[一八]無私無欲が、好意を持たれる必須条件とは限らない(後編)
ルミちゃんが僕に体をもたせかけてきた。
息がかかる距離に、サイドポニーの結び目がある。
「よろしい。じゃあかわいい妹からアドバイスね。めぐ兄、岡目八目とか言ってたじゃん。あれ、めぐ兄にも当てはまると思うよ。どっちかというと『隣の芝生は青い』のほうが、的確かもしれないけど」
ヒップアタックが中断したことに、僕はほっと一息ついた。
マイマグナムの暴発は免れたらしい。
寸止め、という見方もできるが。
「僕は自己分析できているつもりさ」
「バッカじゃないの。できてないから、わざわざ言ってあげてるんでしょ。めぐ兄は自分で思うよりもマシな男なんだって。最低でも二人の美人から──いや、あばずれも含めて三人かな──とにかく、ごく小数の女の子に構われるくらいは、値打ちあるんだから」
僕の口から失笑がこぼれた。
これじゃどっちが励ましてるんだか分からない。語り口はきつめだけど。
「ありがとう。理知的な妹の兄になれて、僕は幸せ者だよ」
「ルミは『なんでめぐ兄の妹なんかになっちゃったんだろ』と、よく思うけどね」
妹お得意の誹謗中傷だろうか。にしては持って回った言い方だが。
「ねぇめぐ兄、こんな機会ほとんどないし、今から性悪なこと言っていいかな」
ここは「ルミちゃんのセリフはあらかた悪辣だよ。バファリンの割合を上回るくらいね」とツッコむべきシーンかな。
いいや、やめとこう。いたずらに寿命を縮めたくはない。
「どうぞどうぞ。兄は聞き役に徹しましょう」
「『お姉ちゃんに言わない』って約束できる?」
「二人だけの秘密か。いいね。破ったら、針千本でも飲むよ」
じゃあ、とルミちゃんは左手の小指を立てた。
「指きりまでしないとダメなの」
「ダ~メ。指出して」
僕も左の小指を差し伸べる。
体勢が体勢なので、不格好な指きりげんまん。
ひとしきり儀式は終わったにもかかわらず、妹は僕の指を離さない。指を結んだまま、腕を下ろす。
「お姉ちゃんは愛され体質で守ってあげたくなるし、尽くすタイプじゃん。ルミもそんなお姉が大好き」
「右に同じ」
「でもめぐ兄は思ったことないでしょ。お姉ちゃんが『ルミのお姉ちゃんじゃなかったら、どんなによかったか』って」
僕は言葉に詰まった。
「お姉ちゃんがいる限り、ルミは不動の二番手じゃん。容姿も勉強も人望も、そして恋愛でさえ、ルミは何一つお姉ちゃんに勝てない。お姉が太陽だとしたら、ルミは月。自分で輝くことはできない、無力な衛星」
なんて声をかければいいのだろう。
頭の中で無軌道な言葉がぐるぐる旋回する。
「不公平だよね、世の中って。どれだけ願っても、ルミはお姉になれない。心が卑しくて、好きな人にもついつい駆け引きしちゃう、七面倒くさい女。物語のエンディングで白鳥になれない、『みにくいアヒルの子』だもん」
「ルミちゃんあのさ、逆もまたしかり、だよね」
「えと、なんのことかな」
「だから契約だよ。僕の言うこと、あや姉に内緒にしてくれないと、困るんだけど」
妹が小首をかしげる。
「ルミはわりかし口が堅いと思うけど」
「信じるからね。僕は一度や二度くらい……いいや、しょっちゅう後悔してる。あや姉と同じ萌黄高校に入らなきゃよかった、って」
「めぐ兄がお姉ちゃん批判なんて」
「学校で僕がどんな扱いされてるか、ルミちゃん知ってるでしょ。あれでコンプレックス抱かないやつがいたら、名乗り出て欲しいね」
あ、と妹は感嘆の声をあげた。
僕はルミちゃんの手をぎゅっと握る。
「おまけにもう一個、ありふれた言葉を追加しようかな。ルミちゃんはルミちゃんだよ。あや姉にならなくていい。根は弱いくせに、強がってしまう。そして時折ひた隠しにした弱みを見せてくれる女の子を、僕はたまらなくいとしいと思うよ。自ら光を放つお日様は万人受けして、一番人気かもしれないね。けれど僕は、光の加減でころころ満ち欠けするお月様も、味わい深くて好きだな」
ルミちゃんは細い肩を震わせた。顔は見えない。
いいや、見ちゃいけないのか。
「あ、あれ。おっかしいな。泣かせるつもり、なかったんだけど」
「いいの……。これは、うれしいほうのやつだから」
ルミちゃんは手の甲で目元を拭った。
「あ~あ、柄にもなく涙もろいや。やんなっちゃう。ルミも焼きが回ったかな」
「『涙は女の武器』とも言うよ」
「ルミはそんなちゃちな武器に頼らずとも、正々堂々男を罠にはめるの」
どの辺が『正々堂々』なのか解説していただきたいところだ。
「でもめぐ兄のせいで、欲が出ちゃったじゃん。成績とか女子力で後れを取るのは一向に構わないけど、〝恋〟だけはお姉ちゃんに負けたくないや」
「人間なんて所詮、私利私欲の塊でしょ。欲望は抑えられないよ。だけど心配いらない。僕もルミちゃんの願望に、協力を惜しまないから」
「そそ、それはもしかして、めぐ兄がルミの彼氏に──」
妹の上ずった声なんて、珍しいことがあるものだ。
明日は槍が降るかもしれない。
「うん。ルミちゃんが好きな男子と結ばれるまで、全力でサポートするよ。微力かもしれないけど、援軍は多いに越したことないでしょ」
「ふふっ……ふふふふ。だよね。ぬか喜びして、大損こいた。めぐ兄、国宝級の鈍感野郎ってこと、改めて思い知ったよ」
ルミちゃんがくぐもった病的な笑いをしとる。生きた心地がしない。
「頭にくる。このままじゃ腹の虫が収まらないんですけど!」
妹が僕の股間を圧壊せんと、再度ケツを振った。
おうっ。緩急織り交ぜたリズミカルな律動が癖になりそう……。
じゃないだろ。どんだけドM星人だよ、天城巡。
早く手を打たないと、僕の自制心と性欲がリミットブレイクするかも──
「あれれ。スカート越しだけど、ルミのお尻に熱くて硬い物体、当たる気が」
ふんすっ、と僕は妹の両脇を手で支えた。軽々と持ち上げ、横へどかす。
「ず、ズボンのポケットに何か入ってるのかもなー」
僕はソファから立ち、抜き足差し足忍び足で移動した。
「おやぁ、めぐ兄。前かがみでどこ行くのかな~」
背後から呼び止められる。でも振り返れない。
「と、トイレだよ。異物の有無を探ろうと思って」
「ふ~ん、トイレか。にゃはっ。いったい何を出すつもりなの?」
「いや、ポケットの中身をね」
「な~んだ。めぐ兄が望むなら、ルミがご奉仕してあげようかと思ったのに」
『トラップだ』と思いつつも、振り向いてしまった。
僕と目を合わせるや、ルミちゃんが蠱惑的に舌なめずりする。
不覚にもつばで僕ののどが鳴った。
「お兄ちゃん今、イカ臭い想像したでしょ」
「しし、してないから!」
「やるわけないじゃ~ん。誰彼構わずしちゃう尻軽女じゃないし。もしもめぐ兄がルミと真剣交際するなら、考えてあげなくもないけどね」
「兄をからかうもんじゃないよ」
妹が腹を抱える。
「キャハ。『からかうもんじゃない』だって。赤面しての前傾姿勢で言われても、説得力ゼロだから。どうするめぐ兄。泣いて床に頭こすりつけるなら、めぐ兄の部屋で〝本番〟の予行演習くらい付き合ってもいいけど」
僕は堅く口を閉じることにした。
何を言っても揚げ足取られそうなので。
「乗ってこないんだ。ぶぅー。つまんな~い」
ルミちゃんが不平を鳴らした。
いつまでも僕を玩具にしないでもらいたいね。
ま、復調したようで何よりだけど。
「それはそれとして、『親しき仲にも礼儀あり』だよね。不本意だけどめぐ兄のおかげで、ルミがほんのちょっぴり元気になったのは事実だし。こほん」
ルミちゃんが上目遣いのスマイルで、
「お兄ちゃん、だ~いすき」
妹を持つ兄にとって、最大級の謝辞を述べた。




