名前のないこの場所で
春先の山々は様々な草木が生い茂っている。彼女を誘って久し振りに出掛けたドライブ。細い山道を私が運転する車が勢い良く駆け抜ける。
「今日は誘ってくれてありがとう。外の景色を見てるともう春って感じだね」
助手席に座り窓から外の景色を見ていた遥はふわりとした優しい表情を浮かべながら、私に一言そう言った。久し振りのドライブデート。彼女はとても楽しみにしているようだった。
遥はとても緑が似合うようなそんな女性だった。初めて二人が出会った場所が公園であったのも私がそんな印象を抱いた理由のひとつかもしれない。
最初、声をかけたのは私の方だった。ベンチで本を読んでいた彼女は持ってきた傘を忘れたままにして、その場を立ち去ろうとしていた。偶然その瞬間を目にした私は「傘忘れてませんか?」と一言声をかけた。
それが二人の物語が始まった瞬間であった。
「遥に見せたい風景があるんだ。喜んでもらえたら嬉しいな」
「見せたい風景?うん、楽しみ」
遥の楽しげな表情からも彼女がとても楽しみにしていることが読み取れる。裏表のない、そんな天真爛漫なところがとても好きだった。
***
少し急な山道を15分ほど進んだ後、少し開けた場所が見えてきた。目の前には静かに水を貯めた湖畔がひろがる。私がこの場所を見つけたのは約二ヶ月前にまで遡らなくてはならない。当時、バイクで一人旅をしていた私は旅先で偶然この場所をみつけた。最初見た時、光が反射して映るその湖面がとても幻想的に見えた。
今度二人でこの場所に来よう。
私はこの光の光景にそう誓った。
***
「綺麗な場所だね。ここ」
遥は大きく深呼吸した後、私にそう言ってくれた。その一言が何よりも嬉しかった。この場所には私達以外誰もいない。聞こえる音といえば風の音と湖面が揺れて聞こえる水のせせらぎのみだ。普段、アスファルトに囲まれた都会の世界に住んでいる私達にとってこの光景との出会いはなんとも感慨深いものがあった。
「なんか時間が止まったみたいだね」
遥は興味深そうに周りを眺めながらそう言う。たしかにその通りだ。だからこそ私は今いるこの空間を大切にしたかった。時間というのは止まってくれない。私達も年月が経つごとに老いていく。
でも変わらない場所は必ずある。たとえ名前がなくてもだ。
「これ遥にプレゼント。ほら、この前カメラ欲しいっていってたじゃん。俺、バイト代貯めて買ったんだ」
私はそう言いながらカバンから真新しいカメラを彼女に差し出す。その銀色に輝く姿が光で反射する。
「えっ本当にくれるの!?ありがとう」
「このカメラで撮る最初の1枚目、この光景にしようか?」
「うん!」
刻々と動き続ける時間。
だからこそ私は今を大切にしていきたい。そして、今日という日々に「ありがとう」と言いたい。
もちろんこの光輝く景色にもこの言葉を届けたい。
「私達にこの景色を見せてくれてありがとう」と。