7 さようなら、ありがとう
誰だ? と高村はきょろきょろと辺りを見渡した。
頬を冷たい水が滑って行く。耳に頭に延々と流れて行く水の落ちる音も聞こえる。…雨が降っているのだ。
そこには誰も―――
いや、居た。
斜め前に、見覚えのあるすっきりとした姿勢の男が腰掛けているのに、高村は気付いた。
「気が付いたんですね、高村先生」
バリトンの声。
「垣内君…」
常夜灯の光もここまでは上手く届かないせいか、表情までは判らない。ざらりとした、濡れたコンクリートに手をつき、高村は身体を起こそうとする。
「…痛っ!」
「すぐには起きあがれないと思いますよ。鳩尾をやられたんでしょう? あの人の腕は半端じゃないから」
「あのひと?」
高村は、自分の状況を思い返す。
確か、図書室へ、山東の応戦に行こうとしていたはずだ。そしてその途中で出会ったのは…
「…南雲…先生か?」
眉を寄せ、高村は問いかけた。だが垣内はそれには答えなかった。それとも、雨の音で、かき消されてしまっていたのかもしれない。
そう言えば。高村は慌ててポケットの携帯を取り出す。自分を起こしたのは、この声ではない。そして山東の声でもない。一体。
受信したナンバーを確かめる。見覚えがあるような、気がする。だがすぐには思い出せなかった。
「…それで連絡を取り合ってたんですね、山東先輩と」
ふらり、と垣内は高村の手の中の光に目をやる。ああ、と高村はうなづいた。
「高村先生」
あ? と高村は顔を上げた。
「どうして足を突っ込んでしまったんですか? …遠野さんも、山東先輩も…先生も」
「どうして、って」
「余計なことをしてくれた、と言ってるんですよ」
「余計なこと?」
ええ、と垣内はうなづいた。余計なこと。余計なことなのだろうか。高村は自分の中で何かがふと、揺らぐのを感じた。
不意にぐいっ、と垣内は高村に掴みかかった。階段室の壁に、身体を押しつけられる。
「余計なことなんですよ! …あなた達が、下手に動かなければ、…俺達は、こんな無駄なことをしなくても、済んだのに…」
ぎり、と歯ぎしりする様な音が、高村の耳に飛び込んでくる。
「…今年の『仕事』は、これで終わりのはずだった…俺達は、最後の一年を、精一杯、一緒に過ごすことが、できたのに…」
「…『仕事』?」
その言葉に高村は引きつけられる。
「『仕事』って、…何だよ!」
その問いには垣内は答えずに、顔を逸らした。
「さっき南雲先生も言ってたけど、何が君等の『仕事』なのだよ? 一体!」
おい、と力の抜けた垣内に、今度は高村が手を伸ばした。両肩を掴み、強く揺さぶる。だが垣内は、視線を逸らし、それをただ、振り解こうとするだけだった。高村は力を込めた。この問いには、どうしても、答えてもらいたかったのだ。
「…校内の、ファッション・リーダーを殺すことなのか?」
「ファッション・リーダー?」
その言葉に、一瞬垣内の力が緩む。
「…ああ…そういう言い方をするのかも、しれませんね。ファッション・リーダーか…はははは」
垣内は笑い声を立てた。
「ファッション・リーダーねえ…いいなあ…その言い方、すごく、いいなあ…そうかあ…俺達は、ファッション・リーダーを消してた、って訳かあ…」
ははははは、と垣内の乾いた笑い声は、しばらく続いた。頭をがくん、と後ろに倒し、彼はしばらく、笑い続けた。
雨が、彼の顔に、強く降り注ぐ。その様子をまるで、楽しんでいるかの様に、高村には見えた。
「…おい」
大丈夫か、と高村は掴んだままの垣内の肩を大きく揺さぶった。
「おい! 垣内君!」
「…ははははは…大丈夫ですよ、高村先生。別に俺、どうかしてしまった訳じゃあないですから…いや、もともとが、どうかしてるんだっけ…」
「しっかりしてくれよ、垣内君!」
「…そうまだ、大丈夫だ。そう、あなたの言う、ファッション・リーダーを消してたのは、俺達ですよ。…でも俺達には、その意味は、別に重要じゃないです」
「重要じゃ、ない?」
高村は思わず頭に血が上る自分を感じた。今まで自分達が考えてきたことは、意味が無いことだったのか、と。
「その意味を決めるのは、俺達じゃ、無いんですよ」
「…じゃ、一体誰なんだ」
垣内は首を軽く前に落とす。ぽとぽと、と水滴が、髪から途切れることなく、落ち続けている。
「俺達の上ですよ。俺達はただ、ターゲットとされた生徒を誘い出し、その手で殺して、箱詰めすることだけなんです」
「箱…詰め」
―――俺達ヒラの教師が知ってるのは、ある日いきなり朝、校長室に黒い箱と黒い封筒がやって来ることだけさ―――
高村は島村の言葉を、思い出していた。
「…もしかして、俺が、先週の月曜日に玄関でつまづいた、黒い箱は…」
「そうですよ」
さらり、と垣内の口から言葉が流れ出た。
「箱の中には、あの前日に俺達が殺した日名が、入ってたんです」
「!」
「…行き先は、…ああ、でもこれを言ったら、もう全く取り返しがつかなくなりそうだ。俺達の役割は、そう、それだけ、なんですよ。それが誰であろうと…」
「俺達…村雨さんも、…か?」
「ええ」
「何故…」
高村には、想像ができなかった。
図書室の彼女。屋上の彼女。彼の知っているどちらの彼女も、垣内の言う「仕事」とは結びつけることができなかった。
「高村先生は、あいつのこと、どう思いましたか?」
力が抜けた高村の手を、垣内はそっと自分の肩から外した。
「…珍しい女だ、と思いませんでしたか? 動きがとろくて、ちょっといつもと違うことが起こると、すぐにパニック起こしてしまって、本の世界が大好きで、…友達の一人も居ないような、そんな女生徒」
ああ、と高村はうなづいた。
「何故だと思います?」
「何故って」
「俺達は、小学校卒業認定試験で、『R』と『B』のランクをつけられたんですよ」
「『R』? …『B』? …何だよそれは?」
高村は問い返した。そもそも、そんなランクの存在すら、彼は知らない。
垣内はくく、と笑う。
「先生には判らないでしょう。判る訳、無いんです」
「そりゃあ、判らねえよ!」
ばん、と屋上の扉が、開いた。
高村はその声に、慌てて段差から飛び降りた。
「山東君! 大丈夫か?」
「…大丈夫じゃ、無いですよ…」
はあはあ、と息をつきながら、山東は扉にもたれかかる。その身体に近付くにつれて、熱気が漂って来るのが高村にも判る。顔も身体も、汗まみれだ。
「おい垣内、どんな事も、言わなきゃ、判る訳、無いだろ!」
山東は叫ぶ。叫びながら、背後の様子を伺っている。
あ、と高村は気付いた。
よく見ると、山東は扉にもたれかかっているのではない。背中で、腕で、腰で、力一杯、扉を押さえているのだ。
やがて、ばん! と大きな音が、扉から響いた。
う、と山東は顔を大きく歪めて、歯を食いしばる。
「…おい垣内、言ってみろ…あれは、何だ?」
うめく様な声で、垣内に向かって問いかける。
「おい!」
「…山東君、一体、後ろに…」
高村はおそるおそる、扉のガラス窓に視線を向ける。予想はできる。だが。
「…あれは…」
一瞬、山東は何かを言いかけて、首を横に振った。
「あれは、少なくとも、まともな、人間じゃ、ない」
がぢゃーん。
ガラスが、割れた。くぅ、と山東の喉から、反射的に、悲鳴が漏れる。
「山東君!」
「先輩!」
高村は慌てて山東の腕を掴み、その場から引きずり出した。
「…痛!」
雨で濡れているせいか、ガラスの破片が皮膚や服からなかなか払うことができない。脱いで下さい、と垣内は言った。
「できるだけ、…そっと。…来ます」
何が、と言われた通り、山東のシャツを脱がせながら、高村は問いかけた。
ばん! と大きな音がして、扉は前のめりに、倒れた。錆びた蝶番が二つとも、衝撃ではじけ飛んだのだ。
「みぃつけた」
少女は壊れた扉をぐっ、と踏みつける。きゃはははは、と不自然に明るい笑い声が、辺りに広がった。
「高村さん、どいて下さい! あれの目標は、まだ、俺だ…」
あ、と思う間も無く、山東は駆け出した。まだ、肌の上には細かい破片が残ったままだった。
「ふふ。いーいかんじ」
楽しそうに声を上げ、少女はその場にかがみ込んだ。そして大きなガラスの破片を拾い上げると、ぐっ、とその手に掴んだ。
う、と高村はうめいた。そんなこと、したら。
だが少女は、何でも無い様に破片を握りしめ、山東を追い、走り出す。
髪を振り乱し、スカートをひるがえし、屋上の縁にとん、と足を付き、ジャンプし、笑いながら山東に跳び蹴りを加える。
ここが屋上であることなど、まるで考えてもいない様だった。
ちっ、と山東も落ちていたガラスの破片を投げるが、軽くかわされる。
高村は呆然として、その様子を眺めることしか、できなかった。あれが村雨なのか。
彼は自分の見ているものが、信じられなかった。彼の知っている村雨は、動きも言葉も穏やかな少女でしかなかった。
今まで見てきたそれは、全くの嘘だったというのだろうか。やっぱり自分の目は、信じるに値しないものだ、というのだろうか。
不安が、一気に彼の中に鈍く広がって行く。
「うわ!」
山東が叫ぶ。
二人はいつしか取っ組み合いになっていた。どう見ても、山東の方が、力は強そうに見える。筋肉もある。背もある。重量は言わずもがなだ。
だが。
ぐっ、と両手で二人は押し合った。ただ、それだけだった。
それだけで、彼女は、山東をその場に、押し倒してしまったのだ。
山東に「女だから」という隙があったとは、高村には思えない。彼は言っていた。「少なくともまともな人間じゃない」と。ただの少女と、思っているはずが、ない。山東は本気を出していたはずだ。
「くぅっ!」
山東の声が苦痛に漏れる。背中や首の後ろに細かく残った破片が、転がった衝撃で、彼の皮膚を切り裂いているのだろう。
「…おい、止めさせろよ!」
やはりその場から動かない垣内に、高村は再び掴みかかる。
「おい、これも『仕事』だ、って言うのか?」
強く、両肩を揺さぶる。だが垣内は高村から目を逸らし、口をつぐみ続ける。
くそ、と高村は組み合う二人の方へと顔を向けた。
「村雨さん!」
高村は思わず、叫んだ。
ぴく、とほんの少し、彼女の動きが、止まった。
そうだ。高村は思う。
何だかんだ言っても、彼女は村雨なんだ。認めろ、村雨乃美江なんだ。呼びかけて、答えてくれるかも、しれない。
高村は垣内から手を離し、飛び出す。
「やめろ!」
垣内の声が飛ぶ。慌てて高村の手を、引く。
「彼女は『R』だ、あんたじゃ…」
「何が『R』か何か知らないけれど―――あれは、村雨さんなんだろう? 止めなくちゃ、オレは止めたいんだ、止めさせたいんだぁ!」
「…高村…先生」
垣内は、掴んだ手をくい、と後ろに引いた。うわ、と声を立て、高村はその場に尻餅をつく。
そして垣内は、バリトンの声を張り上げた。
「―――やめろ! 乃美江!」
ぴたり、とその声に、少女の動きは止まった。ゆっくりと振り返り、垣内の方を見る。
「…もういい」
垣内の声が、うめく様に、その場に流れた。
「もういいんだ…止めよう」
ざああああ。
やけに雨の音がうるさい、と高村は思った。
まっすぐ、突き刺す様に激しい雨が、四人の上に、降り注いでいる。
だが少女は、大きく首を横に振った。
「…じょーだんじゃ、ないわ」
彼女はその雨に負けない声を張り上げる。その声は確かに村雨のものなのだ。
「あんた勝手に殺せって命令であたしを出させておいて、今度はまた勝手にあたしに引っ込めって訳? じょーだんじゃ、ないわ」
「…もう俺は、お前に、『仕事』をさせたくないんだ」
「そぉ。それはあんたの勝手よね」
彼女はしゃん、と頭を起こす。長い髪の毛から、ぽたぽた、とひっきりなしに水滴が流れる。
「でもあたしは続けたいわ。少なくとも、今、こいつに関しては、あたしは続けたいわ。あたしは知ってる。いつもこいつら三人は、『図書室のヌシ』を、バカにしてた」
「そんなことは!」
山東は即座に言い返す。
「ウソ。みょーな目で見てた。特にあのひと。遠野サマ。あたし、だいっきらい!」
「…村雨…さん」
「そーよ、だから、これでもかとばかりに、ばらばらにしてやったわ」
あははははは、と彼女は笑った。そしてくい、と破片を山東の鼻先に突きつける。
「あたしは知ってる。あんたらが図書室で、あたしの大事な場所で、べらべらとしゃべってた時のこと。その時遠野サマはあたしを指して言ったよ。あの子、なんか、気持ちわるいって。こっそり指してかもしれないけどさあ、ちーさなちーさな声かもしれなかったけどさあ、聞こえなかったフリをしてたかもしれなかったけどさあ、よぉくあたしには、聞こえてたよ」
「それは」
言ったのは、本当なのかもしれない。高村は思う。そして山東が覚えていないのも、本当だろう。それは彼にとって、小さな小さなことだから。
そして、された側は、ずっと。
「それで…あいつらを?」
うめく様な声で、山東は問いかけた。
「そうよ!」
「『仕事』だ!」
彼女と垣内の声はだぶった。
「あくまで『仕事』、『仕事』なんだ! それだけだ。俺がこいつを動かしてた。山東先輩、あなたが憎むなら、俺だ! 俺だけでいい! 乃美江お前も―――先輩から退け!」
「いやよ!」
だがその手はそれ以上、動こうとはしなかった。
高村は感じた。明らかに、彼女の身体と心に、何処かズレが生じている。
なら。
「村雨さん!」
高村は彼らの前に走り出た。
「…何だよ、あんたは」
「村雨さん、やめてくれ」
「あんたも! あんたも殺されたいのかい!? …うっ!」
がちゃん、と音を立てて、ガラスの破片が落ちた。
「乃美江!」
彼女は頭を押さえていた。
「何だよ…いまさら…出てくるな… ―――やめろ!」
ぐいっ、と彼女は身体を逸らした。そして大きく頭を振る。バランスを崩し、後ろに倒れ込む。
はっ、と高村はその隙に、山東を引きずり出す。ありがとう、と山東は雨に濡れた顔をぬぐう。
彼女はその場でごろごろ、と頭を押さえて転がる。うめきとも叫びともつかない声が、うーうー、と激しく続く。
垣内は、彼女にゆっくりと、近づき、膝をついた。すると彼女は、彼の胸にぎゅっ、とすがりつく。
「…乃美江」
「助けて…助けて垣内…助けて…」
小さな声が漏れる。
だがその直後、がくん、とまた頭を後ろに倒し、やめろやめろ、と布を引き裂く様な声で、彼女は叫ぶ。
「そこに居るのは、高村せんせいじゃないの? ねえそうなの? 垣内あたしには見えない、そうなの? ねえ」「やめろ出るな、引っ込んでいろ!」
一人の口から、続けざまに違う人間の様な言葉がほとばしる。ばしばし、と自分の頬を彼女は叩く。
そして垣内の腕からもがき出て、そのまま階段室のコンクリートの壁に、自分を投げだし、大きく打ち付けた。
「かきうちーっ!!」
垣内は一度大きく空を仰ぐと、ポケットから赤い、小さなびんを取り出した。
高村は目を見張った。見覚えのある、びんだった。
ふたを開けると、垣内は中から白い錠剤を二つ取り出し、口に含んだ。
「何を…」
呆然として見ている山東の肩を押さえ、高村は首を大きく振った。左腕と、身体全体で垣内は彼女を壁に押さえ込むと、ぐっ、と口づけた。
長い、と高村は思った。あの時と、同じだ。
彼女の喉が幾度か、動く。唇は離したが、しばらく二人はその姿勢のまま、動かずに居た。
やがて、はぁ…という吐息が、雨の音に混じる。村雨は、ゆっくりとその場に崩れ落ちて行った。
垣内は力を失った彼女を、ぎゅ、と力一杯抱きしめた。
高村も山東も、その間、まるで身体が動かなかった。
この二人に何を言っていいのか、今からどうしたらいいのか、まるで頭が働かなかった。
延々と続く、雨の音が、耳にひたすらうるさくて。
耳に―――
『何してんだ! お前等とっとと隠れろ!』
「げげっ!」
高村は思わず左耳を押さえた。またあの声だ。
「ど、どうしたんです、高村さん」
「判らない…だけど、誰かが、『隠れろ』って…くそ、本気で心臓が飛び跳ねるかと思った…」
彫像の様に固まっていた二人もまた、その声に身体を震わせた。はっ、と垣内は目を細め、耳を澄ませる。
「階段を…上ってくる」
雨の音に混じって、確かに、その音は外れた扉の向こう側から近づいてきていた。
「…高村先生、山東先輩、そっちへ隠れて!」
垣内は、先程高村が目を覚ました場所へ手を伸ばした。
階段室の裏、壊れた扉の辺りから見えない位置に、大の男二人はぐっ、と身を潜めた。
明かり取りの窓から、そっと高村はやって来る人物を伺う。
「…やっぱり…」
ゆっくりと階段を上って来るのは、南雲だった。
ぼん、と音を立てて、南雲は壊れた扉を踏みつける。
「…ずいぶん手間が掛かった様ね、垣内君」
二人は耳を澄ませた。普段より、彼女の口調は数段冷たい。
「二人…いえ、三人ね。全く、最後とは言え、失態もいいところだわ」
「…すみません」
高村はそっとのぞき見る。垣内は、村雨を南雲の視線から守るかの様に抱え込んでいた。
「まあいいわ。二人が三人になったところで構わないでしょ。最後の二人には、ちゃんと『自殺』に思われる理由もあるでしょうし」
「理由、ですか?」
「そうでしょ。実習で、自分にやはり適性が無いことが判って絶望して当てつけの様に校舎から投身自殺する実習生。ああ、でも、山東がやっかいね。彼の場合もう、基本的にはこの学校には関係無いんだし。友達が死んだから当てつけっていうのも何だし、同じ日って言うのも何だし」
高村は頭がかっと熱くなり、飛び出そうとする。慌てて山東がそれを背後からタックルし、駄目ですよ、と囁く。「伝説の生徒会長」は怒っていても、判断は適切だった。
「…垣内には何か考えが、あるはずです」
それは判る。だがつい。高村は唇を噛みしめた。
「南雲先生」
「何?」
「処理のことは…何とかします。それより、来週分の『R』と『B』が欲しいんですが。…明日はきっと、ごたごたするでしょうし…」
ああ、と南雲はどうでもよさそうな口調で返した。
「はい。来週分」
村雨を抱えていない方の手に、赤と青の小びんが渡される。
そうか、と高村はつぶやく。あの時落としたのは。化学準備室でのことを彼は思い出した。垣内はそれをしっかりと握りしめると、見事な会釈をした。
「ありがとうございます」
「ふふ…これであなた方の、今年の仕事も終わりね。ねえ、あなたはこの後、どうするつもり? 垣内君」
「この後、ですか?」
「確かあなた、まだ進路希望書、当局に提出していないでしょう」
「…ええ。まだ決めかねています」
垣内は抑揚の無い声で、答えた。
「今回は、さすがに余計な輩が多すぎたわ。手間取りは確かにあなた方にも責任はあるけれど、選別の点では私にも非があるしね」
「南雲先生」
「ねえ、私、あなたのこの六年間の『仕事』に関しては、評価しているのよ。大抵のペアは、六年間、続かないものよ」
「…そうなんですか?」
「そうよ。大抵は、『R』が発狂するか、『B』が良心の呵責に耐えかねて自殺、そうでなければ、『仕事』自体をやり損じて、返り討ちにあってしまうとか、そういうことも、たくさんあるんだから」
「…そうですか…」
「で、私としては、あなたには、私と同じ様に、インスペクターになってもらいたいのだけど」
「…インスペクターに?」
あ、と高村はつぶやいた。垣内の腕の中の村雨が、その言葉に反応した様な気がしたのだ。
「ええそう。あなたならきっと、選別し、命令を下す方にも、充分なれるわ」
いいえ、と彼は首を横に振った。
「…俺にはできませんよ。南雲先生の様な、そこまでの意志力は」
「ねえ私、あなたのことは気に入ってるのよ」
「…ありがとうございます」
「そう素っ気なく言うものじゃないわよ」
いつになく、南雲の口調には、「女」を感じさせるものがある、と高村は思った。
「私はこの先、当局の中で、もっともっと、のし上がって行くつもりよ。あなたには、その片腕になって欲しいわ…それしか、私達の様な者が、上手く生きて行く方法なんて、無いのよ」
「…」
「それに、お荷物だったでしょう? そんな、『R』の相手は」
高村は、再び感情が沸騰するのを覚えた。何ってことを、あの女は。
「使い捨ての『R』の―――」
その時だった。
どん、と垣内の身体が突き飛ばされた。
村雨だった。
「あ」
高村は思わず声を立てていた。
「…あ? ああーっ!!?」
南雲は叫んだ。いきなりのことに、何が起こっているのか、彼女にも判らない様だった。
だが、横から見ている二人には、よく判った。
「村雨さん! やめろ!」
高村は隠れろ、と言われたことも忘れ、立ち上がり、叫んでいた。垣内もそれを止めることは、できなかった。
「やめなさい村雨、やめなさいってば!」
村雨は南雲の首を右腕で抱え込み、そのまま走り出していた。
不安定な体勢、後ろ向きに走らされる南雲の声は、ほとんど悲鳴に近かった。
いくらもがいても、力一杯振り解こうとしても、抱え込まれた首は、びくともしない。
とん、と村雨は、軽く屋上の縁に飛び乗った。
そしてふわり、と南雲の足が浮く。
「いやーっ!!!!!」
雨の中に、叫び声が、溶けて行く。
迷うこと無く、村雨は、屋上から飛び降りていた。
…今、何があったんだ?
高村はまたもや、自分の目が信じられない思いだった。
それは山東も同じだったらしい。頭に血が上っても、冷静な判断ができるはずの男が、何をすることもできず、ただ呆然と、その場に、立ちつくしていた。
だがもう一人は、そうではなかった。
垣内が呆然としていたのは、ものの二秒、というところだった。彼はぱん、と自分の両頬を大きく叩くと、ものも言わず、階段室へと飛び込み、そのまま駆け下りて行った。
ばたばた、とスリッパの立てる音で、ようやく残された二人は、今何をすべきなのか、思いついた。
「…た、高村さん、行きましょう」
「お、おうっ!」
*
「…ごめんなさい…ごめんなさい…」
廊下の窓に飛びつき、高村と山東が外へ出た時、最初に耳に飛び込んできたのは、その声だった。
「…こんなこと…するつもりじゃ…」
「いいよ」
常夜灯の光は、ここでは全てを明らかにしてくれる。校舎周りの植え込みの縁石を枕にし、南雲がその場に倒れていた。
「う…」
思わず高村は口を押さえる。頭から落ちたのは、明白だった。かっと開いた目、血は水に流れつつあるが、それ以外のものも、辺りには飛び散っている。
だが村雨は。同じ高さから落ちたはずの村雨には、何のダメージも見受けられない。
「俺も」
ぎゅ、と垣内は村雨をきつく抱きしめる。
「俺も、あんなこと、お前に言われるのは嫌だった。『使い捨て』だなんて…」
「使い捨て…?」
高村は問いかけた。だが垣内からの答えは無かった。
そして、その代わりに。
「高村先生」
垣内は手の中の二つの小びんを、高村に握らせた。
「これは…」
「これを持って、すぐにここから、山東先輩と、立ち去って下さい」
「だけど君、これは…」
確か、来週分の。そう南雲に、言っていたはずなのに。
「…もう、いいんです」
「もういい、って…」
「高村先生に、持っていてもらいたいんです」
頼みます、と言って、彼は手を離した。びんにはまだ、垣内の手の温みが残っていた。
「…一つ聞いていいか?」
高村は二つのびんをぐっ、と握りしめる。
「何ですか?」
「何であの時、オレを助けた? 南雲先生は、オレも殺せ、と命令したんだろう?」
ああ、と垣内は村雨の髪を撫でる。
「…少しは、迷ったんですよ、俺も」
「迷った…?」
「だってそうでしょう。殺してしまった方が簡単でした。あの場所、あそこから落とせば簡単じゃないですか。あなたは気を失っていたし」
高村は空いた口が、なかなか塞がらない自分を感じていた。本当に、自分はあそこで殺されていたのかもしれないのだ。
「だけど、思い直したんですよ」
「思い直して、…くれたんだ」
彼は心の底からほっとする。
「別にあなたをどうこう、じゃないですよ。ただ、あなたを殺してしまったら、こいつが泣くだろう、と思ったんです。…いや、それも兼ねて殺してしまっても…」
「…垣内、お前、それは高村さんに嫉妬してた、ってことか?」
山東は口をはさんだ。
「…そうかも、しれないですね」
ふふ、と彼は笑った。
あ、と高村は気付く。それは、今まで彼が見た垣内の表情の中で、一番晴れ晴れとした笑顔だった。
「高村先生」
小さな声が、彼を呼び止める。村雨は、垣内にしがみついたまま、ちら、と振り返った。
「ありがとう…楽しかったん、です。とてもとても」
「…村雨さん」
高村は言うべき言葉を探した。だが上手く見つからない。それを察したのかどうなのか、垣内は、鋭い声で叫んだ。
「もう二人とも、行って下さい!」
そして目を伏せて、つぶやいた。
「さよなら。…ありがとう」






