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天使の慟哭――後編


 その男が来たのは一度きりだった。次に来たのは、まともに話も聞いてくれそうにない奴らだった。ドラマとかでよく見るでしょう。サングラスをかけて、黒いスーツを着て、「いるのは分かってんだよ!」とか怒鳴って金をせびる人たち。そう、そんなのが家に来た。

 ドンドン、と、昼夜を問わず、玄関のドアを叩かれる。金を返せと怒鳴られる。母親と二人で怯える毎日だった。


 母親は、仕事場でも理解を示してくれたのか、余った弁当やお惣菜なんかを持って帰ってくるときもあった。

 それでも、母親一人の、たかがパートの給料だけでは、二人が生きていくことだけでギリギリだった。借金など、到底返せるはずもない。奴らが来る回数は次第に増えていった。


    *


「お母さん、僕も働くよ」

 自分の容姿には自信があった。実際の年齢より、確実に上に見てもらえる自信があった。それ以上に、大人になるのを待っている場合ではなかった。母親にだけ、働かせるわけにもいかない。それに、少しずつでも借金を返済しなければ。その一心だった。

「……ごめんなさいね」

 母親も察したのか、反対することはなかった。


    **


 商店街の人に無理を言って、働かせてもらうことになった。右側の、赤くなった髪の毛が目立ってしまうから、なるべく裏方で働く。

 朝早くから夕方まで、一生懸命働いた。生活も以前より安定し、少しずつではあるけれど、借金も返していた。

 時間はかかるかもしれないが、いつか完済できる。借金さえ無くなれば、僕らはまたあの頃のように、何事もなく幸せに暮らせるんだ。それだけを考えて、来る日も来る日も働いた。


 異変が起こったのは、僕が働き始めて半年が経った頃だった。


    **


 今日も一日の仕事を終え、家に帰る。

「ただいま、お母さん」

 先に帰っているはずの母親に声をかける。



 たぶん、そのときの僕は、来るのかどうかさえ分からない明るい未来に目が眩んで、目の前にある大事なものが、見えずにいたんだと思う。



 いつもと部屋の様子が違うことに、僕は気付きもしなかった。明かりは点いているのに、夕食のにおいも、母親の姿もない。

「お母さん、帰って来たよ」

 それでもまだ、僕は気付かない。それどころか、電気も点けっぱなしで、どこへ行ったんだろう、とさえ思っていた。

 結局、僕が異変に気付いたのは、台所に足を踏み入れたとき――床に倒れている母親を見つけたときだった。


    **


「お母さん! お母さん、しっかりして!」

 いろんなことが、頭の中をぐるぐる回る。これからの生活のこと、借金のこと、母親のこと、僕のこと。

 救急車に乗ってから、病院に着いて、医者に過労が原因だろう、と言われるまで、時が止まったかのような、静かで、真っ白な時間が過ぎていった。


    **


 母親が過労で倒れてから、僕はようやく気付いた。

 幸せな未来を夢見る前に、僕は現実を見なければいけない。今を生きなければいけない。結局僕は、母親に頼ってばかりだった。商店街で働くだけじゃ駄目だ。母親の分まで、僕が稼がなければ。


「お母さんは休んでていいから。お金なら、僕に任せて」

 母親に心配させまいと、僕は精一杯、笑った。


    **


 仕事を求めて隣街に行った。隣街は、僕の住む街よりも賑やかな街で、色とりどりのビルが立ち並んでいる。

 そんな街の中で、できるだけ金になりそうな仕事を探した。もちろん、年齢を詐称して。手段を選んでいる余裕はなかった。


 見た目は多少大人びていても、実際の年齢が知られることもある。そのときは、頭を下げて、無理やり働かせてもらった。そういうところは給料が少なくなることもあったけれど、文句を言える立場ではない。少しでも金になるならそれでよかった。。


 健全な仕事場から、法に触れるか触れないか、ギリギリのところを綱渡りしているようなところまで、場所を変えて一日中働いた。

 中身のよく分からないものを運んだり、僕たちが今追われているような、借金取りじみたことをしたりもした。


    **


 母親も、また仕事を始めたけれど、疲労の溜まった体では、長く働くことはできなかった。それに、借金取りが街を徘徊していて、あの街で働くことも難しくなってきた。

 母親が病に伏せるのも、時間の問題だった。



    *   *


 隣町で働くようになってから、髪の毛の、左側の一房が青く染まり始めた。

「(次は、青か。何なんだろう、これ)」

 右側の一房が染まったときと同じだった。初めは薄らと青いだけ。でも、日を追うごとに濃くなっていく。試しにまた、青い部分だけ切ってみたけれど、結局、前と同じだった。


    *   *



「燿にばかり無理をさせて、ごめんなさいね」 

 夜遅くに家に帰ると、母親が力なく笑ってそう言った。

「仕方ないよ。僕は大丈夫だから、お母さんはゆっくり休んでて」


「燿がいてくれて、よかった」

 ありがとう。それだけ言うと、ごほごほっ、と咳き込んで静かに寝息をたて始めた。


    **


「お前さ、金が必要なんだろ?」


 ビルとビルの間。冷たいコンクリートの壁に挟まれた場所で、同期の、僕より少し年上の男が、にやにやとしながら話しかけてきた。

「だったら、何」

「これ、やるよ」

 そう言って男が差し出したのは、分厚い封筒だった。

「何、それ」

「金だよ。ざっと、百万ほど」

 目を見開く。男の意図が理解できず、彼の顔をじっと見つめる。

「俺、こんなところで働いてるけど実はさぁ、父親が超大手企業の社長やってるんだよねぇ。毎月の小遣いの多いこと多いこと。で、金がなくて困ってるアンタに、心優しい俺から天の恵みってわけ」

 相変わらず目の前の男はにやにやとしている。分厚い封筒を、僕の目の前へ突き出してくる。

 百万。そんな大金があれば、しばらくは落ち着いて生活できるに違いない。

 突然現れた光に目が眩み、僕は、封筒に手を伸ばした。


    *


 掴もうとした瞬間、目の前から封筒が消え、その代わりに左頬に衝撃が走った。体が地面に叩きつけられる。じわり、と後からやってきた痛みが、僕を襲った。


「誰がやるかよ、薄汚いドブネズミが」

 吐き捨てるようにそう言うと、男は封筒を地面に放り捨て、高笑いをしながらどこかへ行ってしまった。


 彼に騙されたのだと、馬鹿にされたのだと、認識するまでに時間がかかった。

 歯を食いしばり、アスファルトに爪を立て、体を引き摺り、男の捨てた封筒を掴む。中にはただの、白い紙切れが詰まっていた。


 言葉にできない感情を吐き出そうと、月の見えない夜空に向かって、吠えた。


    **


「ただいま」

 ぼろぼろの体を引っ張り、家に帰る。なるべく元気に聞こえるように、明るく、家の中の暗闇に投げかける。


 玄関にあがると、げほげほっ、と激しく咳込む声が聞こえてきた。

「お母さん!」

 慌てて母親のいる寝室に飛び込む。そこには、絶え間なく続く咳に、悶え苦しむ母親の姿があった。

「お母さん! お母さん、しっかりして!」

 母親の背中をさする。しかし、咳は一向に止まる気配がない。

「お母さん、待ってて、今、水を――」


 その時、母親が僕の腕を掴んだ。枕元に引き寄せ、右手で僕の頬を包む。途絶えることのない咳の中、母親は口を動かして――


    *


 僕の左頬から、ぬくもりが消えた。静かに目を閉じた母親の姿は、まるで、眠っているようだった。

「ああ、あ、あああ」

 冷たくなった母親の手を握り、布団に顔を埋めて、唸るように泣いた。


「ありがとう」

 無音の声だけが、僕の耳を温めた。






    **






  今日も朝早くから、夜遅くまで働く。母親がいなくなってから、身を削るように働いた。寝る時間さえ惜しかった。食べ物も喉を通らず、食糧を買うくらいなら、と借金返済のほうにまわした。

 自分のことなどどうでもよかった。金が必要だった。金さえあれば、幸せになれる。そう信じて、金を求めた。


 あの時の父親も、こんな気分だったのだろうか。

 突然家に帰って来て、金をすべて奪って行った父親。ちらりと見えた、彼の悲しい目が、今でも脳裏に焼きついていた。


 父親は、どこへ行ったのだろう。

 人気のないひらけた空間。一面の灰色の中、無理やり植えられた木の下に座りこむ。

 あれから、父親の姿を見ていない。借金取りが僕らのところに来たことを考えると、もしかしたら、母親よりも先に――

「お父さんとお母さん、けんかしてないといいな……」

 自分の肩を抱く。思い出したように、冬の寒さが身にしみた。


    *


「き、きみ、あの、ちょっと、いいかな」


 ぼうっとしていると、急に声をかけられた。声のしたほうを見ると、僕より少し背の高い、小太りした男が立っていた。真冬だと言うのに、半袖の赤いチェックのシャツを着て、額には脂汗を浮か べている。丸い眼鏡に光が反射して、彼の目を見ることはできない。背中には、その巨体に負けないほど大きな、黒いリュックを背負っていた。


「はい、なんでしょう」


 道にでも迷ったのかな、そう思って、余所行きの笑顔で答える。僕の態度が意外だったのか、男が少したじろいだ。彼はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように、口を開いた。

「ちょ、ちょっと、ビデオ、撮らせてもらってもいいかな?」


    **


 思いもよらない言葉に、一瞬理解が遅れる。戸惑う僕を知ってか知らずか、男が続けた。

「いや、君、か、かわいいよね。その、赤と青の、め、メッシュって言うのかな、君によく似合ってるよね」

 抵抗しない僕に気をよくしたのか、男は何やらずっと喋っている。


「それって、お金もらえる?」

 彼の言葉を遮る。


 仕事終わりでちょうど服も汚れている。見ず知らずの男からすれば《お金のない可哀そうな子》に映ることだろう。

「お母さんも死んじゃって……僕、一人で……」


 少し、目を潤ませる。寒さに肩を震わせながら。

 腹の中で、自分を嗤っていた。

――僕、金のためなら本当に何でもできるんだな。

 男はすんなり騙された。僕が何日もかけてようやく手に入れられるほどの金が、ぽん、と手渡された。


    **


 あの日から、仕事の量を減らした。その代わり、夜になると、この人気のない空間で一人、肩を震わせてしゃがむ。それだけで、働いていた頃の何倍もの金が手に入った。



「随分、コツをお掴みになったようで」


 突然僕の目の前に現れたのは、あの日、僕らに父親のつくった借金の存在を教えに来た男だった。相も変わらず、気持ちの悪い笑顔を浮かべている。

「借金のほうも、順調に返済できているようですね」

 僕の返事も聞かず、一人で勝手に喋り続けている。

「どうです? 今なら新しくお貸しすることもできますが」

 そうやって、また借金まみれにするつもりなんだろう。男をきっと睨む。しかし彼はものともせず、まだ喋る。

「それに、お母様にも楽をさせてあげたいでしょう?」

「お母さんは、もういないよ」

 何も知らない男に苛立ち、冷たく言い放つ。

「おや、そうでしたか。一人残されて可哀そうに。母親と一緒に死ねたら、楽だったでしょうにねえ」

 男に掴みかかる。人の死さえも、母親の死さえも、どうとも思わないこの男に殺意が湧いた。


 殴ってやろうと思ったものの、僕にはできなかった。罪悪感があったわけではない。そんな感情、とうの昔に失くしていた。掴みかかったときにびくともしない男を見て、僕にそんな力がないことを知った。

 男の胸ぐらから手を離す。自分の頼りなさが、情けなかった。


    **


 突然降り始めた激しい雨の中、力なくしゃがみ込む。冬の雨は凶器のように降りそそぎ、僕の体温を奪っていった。


 幸せだった頃の記憶が頭に流れ込む。優しい母親と父親の顔。食卓に並ぶ、温かいご飯。二人のいなくなった今、僕の夢は、幸せな生活は、もう二度と、叶わない。

「お父さんとお母さんは、あったかいご飯、食べてるかな……」

 意識が朦朧とする。さすがに、雨宿りしないとまずいかな。立ちあがろうとしたものの、足にも腕にも力が入らない。瞼も、重力に逆らうことなく、閉じていく。

「……僕も、お父さんとお母さんのところ、行けるかな」

 降りしきる雨の中、僕の記憶は、そこで途絶えた。












    ***



「まだ、あなたの命は終わってはいませんよ」


 春の木洩れ日のような、あたたかな光が差し込む。優しい温もりに包まれた少年がそっと目を開くとそこには、一面の花畑が広がっていた。



    ***


「ここ、どこ……?」


 見たこともない景色に驚く。僕はいつの間に、こんなところに来たんだろう。

 何が起こったのか飲み込めず、辺りを見まわす。

 後ろを見ると、時代錯誤の城壁がそびえ立っていた――――


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