[六]マイナークラブの希少な見学者が、入部希望とは限らない(後編)
帰宅部の能登さんが、僕のクラブ活動終了を待つ理由。
それこそが『個人レッスン』だったらしい。僕に稽古をつけて欲しいんだそうな。
そりゃ僕だって基礎技術を教えることも、やぶさかではない。合気道のいろはを他者に伝える経験と知識、技能を兼ね備えた自負くらいある。
伊達に小学生の時分から鍛え続けていないのだ。
しかれども解せない。依頼内容が奇妙すぎる。
能登さんは何との戦いを想定しているのか。
彼女の語る『大柄な男性』とは何者だ。
様々な疑義が錯綜し、要望を承諾するか否か、即断即決できずにいた。
しかし能登さんは現在、別室で道着にドレスチェンジの真っ最中。
なぜかというと、主将が鶴の一声を発したのだ。
「念願の女子部員を獲得する千載一遇の好機だ。部のため、部員の士気向上のためにも、固辞するなど論外だぞ」
主戦力といえど、僕も一部員にすぎない。加えて我が部はバリバリの体育会系だ。
つまりキャプテンの命令は絶対!
それに能登さんに『手取り足取り』というのも願ったりかなったり──ごほんごほん。いたいけな美少女のささやかな願いに耳を貸すのも、武道家の務めだから。
「これで、いいかな」
能登さんが道場の入口に現れた。予備の白帯道着姿だ。
運動を念頭に置いたからか、髪型がツーサイドアップからポニーテールになっている。
「なんかエロス……」
部員の誰かが、魂のシャウトを抑えきれなかったらしい。
どうしてそうなったのか不明だけど、能登さんの道着の足元、黒タイツがお目見えしている。着替えの際、脱がなかった模様だ。
彼女のトレードマークなのかもしれんが、神聖な戦闘服としてはいただけない。
僕だってエースの端くれ。それに恥じない振る舞い、綱紀粛正しなくては。
「能登さん、道着の下にタイツはもってのほ──むがっ」
セリフの半ばで、背後から口をふさがれた。後方へ目をやると、部員が首を左右に振りつつ、涙まで浮かべてる。
泣くほど『道着 + 黒タイツ』のコーディネートを堪能したいのか。
ふっ。僕も同志の夢をむざむざ粉砕するほど、無粋ではない。
部員の総意ならば、黙認しようじゃないか。
断じて『黒タイツ☆グッジョブ党』にくみしたわけじゃないから。
能登さんが僕をいぶかしそうに見つめてくる。
「なんでもない。部員同士で阿吽の呼吸を確かめていたところさ。ひとまずウォーミングアップして体をほぐそうか」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
ひとしきり柔軟体操を終え、僕は能登さんと二人一組になった。
「能登さんの本意、わけ分かってないんだけど、とりあえず『護身術を学びたい』ということでいいのかな」
能登さん(道着バージョン)はこくりと首を振る。
「君はビギナーだし、しょっぱなから派手な立ち回りを期待しないでね。まずは敵を動転させて、逃げたり助けを呼ぶ、時間稼ぎのすべから取りかかろう」
僕の言に、能登さんはちょっぴり不服そうな顔つきになった。
ひょっとすると、ばったばったとなぎ倒す必殺技を予想していたのかも。
「元来入門者は基本となる型の習得から始めるんだよ。そいつを割愛して技の会得に入るだけでも破格の待遇なんだ。合気道に裏技はない。千里の道も一歩からさ」
「それくらい分かってるし」
言葉とは裏腹に、若干唇をとがらせている。
能登さんらしからぬ、子供っぽい仕草だ。ほほ笑ましい。
当たり前ではあるけれど、〈クールドール〉じゃない一面もあるのだろう。
「んじゃ、取っかかりとして模擬練習でもやろうか。こういう場合は、こんな対処法ってのを反復する。学生である僕らにうってつけの方程式、マニュアルみたいなものだね」
「はい、師匠」
師匠とな?
不覚にも胸躍ってしまった。うむ、悪くない。
「百聞は一見にしかず。僕が模範演技するから体得してね」
僕は能登さんに背を向ける。
「能登さんは利き腕で僕の肩をつかんで、力いっぱい引っ張る。右と左、いずれの肩でも構わないから。よーい、スタート」
僕の合図で能登さんは動いた。左手で僕の左肩をつかむ。
彼女、サウスポーらしい。
僕は彼女の前腕を左手でホールドして、引かれた力に逆らわずにひざを曲げる。脇の下をくぐり抜ける要領で屈伸して、能登さんの背後に回った。
仕上げに手首をねじる。
「最初はここまで。次の段階は、腕をきめたまま相手のひざ裏を蹴って、地面に転ばせる。そして大声で救援を呼ぶまでが一連の動作。ドゥー・ユー・アンダースタン?」
「ちっとも痛くないけど」
「見損なわないでくれるかな。たとえ演習であっても、僕は女の子を痛めつけたりしない。相応の理由なく女子に手を上げるなんて、男の風上にも置けないし」
「キザね」
ぼそっと能登さんがささやいた。
その実、報復が怖かったりするからなんだけど。我が姉と妹の例もあるし、真っ向から女性を敵に回したくはない。
僕は能登さんの拘留を解く。
「さしあたって僕が痴漢役になるから、能登さんは撃退の方法を実践して」
彼女は役になりきるつもりなのか、
「師匠は痴漢。師匠は痴漢。師匠は痴漢。師匠は痴漢。師匠は痴漢」
と連呼しだした。
「ストップストップ! 僕、真性の犯罪者みたいじゃん」
古今東西、これほどまでに尊敬できない『師匠』がいただろうか(反語)。
「あくまで『ふり』だからね。僕は夜道でか弱い女性に乱暴なんてしそうにないでしょ」
能登さんは首をひねったあと、合点という具合に手を打つ。
「天城くんは痴漢予備軍。天城くんは痴漢予備軍。天城くんは痴漢予備軍」
「いっそうリアリティが増した!?」
僕は半べそかいて打ちひしがれる。
僕の崩れ落ちる様を視認し、能登さんは頬の筋肉を緩めた。
笑顔、だろうか。
僕がにらんだ通り、サディスティックな女の子なのかも。
けどネバーギブアップ。僕はへこたれないぞ。
「あ、遊んでいる暇はないよ。僕はスパルタ教官だからね」
虚勢なのは誰の目にも明らかだけど、自身を鼓舞した。
僕は能登さんの後ろに立ち、
「準備はいい?」
能登さんはうなずいた。
にしてもポニーテールのおかげで、あらわになったうなじから『色香』みたいなものが漂ってくる。芝居じゃなくてもリビドーが刺激されて──
って、いかんいかん。
僕はお師匠様だぞ。弟子に興奮してたら、示しがつかない。
僕は彼女の左肩に手を載せる。利き腕のほうがやりやすかろう、という配慮だ。
「ふんすっ」
ただ動揺を制御しきれなかったらしい。思いのほか力をこめ、手を引いてしまった。
「あんっ」
能登さんが嬌声を発する。
あえぎ声だけでも破壊力抜群だったものの、それを凌駕する大物が潜んでいた。
能登さんの上着がはだけている。
「エキセントリック!!」
通常合気道の女子選手は道着の下にTシャツなどをまとう。僕は先入観で、そうであるものと思いこんでいた。
よって能登さんの開いた前身ごろから見え隠れする物に、我が目を疑ったのだ。
漆黒のブラジャー。
雪のような美白の肌に映えている。黒タイツとのコントラストを考慮したのかも。
……って、ちが~う。品評してる場合じゃないだろ、天城巡。
問題はタイツとブラの調和じゃない。
能登さんが道着の下に〝インナーを身につけていない〟ことだ。
直でランジェリーとは──能登ひまわり、恐ろしい子。
「エキセントリックというのが、この技の名前かしら」
「いい、いや、技名じゃないんだ。忘れてくれるとありがたい」
よもや中学の妹のマイブーム、とは口が裂けても言えない。
にしても僕まで使う羽目になろうとは。口癖の伝染力、侮りがたし。
「天城くんがそう言うのなら」
「実直は強くなるための第一歩だよ。大変結構。そして早速だけど師匠権限で指図します。下着の上に、僕の着替え用Tシャツを着こむこと。あとタイツも脱いで!」
前途多難だ。
能登さんには技を伝授する前に、乙女としての恥じらいを学ばせないといけないのかもしれない。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
夜のとばりが下りた街並み。空には星が瞬いている。
部活後、僕は袴から制服に着替え、能登さんと帰宅していた。
とはいえ、ロマンス的イベントじゃない。
味も素っ気もない〝警備〟だ。
顧問いわく、「夜道は危険だらけ。師匠は家まで護衛するもの」らしい。
我が家に帰るまでが遠足、ってノリでもなかろうに。
しかも「クラブ内恋愛はご法度」と口酸っぱく言われた。
知らんがな。筋違い極まりない。
だって能登さん、まだ入部してないもの。
そして悲しいかな、二人きりなのに彼女から恋愛フラグに近い気配を全く感じない。
僕たちはただひたすら同じペースで歩いている。距離もつかず離れずだ。
僕と能登さんの間に、男子二名分の空白が存在する。
それが僕と彼女の隔たりなのだろう。
でもこの溝は未来永劫ではない。努力次第で埋められるはずだ。
「能登さん、体育館裏で持ち越しになってた案件あったじゃん。その後音沙汰ないけど、どうなったのかな」
僕にしては、まずまずの臨機応変さだ。
能登ひまわりが天城巡にどんな印象を抱いているか。
二人ぼっちの今なら、話しやすいはず。
「いまだ結論出てないの。気長に待って欲しい」
蛇の生殺し、リターンズ。お預けを食らった飼い犬の心境だ。
僕は能登さんの手のひらの上で踊らされている。
「もちろんだよ。もう催促しないから、のんびり検討して」
能登さんはうなずいた。以降、またしても黙りこくる。
重厚な沈黙。居心地悪いったらありゃしない。
何か気まずい空気を打破できる共通点はないのか。
能登さんといえば読書だけど、僕は彼女ほど本の虫じゃない。そもそも能登さんの嗜好が分からないのだ。
というか僕、彼女のこと何も知らないに等しい。
分かるのは精巧なお人形さんみたいに美麗で、口数が少ないってことぐらいだ。
外見的特徴ばかりで、内面については未知の領域。
同様に、能登さんも僕について無知なんだろうけど。
「天城くん、どうして〈B〉と呼ばれているの」
能登さんが突発的な質問をぶつけてきた。
「あ、ああ。うーんと」
僕は口ごもった。大々的に宣伝したい事柄ではない。
ただし聞き流すと、せっかく能登さんが話題提供してくれたのが、水の泡になる。
「バラエティに富んだ語句の総称だよ。ブラザーにバリケード、バグ、バカってね」
『Brother』は説明いらずの「弟」、『Barricade』は「〈天城越え〉の障害」、極めつけの『Bug』は「あや姉につきまとう悪い虫」という暗示だ。
ことごとく姉を基準に構築されている。
ほかにも『Bad』とか『B級』なんてのもあるけど。
「頭文字の『B』にあやかって、か。でも『バカ』だけ日本語」
「つけたやつの知能指数も、推して知るべしだったんでしょ」
ふぅん、と能登さんは下あごに指を添えた。
「どうせなら『愚者』のフーリッシュで、〈FBI〉にしたほうが語呂いいかも」
「〈FBI〉か。【Foolish Brother】……『I』は何になるの?」
能登さんが首を傾ける。
「イケメン?」
「そうそう。ラーメンつけ麺、僕──じゃなくて。疑問形にすんの、やめてくれないかな。リッピサービスが露骨だから」
「ふふ」
僕は星空を仰いでいて、歴史的瞬間を見逃してしまった。
「今、笑った?」
能登さんはわざとらしくせき払いする。
「いいえ」
「いや、だって確実に」
「あたしは天城くんの言動で、一度たりと笑ったことない」
「それはそれでショッキングなんだけど」
ったく、なんてお嬢さんだ。
気位が高くて、とっつきにくいのかと思ってたのに。
もっとも、こんな感じのほうが、僕も自然体でいられるけど。
「ところであたしも天城くんのこと、〈B〉って呼ぶべき?」
「そいつは勘弁願いたいね。いっそのこと、『巡』とかでもいいよ」
「何ざれごと言ってるの」と興ざめ前提の進言だった。
姉のネームバリューの埒外にいる能登さんに〈B〉と呼ばれるくらいなら、『うじ虫』のほうがマシ……だろうか。
五十歩百歩。低俗な究極の選択だな。
「分かった。巡、ね」
すんなり受け入れちゃったよ、彼女。やっぱフリーダムな人だ。
だったら等価交換で僕も「ひまわり」に改めていい──はずないよな。無念。
「ところで巡にとって目の上のこぶである副会長さん、お元気?」
「『目障り』なんて、めっそうもない。僕にはもったいない姉上だよ」
「そこまで卑屈になることないのに」
能登さんがへいげいしてきた。
「僕の家庭事情、一筋縄ではいかなくてさ。で、問い合わせが『姉は元気か』だったっけ。うーむ、『イエス』とは言いがたいな」
二年二組で姉と能登さんがバトって以来、あやめ姉さんは精彩を欠いている。
加えて目下のところ、僕は姉と疎遠になっていた。
妹と二人で登校しちゃううえ、食事のタイミングもずらされている。家や学校の廊下ですれ違っても、そそくさといなくなっちゃうし。
姉が号泣したとき、声高らかに『無罪放免』を訴えたけど、やはり僕が何かしでかしたのだろうか。いまいちピンとこないが。
あの一件での不幸中の幸いは、僕があや姉を泣かせた張本人に祭り上げられることで、副会長へ傍若無人な態度をとった能登さんが反感を買わなかったこと。
能登さんまで、姉の名声の呪縛にとらわれるいわれはない。
「お姉さんが意気消沈したの、あたしのせい?」
能登さんが気遣わしげに言った。
罪の意識が、しこりみたいに残っているのかもしれない。
「拡大解釈だって。うちの姉は、そんなにやわじゃない。弟として僕がなんとかするよ。だから能登さんは気に病まなくていい」
なおも能登さんは消化不良っぽかったけど、深く追及してこなかった。
実際問題、姉のご機嫌取りは僕に課せられた大役なのだ。