3 生まれ変われるなら、ひまわり
「だから、何処へ行ったのかだけでいいんです!」
何だ何だ、と高村は職員室の扉を開けた途端、のけぞった。アルトの声だった。それもよく通る、意志の強そうな声だった。
「それは教えられない、と言っているでしょう?」
今度は教頭の声だ。何事か、と高村は声の方に顔を向けた。
あ、と高村は小さく声を上げた。
その横顔には見覚えがあった。
ショートカットの長身。袖が奇妙に大きい。改造制服だ、と彼は思った。裾もゆったりとした、やや眺めのひだの少ないものに変え、またそれが良く似合っている。
…確か彼女は、昨晩見た…
「おや、高村先生、おはようございます」
面倒臭そうに煙草をふかした島村が、今やっと気付いた、とばかりに高村に声をかける。
「あ、おはようございます。今日はまた、細身の眼鏡なんですね」
「おや、気付いてくれたんだ」
にやり、と島村は笑った。
「昨日は鼈甲だったでしょう?」
「そう。結構君、いい目しているじゃない」
「視力はいいんです。…それで、どうしたんですか? 一体」
高村は声をひそめ、視線で教頭達の方を示した。
「あー、えーと、高村先生は、遠野のことは知らなかったんだよね」
面倒臭そうに、島村は両手を頭の後ろで組む。
「何か、授業ボイコットしているっていう…」
「そう、なーんだ君、知ってたんだな」
あんたの声がでかいから聞こえたんだ、と言いたい衝動も無くは無かったが、高村はそこであえて止めた。
遠野の声が、その間にも耳に鋭く飛び込んでくるのだ。何となくその声には「聞き逃してはいけない」という様な力が込められているように、高村には感じられた。
「だって中等は義務教育でしょう? 退学は無いはずですよ?あるんだったら、『転校』じゃないですか」
「…そうとも、言いますね」
「だから、その転校先を教えて欲しいと、私はそう言っているだけです。どうして、それが、駄目なんですか?」
遠野は一気にまくし立てた。両手を大きく広げたその姿は、確かに演劇部のスタアだ、と言われるのも当然かもしれない。
「…何か、いい声ですねえ…」
高村は思わずつぶやいた。
「そりゃあ、今やこの学校で一番人気の、演劇部の花形だからなあ。声くらい通るよなあ」
「ああ、そういえば、何でも王様をやったとか…」
「そうだよ。なーんだ、良く知ってるじゃないか」
煙草をひょい、と上げると、島村は椅子を半分回す。
「だけどなあ、男子より女子に人気があるんだよな、あいつは。おかげで、うちのクラスの女子が大変で大変で。男も決してここの学校、少なくないのに、何だってまあ、女が女に、ああきゃあきゃあと言えるのかね」
愚痴なのか楽しんでいるのか、島村のその口調では判らない。だが実際、彼女のせいで授業ボイコットする生徒が増えたことは困ったことだろう、と高村も思う。
だが遠野の言うことにも一理ある気がする。中等学校は義務教育だから、少なくとも「退学」は無いはずということは。
「教頭先生、どうしてそんな、平気な顔できるんですか?」
「あのねえ、遠野さん」
ため息混じりの教頭の声が聞こえる。遠野の声と負けず劣らずの、よく響く声だった。
「別に私達だって、平気な訳ではないのですよ。だけどそれぞれの御家庭の事情に、学校側もそうそう口出しはできないでしょう?」
「嘘です!」
間髪入れずに遠野は叫ぶ。思わず高村は肩をびく、と上げた。
「ともかく!」
そして教頭も、そんな遠野に対して、一歩も退かない。
当然だろう。対峙している遠野の母親以上の歳の、しかも現場で大勢の教師の指揮をとっている人物なのだ。
いくら遠野の声や態度に毅然としたものがあったとしても、たかが十代半ばの小娘に、ひけを取るはずが無いのだ。しかもこの職員室という、彼女の職場で。
「判りました」
ぴしり、と遠野は背筋をしゃんと伸ばして言い放った。
「それがそちらの言い分なのですね。それなら、もう、いいです。私は私のやりたい様にさせていただきます」
失礼します、と彼女は一礼すると、くるりと教頭に背を向けた。そしてそのまま早足で、職員室を出て行こうとする。
「…何じろじろ見てるんですか!」
え、と不意に掛けられた言葉に、高村は間抜けな口調で返す。動きの一つ一つに、無意識に華がある遠野に、自分が思わず見入ってしまっていたことに、高村は気付いた。
「そこ、どいて下さい」
慌てて高村は横に退く。ちょうど通り道を塞いでいたのだ。
それを見ていた島村はぽん、と肩を叩き、ふっと鼻で笑った。
「…高村先生、駄目だねえ、女生徒に負けてちゃ」
言い返す言葉は高村にはただの一つも無かった。確かに自分は、遠野の剣幕に完全に圧倒されていたのだ。
正直、見ている分にはいいが、直接ご対面はしたくない相手だなあ、と彼はその時、しみじみと感じた。
*
しかし物事は、自分の思う通りには進まないものである。
水曜日、一・二時限目に森岡の授業の見学があり、三時限目。ようやくできた空き時間に、高村は図書室に足を運んでいた。
普通教室棟も、理科棟も、騒々しくて、どうにも落ち着かない。
たった二週間しかないから、できることはやれるだけやろう、ということで、この日の六時限目から、南雲の担当する化学で、授業を担当することになっていた。
「まあ気楽に行きなさいよ」
と先程教室を離れる時、森岡は彼に穏やかに笑いかけた。
「何だかんだ言ったところで、この学校は、理系ではありません。ですからあなた一人が数時間担当したところで、できない所はできないし、できる所はできるんです」
「はあ…」
高村も大学の方から指定されてから気付いたのだが、彼が派遣されたこの学校は、普通科中等の中でも、文系寄りだったのだ。
改革で学校制度が変わった2032年以来、「普通科」の学校でも特性を明確にする様になりつつあった。
高村が今現在居るここは、小学校卒業認定試験、及び日常成績によって、「どちらかと言えば文系科目に適性がある生徒」が入学してくる中等学校なのだ。
やがてこの「普通科」というものは全く無くなるだろうと言われている。だが今は過渡期であるので、「文系」と「理系」、どちらかに寄った学校という形が取られていた。
ところで高村は、現在の学校制度についてはそう詳しくはなかった。ここへ来て、森岡がじわりじわりとつぶやく中で、そうだったのか、と改めて気付いた位なのだ。
だけど、仕方ないよな。
彼は思う。森岡にとっては「変わった」と言う制度にしたところで、高村にしてみれば、それが普通だったのだ。制度の変わった年に彼は小学校三年だった。改革の中でも重要視された、「初期能力振り分け検査」からはぎりぎり外れていたのだ。
彼の下の学年からは、その検査が活発に行われるようになり、必要とあれば、クラスや、時には学校も変わることが頻繁に行われる様になった。場合によっては、越境もある。その場合には小学生といえども、寮住まいとなる。
森岡はこうも言っていた。
「いずれは全ての小学生をも全寮制にするつもりですね…きっと、文科省は」
そういう話は大学でも聞いたことがある。高村はその時思ったものだ。そんなことが可能なのだろうか? と。
だがその疑問は、なるべく自分の中で封じ込めておこう、と彼は決めていた。同じ大学の先輩達も、かつて忠告してくれたことがあるのだ。
「いいか高村。お前はどっか抜けてるから、四の五の考えずに、これだけ覚えとけ」
はあ、とその時彼はうなづいた。
「とにかく上の指令をちゃんと聞け。そして聞き間違えない様に注意しろ。制度の内容とか意義に関しては、深く考えない様にしろ。それだけだ」
何となく先輩達から馬鹿にされている様な気もするし、実際、それでいいのだろうか、と高村も思わない訳ではない。
だが、思っていると、この早い時流の中、立ち止まってしまう。周囲から遅れてしまう。それはまずい。
とにかく、やれることをやるしかないのだ。
半ばあきらめの心境で、彼はこの実習に取り組んでいた。そして目の前には、実習授業があった。
がらり、と図書室の扉を開ける。
この時間は誰も居ないはずだった。開けられた窓から体育実技の笛の音やかけ声が聞こえる以外は、静かな空間だった。
カウンター奥では、あの司書が、端末を叩いている。
だが閲覧席は無人ではなかった。
「…あれ」
遠野みづきがそこには居た。
ショートカットの長身の少女。改造制服の大きなスリーブ。間違いない。彼女は斜めの光の中、頬杖をつきながら、大判の写真系の雑誌を、ぱらぱらと物憂げに眺めている。
「…君、今授業中…」
「あ、さっきの」
さっ、と遠野は彼の白衣と、手の中の書類に目を通す。
「…ああ、確か化学で、実習の先生がいらしてたと。今朝方はどうもすみませんでした」
「いや、こっちもあの時は、通り道を」
立ち上がり、彼女はさっと礼をする。演劇部だからだろうか。身のこなしが綺麗だった。
高村は何となく、彼女の向かいに座った。
「毎年でしたら、ちゃんと朝礼で紹介があるのですが、今年は無かったものですから、私のクラスなど、先生をまだ見たことが無いって子も多いんですよ」
言葉使いも丁寧だ。何だ、いい子じゃないか、と高村は思った。
背が高く、胸はそう大きくは無く、肩幅が広いわりにはすっきりとしている。ショートカットの下の顔の目鼻立ちは、くっきりとし、媚びが無い。確かに女生徒が遠野「サマ」と呼ぶのも判る様な気がする。
「先生、私達とそう歳変わらないですよね」
「…ああ、三つくらいしか違わないだろ」
「先生が中等の時にも、そんなことありましたか?」
「そんなこと?」
「実習に来た先生が、朝礼で紹介されないようなこと」
首をかしげ、高村は自分の当時を思い返してみる。春先に実習生が来た場合…
「…そう言えば、うん、そうだ。必ず何らかの形で全体に紹介はされていたな。朝礼とは限らなかったけど」
「…そうか、変だ…」
彼女はつぶやく。しかしそれは、高村に向けたものではない様だった。
「もう一つ、なんですが」
「何?」
「先生は、周囲で、友達が急に連絡も無く消えてしまう、なんてことありましたか?」
「それは君、日名さんの、こと?」
「ご存じでした? そんなに有名になっているんですね?」
「…まあ一応」
そうですか、と遠野は苦笑した。そしてどうですか、あったんですか、と彼女は繰り返し問いかける。高村はまたも考える。思い出す。
「あったような、気もする」
「いい加減なんですね」
「いや、違うよ。だってさ、例えば、隣の隣のクラスの、名前だけ知ってる様な奴がいきなり転校した、…くらいのこと、君、覚えてる?」
「…」
「だから正直、今オレも、君に言われるまで、思いだしもしなかったし。それに普通、人には事情があると言われれば、大半はそれで済ませてしまうだろ」
「…確かに、そういうひとだったら、そうでしょうね」
だけど、と遠野は両の拳を握りしめ、雑誌の上に大きく振り下ろした。だん、と机が大きく音を立て、振動する。
「…あの子が、あの子が私に黙って行く訳が無いんですよ!」
浪々と響くその声は、図書室中に広がった。
どうしたんですか、と司書室の扉が開く。司書の女性がカウンターの中から腕を組み、苦い顔をしていた。
「遠野さん…またあなた?」
「申し訳ございません」
遠野は丁寧な、しかし冷たい口調で切り返す。もっとも、それは司書の女性も同様だった。
「滅多にここに来ないあなたでも、ここのところ、ここで時間を潰すしかないのは判るわ。でもせめて、静かにしていてくれないかしら?」
「判りました。すみません」
遠野はあっさりと頭を下げる。腰を下ろそうとした時、ポケットから軽い音が響いた。携帯だ。彼女は机の下でメールを読んでいる様だった。
「…高村先生、図書室で何か用事があったのでしょう?」
「あ? ああ」
「どうもお騒がせしました。私、用事ができたので、帰ります」
遠野はがた、と椅子を引いて立ち上がった。
「では、失礼します」
扉が開く音がした。
「本当に帰ってしまうのかい?」
「だって」
遠野は苦笑する。
「授業の邪魔するよりは、帰れ、と皆言いますよ」
*
「今日は何か、元気ないですね」
並んで足を投げ出す高村に、村雨は声を掛けた。
「元気無い? そう君には見える?」
ええ、と彼女はうなづいた。
昼休み。彼はまた、屋上の階段裏に居た。
「今日もいい天気で、風も気持ち良くて…とーっても、いい気持ちなのに」
「まあ、いろいろあってね」
「先生でも悩むことが、あるんですか?」
「そりゃあオレも人間だからね。色々あるさ」
「私にも色々ありますよ」
そうだね、と高村は笑った。
「でも三年前の悩みと、今の悩みとは違うよ。あの頃、もっと大人になれば楽になるのかなあ、と思ったのに、未だにオレはこんな奴だしね」
そう言いながら、彼はがさがさ、と出がけにコンビニで買ってきた弁当と飲み物を取り出す。村雨はその様子をのぞき込む。
「今日は購買のパンじゃないんですね」
「うん、時間がもったいないな、と思ってね」
「あ、それは私と同じですね」
村雨は卵焼きを口にしながら、軽く笑った。君が? と高村は思わず村雨に向かって目をむく。彼女は首をかしげた。
「そんなに私がそうだと、おかしいですか?」
「…いや、そんなことはないけど」
ならどうして、あんなに作業のもたつきやパニックを起こしてしまうのだろう、と彼は思う。本人は気にしているのだろうから、あえて彼は口にはしなかったが。
「ただオレが君くらいの時には、そういうこと、考える暇も無かったなと思って…」
「時間は大切ですよ」
彼女は短く、しかしきっぱりと言った。
「私、自分がもっと、他の皆の様に、てきぱき物事ができる人間だったらなあ、と思うこと、すごくよくありますもの」
「だけどそれはそれで、君の個性だろ? いいんじゃない?」
「そうかも、しれませんね」
曖昧に彼女は笑った。
「そうだよ、そう。オレなんか、これと言って、強烈な個性なんてないし。中途半端なんだ」
「だけど先生には、先生になる、っていう未来があるじゃないですか」
「難関だよ」
「でも先生って職業は、昔と違って、色々あるじゃないですか? ほら、アルバイト教師とかパート教師とか。専属教師でなくても、本当にその職をやりたければ、色々道があるじゃないですか」
へえ、と高村は本気で感心する。自分など、大学に入ってから、そういった現在の状況を知ったのだ。先輩達には「お前知らずに入ったのか!」と怒鳴られたこともしばしである。
この現在の教育改革が続く限り、教員免状を持っていれば、出世や、安定した場所であるかはともかく、食うことに困りはしないだろう、と現在では言われているのだと。
「ひょっとして村雨さん、オレよりずっと、詳しいんじゃない?」
「そんなことないです。でも逆でしょう。先生が知らなかったら、その方がおかしいですよ」
それは彼にとって、耳が痛い話である。
「先生は、先生になりたいんじゃないですか? 違うんですか?」
村雨は不思議と食い下がってくる。
「…うん、確かに食える資格だから、欲しいと思うよ。だけど正直、迷ってるんだ。これでいいのかって」
「他にやりたいことがあるんですか? だったら、そっちを必死でがんばればいいんじゃないですか。どうしてそういうことで、悩むんです? …私には判らないですけど」
彼女は本気で首をかしげる。
「…色々、あるんだよ」
高村はとりあえずそう答える。本当は理由なんて無い。ただ、自信が無いだけなのだ。
「…大人も、ややこしいんですね」
村雨はつぶやいた。
「大人になる程、ややこしくなるんじゃないかな」
ふうん、と彼女はうなづいた。
「君は?」
「私? 何ですか?」
「村雨さんには、何かやりたい事とかなりたいものとか、そういうものは無いの?」
「…ああ、無いです」
拍子抜けする程のあっけなさで、彼女は答えた。
「無い、って君」
「本当に、無いんです」
そしてふわり、と笑う。
「私はだから、今の時間、こうやって先生と、大好きな屋上の日溜まりでお弁当しているのが楽しいし、大好きな本に囲まれて委員の仕事しているのが楽しいんです」
「委員の仕事、好きなんだろ?」
「もちろん好きです。私、本が何よりも大好きですから」
箸を止め、両手をひざに置くと、彼女は空を見上げる。つられて高村も空を見上げた。
綺麗な空だった。五月特有の、うすぼんやりとした、青空と雲の境界線が曖昧な空だった。
「本の中にはたくさんの世界があって、それを読んでいるうちは、私は私以外のものになれるし、ここ以外の世界に居られるんです」
「…村雨さんは、今の生活が嫌いなの?」
「嫌い? いいえ、私今の生活、好きですよ。私がやっていること、全て、学校の生活全て、私が考えて、私が動いてやってることなら、何でも好きですよ。勉強だって好きです。決して得意じゃないけど。…もっともっと続けられたらって思います。ただ」
ただ? と彼は問い返す。
「それとは別に、本の世界って、ここではない別の世界に、自由に行き来できるでしょう? それが楽しいんです。少なくとも、読んでいる間、私は自由です」
「そうなんだ」
そういう見方もあるんだなあ、と高村は思う。そしてこれはこれで、説得力があるものだった。
村雨は空を見上げたまま、目を閉じた。
「じゃあ君、司書になればいいのに。本に囲まれて居られるじゃないか。君くらいの熱意があれば」
彼女は黙って首を横に振った。
「…駄目なんですよ」
「でも人間には、努力ってのが」
くす、と彼女は笑い、駄目なんですよ、と繰り返した。
「そうですね。努力して何でもなれるなら、私、ひまわりがいいです」
は? と高村は思わず問い返した。ひまわり? いきなり、ひまわりがそこで出るのか?
「だって高村先生、別に人間とか職業とか、って、さっき言ってなかったじゃないですか」
「それは、そうだけど」
それでもいきなり「ひまわり」は無い、と彼は思う。
「生まれ変われるなら、うん、ひまわりがいいなあ」
彼女はうっとりと目をつぶり、笑みさえ浮かべてそう言った。何だろう、と高村はふと、うすら寒いものを感じる。
「ねえ先生、私、今の季節の空も好きなんですけど、真夏の、ものすごく綺麗な強い青の空も、大好きなんです。入道雲がもくもくと出て、それがくっきりはっきり見えるような、そんな強烈な青い空も。それをずっと見上げて、大きな綺麗な花を咲かせて、それでたくさんの種をつけて、また次の年に、たくさんの花を咲かせるって、いいじゃないですか」
「だ、だけど…」
生まれ変われるなら、なんて。
「…先生、ひまわり嫌いですか?」
不思議そうな顔をして、彼女は高村をのぞき込んだ。
「や、好きだよ。花としては…」
だけど、そういうことではなくて。
「だったら良かった。…あ、先生、さっきからお弁当、全然進んでないじゃないですか」
彼女の手の中の弁当は、既に空になっていた。
*
コン、と一つだけノックの音がした。
失礼します、と見事な会釈が高村の視界に入る。確か。高村は記憶の中からその名前を思い出す。垣内だ。生徒会の。
「ああ垣内君、南雲さんだったら、まだ化学室の片づけの方、やってますよ」
「片づけ」
垣内は首を軽く傾げ、不思議そうな顔をした。
「珍しいですね。南雲先生がこの時間まで…」
「なあに、この高村君の後始末ですよ」
ははは、と森岡は高村を指さした。しかし顔はまるで笑っていなかった。高村は肩を少しだけすくめた。
六時限目は、彼の初の実習授業だったが、それには化学実験が含まれていた。
実験の授業というのは、講義の授業と違って、理解させること自体はそう難しいものではない。ただ、化学の実験だけに、手順の徹底と、安全に関しては、強く生徒に指導しなくてはならない。
…はずだったのだが。
「手順を間違えた生徒が一グループ居ましてねえ。ちょっと軽い爆発、起こしまして」
「…ああ、あれですか」
垣内はぽん、と手を叩いた。どうやら、その音は彼の居たクラスまで響いたらしい。
「毎年あれって、一人は爆発させる奴が居るって言いますけど、ちょうど当たったんですね」
くく、と垣内は笑う。それは先日生徒会の用件で南雲に見せた表情とは違っているように、高村には感じられる。
「でも、だったら、高村先生、どうして南雲先生のお手伝いに行かれないんですか?」
「…その南雲先生から、明日はそんなこと起こらないように、完璧な指導案書いておけ、というご命令なんだよ!」
疲れもあり、思わず彼の口調も乱暴なものになってしまう。おっと、と垣内は肩をすくめ、軽くのけぞった。
「まあまあこらこら、生徒相手に癇癪起こすんじゃありませんよ。ほらほら、お茶でも入れましょうか。お昼は一人で寂しかったですよ」
森岡はつと立ち上がった。
「お昼?」
垣内は怪訝そうに首を傾げた。
「ふふん、この先生は、お昼に禁止されている屋上で食事をしてるんですよ」
「屋上…ですか」
「君は出たことありますか? 垣内君」
「一度だけありますが。だけど自分は高所恐怖症なんで、それから後は。何であそこには『立入禁止』って書いてないんでしょうね」
「何故でしょうね」
森岡はそう言いながら、高村の前に茶を置いた。ありがとうございます、と彼は少し恐縮しながらそれをもらった。
「どうせ南雲さんもそう簡単に来ないし、垣内君、君もどうですか、緑茶」
「はい、いただきます」
どうやら垣内はこの部屋自体に慣れている様で、脇にあったパイプ椅子を自分で持ちだし、南雲の席の隣に広げる。
その拍子に、垣内のポケットから、かたん、と小さな音を立てて、何かが転がり落ちた。
「…落ちたよ」
高村はひょい、とそれをつまみあげる。それは小さな、ガラスの青いびんだった。
「あ、ありがとうございます」
「綺麗なびんだね」
「少女趣味って言われるかもしれませんが」
「いやいや、綺麗なものはいいものですよ」
森岡の鶴の一声に、やや照れた表情を見せながら、垣内はそそくさと、びんをポケットにしまった。
「『立入禁止』ですがね」
TVのスイッチを入れながら森岡はつぶやく。
「何故か、そう書いてロープを張った方が、その上に行こうという輩が多いからですよ」
「って?」
思わず高村は問い返す。
「ほら高村君、小さな頃、思ったことは無いですか? 非常ベルを押したくなったこと」
「…ありますね」
うんうん、と彼はうなづく。
「先生それは、まずいでしょう」
垣内が即座に言葉をはさんだ。
「おや、垣内君、君は小さな頃とか、思ったこと無いですか? 私は今でも時々思いますが…」
くす、と珍しく森岡は笑った。
「それは…でも、禁じられてます。でしょう? それに、そう思ってしまったら、もうそれは危険の第一歩と」
「ええ。そうなんですよねえ。今じゃ本当、皆が皆、そう言うんですよ。だから、つまらないんですよ」
「つまらない、って…森岡先生」
垣内の表情が、あからさまに変わる。
「昔むかしは、そういうことを考える子供が大半でしたよ。まあ場合によりますが、やってみて、悪かったらしかられて、ケガをしたら痛いのが判って。…まあ、屋上から落ちたらたまったものではないですが。高村君は…そうですね、その最後の世代かもしれませんねえ」
どういうことだろう、と高村は茶をすすりながら考える。垣内はやめて下さいよ、と目を伏せる。
「そういうことは…禁止は、禁止です。どうにも、ならないでしょう」
「そうですね。それが安全でしょう。まあ特に君は高所恐怖症だというし、あまり危ないことはしない方がいいですね」
森岡はそう話を締めくくる。論点をすり替えたな、と高村は気付いた。
時々こうやって、森岡は昔を懐かしむ様な発言をする。
もっともそれは仕方が無いことかもしれない。改革が始まった頃、高村は小学三年だったが、森岡は現役の教師だったのだ。
「でも、屋上で食事して、楽しいですか?」
それでも垣内は、話題を屋上から離さない。
「…ああ、まあ、楽しい話相手が居るし」
「それは誰です?」
「言う必要がある?」
高村は思わず言い返した。
言ってしまったら、何となく、このやや切れ者らしい生徒会役員に、村雨が罰せられそうな気がする。何となく、それは嫌だった。
彼女にはきっと、あの屋上の日溜まりにしか、気を抜く場所が無いのだろう。高村は彼女からその場所を奪わせたくはなかった。
「…生徒会役員として…」
「あー、じゃあ別に、取り締まる必要なんて無いよ。ほら、風が気持ちいいし、雲の流れは綺麗だし」
ややわざとらしい程に、高村は両手を広げてみせた。
「何ですか高村くん、君のお話相手とは、雲とか風ですか」
「悪いですかね? 昔から『ハイジ』もやってきたことじゃないですか」
にやり、と高村は笑う。
「『ハイジ』…?」
「んー? 垣内君、君、知らない? 児童文学の名作だよ。理系のオレが知ってるのに、文系の君が知らないの?」
「…今度調べてみます」
垣内は少しばかり、悔しそうな顔をする。やや大人げないとは思ったが、高村は何となく爽快な気分がした。
「…でも文学に詳しいなら、化学じゃなくて、国語の教師にでもなれば良いでしょうに」
お、と高村は相手に反撃の意を感じる。垣内は垣内でまた、何処か引っかかるものがあったらしい。
森岡は黙ってTVの画面を眺め、手はまた何か紙を折り始めていた。口論したかったら勝手にしなさい、という態度だった。
「得意なのは理系だったから、そっちに行かされたんだよ。文系は好きだったけど、役には立たないってね。もし役に立ちそうだったら、中等もきっと、この学校に通ってたな。近い方だし」
「そうですか」
垣内は納得したようにうなづく。
「だいたい何だよ。人にそういうこと聞いていて、そっちは自分の将来の夢とかは、無い訳?」
垣内は高村の口調が好戦的になったことに、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに気を取り直し、切り返す。
「将来の夢、ですか?」
「そうだよ。将来の夢。成績いいんだろ、垣内君」
「ええ、まあ成績は、それなりにいいですよ。あれは努力で何とかなりますからね」
「それで生徒会もやっていて」
「はい」
「大学もちゃんとそれなりに良い所へ進学するつもりなんだろ?」
「いいえ」
垣内は即答する。え、とその答えに高村は詰まった。そう来られるとは思ってもいなかったのだ。
すると垣内はにやり、と笑った。
「驚きます? 先生。俺がそう言うと」
「…ああ、正直」
「無論、俺にだって、漠然とした夢はありますよ」
「漠然とした…夢?」
「ええ。あります。だけど、それは本当に曖昧で、漠然としたもので、人にどうこう言わせたくもないし、叶うこともないものですから」
さらり、と彼は言った。薄ら寒いものが、高村の中をよぎる。
この感じは。
「…ああ、言い過ぎましたね。でも高村先生、人を見た目で判断しないで下さいね。俺のしたいことと、できることが違う、というだけですから」
判った、と高村は言った。付け足しくさい、とは思ったが、垣内の口調に、それ以上は言わせないぞ、という何やら強い覚悟が感じられたのだ。こうなるともう切り返せないのが、彼の弱いところだった。
ただそうなると、もう会話は続かない。森岡は黙ってTVを見続けている。
そんな空気を察したのか、垣内はつぶやいた。
「…南雲先生、遅いですね。やっぱり俺、化学室の方へ行ってきます」
「ああ、そうした方がいいですよ」
ひらひら、と森岡は手を振った。では、と見事な会釈をし、垣内は部屋を出て行った。
出て行ったのを確認するように、森岡はひょいと顔を上げた。机の上には、小さな百合の花がいつの間にか幾つか並んでいる。
「…ふうん。彼、君には喋るんですねえ」
「え?」
「垣内君は南雲さんにべったりですから、私は彼の夢やら何やら、聞いたことは無いんですよね。それに彼が怒った所を見たのは初めてです」
「初めて…ですか?」
はい、と森岡はにっこりと笑った。
「彼自身は面白い子だ、と思うんですがね」
はあ、と高村はうなづく。その拍子に、彼の視界に百合の花が入った。
花と言えば。
「でも…森岡先生、今の子、って皆、ああなんですか?」
「皆、ああ、とは?」
「いや、今日、別の子からも、『将来別に何もなる気ない』っていう意味のこと言われて、『生まれ変わるならひまわり』とか…」
ずず、と森岡は茶をすすった。ああ冷めたな、と彼は立ち上がった。別に聞いていない訳ではないのだろう、と高村は続けた。
「別に皆が皆、そうじゃないと思うんですが、オレが今日聞いたその子と、今の垣内君と、全然違うのに、…何か何処か、同じ様な答え、するから」
「君が屋上で、話していた子、ですか?」
高村は黙ってうなづいた。
「全部が全部、ではないでしょう。例えば、今少々問題起こしている遠野さん」
「ああ…」
「彼女は卒業後、ちゃんと演劇の勉強ができるところを本気で探しています。劇団なり、大学の演劇学科なり、とにかくそういう主体性がある者も、ちゃんとそれなりに居ます。ただ全部ではない、というのも、確かですね」
そういうものなのか、と高村は黙って二度、首を縦に振った。
「そういう君は、どうなんですか? 高村君」
え、と彼は顔を上げた。
「君は、教師になる気があるんですか?」
それはあまり、ここでは聞かれたくない質問だった。しかしそこでごまかせるほど、彼は器用な人間でもなかった。
「…判りません」
「では何か、別の夢でも?」
それだけでは満足できない、といった表情が、森岡の上にはあった。
「そういう訳ではないんです。今結構、こうやって指導案とか苦労しているけど…」
未だに半分も埋まっていない用紙を持ち上げ、彼は言う。
「これはこれで好きなんです。オレにはたぶん合ってます。人前で喋るのも嫌いじゃないです。ちゃんと理解してくれるのを見るのは楽しいです…ただ」
「ただ?」
とどめの様に、森岡は問いつめる。
「何か、一つ、オレの背を押すものが無いんです」
「背を押す?」
「どうしても、これじゃなくちゃいけない、ってものが」
ふと森岡は、表情を和らげた。
「…高村君、まずそういうものは、そうそう現実には無いと思った方がいいですよ。そう、誰かが背を押してくれる、というのは期待しない方がいいですね。結局は選ぶのは君ですよ」
確かにそれは正しい、と彼も思う。おそらく、答えは既に出ているのだ。
「まあでも、選んでみたらそれが必要だった、ということもあるでしょうが」
「はあ」
結局、その時が来ないと判らないのかもしれない。高村は黙ってシャープペンシルを動かし始めた。
部屋の中には再びTVの音だけが広がる。
と、がらり、と扉が開く音がそこに加わった。
「…高村先生、ようやく処理、終わったわ。あなたの方はどうなの? 進行状況は!」
疲れの反動なのか、威勢の良い声でまくし立てながら、南雲は彼の指導案をのぞき込んだ。
「まだこれだけ! 何をやっていたの、あなた?」
「まあまあ南雲さん。彼は彼で、自分の将来について、悩んでいるのですよ」
ふふふ、と森岡は声だけで笑った。
「将来?」
「自分は本当に教師に向いているのか、とかね」
やや違うぞ、と高村は顔を上げ、口を開きかけた。だが森岡の目線が、ちら、と向いた時、自分の言葉が止まるのを感じた。
南雲はそれを聞くと、両手を広げ、首を大きく横に振る。
「…それは考えても仕方ないことじゃないですか。教師になれるコースに居るなら、それで万々歳ですよ。何を迷うことがあるの? 高村先生」
「それは…」
迷いの無い、その口調に高村は圧倒される。
「このコースに居る、そのこと自体で、あなたは既に『向いている』と国から保証されているようなものじゃないの」
「それは、そうですが…」
確かにそうなのだが。
教育系大学に進学できた、という時点で、既に「適性」は保証されているのだが。
「だったら四の五の言わず、今は自分の作業を進めてちょうだいな。また明日も同じ実験よ。同じ失敗を繰り返されては、たまったものではないわ。今日の失敗を生かせないようだったら、意味が無いのよ」
「どうもすみません」
「謝らないで。謝りたくないのだったら、自分のすべきことを完璧にやってちょうだい。私の言いたいのは、それだけよ」
判りました、と高村は深く頭を下げた。確かにそこまで言われると、彼も悔しかったのだ。
「ああ…ところで、垣内君を見かけましたか?」
再び小さな百合を作りながら、ついでのように、森岡は問いかけた。一体幾つ作るつもりだろう? ふと高村は思った。
「垣内君ですか? いえ? 何か?」
「いや、さっき廊下で見た様な気がしたので」
「また何かあったのかしら…全く、今年の連中は」
南雲は首をひねる。あれ、と高村は思った。確か彼は。
しかし森岡は何事も無かったかのように、平気で紙を折るばかりだった。