[一九]思慮深い箱入り娘のエールが、奥ゆかしいとは限らない(前編)
妹と能登さんにごたごたがあった、翌登校日。
放課後まで僕と能登さんは、一語たりと言葉を交わさなかった。
天変地異クラスに珍妙な出来事ではない。
教室で僕たちが接点らしい接点を持つほうが、まれだろう。
だから授業の間はさして何も感じなかった。
『何も感じないように努めた』のほうが正確かもしれないけれど。
ただし懸念材料もあった。
能登さんの乏しい表情の中に、思い詰めたような色があることだ。
いや、思い過ごしか。
僕に彼女の心の機微を見破るスキルなど、ないのだから。
授業中は『知らぬ存ぜぬ』がまかり通っても、クラブ活動の時間になると、いや応なしに意識せざるを得なかった。
能登さんが欠けている、という風景を。
「おい天城、お弟子ちゃんどうしたんだよ。今日は欠席か」
部活が始まって、何度反すうされたクエスチョンだろう。
ほとほと嫌気がさす。
「知らねぇよ。体調不良じゃないのか!」
すさんだ気持ち現れ、声を荒らげてしまう。
「んだよ、あいつ。感じわりぃ」
「カルシウム足りてないんじゃね」
「もしかして能登っちに捨てられたとか」
「ざまぁ。天城って女の扱い、おざなりそうだしな」
ワイドショーのキャスターよろしく、好き勝手言っている。
アホくさくて、叱る気もうせるよ。能登さん不在が本来の合気道部の姿じゃん。
大会もあるんだし、僕だけでも練習に心血を注がなくては。
やる気が空転するプレーヤーほど挙動が単調で、先読みしやすいものはない。
僕は乱取り稽古でみっともなくも、全戦全敗だった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
僕は暗い部屋で、ベッドに横たわっていた。
携帯電話の液晶ディスプレイが青白い燐光を放っている。
画面に映しだされたのは、アドレス帳の『な行』だ。
『能登ひまわり』のゴシック体が、出続けている。
どんなに待っても僕のケータイは鳴らない。着信のみならず、メールさえ絶無。
「なんでだよ」
独り言はどこにも届かない。自室に霧散するだけだ。
「たった一言、『ごめん』で済む話じゃないか。譲れない信念があるわけでもなかろうに。なぜそこまでかたくななんだ」
姉と妹の教育が行き届いているので、僕は呼吸するように謝ることができる。
おかげで「心がこもってない」と一刺しされるけど。
僕には能登さんの行動理念が理解できない。
僕を体育館の裏に呼びつけて、弱腰の姉を一蹴し、僕に弟子入りをしたかと思いきや、挙げ句の果てに妹へ徹底抗戦の構えを示す。
ミッシングリンクでもあるのだろうか。
ううん、ないな。
能登さんは生粋の自由人だ。その場のノリで行動指針を決めているに違いない。
ただ一点気になるのは、ファストフード店で別れ際につぶやいた言葉。
『あたし自身で、対処しなくては』
彼女は何に直面していて、どう処理するつもりなんだ。
以前に語っていた『男を打倒する』ってのと、なにがしかの関連が──
僕は頭を振った。
「だけど僕は折れないからな。そっちから歩み寄るのが筋だ」
そうだよ。助けが欲しいなら、「ヘルプミー」と言ってくれなきゃ動けない。
僕は能登ひまわりの恋人どころか、友達ですらないんだから。
「真っ暗な中、ケータイいじってると視力が落ちますよ。どうして電気つけないんです」
鈴を転がすような声がしたと思ったら、蛍光灯がともった。
暗順応していた目にはまぶしくて、まぶたを下ろす。
「だ、誰だよ」
「私ですよ、私」
『わたしわたし詐欺』を疑ったものの、じきに警戒を解除した。
僕の部屋を訪れる人間など、数が限られる。
「あやめ、姉さん」
「よくできました。めーくんのお世話係を務める姉です」
あや姉はベッドに腰を下ろしたらしい。スプリングがきしむ。
至近距離でいいにおいがしたので眼を半開きにすると、目の前に丸みを帯びたヒップが鎮座していた。
僕は慌てて体を起こす。
「の、ノックもなしに入るなんて不謹慎だろ。たとえ姉でもモラルがない」
「しましたよ~だ」姉が舌を出す。「何度ドアたたいても返事がないから、心配になって開けたんです。めーくん、変死体になってたら大ごとでしょう」
『見た目は子供、頭脳は大人』の少年探偵漫画じゃないんだから、こんな閑静な住宅街で殺人事件なんて発生しないって。
「僕がやすやすと死んだりするもんか。つーかカギかからないからって、気軽に部屋入らないでよ」
「どうしてかしら」
「どうしてって」
たとえば健康な男子がパッションを持て余したときにしちゃう行為を目撃された日には、死にたくなるだろうし。
「なんでもいいの! 姉さんだって、我が物顔で僕がドア開けたら嫌でしょう」
「嫌というか『私とルミ、どちらに用があるのかしら』と思うかもしれませんけど」
オーマイゴッド。ダメだ、この姉。
ルミちゃんがお目付け役じゃないと、とんでもない大ポカやらかしそう。
「もういいです」
僕は姉の横に座り直した。
あや姉はネグリジェふうの部屋着を身にまとっている。シャワーを浴びた直後なのか、三つ編みを解いた長髪がちょっぴりぬれていた。
芳香はシャンプーやボディソープによるものかもしれない。
「んで、何しにいらしたんでしょうか、お姉さま」
「ルミがね、さめざめと言うんです。『めぐ兄の赤ちゃんをはらんだかもしれない。お姉ちゃん、どうしよう』と」
姉のセルフレームメガネの奥にある二つの瞳が、冷気を帯びていた。
もしやルミちゃん、リビングでの一件を申告したのか。
想像するに、本質的な部分は伏せているのだろう。
にしても、改ざん度合いがあくどい。安っぽいAVクオリティじゃないか。
「あや姉、うのみにしたわけじゃないよね!? 僕は、まだルミちゃんとそんな仲には」
「『まだ』ですか。ふむふむ、なるほど。予定はある、と」
「言葉尻をとらえないでよ。ちょっと間違っただけじゃん」
「罪人は異口同音に言います。『ちょっと魔が差した』と」
姉の追及、いつにも増して熾烈だ。
話題が話題だけに、なあなあで済まされないのか。
身の潔白を証明するため、ドラッグストアで妊娠検査薬買うほかないかな。
「な~んて。めーくんに限って、そんな背信行為できませんよね」
あや姉が朗らかに笑った。
「僕をたばかった、ってこと? なんだよぉ。ちびりかけたじゃん」
「めーくんがそこまで大胆不敵なら、とっくに私も妊娠しているでしょうし」
姉は慈しむように自らのおなかをなでさすっている。
「ちょっ、お姉たま!?」
もはや僕は虫の息だ。
「冗談です。せいせいしました。私の目の届かないところでルミと結託するなどという、陰謀を企てるからですよ」
「猛省します。要するにあや姉は、僕をなぶりにきたんだね」
「それもありますけど」
あるのかよ。
小動物に見合わない攻撃性を秘めた姉だ。
「めーくん、悩みごとがあるのかと思いまして」
姉がまっすぐ僕を見つめてくる。
「ぼ、僕は悩みと無縁の能なしだよ」
「家に帰ってから、地に足がついてないでしょう。夕飯だって残してたし」
「胸焼けしただけだって。風邪気味かもしれないし」
どーれ、と姉が手のひらを僕の額に添えた。
「熱はありませんね。いいえ。急激に上昇してきたような」
「なな、なんでもないって」
姉の手から逃れる。
言えない。意表をつかれて胸が高鳴った、などと。
「私には、話せませんか」
あやめ姉さんが伏し目がちになった。
「話したくない、わけじゃないよ。話すほどのこともないだけ」
「どんな悩みだって聞きますよ。私はめーくんの力になりたいの。あっ。ただし、劣情に端を発する思い煩いは、タブーとします」
僕の人間性への偏見がひでー。裁判したら勝訴できるだろうか。
「分かりましたよ。実はクラスメイトと仲たがいしちゃってさ。手詰まりになってたの」
「能登ひまわりさん、ですね」
「どうして……それを」
「だってベロチューした仲、ですから」
姉はぱちりと片目をつむった。
「いやいやいや。あれは人工呼吸でしょ。あや姉も『ノーカン』って言ってたじゃん!!」
「どうしてめーくんがそこまで焦るのかしら。私が能登さんとキスをしたら、めーくんにとって不都合が生ずる、とでも?」
面白くは、ない。
姉が誰かと口づけするのが腑に落ちないのか、あるいは能登さんのほうか。はたまた、二人ともに対するもやもやなのか。
僕にだって分からんがな。ゆえに言語化は困難を極める。
「間の抜けた面構えに免じて、不問にしましょう。ネタバレしますと、ルミがほのめかすのです。『能登ひまわりはどうしてる』って。私が『学年もクラスも違うし、めーくんに聞いたら』と助言すると、うわごとみたいな返事しかしないの。そして十分ほどしたら、おんなじ質問をします。さしもの私だって察しますよ。何かあったんだな、と」
ルミちゃんも能登さんが気がかりなのだろう。ケンカ別れみたいになってたし。
「ゆえにルミに成り代わり、私が乗りこんできたというわけです。ネタはあがってますよ。白状なさい、めーくん」
「姉さん。それじゃ僕、取り調べ中の容疑者みたいじゃんか」
「めーくんにしては、気の利いた比喩ね。自白しないと全身こちょこちょの刑ですよ」
姉が冬眠明けの母熊のごとく、両腕を広げた。
あや姉とベッドの上、じゃれ合うのも悪くない──ゲフンゲフン。
嫁入り前の生娘としてのたしなみを諭すべきだな。遺憾だけど。
「あや姉、僕は弟である前に一人の男。軽率なボディタッチは自戒しないと。要点を話すから、腕下ろして」




