ガス管壊れたから銭湯に行ってきた話
「少量のガス漏れを検知しました」
私の日常は『Tガス』担当者の一言でぶち壊された。
日常を壊されたなどと、大袈裟に盛っているのではないかと思われるかもしれない。
だが私は某国民的超有名長寿アニメのヒロイン、シ〇カちゃんばりのお風呂好きである。
休日、出掛ける用のない日などは朝起きて風呂に入り、お昼ご飯を食べてお風呂に入り、夜眠る前にお風呂に入っている。
一日三回の入浴が一日一回も入れなくなったのだから日常を壊されたと言っても過言ではないだろう……いや、一日三回は嘘で過言なのだが。
ガス会社と大家さんに連絡して修理の依頼を頼むも、修理に来るのは三日後だと言われ、それまで台所のガスは使えるがお風呂は使えないとのこと。
鍋で湯を焚いて浴槽に入れるか……そんな阿呆な事を真剣に検討していたのだが、子供時分に末は博士か大臣かともてはやされた私の脳が、「インターネットで銭湯を調べろ」と至極まっとうなツッコミを入れてくれたおかげで我に返る。
早速インターネットを利用して調べると、様々な銭湯が検索結果に上がってきた。
その中で特に近い銭湯の情報を調べていると、一件だけ「サウナ付き」というタグが入った銭湯を見つける。
サウナ。それは一般家庭ではまずお目にかかれないお風呂界のアイドル。檜風呂と露天風呂に並ぶ、私が家に欲しい物ベスト3にあげる憧れの浴場設備。
私がその銭湯を選ぶのに一秒も迷うことはなかった。そしてその銭湯を選んでしまった結果、大したこともない事件に巻き込まれるのだった。
☆
持ち物は着替え装備一式と、体を拭くためのバスタオル。
鰤のイラストがあしらわれたイカした手拭い。そして赤の他人に自分の裸をさらすための勇気を一つまみ。
入浴するための準備を整え、いざ銭湯へ。
緊張しながら車を走らせ、目的の銭湯へは二十分ほどで到着した。
同じタイミングで駐車したカップルがいたが、謎の競争意識が芽生えて先を越されまいと足早に銭湯の本館へと向かう。
駐車場は一階にあり、銭湯自体は二階にあった。
駐車場から見上げた銭湯の本館はお世辞にも見栄えが良いとは言えない。
店名の書かれた看板は色あせておどろおどろしくなっており、経年劣化により所々破損した箇所が見受けられ、廃旅館だと言われても疑わない客を脅すかのような店構え。
駐車場から入り口へとのびる木製の階段は老朽化著しく、板はめくれ上がって合間合間に草が生えていた。
バリアフリーに真っ向から喧嘩を売っていく、反骨精神を隠しもしないロックな階段である。
だがその程度の短所で、私の銭湯への印象は下がりはしなかった。
なにせそこにお湯があるのだ。私を温めるお風呂があるのだ。この先にサウナがあるのだ。
テンションは上がっても、銭湯への好感度が下がるはずもなかった。
色あせた看板の下にある本館を目指し、老朽化して油断すれば踏み抜いてしまいそうな階段をのぼれば熱々の湯船が待っている。
うきうきに浮き上がった気持ちを抑えられず、本館へと続く階段へ一層足を早めて私は向かった。
――そこで私は一つのミスを犯す。
逸る気持ちを抑えきれず、私は一段飛ばしで階段をのぼった。
だがそれがいけなかった。それは階段の素人が陥りがちなミスである。
夜も更けている上に灯りのない薄暗い階段は、足下が非常に見えにくい。
最初に一段飛ばした時、私は既に違和感を覚えていた。二度目にはそれが疑いになり、三度目には確信に変わった。
「この階段、一段一段が意外と高いぞ……」、と。
しかし、一度進み始めた男がそう簡単に歩みを止められるはずもない。
男が歩みを止めていいのは、夏の終わり、マンションの狭い通路に死んでいるのか生きているのか判然としない蝉がひっくり返っている時だけだ。
後ろからは先ほどのカップルが迫っていた。
一段飛ばしで階段をのぼっている最中にそれを止めれば、「あの人目算を誤った上に歩幅が合わなかったから普通に上りはじめてる」と思われてしまう。
この気まずさをなんと形容すればいいだろう。
強いて喩えるならば、「出先で忘れ物を思い出し、道を引き返さなければいけないのに素直に振り返って戻るのが恥ずかしいから、携帯などを取り出して用事があって戻る振りをする」時と似た気持ち――だろうか。
いくら休日には、意味もなく風船を配って子供たちを笑顔にするサービス精神の塊が服を着て歩いているような私でも、コンドームを風船代わりにして遊びそうなお熱い二人にホットな話題を無償で提供するのは癪である。
このまま行こう……そう決心し反バリアフリーな階段を上りきる。
(この状況、後ろから私を見るカップルからすれば「異常な大股で、それも明らかに無理をして階段を上ってる変な人がいる」という、ホットな話題を提供していることにほかならなかったわけだが、当時の私はイチャイチャのんびり歩くカップルに対する敵愾心が先行してしまい、それを抑え込むのに必死でそのことに気付いてはいなかった)
なんとか階段を上りきり、一ミリの達成感も得ることなく、むしろ巨大な虚無感を胸に抱きつつ銭湯の入り口前へと到着する。
入り口前まできたというのに相変わらず周囲の灯りは乏しく、辺りは暗いままであった。
自動ドアをくぐる前に館内地図を確認すると、一際異彩を放つ文言が視界に飛び込み、私は我が目を疑った。
私は震えた。
館内地図には「エス コーナー」と書かれた別館の存在があったのである。
私は来る店を間違えたのか、そう思った。
Sコーナーとはあれかい?
布面積が極めて少ないボンテージファッションの、王位を持たぬ女王様が居丈高な態度で熱い蝋燭や、ほどよく痛い鞭を振舞ってくださる夢の様なコーナーなのかな?
私は混乱した。
なぜ銭湯にそんないかがわしくて楽しそうなコーナーがあるのだ、と。
私は話のネタにそのコーナーを覗きに行くべきだろうかと思い悩む。
そういったお店にお世話になったことはないが、一度くらい話のネタに真っ赤な蝋燭を背中や尻に足らされるのも悪くはないのではないかと。
だがエスコーナーは移動せずともすぐに見つかった。
腰ほどの高さにある館内地図の正面を見れば、色あせた文字で「エステコーナー」と書かれた看板が立っていたのだ。
ほっとした反面、少しがっかりしている自分がそこにはいた。
エステコーナーであっても経験しておけば面白い話のネタにはなるかもしれない。
そう思ったのだが、残念なことにエステコーナーは完全に閉鎖されており、蔦が巻き付き、下手なお化け屋敷よりもよっぽど恐ろしい外観をさらしていた。
あれは無理だ。近付くのも怖い。絶対エステ嬢の霊とかが出るやつである。
近づいたが最後、「あらぁ、ここが太いわねぇ。シェイプアップして余分なお肉をなくしてしまいましょう」などとエステ嬢の霊に私のお大事様が奪われてしまうやつだ。
下らない妄想をやめて気を取り直し、自動ドアをくぐって本館へと突入すると、ガラス張りの玄関にはやたらと張り紙がはってあった。所謂客への注文が多い店、というやつである。
玄関からは番台に座る中年女性の頭が見え、ふくよかな女性がそこに座して番をしていることがわかる。それも中々の面構えで、歴戦の湯屋番と言っても差し支えないだろう。(以下便宜上:番頭と呼ぶ)
玄関入ってすぐに先程の階段と同程度の段差があり、その段差から先は板張りになっており券売機やお土産が並んでいた。
私はそこで立ち止まる。
――これ、靴脱がなきゃ駄目なの? それとも土足でいいのか?
わざわざ段差が設けられているということは脱げということなのだろうが、やたらとはりつけてある張り紙には一言もそうは書かれていない。
一度外にでて全ての張り紙を確認するがやはりどこにも靴を脱げとも土足厳禁とも書かれてはいなかった。
番頭に聞こうにも絶妙な距離があって尋ねるには大声を張り上げなければならなかった。
しかしそこは私である。圧倒的閃きによりその難を逃れることに成功する。
後ろから付いてきていたカップルにあえて先を譲り、どう対応するのかを観察することにしたのだ。
カップルが靴を脱いで上がったのを確認し、自分も真似をしてその後に続く。
よくよく見れば玄関からすぐのところにシューズ用ロッカーというものが用意されていたので、張り紙など探さずともわかることだった。
そんなことにも気付かない私は本当萌えキャラだな、天使だな、と、改めて自分に惚れなおしつつ入浴券を券売機で買い、イチャイチャしているカップルに呪詛の念を送りながら追い抜き、ふくよかな番頭へ入浴券を渡した。
「そこから入るんですよね?」
なんの気なしに聞いただけだったのだが、番頭は一瞬怯んだような顔をみせる。
「えっ?」
やらかした。そう思った。
銭湯は男湯と女湯しかない。それは当たり前である。
そして私は男なのだから入るのは男湯に決まっているのだ。何故この時確認したのか今でも理解に苦しむ。
「あっ、この人ワンチャン子供枠で女風呂に入ろうとしてる……」
そう思われたのかもしれない。番頭さんは若干言い淀みながら「は、はい、あちらですねー」と、ご丁寧に指までさして青い暖簾の「男湯」と書かれた方に入るよう指示してくれた。
私は「ありがとうございます……」と消え切りそうな声で感謝の言葉を述べて、男湯の暖簾を押してそそくさと脱衣所へと逃げ込んだ。
☆
脱衣所で全裸になり、体を洗って早速湯船に浸かる。
家の風呂では私の美脚は伸ばすことができなかったが、流石は大浴場。すらりと伸びた私の美脚を伸ばしてもまだ余る広さがある。
肩まで浸かり頭の上に鰤柄の手拭いをのせて天井を見上げる。
ぼろ臭い板張りの天井と、電源の入っていない街灯(正確には街灯ではない)がある。
なぜ店外に街灯がなく浴場内に街灯があるのだ。その街灯は外に配置して電源を入れろ。そう思った。
湯の温度は40度。
ほどよい湯加減だったが、しばらくするとのぼせてきたので手ぬぐいを首に巻いて下半身だけを湯につける。
座っているタイル部分は非常に尻滑りがよく、上半身が斜め四十五度と九十度の角度になるのを交互に繰り返しながら尻の収まりが良い場所を探した。
改めて浴場を見渡していると、私が座っている場所は図らずとも絶好の監視ポジションだと気付く。
かわるがわる視界に飛び込むのは入浴客の色とりどり、形様々なチン……いや、正直そんなポジショニングを求めていたわけではないのでこの話は忘れよう。
極力入浴客の股間を見ぬよう気を付けながら、ぼんやりと浴場全体を見ているとまたあることに気付く。
それは時折男性客が自分自身のお大事様をチラリと見ていることである。
サウナから出てきてチラリ。
湯からあがってチラリ。
シャワーで体を洗い流してチラリ。
さらにはささっといじる者までいた。
ははぁん、と私は頷いた(頷いてない)。詳しくは語らぬが、男は虚栄心の塊であるとだけ言っておこう。
☆
さぁさぁ、いよいよサウナである。
サウナ室の前まで移動し中の様子を窺うと、満員とまではいかないがそこそこの客入りである。
なので一度浴場全体が見渡せる股間監視ポイントへ戻り、巣箱から人が飛び立つのを待つ。
四、五人出たところでいざ鎌倉と、再び勇んでサウナ前へと移動し、熱気を逃がさぬようサウナ室の扉を必要最小限の角度で開けて、体を滑りこませるようにして室内に侵入した。
一斉に集中する野獣共の視線。
私は美脚だがパリコレのモデルではないので、自分に集中する無遠慮な視線を好ましいとは思えなかった。
裸でうろつきいつまでも視線を浴び続けるのも居心地が悪いので、さっさと入り口近くの最上段に座る。
そして鰤柄の手拭いを股間に置き『戦闘開始』である。
銭湯だけに戦闘。そんなつまらない冗談を言うつもりはない。
サウナを利用したことのある男ならば誰でもわかるはずだ。サウナとは男の戦場なのだと。
それは決していかがわしい意味ではない。どっちが攻めでどっちが受けだとか、そういう戦いでは断じてない。
サウナ室というのは見知らぬ兵どもとの我慢比べをする、ある種の戦場なのである。
誰が先に音を上げるか、どちらが先にサウナから出るか、各々が自分のライバルを定めてランダムマッチングで戦闘しているコロシアムなのである。
その戦場で私が心の中でライバルに指名したのは、その場にいた全員であった。
お前ら全員ぶち抜いてやる(性的な意味ではない)と、後入り優勢の利を活かした卑怯で姑息で不公平な戦いを挑んだ。
しかし、私が座ったのは最上段。最も温度の上昇がはやく、素人では十分と耐えられない最高温ポイントである。
それでも後から入った私が有利なのは変わらないので、後から入った私が先に出れば敗北となる特殊ルールで戦いを始める。
全員を相手取るということは、一人でも勝てなければ私の負けであるということだ。
万が一敗北し、無様に尻を晒してサウナ室を出れば、兵たちの失笑を買うだろう。
いや、それだけで済めばいい。サウナとは正に命をかけた戦いなのだ。敗者にはどんな仕打ちが待っているかわからない。
その状況下において、私は全員に挑戦したという意味がおわかりいただけただろうか。つまり私は不退転の決意で戦いに挑んだのである(?)。
無言のサウナ室。戦いのゴングだとばかりに、隣に座る老人が「うぃー……」と呟く。
それから一分も経たぬうちに私の発汗機能はフル稼働し、みるみるうちに汗だくになっていった。
初めて来た銭湯だ。アウェイ感は否めず心理的におされているのかもしれない。
だが私も道場破りの猛者だと、地元では名の知れた聖湯士。
地元で醜く散っていた銭友たちの為にも、こんなところで倒れるわけにはいかない。
思い出すのは数年前に潰れてしまった行きつけだった地元の銭湯。脳裡に過るのは戦ってきた強敵たちの股間だった。
☆
正直場所どりミスったかなと、僅かに後悔の念が湧き上がってきた頃、熱さを誤魔化すために周囲の様子を窺った。
まず目についたのは張り紙であった。
そこには「お喋り厳禁」と書かれており、ここでも張り紙があるのかと少々うんざりする。
お喋りが禁止されているからか、確かに誰も喋る者はいなかった。
隣で唸り続ける老人。
腹周りが私の十倍はあろうかという巨漢の男。
ペアで来ているとわかるゴリマッチョな二人組。
顔にタオルを巻いて目だけをのぞかせている一際怪しい覆面男。
誰一人として喋る者はいなかった。
そのかわり、皆一点に集中していた。
その視線の先を追うと、そこにはなんとテレビが備え付けてあった。
テレビが備え付けてあるのだ。サウナなのにテレビがあったのだ!
サウナ室にテレビだと……と、私の受けた衝撃と動揺は尋常なものではなかった。
それは幼い頃、スーファミが合体したテレビを見た時と同レベルの驚きであった。
地元の銭湯には脱衣所に小さなラジオがあっただけだったので、一瞬怯んでしまったが、何も古代文明が復活してアトランティスの謎が解明されたわけでもクリアされたわけでもなしと、すぐに平静を取り戻す。
テレビは音こそ出ているものの、意識しなければ聴こえないレベルの音量に調整されていた。
なるほど、サウナは静かに楽しむものなのか。
改めて室内を見渡してみれば、詫び寂びを感じさせ千利休の茶室をおもわせる静かで質素な空間ではないか。うるさいのはむしろ張り紙ぐらいのものである。
燃えていた闘争心は静まり、勝敗に拘り一人でサウナ以上に熱くなっていた自分が恥ずかしくなっていく。
家では楽しめない折角のサウナなのだ。勝ち負けなどには拘らず素直に楽しもう。
半分本気、半分冗談だったが、サウナで争うのは本当に危ない。命の危険を伴うので、自分のペースで楽しもうじゃないか……私はそう思いなおした。
――そしてその直後に事件は起きる。
奥に座していた巨漢の男性がサウナを出るようで、のしのしと歩き出す。
もう私の頭の中には勝敗に拘る小さな自分はいない。ゆっくり水風呂に浸かってください。私もすぐに行きます。
そんな穏やかな気持で巨漢の男性を見送っていた。
いや、正確に言えば油断をしていたのだ。
そして次の瞬間、その巨漢の男性が私の前を通ろうかという時、突如「きゅー?」という疑問形の異音を放ったのである。
屁だッ!
私は即座に確信して笑いそうになった。
この時吹き出さなかった私をどうか褒めてほしい。
よくよく考えれば、板が軋んだ音だったのかもしれないし、その方が現実的であった。
或いはペットでも持ち込んでいたのかもしれないし、その男性の正体は魔法少女で尻に隠していた相方の魔法生物が鳴いてしまったのかもしれない。
だが真実がどうであれ、私にはその異音が屁だとしか考えられれなくなっていた。
そう、戦闘は終わっていなかったのである。
なんて無礼で卑怯な奴だ!
そう憤る気持ちもあった。だがそれ以上に私は楽しくなってしまっていた。
このままでは不味い。
なんとか笑わないように疑問形の放屁音を頭から追い出そうと、気を紛らわすためにテレビに目を向ける。
だがそのテレビショーも罠であった。先程の巨漢が放屁音を出したのは目くらましならぬ屁くらまし。このテレビショーをみせる事こそが奴の本当の狙いであり、私を道連れにするための巧妙な罠だったのだ。
計算しつくされたピタゴラスイッチな罠にかかった私はまんまとテレビ画面を見てしまう。
テレビショーのメイン飾っているのは、マ〇コデラックスであった。
全裸の男しかいない密閉空間で流れているテレビショーの主役が、よりにもよってあのマ〇コである。
裸の男が並ぶ空間に僅かに聴こえるマ〇コの声。居心地が悪いなどという次元ではない。
笑ってはいけない状況というのはどうにも笑いのハードルが下がるもの。
先程の疑惑の放屁音でツボが緩んでいたこともあり、マ〇コのボケと観客の笑い声が私の横隔膜を執拗に攻める。
さっと顔を手で隠し、下を向く。
しまい忘れて熱されていたロッカーの鍵が腕に当たり、思わず「熱っ」と漏らしてしまう。
そんな情けない自分が面白くなってしまうが、それもなんとか凌いだ。
間一髪だったと思う。まさか私が下を向いたのが表情筋の崩れた顔を隠すためだとは思うまい。
見ようによっては熱さの限界が来てうなだれている様にも見えているだろう。
それを勘違いし、油断した他の客たちは、勝利を確信し、油断しただろう。
馬鹿め、私のサウナ力はそんなものではないわ。
――だが、下を向いて誤魔化したのが間違いであった。
人の生は失敗の連続である。
間違いを犯し、それを反省し、教訓にして生きていかなければならない。
そうすることで自前の転ばぬ先の杖が作られ、人は間違いを犯す前に正しい道へと向かうことができるのだ。
だが経験値の乏しい私の人生では、この状況を予測することはできなかった。
まさか、更に強力な刺客が私を待ち受けているとは考えもしなかったのだ。
股間は手拭いで隠しているはずだった。
だがいつの間にか手拭いはずれており、口をあけた鰤が私のお大事様を咥えているようにしか見えなくなっていたのである。
見事なまでのフィッシュオン。
その絵面は、ユムシに食らいつく鰤そのもの。
鰤がユムシで釣れるかはおいておくとして、まさかの釣果に私の横隔膜は自動巻き上げリールの振動が如く激しく痙攣した。
「……つぅッ」
という小さな声は漏らしたものの、目を瞑ることでなんとか笑う事は耐える。
深呼吸をすると熱気が鼻腔を焼ききらんとばかりに侵入してくるが、その痛みがかえって私の心を落ち着かせてくれた。
巨漢の男からの連鎖攻撃を受けて危なく笑ってばよえーんしそうになったが、その局面を抜けると、覆面の男、呟く老人の順にライバルたちは脱落していった。
私もいい加減限界だったのでサウナを出ることにした。
まだサウナにはゴリマッチョーズが残っているが、突発我慢大会は私の負けでいい。
二人でマ〇コを見ながら熱くなっていればいいさ。
私はこれ以上ここにいると勝ち負けどころではなくなってしまう。
サウナ室から脱出し、水風呂で体を冷やしながら次はどの湯に入ろうかと考えていると、突発我慢大会一位のゴリマッチョが同じ水風呂に入ってきた。
そして近くにいたゴリマッチョ仲間にこう言った。
「さっきのおっちゃん屁こいたべ」
私は両手ですくった水を顔に擦り付けるように打ち付け、必死に笑いを誤魔化した。
☆
水風呂から上がり、冷えきった体を温め直そうと適当な風呂を探す。
脱衣所から反対の方向にも出入り口があることに気付き、何の気なしに扉に近付くと、そこには露天風呂が用意されていた。
なんという事だろう。この時代、温泉街にまで足を運ばずとも露天風呂が楽しめるのか。
冷えて縮んでしまった股間のうなぎと反比例するように、私のテンションはうなぎのぼりに高まっていく。
これは入るしかない。私は迷わずスライド式の扉をあけて露天空間へと突入した。
――しかし、それが間違いであった。
サウナで熱した頭はまだ冷え切っていなかったのか、ゴリマッチョたちの談笑で心をやられたのか。その時私は、もう少し慎重に行動するべきだったのだ。
ガラリと露天風呂の扉を豪快に開け、水風呂で冷えた体よりも外気の方が暖かく、銭湯通の間で『羽衣』と呼ばれる無敵状態になっていた。
羽衣の無敵状態をもう少し楽しみたかったが、体を冷やして風邪を引くのも面白くないと、さっさとジャグジータイプの露天風呂に浸かり足を伸ばす。
見上げるも都会の夜空には星は見えず、落胆し目を瞑る。
景色はよくないが、お湯の心地は絶品であった。
あまりの心地よさに睡魔が私を襲ってくる。
欲望に忠実なのが私の長所である。眠いなら眠ればいいと、先程私を散々苦しめた鰤の手拭いで目を隠す。
うとうとしながらジャグジーの水流に解凍されたユムシを揺らしていると、何度目かの扉の開閉音がしたところでパッと目をさます。
鰤の手拭いをどかして辺りを見渡すと、露天空間にはいつの間にか四人の男が集まっていた。
しかしその四人とも露天風呂には入らず、白いリクライニングチェアに腰かけている。
円筒状の露天風呂を囲う様に配置してあるリクライニングチェア。
なぜ露天風呂を囲う必要があるのだ。
当然みな全裸であり、誰一人としてタオルを巻いておらず、思い思いの姿勢で私に股間を向けていた。
――ハメられた。
そう思った。
――ハメられる。
そうも思った。
どうしてこんなにも素晴らしい露天風呂に誰も入っていなかったのかという謎もこれで納得がいった。
ここは蜘蛛の巣だったのだ。私の様に何も知らない無垢なモンシロチョウを捕食するための狩場だったのである。
出よう。全裸の蜘蛛どもに入浴を見守られるというのは気分がいいものではない。
だが気付いた瞬間に風呂から出るのも心証が悪い気もした。
いや、相手は上司でも先輩でも親戚のおじさんでもないのだから、そんなものは気にしなくてもいいのだが、生来の小心から身動きが取れなくなる。
そもそもここは初めてくる銭湯である。
これからも利用しないとも限らない。この場にこの銭湯のボス的存在がいたらどう思うか。
きっと私は出禁にされてしまうか、この場で断罪されてしまうだろう。
何より監視されている状態で立ち上がるのは非常に勇気がいる。
と、そこで一人の男が露天ジャグジーに近付いてくる。
凡人ならばこのピンチを切り抜けられず、この場で断罪されていたかもしれない。
だがピンチはチャンスとはよく言ったもの。私はその男がジャグジーに足を入れた瞬間に立ち上がり、場面の動きに合わせ極めて自然にフェードアウトした。
忍法変わり身の術である。
☆
それからまた室内浴場に戻り、露天空間ではゆっくり楽しめなかったので室内にもあるジャグジー風呂に入る。
そのジャグジー風呂は寝転がって入浴できるように設計されていた。
両脇にL字型の長いパイプが両サイドに設置されてあり、それを掴んで体を固定する作りである。
下から吹き出される水流が足裏に当たりどうにもくすぐったく、足の置き場に困っていた。
足を浮かせたままでは疲れてしまうし、降ろせばくすぐったい。かといって寝転んだ体勢を維持しながらこれ以上動くと、ジェット水流が私の羅生門にヒットしてしまう。
体を癒すために来たのであって気持ち良くなりに来たのではない。ジャグジー風呂で疲れてしまっては本末転倒である。
――その時の私は、短時間で数々の修羅場をくぐり抜けたことで疲れていたのか、或いはどうかしていたのだろう。
試行錯誤の末、両脇にあったL字のパイプに足を挿し込み体を固定することにした。
股を大開きにした、やや甘めのМ字開脚である。МリオとLイージに真ん中にはキノコである。
私は図らずとも一人ブラザーズをして無敵状態になっていることにしばらくしてから気付く。
窓ガラス越しの露天ジャグジーへ向けての甘М字開脚。私が同じことをされていたら引っ叩いていただろう。
自分の痴態に気付き、慌てるのもかっこ悪いのでゆっくり一本ずつ足をぬいて、そのままシャワー室で体を洗い流して脱衣所へと戻った。
ロッカーの鍵をあけてバスタオルで体を拭く。
先にパンツを穿き、他の着替えを探す。その時、パンツの真ん中から「ヨ〇シー!」と、お大事様が顔を出していた。
「まだお風呂にはいりたいよー」、そう言っているかのようである。
ゴムが緩み過ぎていたのだろうか、一年も使っていなかったが買い替えなければいけないなと、そんなことをぼんやりと考えていた。
幸い脱衣所には誰もいなかったので、その情けない姿のまま私はロッカーを漁り上着などを探していた。
するとそこで、モップを持った老女が私の横を通り過ぎた。
そのすれ違いは、時間にすれば二秒にも満たないだろう。だが感覚では永遠を感じた。
もちろんお大事様は「ヨッ〇ー!」のままである。
血の気が引くとはまさにこのことか。
羅生門がどうとか冒涜的なことを考えていた罰が当たったのだろう。
☆
銭湯本館から脱出し、近くにあった回転寿司屋へと足を運ぶ。
客はまばらで自分を入れても三人しかおらず、店員の方が多かった。
大将に注文を頼み、立ち上がってセルフサービスの水をコップに入れてから席に戻る。
注文したネタを受け取り、箸を割って醤油を小皿にさし、さあいただくぞと言う時に先ほどサウナ室で放屁した男性がレールをまたいだ正面にいた。
私は笑った。