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2 授業ボイコット、アート部のお喋り

「おお~いい景色じゃないかっ」


 屋上へ続く扉を開けた途端、高村は右手の拳を強く握りしめた。両手が空いていたら、きっと両手で感動の表現をしたに違いない。だが左手は、パンとコーヒーに占領されていた。

 数歩進み、180度見渡す。五月のさわやかな風が、彼のやや乱れた長めの髪と、腕まくりをした白衣をさわさわと翻す。


「何でこんないい景色なのに、外で食おうって奴が居ないのかなあ、全く…」

「…あの…金網が無いせいじゃないですか…」


 彼はとっさに、声の聞こえる方を振り向く。だが姿は無い。


「誰!? 誰か居る訳?!」

「…すみません、つい」


 先程出てきた階段室の裏から、ひょいと女生徒が顔を出した。高村は思わず指を突き出す。


「あ、君、見覚えある! 確か図書委員の…」


 いかん、名前が出て来ない、と高村は口を開けたまま、上げた右手の指を何度も何度も上下させた。


「…村雨です。高村先生。村雨乃美江」

「そうそう、村雨さんだ」


 そう、あの図書委員の子だ。あの印象は非常に強かった。


「どうも昨日はすみませんでした。私とろくさくて」


 言いながら、彼女はまたも頭を下げた。


「うーん…それはまあ…いいけど」


 苦笑しながら、高村は彼女の方へと近づいて行く。

 彼女が腰を下ろしていたのは、屋上の他の所より一段高く、ややこの季節には、陽当たりが良すぎるかもしれない場所である。だが南向きの風が緩やかに吹き込んでくるせいか、全体的には心地よい空間となっていた。

 よいしょ、と高村は彼女の横に座り込むと、買ってきたパンを次々に放り出す。それを見て村雨は目を丸くした。


「高村先生…四つも食べるんですか?」

「そりゃあ、まあ。慣れないことばっかだから、腹も減るし…」


 ぴり、と高村はその中の一つ、チョコリングの袋を破く。

 ふと彼女の方を見ると、膝の上には手作りのカバーを敷いた、可愛らしいお弁当箱があった。その脇には、ステンレスの小さな水筒も置かれている。


「へえ、ちゃんとおべんと作ってるんだ」

「ええ、料理は好きなんです」

「ってことは自分で作るの!? すげえ」


 率直な高村の賞賛に、彼女は顔を赤らめた。


「そんなこと、無いですよ。お弁当の子もたくさん居るし、これだって、あり合わせのものとか、昨夜の残りとか…」


 いやいや、と高村はわざとらしい程に、首を大きく横に振る。


「こう見えてもオレ、大学に入ってから一人暮らし三年やってるけど、マトモに料理なんて作ったことないぜ?」

「だって先生は、男だし」

「男女は関係ないさあ。料理はできるに越したことないし。オレの友人にも、そういうの、すげえ上手い奴が居てさあ」

「彼女ですか?」


 ぷっ、と高村はパックのコーヒーを吹き出しそうになる。慌てて口を拭きながら問い返す。


「彼女?」

「だって…先生、結構、六年の間でも、もう結構、人気出てるんですよ?」

「えええっ? 何でオレがっ」


 思わず彼は退く。


「だって、先生格好いいですよ」

「…冗談はよそうね」

「冗談じゃないですってば。細身だし、結構すっきりした顔だし…」

「今ってそういうのが、流行?」


 彼は眉間にやや大げさなまでにシワを寄せた。


「…かどうか知らないですけど、クラスの子が、トイレでそういうこと、言ってたの、耳にして…そう、今日だって、何かそのだらん、と着た白衣が格好いい、とか…だから大学で彼女の一人くらい居たっておかしくはないって、皆…」


 うーん、と高村はうなる。それは彼にとって、あまり触れられたくない話題だった。

 彼はぽん、と村雨の肩に手を置いた。ぴく、と彼女の身体がその瞬間震える。

 昨日の本にびっしょりとついた汗。彼女が緊張するタイプであることを高村は思い出した。

 気付かないふりをして、彼はすぐに手を離した。そしてあえて真剣な声で囁く。


「…あのね、君だけに言うけど…」

「は、はい?」

「…実はオレ、女には興味ないんだ…」

「え」


 丸い眼鏡の下の目が、レンズと同じ位に丸くなる。

 数秒。


「…なーんて、ね」


 にやり、と高村は笑った。


「うそうそ。女の子の方が大好き」

「…やーだ」


 ははは、と彼女は苦笑した。


「一瞬、本当かと思ったじゃないですか」

「…何、オレそんなにホモに見える?」

「あ、そうじゃなくて、あの、先生の言い方が真に迫ってたんですってば。あ、今度はヤキソバパンですね」


 焦りながら慌てて話題を変えようとする彼女に、彼はうん、と返事をする。彼は既に、次の獲物に取りかかっていた。


「購買の一番人気なんですよ、それ」

「あ、そーなんだ」

「私も時々購買は利用するんですけど、ヤキソバパンはさすがに買えたこと、無いんです」


 へえ、と彼はその優秀な戦利品を口にくわえながらうなづく。


「…ってじゃあもしかして、村雨さん、遠いの? クラス」

「いいえ、私、ただ単にとろいんです」


 うーむ、と高村はどうフォローしていいか迷った。確かに図書室での、彼女のあの調子では、昼の購買では確実に潰されてしまうだろう。


「あー…でもね、村雨さん、あれは気合いよ、気合い」

「気合い?」


 彼女は首を傾げた。そうそう、と高村は指を立てる。


「『おばちゃーん! ヤキソバパンとチョコリングとパピロバターとポテサラサンド!』…ってね。遠くからでも、とにかくこれでもか、とばかりに叫ぶ! それしかない!」

「そ、それは…」


 彼女は苦笑しながらそれはできない、と首と手を横に振る。


「んー、でも、だいたいオレ、それでこうゆうことは、物事通してきたからね」

「そうなんですか?」

「そうなの」


 そうなのだ。まず態度から。それが彼のモットーだった。気持ちは、つい揺らぎそうになるから。


「あ」


 突然、彼女は胸ポケットから端末を出した。


「何、メール? 友達から?」

「あ、まあ…」

「そう言えば、いつも一人で食べてるの?」

「ええ、まあ…」


 そうだろうな、と彼は思う。図書室に居た時の周囲の反応も気になる。そしておそらく、それをこの敏感な少女は気付いている。

 なら、一人で居る方が、気楽なのかもしれない。


「…違う学校の、友達なんです」

「あ、ちゃんと友達は居るんだ」

「居ますよぉ、幾ら何でも」


 くす、と笑いながら、彼女はぱちん、と携帯の蓋を閉めた。

 何となくほっとする自分に、高村は気付いた。


「…全く、『遠野サマ』にも困ったもんだよなー」


 あの声は島村だ、と高村はちら、と横目で見る。今日の眼鏡のフレームは、鼈甲の太枠だった。確か今朝聞いたところによると、「有閑マダム風」だそうだ。


「また何か、あったんですか?」


 別の教師が問いかけている。明らかに島村のぼやきは、誰かに聞かせるためのものに違いなかった。独り言にしては、声が大きすぎる。


「んー、まあ別に、一人で休むんならいいですよ、あいつ、成績いいし、理解力あるし。だけどなー」


 はああ、とややわざとらしく両手を広げ、島村は大きなため息をついている。


「あれがボイコットすると、うちとか、隣のクラスの女子とか、結構便乗する奴が増えちゃってねー」


 便乗? ふと高村は注意を向けてしまう。


「…で、今後のスケジュールの変更についてですが…高村先生、聞いてますか?」

「は、はい!」


 職員室の端にある応接スペースで、彼は教頭と一対一で向かい合っていた。


「…慣れないことの連続であるのは判りますが、皆、最低二度は通る道です。しゃんとして下さいよ、しゃんと!」

「はい!」


 高村は思わず姿勢を正した。

 確かにこの教頭の口調には、人を鼓舞する何かがある。正しいことを、正しく守らせようとする人だ、という印象があった。

 そう言えば。彼は南雲にもそんな傾向を感じていた。ただ教頭の方が、言葉に重みが感じられる。


「…あの、教頭先生、一つ聞いてもいいですか?」


 ふと彼は、昨夜軽く疑問に感じていたことを口にしてみた。


「何ですか?」

「昨日、結局、朝礼は無かったんですよね」

「ええ。あなたも遅刻したことですし」


 そう言われると、きり、と高村の心臓も痛む。


「でもオレのせいではない、って聞きましたけど…」

「誰からですか」

「いえ、誰という程でもなく…」


 教頭は眼鏡の下の目を軽く細めた。


「この学校には、この学校なりの事情がある、ということです」


 なるほど、と短い答えに彼は悟った。

 下手にそのことについて頭を突っ込むな、ということか。

 だったらこれ以上、ここで聞いても仕方あるまい。この女性は決してそれ以上を口にしないだろう。彼は教頭に軽く頭を下げた。


「判りました。ありがとうございます」

「判ってくれたのなら、良いのです。次に…」


 教頭の話は先へ先へと進められて行く。しかし一度立ち上がった疑問はそう簡単に消せるものではないことを、彼は良く知っていた。



「ふうん」


 夕方。化学準備室の中、南雲は高村の提出した指導案を一瞥すると、一言そう言った。


「ど、どうでしょうか」


 高村は思わず弱腰になる。

 実習生は、実際の授業実習の前に、必ず指導案を担当に提出し、指導を受けることを義務づけられている。

 彼なりに、何とか形にしてみた案だった。時間もそれなりに掛かっている。一応、大学の「教材研究」授業でも実際の授業の指導案の書き方は習ってきたつもりだった。模擬授業も経験している。

 なのに、一瞥するなり、この態度だ。

 さすがに高村は、どう反応していいのか判らなかった。

 南雲はデスクの上に、彼の書いた指導案を軽く投げ出した。


「どうでしょうか、もどうも、ないわね」

「…って」


 南雲はにっこりと笑った。だがその目は決して笑っていない。


「まあ、そう固くならないで。一度、やってみなくては判らないでしょう? 生ものだし。授業は」

「は?」


 まだ合点がいかない、という表情で高村は彼女を見つめた。


「つまりですね」


 何やら紙を丁寧に折り畳んでいる森岡が、そこで初めて口をはさんだ。


「君の指導案はまだまだ全然、詰められていない、ということですよ、高村君」


 南雲はち、と舌打ちをし、軽く目を細めた。


「詰められて、いない?」

「内容がスカスカだ、ということです」

「スカスカ…」

「それこそベテラン教師なら、その案で授業も進められるでしょう。彼らは蓄積がありますからね。しかし君の様に、初めてとか、数回限りの実習生の場合、手順や予想される反応等、きっちり詰めておく必要がある、ということですよ」


 はあ、と高村は思わずうなづいた。穏やかな口調なのに、言うことに容赦はまるで無かった。


「でもまあ、やってみてそれが判る、というのも確かにありですね、南雲さん」


 そうですね、と言いつつ、振られた南雲の目は相変わらず笑っていなかった。

 それに気付いたのか気付かないのか、森岡は付け足した。


「ああそうそう、それと高村君、ハッタリも一つの手ですよ」

「ハッタリ?」


 いきなり何を言うんだ、と高村は思わず声を張り上げた。


「君が何よりも、彼らに呑まれない、なめられないことの方が大事ですよ。教える内容よりもね」

「…?」

「彼らは後期生です。授業を聞くも聞かないも、自己の裁量に任せられている訳です」

「はあ?」

「ひらたく言えば、彼らに聞く気にさせて、飽きさせなければ、いいんです。…まあ、私が言えた義理ではないですがね」


 よし、と森岡は両手をほら、と広げて見せる。


「あ」


 思わず高村は目を見張った。その手の間には、三つにつながった鶴ができあがっていた。


「…い、いつの間に…」

「趣味なんですよ」


 そう言われれば。もしや机の上の恐竜や昆虫も、森岡の作ったものなのだろうか。高村の目が、机の上と森岡本人の間を往復する。


「これも一つのハッタリですがね」


 はあ、と高村はうなづいた。確かに直接科目に関係無くても、一芸に秀でている人物には、一目置きたくなるものである。

 しかし自分にその真似はできない。彼は案を手に取ると、もう少し考えてみるべく、デスクの上に全部を広げてみる。

 今考えてみるべきなのか、とにかく一度体験してショックを受けてみるべきなのか。

 いずれにせよ、今目の前に、確実に課題があるのなら、できるところまでは詰めてみるのが、今ここに来ている自分の義務だろう。彼はシャープの芯をかちかち、と数回出した。

 と、その時、こんこん、と扉を叩く音がした。


「失礼します」


 戸車のがらがらと動く音と共に、低い声がその場に響いた。ん? と高村は聞き覚えのある声に振り向く。


「あら、垣内君、どうしたの?」


 南雲は親しげな口調で、部屋に入って来る生徒に声を掛けた。そう、垣内だ。図書室でも確かにそう呼ばれていた。

 森岡は興味が無い、という顔で、目の前のTVのスイッチを入れる。ローカルのニュース番組がちょうど始まる所だった。


「…実は生徒会の問題で、南雲先生に相談に乗っていただきたいことがありまして…」

「また?」


 南雲は苦笑しながら、こめかみに指を当てた。


「去年と違って、あなた達の代は、私を呼び出すことが多いのね」

「それは仕方無いですよ、先生。先代の会長の頃とはまるで今は違いますから、皆…」

「ええ、わかった、わかったわ」


 南雲は冗談だ、とばかりに笑うと、両手をひらひらと振る。


「ともかく今からすぐ、そっちへ行った方がいいのね?」

「はい、すみません、ご足労お願いします」


 垣内は南雲に向かって軽く会釈した。


「では少々、行ってきます。高村先生、別にそのままでも案は構わないけど、必要があるのなら、ちょっと待っていてちょうだいね」


 言い残すと、南雲は足早に化学準備室を出て行った。その姿は、ここで高村や森岡を相手にしている時よりも、むしろ楽しそうに見えた。

 その後に垣内が続く。部屋を出る時に、彼はもう一度軽く会釈をしていった。扉が閉まると同時に、高村はふう、と息を吐いた。


「何ですか、高村君。ずいぶん気疲れしていた様じゃないですか」

「え? …そうですか?」

「だって君」


 森岡はつ、と折り鶴の一つを高村に突きつける。

 はっ、と高村は顔を上げる―――上げるということは。


「あ」


 いつの間にか、ため息とともに、高村はべったりと顔をデスクにつけていた。


「まあ彼女も、言葉はともかく、結構きつい所がありますしねえ」


 あなたもきついですよ、と高村はふと言いたい衝動にかられたが、言わないだけの理性は残っていた。


「南雲先生は、生徒会も担当されてるんですか?」

「そうですねえ」


 折り鶴を飛ばす様な動作をしながら、TVに再び視線を移し、森岡はうなづく。


「彼女がここに赴任して…そう、六年になりますが、三年目くらいから、生徒会は担当していますよ。やはり生徒会の担当は若い教師の方がいい、ということでね」

「六年」


 ということは。高村は彼女の歳を思わず数える。


「ああ、彼女はまだ三十歳前ですよ。まあ中等学校は、あまり異動が無いのが普通ですしね。昔と違って」

「昔は…異動が多かったんですか?」

「ああ。私が教師になった頃はまだ『中等学校』じゃなくて、『中学校』と『高等学校』の時代でしたしね。そう、表面上は殺伐としていましたが、私にとっては、いい時代でしたよ」

「いい時代、だったんですか?」


 ええ、と森岡はうなづく。


「私は高等学校の教師でしたから、改革後も引き続き、後期の方にずっと居させてもらっているんですけどね、あの後に教師になった連中は、学校の異動は無いのですが、前期も後期も行かされて、大変だったと思いますよ。ああ、君も来年は、前期の方へ実習でしょう?」

「ええ」


 彼の大学のカリキュラムでは、三年次で中等学校の後期、四年次で前期の実習を経験することになっている。すなわちそれは、前期の方が難しい、ということでもある。


「まあ、今年楽して来年困るよりは、今苦労しておく方がいいですね」

「そうですね…」


 確かにそうだ、と彼も思う。少なくとも、今年失敗したことは、来年繰り返さずに済むだろう。


「それにしても、生徒会も、今の連中は大変なことですよ」

「そんなに、去年とは違うんですか?」


 森岡は大きくうなづく。


「違いますねえ。去年の会長と比べられては、可哀想というものですよ」

「去年の会長は、そんなにすごかったんですか?」


 高村には、そんなに凄い生徒会長、は上手く想像ができなかった。


「あー…そうですねえ…確か山東は、結局四年の半分から六年の半分まで役職についていましたが、お、そうそう」


 ぽん、と森岡はTVから目を離して手を叩いた。


「高村君、二階の購買分室は見ましたか?」

「え? ええ」


 昼休みの喧噪を、彼は思い出す。


「オレは今日も、あそこでパンを買いましたが」

「その割には、今日はここでお昼にしませんでしたね」


 ちら、と森岡は非難めいた目つきを投げる。


「…い、いえ、いいお天気なので、屋上で」

「屋上? 屋上は、基本的には立入禁止ですよ」

「え」


 高村は大きく目を広げた。初耳だった。出口には、特に「立入禁止」の表示もしていないので、てっきり出入りは自由だ、と高村は思い込んでいたのだ。それに、あの図書委員の村雨。彼女もどうも、屋上の常連らしいというのに。

 だがそう考えてみれば、あれほど景色の良い場所に、誰もいないのも不思議ではない。


「まあ別に、とがめる気は無いですがね。ただ、金網が張られていないから、危険なんですよ」

「…それだけ、なんですね? 別の理由とか」

「それだけですが、安全面は非常に大切ですよ。私の息子も昔、金網の無い柵から落ちてね」

「え」

「いや、この学校ではないですが」


 森岡は付け足した。


「何にせよ、危険には違いないから、気をつけて下さいよ」

「…すみません」


 さすがに高村も素直に頭を下げる。森岡が言いかけたことも気にはなる。だがそれはプライベートに関することだろう。聞かないだけのデリカシーは高村にもあった。


「ああ、それで購買の話でしたね」

「ええ」

「あそこはですね、その先代の会長が取り付けさせたんですよ、学校と業者と直接対決をして」

「へええ」


 思わず高村は目を丸くしてうなづいた。確かに、購買があの場所にあると無いでは大違いだ。


「その昔、当初、この校舎を作った時点では、体育館付近に購買専用の部屋か、小さなプレハブが専用に作られるはずだったそうです」


 高村は位置関係を頭の中に思い描く。


「ところが予算だか、敷地面積だか、防災通路だかの関係で、その場所を特別に作れなくなりましてね。結局空いた場所は、一階のあの場所しかなくて」


 そう言えば、と高村も思う。

 確かに体育館の辺りなら、教室棟のどのクラスからも近からず遠からず、という位置なのだ。


「まあしかし、そうなってしまったものは仕方ないですからね。購買は余った場所に設置されることになりました」

「はあ」

「しかしそれでは、あまりにもその距離に、クラス間・学年間格差が大きい、ということになりましてね。普通、会長は激務ですから、四年の後半から五年の前半の一年で終えるものですが、彼は自分の任期を一年延長させて、二年越しでそれを達成させたんですよ」

「はー」


 それにはさすがに高村も感心した。行動力もさながら、二年間かけて、というあたりに、粘りを感じさせる。


「もうその会長、卒業したんですよね」

「そうですね。山東と言うんですが、確か、体育系の大学に行っていたはずですがね…そう、現在のこの学校で、あれほどの人望がある生徒は、もう居ませんねえ。もう伝説化されてますよ」

「さっきの垣内君という生徒は?」

「彼ですか? まあ頭が切れるようですが」


 それ以上では無いのだ、と森岡は暗に含めている様だった。


「人望というのは、能力では無い何か、が必要ですからねえ…」


 人望。それを聞いてふと、高村は思いついたことを口にする。


「あの、遠野…という女生徒はどうなんですか?」

「遠野みづきですか? 彼女がどうしましたか?」

「いえ」


 高村は職員室で耳にしたことを、簡単に説明した。


「…ああ。そうですね。去年や一昨年の彼程ではないけれど、遠野もそれなりに人気はあります。ただ山東と違って、彼女の場合は、『ファン』ですよ」


 ああそうか、と高村は大きくうなづいた。人望、というよりは「人気」なのだ。



「せんせー、一緒に駅まで行こうっ」


 正門辺りで、数名の女生徒が高村に声を掛けた。


「確か君達は…」


 見覚えのある片方が、元気に手を上げる。


「はいっ、五組の早瀬めぐみでーす」


 そしてもう一人は、のそ、と顔を出し、低い声でぶっきらぼうに声を掛ける。


「…同じく、元部洋子でーす」

「ずいぶん君等、帰り、遅いじゃない。部活?」


 もう既に周囲は暗かった。この時期の下校時間としては、かなり遅いと言ってもいい。


「うん。と言ってもうちの部活なんて、半分以上お喋りだけどねー」

「うんー」


 聞いてみると、「アート部」だと言う。美術部とは違うのか、というと彼女達は大きく首を横に振った。


「そうゆう真面目なのじゃなくって、ねえ」

「そぉそぉ」


 ははん、と高村は合点がいった。


「要するに、マンガとかイラストとかそっちだな」

「ぴんぽーん」


 早瀬は高村の目の前で指を立てた。


「何で判ったの?」

「カンだよ、カン」


 うっそぉ、と二人は笑った。


「けどもうかなり暗いじゃないか。いくら連れがあるにしても、この学校、駅まで結構距離あるし、もっと早く終わらせろよな、部活」

「だから先生見つけた時に、やったー、って思ったんでしょ」


 早瀬はそう言いながら、高村の腕に腕を巻き付ける。確かにそれももっともである。彼には切り返す言葉が無かった。


「ああっ、抜け駆けは禁止と皆で言っただろうにっ」

「早いもの勝ち、って言葉知らないのー?」


 舌を出す早瀬に、元部は自分も、とばかりに空いている方の手にからみついた。両手に花、と言えば聞こえがいいが、この二つの花はどう見ても、標準よりやや重かった。


「重い、重いって」


 さすがに高村も腕を振り払う。つまんないの、と二人はぱっ、と手を離した。


「でも、紹介もされてない割には、高村先生、もうファン居るんですよー」

「そうそう、購買での大声とか、特攻とか、有名になってますし」

「あ、あれは」


 必要に応じてそうしただけ、なのだが…そんなところで「ファン」がつくとは彼は思ってもみなかった。

 そう言えば。


「…ファンと言えば、六年の遠野みづきさんって、ファンが多いんだって?」

「えーっ、何で先生、遠野サマのことを知ってるんですかあ?」


 思いがけない程の大声を立てて、元部は高村の前に回り込んだ。


「遠野…『サマ』かい?」


 高村は何となく、口を歪めた。


「だってあのひとに、それ以外のどんな呼び方ができましょう?」


 うっとりと元部は目をつぶり、両手を前で組み合わせた。思わず高村は退いてしまう自分を感じる。


「去年の文化祭、演劇部の恒例の公演で、遠野サマがお演りになった『千夜一夜物語』の残酷な王様の美しかったこと! 撮ってあれば、高村先生にも見せて差し上げたいわ…」


 ううむ、と高村は内心うなった。

 何だか内容はよく判らないが、遠野みづきという女生徒は、どうも「お姫様」ではなく、「王様」役で、しかもそれが「美しかった」、ということは高村にも理解できた。となると、彼女の雰囲気も予想ができる。


「遠慮するよ。じゃあやっぱり『ファン』、多いんだ?」

「そりゃあ、もう!」


 元部は両手の拳を力一杯握りしめる。


「でも元部、あんたは例の『授業ボイコット』には参加しないじゃない。ファンとして、それでいい訳?」


 やや嫌味な口調で早瀬は突っ込む。すると元部は、口元をにっ、と両方上げて、ちちち、と人差し指を振った。


「そこをあえてしないのが、あたしのファン道というものよ」

「…あんたのファン道って、時々あたし判らなくなるわよ」

「ファンというものは、遠くにありて思うもの! それがあたしのモットーなんですよ。ねえ高村先生、そう思いません?」

「うーん…変質者にはなるなよ」


 高村は苦笑しながらそう言った。「ファン道」と言われても、彼の中では、それが「電柱の陰からそっと見守るストーカー」とどう違うんだ、という気持ちもあった。

 だが彼の嫌味に気付かないのだろう、彼女達は平然と会話を続ける。


「まあでも、遠野サマがあんなことする気持ちも判るけどね」

「気持ち?」

「先生あの時、川原が南雲さんに聞いてたでしょ? 七組の日名さんが退学したの、どーのって」


 早瀬は高村の顔をのぞきこむ様にして問いかける。


「ああ…そう言えば」


 そういうことを聞いていたような気もする。


「日名さんって?」

「あのひと、去年の劇で、シェヘラザードだったんですよね」

「シェヘラ…?」


 高村は眉を寄せた。


「ヒロインです。可愛い子なんで、男装した遠野さんと組むと、すっごく綺麗なんですよ」


 へえ、と高村はとりあえず想像を試みる。しかし上手くいかない。早瀬は構わずに続ける。


「あたし普段、こいつの様に、先輩のこと、遠野サマ遠野サマ、って騒いだりはしないけど、あの時は、あの二人見て、ああすごく綺麗、って思いましたもん」

「実際、日名と遠野サマ、凄い仲良しで、それこそユリじゃないか、って噂もあるんですよねー。でもあたし達、あんな綺麗な二人組ならいいか、と思ってましたからねー」


 げげ、と高村は口元をゆがめた。


「あー、でも日名って、山東先輩とも噂無かったっけ?」

「それを言うなら、遠野サマと山東会長とも結構言われてた時期あるじゃない」


 だんだん二人の会話が自分を差し置いて、訳の判らないものになってきたのに高村は気付く。このままではいかん、と彼は口を挟んだ。


「…で、つまり、遠野さんは、日名さんの退学に怒って、ボイコットしている訳?」

「えーと、正確には違うんですよ」


 元部はぴ、と目の高さに指を立て、真剣な表情になった。


「じゃ、何?」


 そこなんですよ、と声と姿勢を低くする。


「遠野サマは、日名が『何で』突然退学したのか、その理由を学校が教えてくれないから、そのことに抗議してボイコットを続けてらっしゃるんです」

「ああ…」


 ようやく話が見えた、と高村は思った。



「それじゃ先生、さよならー」

「明日またー」


 おぅ、と高村は手を振る。

 彼女達の姿が駅の改札をくぐると、彼の背中にはどっと疲れが押し寄せて来た。同時に、胃も空腹を訴えていたので、彼は近くに見えた牛丼屋へと足を伸ばすことにした。

 自炊とは縁が無い彼にとって、二十四時間営業の、しかも格安のチェーン店は、そこにあるだけでほっとするものだった。

 賑やかな店内。馴染んだ匂い。


「へいっ、牛丼大盛り、お待たせ」


 目の前に置かれるほかほかの牛丼。ぱん、と割り箸を開くと、高村は即座に、その濃いめの味つけに舌鼓を鳴らした。ああ、疲れていたんだなあ、としみじみ彼は思う。

 さて明日の昼はどうしよう。彼はふと考える。

 今日食べたパンも、中等の頃を思い出し、決して悪くは無いのだが、やはりそれだけでは栄養が偏るし、だいたい甘すぎる。朝、行く途中で弁当やパンを購入していくのが無難だろう。

 そしてまた、禁止されていようが、やっぱりあの屋上は食事場所として良い所だ、と彼は思う。それに、何となくあの村雨という女生徒のことが気になっていた。

 中等学校の頃、彼の周囲に居たのは、皆、先程の早瀬や元部の様に、元気で物怖じしない少女ばかりだった。

 小学校の頃までは、確かに居た気がする。例えば、いつも仲間外れになって、一人で図書室で本を読んでいる子。給食がどうしても食べられなくて泣いている子。いつも何かにおびえていて、フォークダンスの時に手を握ろうとすると遠慮している様な子。

 いつの間にか、そんな子達の姿は彼の前から居なくなっていた。考えることもしなくなっていた。

 村雨の態度は、そんな小学校時代の知り合いの姿を思い出させた。

 彼らは一体、何処に行ったのだろう。皆が皆、中等で変わってしまったのだろうか。

 彼ははっとして、頭を大きく振った。いかんいかん。

 ここのところ本当に、考えが暗い方へ暗い方へ、と向かってしまう。落ち着こう、と彼は茶をすする。

 そしてふと、今日発売の雑誌だの、録り忘れたTVドラマのことだの、とりとめも無いことを考えながら、彼は視線をウインドウの外へふっと飛ばした。

 日が暮れるのが遅くなってきてはいたが、それでも既に、辺りは真っ暗だ。

 と、ふと制服の少女が横切る姿が彼の目に映った。

 ショートカットの背の高い、綺麗な少女だった。

 そしてその横には、その彼女より更に背の高い、体格の良い男が居た。二人とも、何やら力を込めて話しながら、どんどんスピードを上げて歩いている。

 思わず目を奪われ、高村は彼らが視界から消えるまで、ずっとそれを眺めていた。

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