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 その帰り道。

 競技場の通路で林さんとばったり遭遇した。

 コンクリート打ちっぱなしのうらびれた通路で、林さんはミッチ待ちで突っ立っている私を一瞥した。

 ジャージから高校のブレザー制服に着替え、深緑のジャケットに長い髪を垂らしている。この暑い中で黒のニーハイソックスは足を保護するためだろうか。折りたたんだアクロフレームが入っているだろう大きなリュックを背負い直して私の前を通り過ぎようとする。

 気づいたときには手が出ていた。


「あの、林さん!」


 ぴた、と林さんは立ち止まる。

 林さんに向けた私の手も虚空で止まっている。アクロフレームをつけていない腕は、どうしてこんなにも重いんだろう。

 やがて林さんはゆっくりと私を振り返った。


「……なに、手崎さん」


 息を呑んだ。

 違う高校なのに、名前を覚えられてるなんて。

 と思ったけど、それを言ったら私も同じだ。林さんに声をかけたのは今日が初めてなのに、名前を覚えている。


「えっと、林さん。実は前から話してみたくて」


 じっと見つめてくる視線にしどろもどろになる。

 そういえば私、なんで話しかけたんだろう。べつに話すこともないはずなのに。

 あ、そうだ。


「新記録おめでとう!」


 林さんは黒の深い瞳で私をじぃっと見つめたあと、


「ありがとう」


 ちっとも嬉しくなさそうに言った。あれぇ……? 話しづらいぞ?

 私が話題に困っていると、林さんが小さく息を吐いて顔を背けた。


「最近、記録が伸び悩んでいるみたいね」

「あ、そうなの。なかなか調子でなくって……林さんはどうして本番でもしっかり実力が出せるの?」


 ってなにを聞き出しているんだ私は。ねたみがぜんぜん隠せていない。

 林さんはリュックのストラップをぐりぐりと指で握りながら、まるで独り言のように言った。


「本番で百パーセントの実力なんて出せっこない。だから、練習のうちに充分な結果を出せるように準備しておくだけ。本番で八割の実力を出せれば上々」

「え」


 なにその脳筋理論。ストイックにもほどがある。

 でもそれで彼女は今日も記録を残している。高校総体でも大注目の選手の一人だ。実際に結果を出している。

 というか、「八割出せれば合格」という気持ちで本番に臨むから気楽に構えることができて、しっかりと実力を出せるのかもしれない。

 でも、そこまでの確信を持つために、いったいどれほど練習を積んでいるのか。


「林さんって、すごい頑張ってるんだね」


 林さんがじろっと私を見て、とんでもない失言に気づいた。


「いや、いつも頑張ってるのは見てて分かってるし、今さらなんだけど、ほんと今さら改めて痛感したっていうか、つまり変な意味じゃなくて」

「手崎さん」

「ひゃい!」


 背筋を伸ばす。

 林さんは叱責でも罵倒でもなく、質問をした。


「インターハイが終わったら、どうするつもりなの」

「え……? どうするって、なにが……?」


 質問の意味が分からなかった。

 インターハイが終わったら。

 そりゃあもちろん、部活は引退だ。迫る大学受験に向けて勉強しなければならない。

 部活に入っていない子たちは、そろそろ受験勉強へ向けて本気モードに入っていくだろう。私はもうしばらく部活に専念して不利を背負うのだから、そのぶん頑張らなきゃいけない。

 でも、今それを聞くとは思えなかった。ましてや、相手はこの林さんだ。

 予想通り、返事がない私を見て林さんは答えを察したようだった。睫毛の長い目を伏せてため息を吐く。


「引退するのね」

「う、うん……」

「私は続ける」


 はっきりした言葉を、聞き間違いかと思った。

 林さんは真剣な顔でもう一度言う。


「私はアクロフレームを続ける。就職して企業選手になる」

「それってつまり、プロになるってこと……?」


 野球やサッカーならいざ知らず、陸上競技でのスポーツ選手なんて成立するのだろうか。ましてやアクロフレームはまだ黎明期。一般的なお茶の間からは縁遠い。

 それ以上に私は呆然としていた。

 そんな発想、抱いたこともなかった。

 インターハイが終わったら部活は引退。それが当然で、それ以外の選択肢がありうるなんて思いもしなかった。

 林さんは黒目がちの目で私を見る。


「今さら記録に固執してどうするの。どうせこの先で諦めるなら、今、諦めたほうが賢いんじゃない」


 話が戻ってきた。

 要するに、私は記録が伸び悩んで苦しんでいるけど。どうせ大会が終わったら引退するつもりなんだから、さっさと見切りをつけて受験勉強を頑張ったほうがいい。そう言っているのだ。

 それはどこまでも冷たくて残酷な言葉だ。


「ひと夏の思い出づくりのために頑張るなんて、おかしいわ」


 つぶやいて林さんは背を向けた。「それじゃさよなら」なんて言い捨てて。


 私は立ち尽くして、動けなかった。

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