[一七]無私無欲が、好意を持たれる必須条件とは限らない(前編)
家に帰ると玄関に、散らばったローファーが一組あった。
父と母はともに仕事中で、姉は生徒会業務で遅くなるはず。
よかった。
何はさておき、帰宅してくれたらしい。外を探し回るのも骨だしな。
僕はスニーカーを脱ぎ、乱雑なローファーをそろえて置く。
玄関をあとにし、リビングに立ち寄ると、彼女がいた。
ソファでひざを抱えている。
あまのじゃくな彼女にしちゃ、分かりやすく落ちこんでるな。
もっとも、両ひざにおでこを当てているため、肝心の表情はうかがい知れないけど。
僕は二人分のバッグをフローリングに置き、無言でソファに座る。彼女の隣だ。
テレビや電灯もつけず、ただ座り続ける。
冷蔵庫の奏でる駆動音だけが、室内に響いた。
「ルミに、幻滅したでしょ、めぐ兄」
活発が取り柄の妹は、鼻声で言った。
「見くびらないでもらいたいね。僕とルミちゃんの付き合い、何年に及ぶと思っているんだよ。これでも妹のことはある程度、把握しているつもりさ」
「ルミがひねくれた女の子、ってことも?」
「確かにルミちゃんの性格は、ちょっとばかし屈折しているかもしれないね。けどそれを補って余りあるいいところだって、僕はたくさん知ってる」
「……たとえば、どんな」
「えーとね。機転が利くとか、顔が広いとか、脚がきれいないい女とか。中でも僕なんかより断然家族思いなところ、かな」
「別にルミ、家族のことなんか思ってないし」
見えてないだろうし、僕は苦笑いした。
「ルミちゃんは『岡目八目』って四字熟語、知っているかな。本人よりも他者のほうが、本質を見抜いているって意味。ルミちゃんが誰より家族を大切にしていること、父さんも岬さんも、あやめ姉さんも熟知しているよ。君が意地っ張りなところもね」
「おちょくらないで」
ルミちゃんは顔を上げ、ゲンコツを振り下ろしてきた。
僕は左手で華奢な手首を受け止め、右手を妹のほっぺに伸ばす。赤い目の下にくっきり描かれた涙の跡を、指先で拭った。
「不愉快だったにせよ、暴力は好ましくないな。相手が僕だからよかったものの」
「こんなこと、めぐ兄にしかしないし。いいから汚い手、離してよ」
へいへい、と僕はホールドアップした。
毒舌かますのは回復の兆しと思って、とがめない。ヤブ蛇つつきたくもないし。
「なんだかんだ言ってルミとお姉ちゃんのこと、『卑怯』と蔑んでるんでしょ」
「なんで僕が、ルミちゃんとあや姉を軽蔑しなくちゃならないんだ」
「だって女狐が言ったこと、悔しいけど的外れでもないし」
涙こそ流さないものの、妹が一回り小さくなったような印象を受けた。
「ああ、あれね。百歩譲って真実だとしようか。でも能登さんの私見には、大きな欠陥がある。ゆえに僕からしてみれば、荒唐無稽と言わざるを得ないな」
「欠陥、というのは」
「だって『僕よりイケメンが現れない』のが前提条件なんだろ。そんなの、わんさかいるじゃん。ルミちゃんもあやめ姉さんもモテるし、よりどりみどりだ。僕に固執する道理がかけらもないじゃん。よって能登さんの自説は成り立たないと思うね」
「めぐ兄、本気で言ってる?」
「当たり前だよ。ウソ偽りない本心」
妹が赤くはらした双眸で、ガンを飛ばす。
「なんでそこまで自分を卑下するわけ。ふざけないでよ。あたしとお姉ちゃん、二人して見る目ないみたいじゃん」
僕は沈思黙考した。
しかし白旗だ。分からないものは分からない。
「てへっ」
僕は最大限のかわいさアピールでベロを出した。
「ムッカつく。あんまりなめると、殴るからね」
警告と同時に、妹は僕の頬を平手で引っぱたいた。衝撃で首がねじれる。
この娘の辞書には『抑止力』という単語が未掲載らしい。
「殴ったね。親父にもぶたれたことないのに」
僕がほっぺに手を当てると、ルミちゃんはもう一度手を振りかぶった。
「めぐ兄に合気道の基礎教えたの、パパじゃん。ルミを小バカにして、何が楽しいの」
「ジョークだって。でもそんだけアグレッシブなら、もう本調子みたいだね」
「~~~~っ!」
妹は仏頂面になり、振りかざした腕を下ろした。
「ダメ兄貴と無為な世間話して、のどカラカラになった」
どすどす、という足音を鳴らしつつ、キッチンへ移動する。
「ついでに敬愛してやまない兄様のポカリも持ってきて」
妹は返事をせず、冷蔵庫の中身を物色している。行儀悪く足でドアを閉じ、引き返してきた。ソファの前にあるテーブルへ、麦茶とコップを置く。
ただしワンセットのみ。
「おんやぁ。僕の分どこかな」
「働かざるもの食うべからず。欲しいなら、自分で取ってくれば」
デレないことで定評のある『ツンドラさん』の面目躍如だ。
「かしこまりました。くまのプータローさんにならぬよう、研鑚を積むとしま」
『すか』と言いかけたのに、かなわずだった。
妹が僕の太ももにお尻を乗っけたのだ。
取りも直さず、僕は人間イス状態になっている。
「ルミ、ちゃん?」
「乗りかかった船でしょ。最後まで慰めて」
「いや、う、うん」
僕はまごついてしまった。
「前にもこうしてくれたこと、あったじゃん」
「あったけども、あんときルミちゃん、小学生だったし」
今は花も恥じらう多感なお年ごろ。中二といえば、体つきも成熟しかかっている。
やろうと思えば、なんだってできる──って何考えかけた、僕。しれ者め。
義理とはいえ、妹だぞ。邪念を払え。
僕の上にまたがっているのは、女の子じゃない。
人語を操るローゼンメイデン──等身大フィギュアだ!
……つーかこの状況だと、ダッチワ●フみたいになっちゃわないか。
ううっ。そっち方面の妄想はまずいって。
「覚えててくれたんだ」
ルミちゃんが明るい声で言った。
「わ、忘れたくとも忘れられないって。僕、フルボッコだったじゃん」
ルミちゃんが小六で僕中三のとき、妹を巡る小競り合いが起こった。
当時から小悪魔気質な妹は、クラスの男子たちに色目を使いまくっていたらしい。
熱を上げる男子も一人や二人じゃなかった。
現在との決定的な差は、『男のあしらい方がたけていなかった』点。
すなわち妹に恋した男子たちは、総じてルミちゃんを我が物にしようとした。
本命の座を賭けた、〝ルミ争奪戦〟が開幕したのだ。
ルミちゃんの手を離れ、騒動が日に日に白熱する。
そのうち「天城親を呼べ」という流れになったらしい。誰がナンバーワンかをジャッジさせるためか、もしくは何股もかけたことに対する厳重抗議が目的か。
妹の思惑として、両親の介入や姉に迷惑かけることは、できる限り避けたい。
満を持して僕に白羽の矢が立った。妹の彼氏候補が一堂に会する中、アホ面引っさげて登場する我輩。
赤裸々に言って、途方に暮れたよ。
「ルミは僕の彼女だ。おととい来やがれ」などという決めゼリフは論外。
「愛すべき妹を苦しめるんじゃーねぇぜ」
むしろ居並ぶ彼らに心労かけているのはルミちゃんなので、こいつも不適当だ。
八方ふさがりの僕が採用した苦肉の策。
それこそが、『人間サンドバッグ』になることだった。
「めぐ兄だったら、小学生の十人や二十人、瞬殺できたでしょ。だから呼んだのに、一切攻撃しないんだもん」
「小学生男子を甘く見すぎ。中には発育がいいやつだっているんだよ。二十人もの群衆に取り囲まれたら、いちどきに相手するのは大仕事だって」
なんて言いつつ、僕も過小評価していた節はある。
たった数名ならばタコ殴りされたってダメージ軽微、と高をくくっていた。
ところがどっこい。効くんだ、これが。
金的を含め、僕は人体の急所を守るのでいっぱいいっぱいだったよ。
「どうしてめぐ兄、手を出さなかったの」
妹が首を後ろに回し、流し目してきた。
「さぁね。大昔のことだから、失念しちゃったよ」
「ルミは思うの。きっとめぐ兄、事後を見越した対策練ったんだって」
ルミちゃんが僕の心情を代弁する。
「年下のガキを蹴散らすなんて朝飯前。けど返り討ちにしたら当面はしのげても、復讐心をあおってルミに報復する男子が現れるかもしれない。だから禍根を断つため、一方的に殴られた。自分が不満のはけ口になり、ストレスを発散させる。めぐ兄が悪役になることで、ルミへの反発心を減少させようとした。違う?」
何もかもお見通しか。慧眼おみそれしました。
マイシスターは僕よりも一枚上手らしい。
「どうかな。美化しすぎだと思うけどね。僕はそこまで上等な人間じゃないよ。たぶん、おじけづいたんじゃないの。一対多の戦いって、バカにできない緊迫感だし」
「お兄ちゃん、素直じゃないね」
「お嬢さまには負けますとも」
「もぉ、減らず口ばっかり。狼少年にはお仕置きです」
ルミちゃんがヒップで僕の股ぐらをグリグリしだした。
玉潰しを狙ったのかも。
されども、このアタックは別の観点で効果絶大だった。せっかく忘れかけていたのに、柔肌でパトスが再燃する。
ストーップ。無闇やたらに刺激すると、僕のムスコがギンギンになっちゃうから。
「参った?」
「ぜ、全面降伏です。許してください」




