[一三]在りし日の一幕が、爽快なものばかりとは限らない(後編)
「姉さん、その話はデリケートなんで、そっとしておいてくれないかな」
「どうしてですか。ここからが俄然盛り上がるのに」
そうだっけか。鼻血シャワーを超える失敗談はないと記憶しているけど。
「私、海で溺れかけたでしょ」
「あー、あったね。九死に一生を得たやつ」
浅瀬でルミちゃんと海水をかけ合っていた姉が、波にさらわれたのだ。
とはいえ、沖まで流されるほどじゃない。立ち所にリカバリー可能な距離だった。
〝泳ぎが問題ない人ならば〟だけど。
僕も父も、姉がカナヅチであること、関知してなかった。
だから波間であっぷあっぷする彼女を見たときは、血の気が引いたよ。
僕はパニックになり、父を始め周りの制止に耳を貸さず、海へ飛びこんだ。
がむしゃらに手足を動かし、無様に泳ぐ。水泳のフォームもへったくれもない。
とにもかくにもあやめ姉さんのもとに泳ぎつき、死に物狂いでしがみつく姉に四苦八苦しながら、なんとか浜に生還したのだ。
「あのときの経験に懲りて僕、『溺れた人を救うときは背後から』って教訓を得たよ」
「だって、お花畑と三途の川が見えたんですもの」
姉さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「あや姉を責めてるんじゃないって。僕が未熟だっただけさ。僕にノウハウがあったら、もっとスマートに助けられたと思うし」
「いいえ。多少泥臭かったとしても、私は言葉にならないほど感謝してるんです」
姉の真摯な言葉にたじろぎ、照れ隠しの茶化しが口をついて出る。
「どうせなら、色男のサーファーとかイケメンライフセーバーのほうがよかったでしょ。僕みたいにダサい中房じゃなかったら、燃えあがるような一夏の恋だって」
あや姉が神妙な面持ちで、首を横に振る。
「そんなことありません。あのときのめーくんは頼もしくて、ナイトみたいでした。それ以来、私はめーくんのことが……」
僕のことが、なんだろう。
「す」
姉さん、ほっぺたを紅潮させ、言葉をためている。
「す」
しびれを切らし、僕は反すうしてしまった。
おいおい。よもや『き』って続くんじゃ──
「す、スギ花粉」
『あははっ。僕ってアレルギー物質でさ~』って、どないやねん。
肩透かしにもほどがあるな。
【すき】と【すぎ】。
濁点が一つつくだけで、天と地ほどの格差があろうとは。
「もういいよ。僕が鼻つまみ者ってこと、身にしみたから」
「ち、違うんです。ちょっとした茶目っ気で」
お茶目で花粉症の原因物質扱いされる弟って、どうよ。
「ったくさ、溺れて助け求める姉さんは、かわいげあったのにな。初心に帰って欲しいよ。ほら、あんなふうに手をバタバタさせて……って、ガチで溺れとる!?」
僕は目をむき、風船を手放してしまった。天高く昇る黄色の楕円。
池のほとりで小学校低学年くらいの少年が、水面をバシャバシャしていた。
周囲も由々しき事態の発生を悟ったのだろう。こぞって大人が集まってくる。
「あっくん、あっくん!」
母親とおぼしき女性が叫んでいた。
「めーくん、預かっててください」
姉がセルフレームのメガネを外し、僕へほうり投げた。
「ちょっ、あや姉、何を」
レンズを割っちゃいけないという貧乏根性が先に立ち、僕はキャッチの体勢を整えた。
放物線を描く姉のメガネ。
僕が両手ですくい取ったのと時を同じくして、
「私は水泳、からきしです。しかし人間は生命の危機に瀕したとき、リミッターが外れて身体能力が数倍に跳ね上がるという。姉の成長ぶり、とくと目に焼きつけてね、めーくん。今度は私が助ける番です!!」
僕は姉のセリフを咀嚼するのに、数秒の時間を要した。
そのタイムロスが致命的になるなど、知る由もなく。
気づくと姉が欄干に乗り上がっていた。ワンピースのスカートを手で押さえ、逡巡なく足から池へ飛びこむ。
あやめ姉さんの正義感、侮っていた。
後先考えず、軽挙妄動に打って出るとは。
「泳力ゼロが何倍になったところで、結局ゼロだって!」
姉の腕をつかもうと、僕は橋の上から手を伸ばした。
でも空を切る。
空振った指先は、何もつかめやしない。一切合切がこぼれ落ちていく。
「くっそ」
毒づいたところで、ときすでに遅し。
姉はみなもに着水していた。水面下へと沈んでゆく。
「おーい、坊や。そこ、浅いぞ。足がつかないかね」
かくしゃくとした初老の男性が、じたばたもがく少年へ声をかけた。
あっくんと母親がそろって「え?」という顔つきになる。
ホントだ、と言って少年は二本の足で立った。
歓声がわき、彼は照れくさそうにうなじの辺りを手でかく。
母親がしきりに頭を下げていた。
事なきを得たらしい。人騒がせだったものの、惨事にならなくて何より──
って、うちの勇敢なお姉さまは?
「姉さ~ん、こっちは足がついたり、しない、かな」
僕のか細い声に呼応するのは、眼下に時折上がってくる白い気泡だけだった。
「だよなー、ちくしょうめ」
スニーカーだけ脱いで姉のメガネを置き、僕は池へダイブした。
足から潜水する。水中の視界は全方位、可もなく不可もなし。
皮肉にもカナヅチだったので姉は遠くへ行っておらず、即座に発見できた。
漂う彼女を抱き寄せても反応はない。意識がないのかも。
僕は姉を抱えたまま水上を目指す。
「ぷはっ」
人ひとりプラス着衣水泳で悪戦苦闘したものの、からくも岸にたどり着いた。
姉を先にもたげて、僕も地面にずり上がる。
「あやめ、姉さん。目を覚まして」
寝そべらせて頬をペチペチしても、起きる気配がない。
こうなれば、心肺蘇生法しかないか。
気道を確保し、マウス・トゥ・マウス。
次にぱふぱふ──うおっほん。心臓マッサージを。
四の五の言ってる場合じゃないな。人命は最優先だ。
半開きになってぬれる唇に、僕は口を近寄せた。
あや姉、これはディープキスじゃないからね。僕にやらしい──じゃなくて、やましい心根はないよ。
ってな主旨を伝えたかったのだけど僕が口にしたのは、
「い、いただきます」
NO~~!
動転しているといえど、期せずして僕の変態性が露呈しちゃうじゃないか。僕らの周りには人だかりもできているのに。
そのとき人ごみをかき分けてくる者がいた。
みたび登場、風船配りのリスさんだ。
騒ぎを聞きつけてきたのだろう。園内で人身事故など、テーマパークの死活問題になりかねないし。
リスは今にも姉の唇を奪おうとするキス魔を押しのけた。
「おいっ、なにすん──へっ?」
僕の抗議が途切れる。眼前の光景が信じられなくて。
リスが着ぐるみの頭部分を脱いだ。
行動そのものに驚愕したわけじゃない。中の人物に仰天させられたのだ。
能登、ひまわり。
汗で髪がおでこに張りついているものの、紛れもなく彼女だった。
「あたしがやる。どいて」
言うや否や能登さんが、横たわる姉に口づけ──もとい、人工呼吸した。
効果あったらしい。
あや姉がせきこんで、飲んでいた池の水を吐き出す。
「もう大丈夫」
能登さんは姉の上体を起こし、背中をさすった。
「がっ──ごほっ……。ありがと、う、ござい、ました」
せきこみつつ、あやめ姉さんは礼を述べ、救助者と向かい合った。メガネがないせいか、細目になって凝視する。
「の、能登、さん?」
「ええ」
「どうして、ここに?」
「急を要する事態だったから」
能登さんのトークには余分なところがない。
というより、もろもろ省きすぎだ。
「じゃなくて能登さん、どうして着ぐるみに入ってるんだよ!」
我慢ならず、僕は茶々を入れてしまった。
能登さんが刺すようなまなざしで、僕を一瞥する。
「話はあと。それより」再び姉に向き直る。「ごちそうさまでした。ただし、人命救助はノーカウントと思っているので」
僕のみならず、あや姉も『なんのこっちゃ』と思ったのだろう。眉をひそめている。
すると能登さん、おもむろに自らの唇に指を当てた。
あー、マウス・トゥ・マウスの件か。
『美少女×美少女』の濃厚キッス。
あれはあれで需要ありそう……じゃないよ。めまぐるしい展開でとち狂ってるな、僕。
あやめ姉さんも察したのか慌てて、
「お、お粗末さまでした。わわ、私も同性はカウントしません、ので」
え~。何この、ういういしいお見合いみたいな応酬。
あや姉、ほっぺたを赤らめてるし。この出来事をきっかけにアブノーマルな感性が開花して、めくるめく倒錯の世界へ没頭しちゃったらどうしよう。
百合百合しい空気が流れる中、僕は一人蚊帳の外だった。




