2.
「痛い!! 沁みます!!」
リビングに戻って傷口に消毒液を当てられた途端、わたしは思わず叫んでしまった。
「足を動かすな。もっとしっかりスカートを押さえてろ」
傷の手当てというより、彼はさっきから別の心配をしている。
わたしはそれどころではなく、痛くて涙目になっていた。
「すみません。……そんなもの、見たくないですよね」
「変なヤツだな」
織部くんは、そう言って笑った。
足に直接触られるのは恥ずかしいから、傷薬は自分でつける。
そこで、唐突にわたしのお腹が鳴った。
彼にも聞こえたはず……。
本当にもう、次から次へと恥ずかしい。
学校を出たのが十一時半だったから、きっと今、お昼を過ぎたころじゃないかと思う。
「十二時半か……。昼飯、なんか作る」
彼が言った。
傷の手当てだって申し訳ないのに、冷血王子にご飯を作らせるなんて、絶対にあり得ない。
「いえ、大丈夫です。もう帰りますから」
わたしは恥ずかしさもあり、そう言って勢いよく立ち上がった。
「いいから、座れよ。遠慮すんな。大したものは作れないけど」
どうしよう……。
好意で言ってくれてるんだし、これ以上強く断ったら、それはそれで失礼なのかもしれない。
「……すみません」
わたしは再びソファーに座った。
「謝ってばっかりだな。それに、いつまでそんな畏ってんの? 委員長だから?」
「そういえばクラスが違うのに、織部くんはわたしが委員長だってこと知ってるんですね」
「先生の手伝いしてるとこ、よく見かけるし」
「そうだったんですね。名前言ってませんでしたよね。わたし、白城詩音です」
「あんた、まさか友達にもそんな話し方してんの?」
「え? はい」
「やっぱ変わってる」
そう言って、彼はまた笑った。
織部くんが作ってくれたのは、お肉と野菜がたくさん入ったソース焼きそばだった。
「すっごく美味しいです。お料理、上手なんですね」
「別に……。付属のソースで味付けてるだけだし」
彼は照れたように俯いて言った。さっきから思っていたけど、噂からわたしが勝手に想像していたイメージと、ずいぶん違っている。
それから、眼鏡屋さんに眼鏡を作りに行こうと言われた。
でも、さすがに全く見えないまま、遠くに行くのは怖い。
前に使っていた眼鏡があるから、とりあえず家に帰りたいと話す。織部くんの家から
わたしの家まで、そんなに離れていない。歩いて十分くらいの距離。
彼は「分かった」と言い、家まで送ってくれることになった。
見えないので、織部くんはずっとわたしの手を引いてくれている。
他の人からは、わたしの目が悪いことなんて分かるわけがないんだし、この状況は、普通に手を繋いだ仲良しカップルだと誤解されてしまっても仕方がない。
「……手、離してください。側を歩いてくれるだけで、大丈夫ですので」
わたしは言った。
「また、転んで怪我されたら困る」
そう言って、彼はわたしの手を離そうとはしなかった。
しかも、何気に歩道の外側を歩いてくれている。責任感からだと思うけど、とても優しい。
「眼鏡は、お母さんと一緒に買いに行きます」
わたしは歩きながらそう言った。
「あ、そう」
織部くんは、さほど興味ないような口ぶりで返す。
「足、平気?」
彼が聞いた。
「かすり傷ですし、全然平気です。手当てしてくれたとき、見ましたよね?」
何故か織部くんの返事がない。
わたしは首を傾げて彼を見た(実際、見えてないんだけど)。
わたしの家に着くと、彼は勝手に玄関のチャイムを押した。
扉を開けて驚くお母さんに、織部くんは自己紹介をして、さっき起きたことを説明する。
「本当にすみませんでした。これ、眼鏡代です」
一通り話し終えると、彼はそう言って、白い封筒らしきものをお母さんに差し出した。
「あらあら。うちの子がいつもの調子でぼーっとして歩いてたんだから、そんなこと気にしないで。返って迷惑をかけてしまって、ごめんなさいね」
「いえ、受け取ってもらえないと、俺が母に怒られます」
「困ったわね。……それじゃ、お言葉に甘えて。ありがとうございます。お母様にもよろしく言ってください。近くなら、もしかして織部くんも詩音と同じ学校かしら?」
「はい。隣のクラスです」
「迷惑じゃなければ、これからも仲良くしてあげてね」
お母さんは笑って言った。
「すっごく綺麗な子ね。あれじゃ、女の子が放っておかないでしょ?」
リビングでお茶を飲みながら、お母さんがそう聞いてきた。
わたしは前に使っていた眼鏡を掛けて、やっと一息つく。
「彼は、女子生徒から冷血王子って呼ばれてます」
「冷血? 礼儀正しくて親切だし、冷たい印象なんてないけど……どうしてかしら? 不思議ね」
「噂では、次々と告白してくる女の子を冷たく振りまくっているそうです」
「ええ? そうなの? でも、中学生なのにそんなに告白されるって凄いわね」
「……確かに、凄いです。だけど、考えてみたら、困惑してしまうかもしれません。絶対にないですけど、自分だったらって考えてみたら、そんなにたくさんの方に告白されても嬉しいというより、やっぱり……困ってしまう気がします」
「そうね。きっと、彼には彼の悩みがあるのよね」
振られた女の子の気持ちばかり考えて、これまで冷血王子の気持ちなんて考えたこともなかった。
冷血王子だからって感情がないわけではない。
今日、織部くんはわたしに十分すぎるくらい優しくしてくれた。冷血なんかじゃないと思う。
「詩音、お腹空いてるでしょ? すぐに何か作るわね」
お母さんが言った。
「大丈夫です。織部くんが焼きそばを作ってくれました」
「まあ」
お母さんは笑っている。
「じゃあ、お茶を飲み終わったら、眼鏡屋さんに行きましょう。その眼鏡、前のだから度が少し弱いものね」
わたしは頷いて、それからお母さんと眼鏡屋さんに向かった。
フレームは壊れてしまったのと、似た感じのものにした。
レンズを取り寄せるのに時間がかかるから、眼鏡が出来るのは一週間後になるそうだ。
次の日学校に行くと、噂好きの琴美ちゃんが真っ先に声を掛けてきた。
「インチョー、おはよ!!」
「琴美ちゃん、おはようございます」
「あれ? 今日の眼鏡、なんか違くない?」
「これは前に使ってた眼鏡です。昨日、不注意で壊してしまって」
「そうなんだ。あのね、今聞いたんだけど、冷血王子、今度は三年生の先輩のこと振ったんだって!!」
急に冷血王子と言われてドキッとする。
「そ、そうなんですか?」
「うん。さっきの話。三年生、登校途中の彼に声掛けて告白したらしいよ。勇気あるよね」
どうして今さっき起きた話が、もうみんなに知れ渡っているんだろう? まさか、織部くんを監視している人が居るとか……?
そう考えると、昨日の出来事が誰にもばれていないのが奇跡みたいに思えてきた。
「白城さん居る?」
突然、教室のドアから誰かが叫んだ。
わたしが振り向くと同時に、複数の女子の悲鳴が上がる。
ドアの前に立っているのは、どうやら織部くんらしい。
「王子、イ、インチョーのこと……呼んでる」
横に居る琴美ちゃんが、わたしの腕を引っ張りながら、変なイントネーションでそう言った。
わたしは、ゆっくりと織部くんに近づく。
そして、正面に立った途端、固まってしまった。
織部くんは格好いい人だと頭では分かっていた。分かっていたけれど、実際わたしは、ちっとも分かっていなかった。
冷血王子は、冷血だろうと間違いなく『王子』なのだ。ふざけて『王子』なんて呼ばれているわけではない。
整った綺麗な顔に、キューティクルが何層もありそうな薄茶色の髪。
意思の強そうな切れ長の瞳は、中に星が入っているのかと思うくらいキラキラ輝いている。肌もそこらへんの女の子より、断然きめ細やかで美しい。
そんな彼が、少し冷めた目でわたしを見ていた。
「眼鏡、どうした?」
彼は言った。
それは昨日聞いていた声と、全く同じ。
昨日、わたしはこんな格好いい人に堂々と太ももを見せて、お昼を作ってもらって、その上、手を繋いで家まで送ってもらったっていうの?
恥ずかしすぎる……。
「あんた、具合でも悪いの?」
わたしは首を横に振った。勝手に顔が赤くなる。
「あ、あの、昨日、あれから眼鏡屋さんに行きまして、新しい眼鏡は……一週間くらいで出来るそうです」
「その眼鏡、前の?」
わたしは頷く。
「見えにくくない?」
「……ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
わたしがそう言うと、織部くんは少し考えるような仕草をした。
「今日から一緒に帰る。朝も迎えに行くから」
そんなこと、とんでもない!!
でも声に出せず、わたしは口をパクパク動かした。
織部くんは、返事をしないわたしを不思議そうに見ている。
「……じゃあ、そういうことで」
彼は一方的にそう言うと、自分の教室に戻って行った。