそうだけど……少なくともうちの部活は、結果が出せなかったからってなにか損するわけじゃない。
強豪高しか部活をしていないわけじゃないから、結果の出ない人のほうが多数派だ。
部活は結果を出すものじゃない。
「こんなふうに頑張っていいのは今だけだって思う」
バスに揺られながら、ミッチは大きなカバンに顎を乗せる。
アクロフレームを収めるカバンは、身を縮めれば彼女自身がすっぽりと入ってしまいそう。
「大学受験はどうしたって親に負担かけちゃうし、自分の人生でもあるし。企業に行ったら、それこそ成果のための努力だもんね」
頑張って頑張って頑張ったら、部活は引退。受験勉強して進学して、十年後か二十年後に楽しかったねって笑いあって、それでお終い――
それは素敵なことだろう、と。
ミッチは林さんと真逆のことを言っていた。
「だから私はインターハイまでは本気で行く。受験なんて後回し。ベストを尽くして、後悔せずに部活の最後まで走り切りたい」
後悔せずに走り切る。
それがどんなに大事なことか、私にだってわかる。
「そっか」と応えて私は背もたれに体を預けた。
林さんのように、未来のために今を積み重ねることだって、重要なんだろう。
でも、この今をただ全力で臨むことだって、きっと同じくらい大切だ。
ミッチが私を見て、小さな顔に笑顔を浮かべた。
「ザッキ。頑張ろうね」
「うん」
ぱすぱすん、とバスが音を立てる。速度が緩んだ。
ミッチはちっちゃい体を伸ばして降車ボタンを押す。この小さな体に、どれだけ大きな勇気が詰まっているんだろう。ミッチはすごくカッコいい女の子だ。
胸が締め付けられる。
私は……私はいったいどこを目指して、頑張りたいと思っているんだろうか?
バスが停留所に止まる。
「それじゃあ先に降りるね。また学校で」
ミッチが大きなリュックを重たそうに背負って、ふらふらとよろめいた。
「気をつけてね本当」
「大丈夫。もうこの重量とは長い付き合いになるんだから」
ミッチは笑って、停車したバスの出口に降りていく。背中が見えない。カバンはとにかく大きかった。
私は窓に顔を寄せてミッチを見送る。停留所に降りたミッチと手を振りあって、
ミッチのつま先がアスファルトに引っかかった。
つんのめる。カバンの重さで小さい体が傾いていく。
「ミッチ!!」
どしゃっと。
崩れ落ちる音がした。