松賀騒動異聞 第一章
松賀騒動異聞
― 遠い昔、磐城の国で ―
第一章 プロローグ
平成二十年十月中旬
会社を辞めて、半年が過ぎた。
毎月一度、指定された日時に市の職業安定所に行き、失業給付金受領のための失業認定を受ける外、本当にすることが無い。
ふと、辞めるのが早過ぎたか、と思った。
私はまだ、何と言っても五十五歳になったばかりだ。
会社には三十年間勤務し、独身であることもあって、まあ食べることには事欠かないほどの貯蓄も出来た。
それに、こつこつと買い集めていた株も綺麗さっぱり全て売却し、金に換えた。
売った途端、サブプライム絡みで株が軒並み大幅ダウンした。
損をした人には申し訳ないが、ラッキーと思った。
会社を辞めた理由は別に無い。
以前から、五十五歳までには退職し、それからの人生はのんびりとやろうと思っていただけだ。
そして、その計画通り、会社を未練なく辞めて、郷里の町に帰って来た。
父も母も数年前に相次いで亡くなり、親戚付き合いをするような親類も居ない。
小綺麗なマンションの一室を買って、今は、気楽な一人暮らしを楽しんでいる。
住んでいるマンションの大きなガラス窓からは、港が一望出来る。
海の色は少し濃いめの青で、群青色とでも言うのであろうか、湾曲した水平線の彼方まで遮るものは何も無く、その色が広がっている。
今日も、のんびりと朝寝を楽しみ、コーヒーとパンで簡単な朝食を済ませ、高台にあるマンションを出て、港のあたりをウォーキングと称して歩いて来た。
五十歳になった頃の定期健診で、糖尿の気があると診断されてから、一日に最低一万歩は歩くという目標を立て、この五年間実行してきた。
こう見えても、私は意志の固い人間なのだ。
会社員だった頃は、一万歩という目標はなかなか厳しい目標であったが、会社を辞めた現在は、朝、昼、晩と自由に歩くことが出来る身分となり、一万歩という目標は楽な目標となり、今は一日二万歩という目標に変更している。
マンションのある港町は、観光施設はともかく、文化的にはとりたてて面白いところは無い町であるが、車で二十五、六分ほど走った別な街には市の大きな図書館があり、私は週に半分はその図書館に通い、いろんな本を中で読んだり、借りたりして、優雅な時を過ごすというのがほぼ私の習慣となり始めていた。
このところ、私は地元の歴史を勉強しており、その中でも、江戸時代の半ば、元文という年代に起こった百姓一揆に関して興味を覚え、いろいろと史料を読み漁っていた。
この百姓一揆は、「元文磐城百姓一揆」と呼ばれている一揆であったが、地元の歴史には無関心であった私は今年Uターンで帰って来るまで、その名前すら聞いたことは無かったのだ。
名前を知ったのは偶然だった。
市には、市民大学という文化的な催しがあり、いろいろな講座を受講することが出来る。
二か月ほど前に申し込んでおいた、『地域に関する講座』が開催されることとなり、私は地元の私立大学の校舎で開催されたその啓蒙講座に参加してみた。
その大学は鎌田山という、一応は山という名前は付いているものの、どちらかと言えば、丘と見間違いそうな低い山の頂にある。
山頂まで続く少し急な階段があり、歩いて登ると、頂上に大きな石碑が建っている。
かなり立派な石碑であり、その石碑の表面には【元文義民碑】と彫られてある。
それが、私と元文百姓一揆との出会いであった。
少し、興味を覚えた。
それから、私はせっせと駅前の市立図書館に通い、この百姓一揆に関する史料、文献等を読み耽った。
図書館で関係書籍の頁を捲りながら、ふと、私は熱中する自分の姿に気付き、頬が緩むのを感じた。
こんな感じは、三十年振りかとも思った。
大学の頃の卒業論文、修士論文の下調べとして、文献調査をしていた自分の姿と重ね合わせていたのだった。
その頃は、日本語、英語、果ては独語と、かなり難しい文献を調査しており、どちらかと言えば、苦痛を伴う作業であったが、今は、調査の納期も無く、江戸時代の文体という独特の読み辛さはあったものの、慣れてしまえば外国語と比べ、それほどの難しさは無く、気楽な気持ちで読んで調べることが出来た。
時折は、図書館があるビルを出て、駅周辺を歩いてみた。
いわき駅は、昔は城の外堀であり、今の駅の裏手の小高い丘には、磐城平城の三階櫓が聳え立っていたそうだ。
城は戊辰戦争の時に落城し、その後、城を再建しようという動きも無く、現在に至っている。
今は、所々に旧城の石垣が残っているくらいで、城の名残は綺麗さっぱり無くなっている。
この城は徳川幕府が出来た頃、譜代大名の鳥居氏が入封し、十二、三年ほどかけて築城したという城であり、仙台の伊達という外様大名に対する抑えの城という狙いの下、築城されただけあって、堅固な城であったと云われている。
城の縄張りというか、城のレイアウトは藩が幕府に提出した図面に残されているが、それを見ても、大きな堀を持つ、かなり大きな城であったことが判る。
但し、天守閣は無かった。
その代わり、三層の大きな櫓が駅裏手の丘に聳え立っており、往時は眺める者を圧するように屹立していたことであろう。
また、何重にも巡らされた堀は、くねくねとうねっている竜の形に見えたらしい。
このような唄い文句も残されている。
『磐城名物、三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ』
また、竜にかこつけてかは知らないが、この磐城平城の別名は『龍ケ城』である。
この城はその歴史の中で、二度、軍勢に囲まれた。
一度は、言うまでも無く、戊辰戦争の折、いわゆる『官軍』に囲まれた時であり、もう一度は兵士では無く、百姓に囲まれた。
囲んだ百姓の人数は半端では無く、凄い。
何と、二万数千人に及ぶ百姓たちが、一揆の蓆旗を立て、竹槍を掲げて、この城を四日間にわたり、完全に包囲したのだ。
磐城平藩の領民は当時の藩の記録に依れば、大体七万五千人程度であり、その三分の一ほどの人数が城を囲んだ。
その時、城に立て籠もった内藤藩の侍は三百人ほどであったと云われている。
侍たちは、もし百姓たちが城に乱入しようとした場合は敵う筈が無いとばかり、一時は切腹をして潔く果てようとまで考え、死を決意する者も居たとされる。
しかし、百姓たちは、近郷の割元名主と呼ばれる大庄屋、城下の豪商宅、百姓を苛めた藩重役たちの屋敷は散々に荒らして破壊したものの、城を攻撃するような振る舞いには結局のところ、出なかった。
『恐れながら、書き付けをもって、申し上げたてまつりそうろう』、との請願書を藩役人に提出しただけに止まり、四日間続いた平城に対する包囲も解いて、粛々(しゅくしゅく)とそれぞれの村々に帰って行った。
やがて、藩の執拗な逆襲が始まり、一揆の頭取と目された者が続々と捕縛され、翌年十名という大勢の百姓が打首・獄門となった。ほとんどが名主層であったと云われている。
一揆に関しては、事の成否、訴えの正当性にかかわらず、一揆の首謀者は死罪になるというのが当時の掟ではあったが、それにしても十名という数は多く、酷い。
今から、二百七十年ばかり前に起こったこの一揆を、「元文磐城百姓一揆」と云い、処刑された者たちは「元文義民」として今、鎌田山の山頂で顕彰されている。
普通は、城が無くなっても、城跡は公園として残されるものであるが、この城の跡には記念とされる施設が何も残されてはいない。
個人が経営する記念館がポツンとあるだけだ。
元々無かった天守閣はともかくとして、史上名高い三層櫓くらいは再建しようという動きも、昔はあったらしいが、現在のところは全く無い。
私もかつてはそうであったが、どうもいわきの人はほとんどの人が地元の文化的な遺産に関して、執着はさほど無さそうにも思える。
城跡公園どころか、城の中心である本丸あたりにも遠慮無く、このように民家が建ち並んでいる光景は凄まじいものだと思いながら、私はいわき駅の裏手の道を歩いた。
そう言えば、近くの泉という町には、お寺がほとんど無い。
二、三万人ほどの町であるが、お寺は一つか二つしか無いという話だ。
あるのは、神社ばかりだ。
何でも、明治初期の廃仏毀釈の際、水戸学の勤王・神国思想にかぶれた泉藩の若い侍たち、当時は士族と云うのであろうか、その士族たちが藩内のお寺というお寺を徹底的に破壊して回ったそうだ。
そのせいか、泉という町では、今は神式のお葬式が主体となっているそうだ。
従って、この町で仏式のお葬式を上げたい場合は、近くの町からお坊さんを呼んで、読経を上げてもらわなければならないという話をどこかで聞いたことがある。
磐城と云う名で呼ばれたのは江戸時代からであり、その前、江戸時代以前は、ここは岩城と違う字を用いて呼ばれた。
そして、この地域は戦国時代の頃は岩城氏の支配下にあった。
岩城氏は地頭という小豪族から戦国大名にまでのし上がった一族で、一時は、伊達氏或いは佐竹氏といった勢力の強い戦国大名とも肩を並べた堂々とした大名であったが、時流に乗り遅れ、関ヶ原では石田三成の西軍に味方をしたばかりに、徳川家康によって藩を取り潰されてしまった。
石高は二十万石程度を有する、比較的大きな大名であったらしい。
岩城家の後は、徳川譜代の大名が磐城の領主となり、鳥居氏が二十年、内藤氏が百二十五年、井上氏が十年と続き、安藤氏が百十年といったところで明治の廃藩置県を迎えることとなる。
治世が一番長かったのは内藤氏で初代の政長から始まり、二代忠興、三代義概)、四代義孝、五代義稠と続き、六代政樹で九州の延岡に転封となる。
私が興味を引かれた元文百姓一揆は六代政樹の時に起こった一揆で、この一揆の責任を取らされる形で内藤藩は延岡に移封されたと言われている。
責任云々という話は公式の記録には勿論書かれてはいないが、表高は七万石でも実高は二十二万石程度あったとされるこの磐城から、表高の七万石も果たして、と云われた九州・日向延岡への移封は内藤家にとっては只事ではない由々しき事件であったのは間違い無い。
逆に言えば、元文百姓一揆がもしも無かったとしたら、その後も内藤氏が磐城平の藩主として長期政権が続いていたかも知れないのだ。
元文義民を生んだ元文百姓一揆は内藤備後守政樹の苛税がきっかけとされている。
封建時代、一般的に、百姓は実に忍耐強い。
いざ、食えなくなるまで、何とか百姓は辛抱し、悲しいくらい頑張るものだ。
食えなくなって、餓死という事態が現実的になって漸く、百姓たちは蓆旗を掲げ、集団行動に出る。
その時ですら、「恐れながら、・・・」という請願書を掲げて、遠慮しながら、藩役人に提出し、年貢減免を懇願するのだ。
この元文一揆には領内の村が全て参加した。
藩領内あげての一揆、いわゆる全藩一揆となった。
政樹の苛税が原因と話したが、正確に言えば、この苛税は内藤治部左衛門という一門の門閥家老が建策し、政樹が承認した追加年貢である。
政樹は心配して、治部左衛門に確認したらしい。
そんなに課税して大丈夫なのか、百姓は難儀するのではないか、と政樹は訊ねたらしい。
政樹の問いに対して治部左衛門は、ご心配には及びませぬ、百姓は案外我らよりも内福でござりますれば、と笑みを浮かべながら、三十二歳の青年藩主に答えたということだ。
しかし、百姓の忍耐は既に限度に来ていた。
当時、藩が領内の百姓に、或いは、幕府が幕領の百姓にかける年貢は大体のところ、四割であったと言われている。
つまり、四公六民といった年貢率が一般的であった。
十万石の藩ならば、藩主以下、藩が手にする手取り石高は四万石となり、残りの六万石は実際の労働に従事する百姓等領民のものとなる。
福島県の中でも、会津藩は年貢率が厳しかったと言われるが、それでも平均で言えば、五公五民であった。
しかるに、内藤氏の磐城平藩では、六公四民が常態であった。
実に、苛酷な課税率であったと言わざるを得ない。
その他、何やかやと課税を重ね、或る史料に依れば、畑の作物に対しては九割が年貢であったとしている。
内藤家老が建策した新たな課税は百姓の忍耐を越えるものであった。
史料に依れば、鎌田山に『妖気』が漂い、一斉蜂起を促す『天狗廻状』が一揆決行の前夜、領内の全ての村々を駆け巡ったと云う。
元文三年(一七三八年)九月十七日(新暦では、十月二十九日)、百姓たちは一斉決起し、磐城平城目掛けて、各村から進撃を開始した。
二万数千人という百姓たちが磐城平城を囲み、立て籠もる三百人ほどの武士と堀を隔てて対峙した。
内藤家老たち藩重役の失政が原因であったことは言うまでも無い。
私はこの一揆に関連する史料、本を読み進めていく中で、藩重役は現代風に言えば、まさに高級官僚であり、百姓の困窮なぞ一向に顧みず、逼迫した藩財政のしわ寄せをいつでも従順な百姓たち領民に負わせ、涼しい顔をしている様子に、言わば義憤を感ずるようになっていった。
そんな或る日のことであった。