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天使の慟哭――特別編『白昼の星』

「男の子ですって」


 定期健診から帰ってきた妻が、俺の顔を見るなり笑顔でそう告げた。

「そうか、もうそんなのが分かる時期なのか」

 もうかなり大きくなった妻のお腹を触りながら言う。耳を当てると、ドクン、と心臓の音が聞こえた気がした。


「元気な子がいいな」

「優しくて明るい子になってほしいわ」


 俺のような仏頂面ではなく、妻のような、笑顔の似合う子が生まれてほしい。そんな子が生まれたなら、わが家には妻と息子、二つの太陽が昇ることだろう。

 太陽のように温かく、いつも明るい。そんな幸せな家庭になれば、と思う。


 それにしても、息子、か。公園でキャッチボールをしたいな。ありきたりではあるが、父親になるなら一度は憧れるものだ。今からグローブを買っておくべきだろうか。さすがに早すぎるかな。


    ***


 陣痛が始まった、と連絡を受け、急いで仕事場を飛び出した。電車を待つ時間が、ひどく長く感じられた。

 俺一人が焦ったところで、早く動き出すわけでもないのに、扉が開ききるより前に、電車に飛び乗る。急行電車を遅く感じた。


「陽子!」

 汗だくで診察室に入ると、同じように汗だくで頑張る妻の姿が見えた。背中を擦ってあげよう、とか、たくさん声をかけてあげよう、とか、あれほど電車の中で考えたのに、妻の姿を見ると、何もできなくなってしまった。


 看護師に言われるまま、ぎこちない動きで妻の元に駆け寄り、手を握る。結局何も言えないまま、赤ん坊が生まれた。元気な産声が、病院に響いた。


    ***


 病室に入ると、妻が赤ん坊を抱いていた。赤ん坊は、妻の腕の中で、小さな手と足を懸命に動かしている。

「あらあら、元気な子ね」

「お前に似て、優しい顔をしているな」

「ふふ、まるで天使だわ」


「明るい子になるかな」

「きっとなるわよ。あなたの子ですもの」


    ***


 病院を退院した妻が、久しぶりに家に帰ってきた。ソファーに腰かけ、赤ん坊をあやしている。

 赤ん坊を見て、ふと閃いた。


「燿……」

「え?」

「この子の名前だ。〈あかがり〉というのはどうだろう。〈燿〉で〈あかがり〉だ。お前が太陽なら、この子は強く、明るく燃える火だ」

「燿……燃え上がって輝く火のひかり……。えぇ、素敵な名前ね」


「元気で、明るくて、どんな困難にも負けずに、炎のように燃え盛る。そんな子に、なるといいな」

 小さな手に触れると、燿は、ぎゅう、とか弱い力で握り返してきた。


    ***


 廊下の突き当たりにある、物置のような薄暗い部屋に足を踏み入れる。昼間でも光の差し込まないこの部屋が、この家で唯一嫌いな場所だ。まぁ、無理を言って作った、俺の部屋なんだが。

 散らかった机の上に、二つのグローブが置いてある。妻には内緒で、買ってきたのだ。いずれ来るであろう未来、息子と二人でキャッチボールをしている姿を思い浮かべた。

 ある晴れた日の朝、お母さんには内緒で、公園へ行こう。なぁ、



「燿」



    *   *



「燿」



 懐かしい声が聞こえた気がした。もう何年も聞いていない、もう二度と聞くことのできない声。

 あの頃から、随分と色んなものが変わってしまった。環境も、自分も。

 今日も、左右にある、髪の色の変わった部分だけを三つ編みにする。赤は血の色。青は悲しみの色。どちらにも、あまりいい思い出は残っていない。それでも切り取ることはできないから、せめてその記憶が溢れ出さないように、あの頃のようなことが、もう二度とないように、きつく縛る。


「燿」


 あの頃とはいくらか違う、それでも、優しさ、いや、信頼を含んだ声が、今は聞こえる。あの頃とはまた違った、ちょっと変わった人たちの声が、今は聞こえる。


「あかがり」

「うるさいなぁ。そんなに呼ばなくても聞こえてるよ」


 寂しくない、と言えば嘘になるけれど、寂しいというのも少し違う。でもまぁ、楽しいよ。




あの空に繋がっているのかどうかすら分からない空を見上げる。今日も雲ひとつない青空だ。

 澄んだ空気を吸い込んで、地面をしっかり踏んで、僕は、歩き出す。


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