[五]マイナークラブの希少な見学者が、入部希望とは限らない(前編)
気が緩んだと自覚した瞬間、僕は宙を舞っていた。
板張りの壁と天井で視界が埋め尽くされ、世界が逆さまになったかと思った途端、畳目が急速接近する。
条件反射で僕は受け身を取った。畳に背中を打ちつける。
「くはっ」
「たるんどるぞ、天城。生半可な覚悟でフルコンタクトの大会に勝ち残れると思うな」
角刈りで強面な男性体育教師、合気道部の松村顧問があおむけの僕の腕をつかんだまま、見下ろしてくる。
僕は乱取り稽古の最中、ぶん投げられたのだ。
「申し訳ありません、松村先生。考えごとしてました」
「けしからん。俺が『いい』と言うまで、道場の隅っこで正座していろ。そんな体たらくでは、ケガにつながりかねん」
はい、と答えて僕は起き上がり、袴の乱れを直して壁際まで進んだ。ひざを折り、背筋を伸ばして正座する。
こんな『見せしめ』食らうのは、いつぶりだろう。
いや、それほど昔でもないか。能登さんと体育館の裏で対面した日だって、僕は嫌ってほど時代錯誤の鬼コーチからなじられたもの。
前回と今回、くしくも『能登さん絡み』が類似点だったりする。
彼女が姉へ言い放った一言が、頭から離れなかった。
『興味があるのは弟の天城くん』
くどいようだけど、萌黄高校の大抵の生徒は僕を『天城あやめの弟』と認識する。僕は姉のおまけであり、同時にやっかみの対象でしかない。
言うなれば僕の存在意義はあやめ姉さんありき、なのだ。
姉というフィルターを通さねば、陽炎のごとくうつろな人間。
であるにもかかわらず能登さんは断言した。
姉がどうとか関係なく、天城巡に関心があるのだ、と。
それが僕には新鮮であるとともに、天にも昇る心地だった。
僕を独立した一個人として認めてくれる。こんなにうれしいことはない。
ゆえに僕は、能登さんを目で追うようになっている。
──ほかの生徒が歯牙にもかけぬ僕へ、なぜ彼女は好奇心を示すのか。
──放課後二人きりで会ったとき、本当は何を伝えたかったのか。
その辺を思案するとラビリンスに迷いこみ、堂々巡りになって答えが出ない。ヒントを得ようと、また能登さんに着目する。
この無限ループだ。
有り体に言って、惹きつけられているのだろう。僕は能登さんに翻弄されている。
いかんな。心頭滅却しないと。
先生の苦言通り大会が近い。コンディションを万全にすべきなのに、女の子にかまけて精神を乱すなど、本末転倒──
「天城先輩」
傍らから、僕の思索を妨げる声が降ってきた。
見上げると、後輩でボウズ頭の一年男子が立っている。
「どうした。トイレなら僕に断らず、行ってきていいぞ」
僕は風格ある先輩部員の体で、厳かに言った。
何を隠そう、僕はこの部のエースだ。中学でも演武の全国大会に出場経験があり、次期部長の呼び声高い(後輩たちが社交辞令を織り交ぜておだてる)有望株。
合気道部は萌高の中でも数少ない、僕の居場所なのだ!
……自画自賛するはずが、やんわり心に傷を負った気もする。
「先輩に言われなくとも、用を足してきました」
ボウズ頭の後輩はけんもほろろに答えた。
エースの威光、形なしだ。
「だったらなんだよ」
僕の返事がやっつけ仕事気味なのは致し方ないと思う。
「ですから便所からの帰り道、見かけたんです。面識ない女子生徒を」
「トイレの花子さんか? だったら僕じゃなくオカルト趣味のやつに」
「なわけないでしょう。絶世の美少女っすよ」
僕は肩をそびやかせる。
「大げさだな。クレオパトラや小野小町が、転生したわけでもあるまいに」
憤慨という面持ちで、ボウズの後輩が反ばくする。
「先輩の受け売りっすよ。こないだ、得意げに語ってたじゃないですか。『うちのクラスに絶世の美女がいるんだぜ』って」
「僕が?」しばし黙考して、思い至った。「おまえが会ったのって、能登ひまわりか? 彼女、どこにいたんだ!」
「つば飛ばさないでくださいよ。名前なんて知りません。あともう一個誤りっす。その女、『いた』んじゃなくて『いる』んだから」
僕はこんにゃく問答を解こうと、知恵を絞った。
しかしギブアップ。分からないもんは、いくら時間を費やしても不毛だ。
「その娘とどこで会ったの、おまえ」
するとボウズ男子が道場の裏口方面を指さす。
「通路の窓から姿が見えたので、声かけたんすよ。『見学希望ですか?』って。そしたら彼女、『部活が終わるの、待ってる』とだけ答えて」
いかにも能登さん特有の省エネかつ、ミステリアスな受け答えだ。
「続けて『誰かに用事っすか』と尋ねました。数秒のタイムラグがあって『天城くん』と答えて、あとはだんまりっす」
「後輩よ、復唱するぞ。寡黙な美少女は『僕を待ってる』と言ったんだな。そして彼女は〝まだ道場のそばにいる〟」
ボウスの後輩は首肯した。
直ちに僕は禁を破って立ちあがる。そして壁伝いに歩行し始めた。
「おい、天城。俺は謹慎を解いた覚え、ないぞ」
すかさずティーチャー松村が釘を刺してきた。
でも僕は一顧だにしない。裏口までたどり着き、扉を勢いよく開ける。
確かに、いた。
道場の屋根の下、夕陽がささない日陰で一心不乱に本を読む美少女。
「能登さん、こんな所で何してんのさ」
彼女にとって予想だにしない出来事だったのだろう。なで肩をびくりと震わせる。
「……読書」
「見れば分かるよ。部の後輩から聞いたんだ。僕に用があるんだろ」
能登さんが遠慮がちに首を縦に振る。
「でも今度はクラブ活動、邪魔しないから。練習終わるまで待つ」
僕は嘆息を禁じ得なかった。
稽古終了まで、あと何時間あると思ってるんだ。
ここは半分物置みたいな区域で、待機するのに適した環境じゃない。
日が暮れれば本も読めなくなるだろう。虫だって寄ってくるかもしれない。最悪、夜気と冷風のコラボで風邪をひくことだってありうる。
僕は女子を野ざらしにしたまま鍛錬に打ちこめるほど、無慈悲じゃないっての。
僕は振り向きざま、
「松村先生、我が部の見学者一名、道場にお連れしてよろしいでしょうか」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
部員一同、浮き足立っていた。
それもそのはず。
我が合気道部は百%男社会なのだ。女子部員はおろか、女マネさえいない。
「我らは女人禁制の硬派集団」などと、うそぶくつもりもない。女の子が来てくれるなら、三六五日ウェルカムの布陣を敷いている。
萌高では合気道が、超マイナー種目なのだ。型をなぞる演武のほか、実戦形式の訓練も積めるものの、いかんせん認知度が低い。
部員も総勢九名のみ。
待望の新入部員候補──加えて相手が美少女とくれば、皆の気が散ったとしても、誰も責められない。
現に鬼の顧問、松村先生でさえ能登さんの見学に難色を示す体を装いつつ、歓迎ムード丸見えだった。
『時期外れだが可能なら貴重な部員に。それがかなわずとも女子マネージャーに』という思惑が、手に取るように読める。
能登さんは端っこにちょこんと座り、僕たちの練習風景を眺めていた。
さすがに読書はしていない。自重したのか、はたまた僕らの稽古に感銘を受けたのか、判然としないけれど。
ただ難点がある。観察する体勢だ。
能登さんは無防備にも体育座りで見学している。もちろん彼女は制服なので、プリーツスカートを着用したままだ。
迂遠な言い回しだったろうか。
要するにひざが上がってるので、あけっぴろげになりかけているのだ。
股間が。
よって総員(僕を除く)、能登さんの脚線が描く甘美なトライアングルを、さりげなくチラ見している。しかし絶妙なあんばいで、〝お宝〟はのぞけない。
能登さんは無意識だろうけど、狙ってやっているのだとしたら、とんだ策士だ。うちの妹ならば、この程度の男心の扇動は平然とやってのけるけど。
僕の組手のパートナーがボウズの後輩だった。彼もご多分に漏れず、能登さんの下半身に興味津々。
どうしてかイラッときた。
「うつつを抜かしてんじゃねえ!」と、かんしゃくを起こしそうな自分がいる。
能登さんは僕の身内でも、ましてや恋人でもない。独占欲を抱くなど愚の骨頂だ。
されど気に食わない。
たとえ「矛盾」と論破されようとも知ったことか。
そのときよそ見するボウズの後輩が、不用意に腕を伸ばしてきた。
僕は瞬時の隙も見逃さない。彼の手首を取り、力の方向を斜め下へ誘導する。
それで充分投げ飛ばせたものの、ついでに足元をすくってやった。不埒な性根にお灸を据えるために。
ボウズの後輩が空中で半回転する。
我が身に降りかかったハプニングをさばききれず、思考停止に陥ったのだろう。受け身もままならず、背中から畳にダイブする。
「かはっ」
衝撃で肺の空気が強制排出されたらしい。一瞬の呼吸困難。
せきこんでから、彼は恨みがましく僕を仰ぎ見てくる。
「ぐ、げほっ。手加減してくださいよ。新人相手に容赦ないなぁ」
「甘ったれたことをぬかすな。手心を加えたら、練習になんないだろ。あと注意力散漫なおまえが悪い」
ぐうの音も出ないのか、後輩がふてくされる。
「だって彼女、さっきからこっちばっか見てるんすよ。『いいカッコしたい』と張り切るのが男のサガじゃないっすか」
おまえじゃなく僕を見てたんだよっ、と反論するのをすんでのところでこらえた。
そんなことすれば、このおめでたい後輩と同じ穴のムジナに成り果ててしまう。
『目を合わせただけでほれてまうな』と妹様からも仰せつかってるし。
「半人前の分際で男を語るな。小物臭がするから。呼吸を整えたら、ほかのやつとペアを組めよ。僕は野暮用を思い出した」
言下に、僕は乱取りの合間を縫い、一直線に能登さんのもとへ歩を進めた。彼女の目の前に立ちふさがり、ブラインドの役割を果たす。
「能登さん、見学時の心得を言い忘れた。合気道は武芸なんだ。礼に始まり礼に終わる。君は部外者だけど道場の敷居をまたいだ以上、僕らの流儀に倣ってもらうよ」
「…………」
相も変わらずのクールビューティーっぷりだ。
ポーカーフェイスのおかげで感情がちっとも読み解けない。
「見学中はなるべく正座でいること。しびれそうだったら足を崩して構わないけど、体育座りだけは厳禁ね」
語弊を生まぬよう補足しとくと、萌黄高校合気道部に『見学者は居住まいを正すべし』などというモットーはない。僕が創作したしきたりだ。
だって言えるわけないだろう。
「秘密の花園がご開帳しかけてるんで、M字開脚はいかんぜよ」などと。
僕の沽券にかかわる。
すると能登さん、一言も異議を唱えず、僕の忠告に従った。背筋をまっすぐにし、ひざ同士をぴたりとそろえて、座り直す。
僕の背後から舌打ちが聞こえた。下心が成就する一縷の望みがついえたせいだろう。
ふん。まずい飯屋と悪の栄えた試しはないのだ。
「言いたかったの、それだけだから」
僕が回れ右しかけると、
「思った通り天城くん、強い。そして怪力」
能登さんが口を開いた。なんとはなしに、羨望のまなざしっぽく見える。
「僕の腕力なんか、たかが知れるよ。部員で腕相撲のリーグ戦しても、真ん中くらいじゃないかな」
「でも人を紙切れ同然に投げてた」
なぜか能登さんがムキになっている。
否定する本人としては、苦笑するしかない。
「さっき後輩男子を宙返りさせたこと、言っているのかい」
能登さんがうなずく。
「種明かししようか。合気道はね、相手の力を利用して技に転じる武術なんだ。『柔よく剛を制す』と言えばいいかな。敵の攻撃の流れを変えてやるのさ。理系チックにたとえると、力のベクトルを操作する」
傾聴しているのか、まばたきするだけで口を挟まない能登さん。
「たとえば自分へ直進してくるパンチがあったとする。同じ威力をぶつければ相殺できるけど、ガードした場合はダメージを殺せない。耐えられる耐えられない、は別問題として。合気道は正拳突きに真正面から対抗せず、かわすと同時に指向性を変える。『いなす』と言ったほうが的確だけど。仮に敵のストレートパンチを下方向へいざなってやれば、あら不思議。相手がすってんころりん、と勝手に転ぶのさ」
「体の重心が変わって、バランス崩すから?」
「ご名答。だから僕は後輩を投げたとき、豪腕をふるってなんかいないんだ。相手が転倒しやすい条件を整えたにすぎない。口で言うほど簡単な芸当じゃないけどね」
能登さんは唇に白魚のような指を添え、何やら考えこんでいる。
そして意を決したように、あごを上向けた。
「非力なあたしでも、大柄な男性を倒せる?」
能登さんが大の男を制圧?
どういう超展開だよ、そりゃ。
「理論上は可能だね。ただし日々の精進をおこたらなければ」
『だけど』と僕はセリフを締めくくれなかった。
彼女が急に立って、僕の手のひらを両手で包みこんだのだ。
「苛烈なトレーニングでも弱音を吐かない。だからあたしに戦い方を教えて、天城くん」
ヤブから棒に、能登さんは弟子入りを志願した。