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ショートショート集

遺書

作者: Yakumo Sugawara

 夜も更けた時刻、狭いアパートの一室、小さな机に向かって物思いにふけっている男がいた。外では雨が降っているようで、パラパラと窓に小さな雨粒が当たる音がかすかに聞こえていた。机の上には白い紙、男の手にはペンが握られていた。かといって男が小説家と言うわけでもなかった。書き出しには“遺書”と書かれていた。


 男は自分の人生を振り返っていた。学生のころは勉強が格別できたわけでもないし、いろいろあった。だが、今にして思えば、楽しんでいたと言える方なのだろう。友だちもいたし、人生なんとかなるだろうとも思っていた。卒業して就職しても、始めのころは良かった。「あれとこれやっといて」と言った感じで仕事を任され、何とかこなしていた。だが時が経つにつれて、やることは“あれとこれ”だけではなくなっていった。「あれとこれとそれと、ついでにこれも」という感じで、やることは増えていった。残業もだった。ミスをすれば「なんでできない!」と言われ、分からないことを聞けば「自分で考えろ」と言われ、自分で考えてやれば「勝手なことするな!」と言われた。そしてあるとき、勢いで仕事を辞めた。


 それからは坂道を転げ落ちるというのだろうな、人生の迷宮へ嵌り込んでしまった。もっとも男には一つのことを黙々とこなすだけの仕事の方が向いてると思った。職を転々とし、一時は自分に合った仕事に着けたが、不況のせいでクビになった。その後も日雇いやアルバイトの職を転々とし、今しばらくは、まともな食事にもあり付けていない様だった。


 社会そのものが敵対しているかのように思っていた男は社会に復讐してやろうかとも思ったが、どこか的外れな気もするし、今はそんな気力もなかった。それよりも、この哀れな男の一生を終わらせてやる方が潔く思えた。


 学校では文法や数学の公式は教えてくれたが、“人生の生き方”までは教えてくれなかった。せめて遺書の書き方くらいを教えてくれていれば、今こんなに悩まなくても済んだだろう。


 どうせ自分が死んだ後のことなんて、どうでもよいことなのに遺書などというものを書くのはいささか矛盾したような話だが、それでも最後の言葉を、自分が存在したということを、残しておくべきだと思ったのだ。男は手の中でペンを弄びながらしばらく考えた。そして一言だけ、こう書いた。


“人生の楽しい時期は短かった”


 長ったらしく書けば未練たらしいと思われるだろう。簡潔なのが一番だな。そう思いながら男はペンを置き、机の引き出しから鈍い輝きを見せる黒い拳銃を取出した。弾倉を横に振りだし、一発だけ装填する。もっとも、弾は一発しかなかった。だが、人生の幕を引くには必要にして十分だった。


 撃鉄を起こして銃身を口にくわえる。いよいよこれでこの世ともおさらばだな。そう思い、少しためらった後、男は引き金を引いた。


カッチーン!


 冷たい金属音が部屋に響いた。男は驚きで心臓が止まるかと思った。拳銃を確かめてみたら弾は不発だったのだ。しばらく手に持った拳銃を眺めていたが、机の引き出しに戻すと遺書も破り捨てた。もしかすると明日はいいことがあるかもしれない。男はそう思うことにした。そして明りを消すと寝床に着いた。外で降っていていた雨もどうやら止んだようだった。

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