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天使の慟哭――中編

 明かりの点いていない部屋には、普段ならまだ仕事中であるはずの父親がいた。見たこともないような険しい顔をして、床を睨みつけている。いつも少年を優しく迎えてくれるはずの母親は、しゃがみこんでソファに顔を伏せ、うな垂れていた。

「お父さん、お母さん、どうしたの?」

 母親は、その声にはっとして少年のほうを見た。

「……燿」

 すがりつくように少年を見つめ、きつく抱きしめる。母親の肩は、微かに震えていた。

「お母さんどうしたの? どこか痛いの?」

 真っ暗な部屋に母親の嗚咽が響いた。何が起こったのか分からない少年は、訳も分からないまま、母親の背中をさする。

 少年の手の中で、花冠は茶色くなっていた。


    *


 どれほどの時間が経ったのだろう。ずっと黙っていた父親が口を開いた。

「燿、お父さんな、長いお休みをもらったんだ。だから、しばらくずっと一緒にいられるぞ」

 先ほどの険しい表情が嘘だったかのように、父親はいつもの優しい顔に戻っていた。

「本当? じゃあ、たくさん遊べるね!」

 少年を抱きしめて泣いていた母親も、いつの間にか顔を上げている。目を赤く泣き腫らしたまま、よかったわね、と弱々しく微笑んだ。

 結局その日、少年が母親の涙の理由を知ることはなかった。


    *


 父親の休みは長く続いた。ときどき出かけて行くこともあったが、一日のほとんどを家で過ごしていた。休みの日も仕事に出て行くことが多かった父親と、毎日を一緒に過ごせるのは、少年としては嬉しいことだった。

 父親とは逆に、母親は出かけることが多くなった。

「お母さんもね、ちょっと働いてみようかなぁって思ったのよ。燿とはあんまり遊べなくなるけど、ごめんなさいね」

 どこへ行っているのか、母親に尋ねるとそんな答えが返って来た。


    *


「じゃあ、公園に遊びに行ってくるね!」

 父親が休みの間、公園に遊びに行く機会も減っていた。しかしこの日は、父親も母親も出かけると言うので、久しぶりに公園に行くことにしたのだ。

 友人と会えることにわくわくしながら、商店街を歩く。

「あっ、八百屋のおばちゃん! こんにちは!」

 商店街では、八百屋の女将が店先に野菜を並べていた。少年は、元気よく挨拶する。

 しかし、返ってきたのは、以前のような温かい笑顔ではなかった。

「なんだい、父親に言われて食べ物でも強請りに来たのかい? あんたにやる食べ物はないよ。さっさと行っちまいな」

 そう言って、八百屋の女将は店の奥に消えて行った。


 八百屋の女将だけではない。商店街を通る間、少年は冷たい視線に晒され続けた。中には少年を見ながらひそひそと話す人もいる。

 何が起こっているのか理解できないまま公園に着いた。自分は何か悪い夢を見ているのかもしれない。友人に会えば、またいつものように――。そう思って公園に足を踏み入れた少年を待っていたのは、またもや冷たい視線だった。

 友人も、わが子を見守っていた保護者も、少年をぎらぎらとした目で少年を見る。刺すような視線に、少年はたじろいだ。

「みんな、どうしたの……?」

 恐る恐る尋ねると、何人かが顔を見合わせ、そのうちの一人が重々しく口を開いた。

「お前の父ちゃん、リストラされたんだってな。」

 ぎらりと光る目が、少年を静かに捉えた。


    *


「うちの子に話しかけないでちょうだい!」

 罵声と共に肩を、どん、と押される。衝撃によろめき、尻餅をつく。見上げると、恐ろしい顔をした誰かの母親らしき女性が、少年を睨みつけていた。突然の出来事に、何か言うこともできず、口をぱくぱくとさせる。そんなことにはお構いなく、彼女を含めた保護者たちと子どもたちは、少年を放ってどこかへ行ってしまった。


「うう、ふ、ううう……」

 少年の頬を、大粒の涙が伝う。転んだ痛みよりも、訳も分からず冷たくされたことが悲しかった。立ちあがり、溢れる涙もそのままに来た道を引き返す。人にぶつかりながら、商店街をただひたすらに駆け抜けた。


    *


「燿、どうしたの!」

 家に帰るやいなや、母親に飛びついた。母親も、泣きじゃくる息子を見て、何かあったのかと気が気でない。

「お母さん、りすとらってなぁに?」

 少し落ち着いてから放たれた少年の言葉に、母親は目を見開いた。

「八百屋のおばちゃんが、お父さんに言われて食べ物でも強請りに来たのかって言うんだ。商店街の人たちも、公園にいた子たちも、その子たちのお母さんも、みんな僕を睨むんだ。それで友だちが、お前のお父さんはリストラされたんだ、って。それで、その子のお母さんに『話しかけないで!』って……。ねぇ、お母さん、お父さんは悪いことをしたの? リストラってなぁに? 悪いことなの? お父さんは、長いお休みをもらったんじゃないの?」

 一度は止まっていた涙がまた、少年の瞳からぽろぽろと溢れだす。

「ごめんなさいね、燿……。ごめんなさい……」


 この小さな体で受け止めた、冷たい視線はどれほどつらかったろう。身に覚えのない罪で突き放されることは、どれほど悲しかったろう。理由も知らぬまま涙を流し続けるわが子が哀れで、母親もまた、少年を抱きしめて、泣いた。


    **


 深夜、聞きなれない怒号で目を覚ました。

 廊下のほうが薄らと明るい。父親も母親も、まだ起きているらしく、リビングのほうから声が聞こえてきた。

「お父さん、帰って来たんだ……よかったぁ」


 いつも夕方には戻ってくるはずの父親が、今日は夜になっても帰って来なかった。何度か電話をかけてみるものの、連絡がつかない。帰って来るまで母親と二人で待っていたのだが、九時をまわったところで睡魔に負けて眠ってしまったのだった。


 寝ぼけた頭で父親の帰還に安堵する。しかし、その安心も、束の間の出来事であった。

「あなたは、今の状況をちゃんと分かっているのっ!」

 今まで聞いたこともないような、母親の怒鳴り声が廊下の向こうから聞こえた。その声に驚いて、閉じかけていた瞳がぱちりと開く。

 もぞもぞとベッドを抜け出し、寝室のドアを開けた。


    *


「お父さん? お母さん?」

 少年がリビングに向かう間もずっと、父親と母親の言い争いは続いていた。そっとドアを開く。二人がけんかをしているのを見るのは、これが初めてのことだった。

「……っ、燿」

 彼が来るとは思っていなかったのだろう。少年の声を聞いた母親は、居心地悪そうに彼を見た。父親は、不機嫌そうに少年から目を反らし、足を揺らしている。酒が入っているのか、ほんのりと顔が赤かった。


「起きちゃったのね、燿。ごめんなさい。……ほら、お父さん、ちゃんと帰って来たから、今日はもう寝なさい」


 母親に促されたものの、少年は、父親をじっと見つめたまま動かない。その視線に耐えきれなくなったのか、

「……どうした」

父親が半ば睨むように少年のほうを見る。リビングに重々しい空気が流れた。母親が、もう一度「もう寝なさい」と言おうとしたとき、少年が笑った。

「おかえりなさい。 お父さん、お母さん、あんまりけんかしちゃダメだよ。 おやすみなさい!」

 ぱたぱたと、廊下を走る少年の足音が遠ざかっていく。止まっていた父親の足が、また揺れはじめた。


    **


 ガシャン、という硝子の割れる音で目を覚ます。今となっては、かつての明るい家庭など、見る影もなかった。父親と母親の間に生まれた亀裂は、見る間に深くなっていく。毎日のように怒号が飛び交い、優しかった二人の表情は、今では険しいものとなっていた。

 少年はと言えば、そんな二人に心を痛め、毎晩一人で枕を濡らす日々が続いた。何度か二人の間に入り、宥めようとしたこともあったが、落ち着くのは一時的なもので、またすぐに言い争いを始めてしまうのだった。


 大きく変わったのは父親のほうだった。あの日以来、毎日のように酒に溺れ、夜遅くに帰ってくる。廊下の突き当たりにある薄暗い部屋に籠り、夜になればまた家から出て行った。昼間でも不気味に薄暗い廊下の奥からは、ごおおう、ごおおう、と、いびきが低く響いていた。

 父親に代わって働くようになった母親は、日に日にやつれて行った。少年には、変わらず優しく接しているものの、その笑顔には疲労が滲み出ている。仕事場でも冷遇されているのだろう、ということは、容易に想像することができた。


 寝ぼけ眼を擦りながら、リビングに向かう。何故だか胸騒ぎがした。ガラスの割れた音がしてから、物音ひとつしない。

 今まで言い争いは何度も繰り返されてきたが、物が壊れる音を聞くのは初めてのことだった。「大丈夫、大丈夫……」と何度も自分に言い聞かせ、急ぎ足でリビングに向かう。心臓の音が、やけにうるさかった。


    *


 リビングに足を踏み入れる。

父親が、背中を向けて目の前に立っていた。暗い部屋に屹立する彼の背中は、いやに黒く、大きく見えた。

「おとうさん……?」

 ゆっくりと、歩を進める。母親の姿が見えないのが、不安だった。「お父さん、お母さんは?」そう尋ねようとしたとき、父親の前で倒れる、母親の姿を見つけた。

「お母さんっ!」

 慌てて母親の元へ駆け寄る。近くには、硝子のコップが砕けていた。ちらりと、父親を見る。その顔は、怒りと焦燥の混ざった、曖昧な感情で満ちていた。その、えも言われぬ父親の表情に、何も言えなくなってしまう。父親は、母親を睨みつけ、何も言わずに出て行ってしまった。

「お母さん。お母さん、大丈夫?」

 母親を揺すり起こすときに、少年の指に食い込んだ硝子の欠片が、血を吸って、赤く輝いた。


    **


 しばらく父親は帰って来なかった。母親も、父親のことには口を閉ざし、連絡をとろうともしなかった。彼女の左頬の痣だけが、あの日のことを、悲しく物語っていた。

 父親がいない日々は、寂しくもあり、楽しくもあった。少しだけ形は変わってしまったが、何事もなく、平和に過ぎる日々は、間違いなく幸せであった。


   *   *


「あれ、なんだろう、これ」

 鏡に映る自分の姿を見て、首を傾げる。少年の白い髪が、右側の一房だけ、薄らと赤くなっていた。 目を凝らさなければ、見逃してしまいそうになるほど薄い色ではあったが、いやに少年の目についた。


     *


 変色した髪の一房は、日を追うごとに濃くなっていく。よく見てみると、根元は他と同じように白く、途中から、血にでも染まったかのように赤いのだった。

 一度だけ、赤い部分だけを切り落としたことがあった。しかし時が経つと、切った部分から赤い髪がまた、同じように現れるのだった。


   *   *


 ほとぼりが冷めたのか、一家が邪険に扱われることも少なくなった。仕事のほうでも同じなのか、母親にも優しい笑顔が戻り始めた。商店街の人々も、友人らも、少しずつ、少年に笑顔を向けてくれるようになった。以前よりも、食卓に並ぶ料理は、少しばかり侘しくなったが、少年にとっては些細なことだった。

 相変わらず帰って来ない父親が気がかりではあるものの、またあの頃のような、明るい生活が送れるのだと、そう思っていた。


    **


 玄関のドアが乱暴に開けられる音がした。昼食の準備をしていた少年と母親は顔を見合わせる。


 あれから、長い年月が経っていた。豊かな生活は送れないままであったが、それでも二人は幸せだった。

 少しだけ背の伸びた少年は、年齢のわりに大人びて見える。彼の髪はやはり、一房だけ赤く染まっていた。


 平和な日常を裂くように現れた侵入者に、体を強張らせる。足音が、ゆっくりとリビングに近付いてくる。少年は、母親をかばうように立ち、ドアを睨みつけた。


    *


 現れたのは、父親であった。頬はこけ、髪の毛はぼさぼさになり、服も薄汚れていたが、紛れもなく彼だった。

「お父さん!」

 少年は、久しぶりの再会を喜び、父親に駆け寄る。しかし、彼は近付いてきた少年を突き飛ばした。

 一目散にチェストに駆け寄り、何かを探し始める。

「お父さん?」

「あなた、何をしているの?」

 父親の不審な行動を、固唾を呑んで見守る。すべての引き出しを開け彼が取り出したのは、通帳と印鑑であった。

「あなた、それをどうするつもりなの!」

 母親が慌てて取り返そうと、父親に走り寄る。

「返して!」

 母親が、彼の腕にしがみつくものの、彼は通帳を強く握りしめ、びくともしない。

「うるさい! 金がないんだ! 金をよこせ!」

 そう言って母親を殴り飛ばした。母親は短く悲鳴をあげ、床に倒れる。

「お父さん、やめて!」

 少年もまた、父親から通帳を取り返そうと、彼の元へ走り寄る。しかし、ぼさぼさ頭の隙間から覗く、彼の悲しい目を見てしまっては、何もできなくなってしまった。

 そのまま、父親の腕に払い退けられる。


 打ちどころが悪かったのか、少年の意識が遠のく。父親の立ち去り際に聞こえた、ごめんな、という声が、少年の耳にこびりついた。


    **


 トントン、と、玄関のドアをノックする音で目を覚ます。打ちつけた頭がまだ痛んだ。母親を見ると、床に伏せ、すすり泣いている。

 トントン。またノックする音が聞こえた。チャイムがあるんだし鳴らせばいいのに。そう思いながら玄関に向かう。


 玄関の扉を開けると、スーツを着た、銀行員のような男が立っていた。張りつけられた胡散臭い笑顔に、嫌な予感がする。

「なにかご用ですか?」

「光司さまのお宅でしょうか」

 父親の名前だった。そうですが、と答えると、男は鞄から一枚の紙を取り出した。文字だらけの紙切れの中で、下部に書かれた数字だけが、妙に気になった。

「……これは?」

 少年の背中を冷たい汗が流れる。眩暈がする。男の笑顔が歪んで見える。

「光司さまのおつくりになった借金です」

 頭の痛みがひどくなった気がした。血の気がひいていく。目の前が歪む。

「返済期限は昨日だったのですが、光司さまから連絡もご入金もなかったので、こうして直接お宅に伺いました。光司さまはいらっしゃいますか?」

「父は、今、出て行きました……通帳を持って行ったから、帰ってくるかどうか……」

 こめかみを押さえながら言うと、男はニタリと笑って、そうですか、と答えた。

「あなたのお父さまの借金ですから、今はあなたから金をせびるようなことはしません。ですが……」

 気分が悪かった。一刻も早く横になりたかった。

 目の前の男が続ける。

「ですが、お父さまの行方が分からなくなった場合は、それなりに覚悟しておいてくださいね」


 それだけ言うと、気味の悪い笑顔を残して、男は去っていった。

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