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パクサルム【未完】  作者: 片里鴎(カタザト)
ガール・ミーツ・ボーイ
2/20

 いよいよ今日だ。

 いよいよ今日だ。

 いよいよ今日だ。

 ルリの頭を支配しているのはその言葉のみ。ただそれだけが今日起きてからずっと繰り返されている。


 細身の体を、色気も何もないジャージに包み、その上からレストランから支給された黒いエプロンをかけている。

 肩まで伸ばした、少し癖のついた茶色の髪。猫っぽいとよく人から形容される顔。その目も猫のように大きく、普段はきょろきょろと動いている。だが、今はその目も空中の一点を見たまま動かない。


 いよいよ今日だ。

 そのことだけを考えながら接客をやっていたら、今日は注文を三回も間違えた。客の中にはかなり怒っているのもいた。が、ここでは決して暴力などは振るわれない。その点はありがたい。

 とはいえ、ここでウエイトレスとして働くにあたってした契約で、ミスひとつにつき日給の5%マイナスとなっている。普段だったらかなりの痛手だ。

 だが、今日のルリにとっては大したことではない。いや、今日から先、もはや稼ぐことに意味なんてない。

 ただ、今日があるのみだ。残り、三時間。仕込みは終わった。後は、それをすれば終わる。この地獄のようだった五年間も、全て。


 パクサルムでも最底辺の低所得者が住まうエリア、バンリュー。

ウサギ小屋のような狭い部屋がぎっしりと詰まった打放しコンクリートによるビルが立ち並び、そのビルとビルの隙間にびっしりと露店や、廃材をかき集めて作ったような今にも崩れそうな店が入り込んでいる。

歩いていて、息が詰まりそうなエリアだ。

そのエリアの一角にある、店名すらないレストランにルリは働いている。古い木材を赤く塗ってごまかしたものが柱で、壁は指で穴を開けられそうなほどに脆く薄い。狭い店内を、一つの電球で夜にも真っ暗にならない程度に照らしている、そんな店だ。

こんな店でも、店長兼コックは営業権を手に入れるのに大枚をはたいたと聞いている。パクサルムでは、ミッション以外で稼ぐ方法は制限され、ハードルも高い。仕方のないことだ。


 昼時を過ぎて、もう客はいない。四人席のテーブルが二つと、詰めれば五人が座ることもできるカウンターは空で、拭き掃除も終わっている。

もう動くことも無く、立ったままルリはそのことだけを考えている。

 今日、終わる。いや、終わらせる。


 だから、そのレストランに、新たに一人、客が入ってきたことに気付かない。


「水を」


 かすれた声でその客に声をかけられて、初めてルリは現実に引き戻される。


「しっ、失礼しました」


 慌てて、既に席についていたその客にお冷を持っていく。


 その客は、少なくともルリの知る限り、初めて来た客だった。

 真っ白いカッターシャツと濃い紺のチノパンが骨太な肉体にぴったりフィットしている。その上から黒いコートを羽織っている。どれも安物だと服に詳しくないルリにも分かる。

 歳はルリの少し上、二十代半ばくらいに見える。だが同時に、老人のようでもある。その目のせいだ。死んだ目、そうとしか言い様が無い。もうおそらくは一生自然には消えることがないような濃い隈が目の下に刻まれており、その上にある目には何の光も無く、艶消しをしたような黒い瞳がこちらを向いている。男にしては少し長めの髪にも、白髪が多分に混じっている。


 いつもジャージという格好で色気が足りないと客からからかわれることもあるが、それを差し引いても人に可愛らしいと思われる顔と振る舞いを持っている。ルリはそう自負している。

 だがそのルリを見ても、青年の死んだ目は何一つ興味を示していない。

 こんな目をした客を見たのは初めてではない。このパクサルムの人口は、一割くらいはこんな目をした人間で構成されている。

 体は生きていても、心が死んでしまった人間。

 自分もそうなのだとルリは知っている。いや、心は死にかけているだけで、まだ完全に死んではない。本当に死んでしまう前に、自分は間に合ったのだと安堵している。

 そう、今日だ。いよいよ今日だ。


「こちら、メニューになります」


 メニューを差し出すと、青年は受け取り、目を少し走らせた後、すぐに返してくる。

 その時、青年の指が、太く、爪が猛禽類のようであることに気がつく。ここでは肉体を改造している人間は珍しくないが、それに比べても異様だ。鍛錬によって変形しているように見える。だが、一体どんな鍛錬をすればあんな指になるのか、ルリには想像もつかない。


「ステーキセット」


 青年は、この店で一番の高額メニューを頼む。200ポイントだ。

 もっとも、バンリュー以外のエリアでは200ポイントの食事など大して高級なうちにも入らない。

 この店は、バンリューでは比較的まともな肉を食わせると評判だ。ただ、店長は決して何の肉なのかは説明しないが。


 それにしても200ポイントとは。

よほど稼いでいるのか、とルリは思いながら、レシーバーを青年にかざす。


「うえっ」


 思わず声を出してしまう。青年の所持ポイントは200ちょうどだった。


「お、お客様?」


「足りないことは、ないと思うが」


 死んだ目でこちらを見てくる。


「そうではなくて、その」


 これでステーキセットを頼めば、この青年は無一文になってしまう。それに。


「200ポイント。パクサルムに入国した人間が、最初に支給されるポイント数と同じ。ひょっとして、あなた」


「ああ、今日、入国した」


 それで、いきなりポイントをゼロにする?

 自殺行為だ。


 躊躇しているうちに視線を感じる。後ろを見れば、ずっと喋っているルリに厨房から店長兼コックが訝しげな目を向けている。


「ああ、もう」


 時計を見る。

 ちょうど、今日の勤務時間は終わろうとしている。


「店長、あたし、もうあがります」


 どうせ最後だ。

 妙に太っ腹な気分になって、ルリは最後に気紛れで施しをすることに決めた。

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