土へ還る旅
気負ってましたね、書き出しは。ところがやっぱし、途中で破綻が始まる。最後でグシャグシャ。やっぱしプロ作家ってな、スゴイっすね。さ、めげずに次、ですな。
「長い間、お疲れ様でした」
入社式をのぞけば今日まで、初めて社長からかけられた言葉がそれだった。
大学卒業以来、ここまで四十年。
社長からかけていただく言葉も初めてなら、この役員応接室に入るのも初めてだった。
そしてこれが最後だ。そう、定年式なんだからな。
しかし見事なもんだな、この部屋は。
踝まで埋まりそうなフカフカのカーペット。
巨大かつ重厚感に溢れた戦艦のようなテーブル。
牛皮本来の甘い匂いのする豪宕なチェア。
見るからに高価そうな印象画。
これがVIPと呼ばれるお客様をお招きするの部屋。
世界に冠たるM電機役員応接室なら、これくらいの見栄をはらなきゃなるまい。
社長は当然、オレのような末端の社員のことなど知るわけがない。
社長は人事部用意の社内履歴書を脇に、オレに話しかけてきた。
「営業が長いんですね。オイルショックのときは私は海外戦略部でしたが、あれは大変でした」
「そうだったですね。会社は大丈夫なのかな、そういう危機感がありましたね」
地方の国立大学を卒業し入社した時は、オレにも青雲の志があった。
夢は大きく、いつか社長になってやる、そう思いさえした。
しかし社長になれるのは一人だけ。
残念ながらオレには幸運はもたらされなかった。
どうにもこうにもオレの会社生活はハンチクなことが続き、裏目裏目を引いてきたように思う。
入社翌年に結婚して子どもができ、数年後には末端管理職にも抜擢された。
管理職も末端から中間、上級目前と、それなりにサラリーマンの階段を上がってるなと過信したのか、好事魔多しとはよくいったもんで、それからがサッパリだ。
五十歳を目前にして突然の鬱病罹患。
なぜかはいまだにわからない。
なっちゃうもんはなっちゃうんだし。
さ、それからは、ヒキの弱いことおびただしい。
麻雀に喩えれば、四面張が引けず、敵のカンチャンに振り込んでしまう。
オレは同僚以上に働き、懸命に努力した。
しかし、どうにも好転しない。
バクチと同じさ。
ツキのないヤツが食われていくんだ。
流れがそうなっちまうんだな。
とにかくハンチクは続くもんだ。
妻から離婚届を渡されたのは、鬱病入院から3年後だった。
なんの前触れもなく一枚のペーパーをポイと。
そのときは腹が立つというより、ははぁ、オレの人生ってこんなもんかいな、という索漠感だけだった。
そうだ。
あれは結婚して買ったマンションの引渡しと、まったく一緒に思えたんだっけ。
少し戻ろう。
オレは結婚して8年後に分譲マンションを買った。
そこそこ広いし、そこそこ通勤に便利だし、そこそこの値段だった。
ほとんど逡巡することもなく、まぁ、いっかー、というノリだな。
30年ローンを組み、そこそこ貯金していた住宅財形貯蓄を頭金にした。
あれやらこれやらのペーパーを用意し、最後の引渡しがあったのは住宅ローンを引き受けた銀行の会議室だった。
白々しい会議室で縷々説明を聞き、何個も実印を押印し、最後に、マンション販売会社から、はいこれ、と渡されたのはわずか2個のマンションの鍵だった。
会議室からの帰り道、オレはその鍵を見ながら、ちょっと待てよ、ローン完済のころは定年じゃないか、と思っていた。
その時だな(そうするとなにかい、オレのサラリーマン人生って、このわずか2個の鍵と等価なのかい)
と思ったのは。
やりきれんかったぜ、どうにもな。
この索漠感をどうすりゃいいのよ、ってさ。
屋台でビールと焼酎を飲んだけどさ、釈然としない思いばかりだった。
チェッ、鍵とオレの人生交換かい、ってね。
さ、それでその離婚届だ。
無論、妻に聞いたさ、なんで、ってね。
妻はとにかくオレとはこれ以上生活したくない、その一点張り。
子供も私が引き取る。
慰謝料寄越せともいわない、ただ、養育費だけは面倒をみてちょうだい、ということだった。それ以上問いただすことに、オレはなんだか、倦んでしまっていた。
なぜ、なぜ、なぜ?と問うてどうなる?
イヤなもんはイヤ、そうしかいいようがなかろう。
つまらない喩えだが、覆水盆にかえらず、だ。
第一、心が離れ、冷たい感情のまま過ごしたとしても、なんら生産的ではない。
妻は無論のこと、オレも居心地が悪すぎる。
はっきりいえば、ほとんどなんのトラブルもなくオレは妻と別れた。
諦めがよすぎるのかな。
いや、そうじゃなかろう。
しょせん夫婦なんてたいしたもんじゃないんだ。
絆とかふれあいとか、耳に心地よい言葉で糊塗しても、しょせん個人対個人のエゴのぶつかりあいなんだ。
丸く収まっているほうが奇跡じゃないか。
そう思えば(あー、こいつも女として生きていたいんだろうな)と納得しちゃったんだろう。離婚届に押印すると、妻は2週間もせぬうちに子供と一緒に出て行った。
ああ、そうだ、子供のことがあったね。
二人いたんだ。
長女に長男。
別れたとき、長女が大学入学寸前で、長男が高校2年だった。
彼らに対しては申し訳ないんだけど、特段、悲しいとか寂しいとか思わなかった。
二人とも成人近いんだから、まぁ、それなりにやっていくんじゃない?という自信はあったね。
それぐらいには育てた、その程度の自信はあったさ。
今では、3月に一回くらい会う程度かな。
連絡もないし、こちらから尋ねることもしない。
三人で仲良くやってるんだと想像している。多分、間違いないと思うよ。
鬱病と離婚のあとは絵に書いたような窓際ってやつ。
会社ヒエラルキーでいえば、同輩はいわずもがな、オレが教育係を仰せつかった新入社員が今のオレの直属上司だ。
どうあがいても会社のリアリティとして病院帰りのバツイチは相手にされないね。
そう痛感させられたころは、定年まで5年を切っていた。
ちょっと遅きに失したかもしれんがね。
ま、これは仕方ないか。
自分でなっちゃったことだし。
自己責任ってことか。
それでも給料をもらう以上はプロのサラリーマンだ。
オレは蹌蹌踉踉、ヨタヨタとしながらも、みっともない投げた態度だけはとるまいと、自分を律していた。
自らの人生に多少の疑問はあったにせよ、だ。
定年式を迎えた今?
そうだな、どういったらいいだろう、すべて満足ですなんていったらウソだな。
だけど、すっかり髪の毛を短く切ったときのような解放感はある。
ああ、オレは自由だな、と思う。
いまの状態を招来したのは自分だから、だれにも恨み言はいわない。
それに会社のヒエラルキーや内心の屈託を見なくていい、それだけで心が軽くなるね。
これからが人間力の勝負じゃん、かかってこいや!そう啖呵がきれそうな気がする。
「本当に長い間、ご苦労様でした。今後もお近くにおいでの際は、後輩連を叱咤激励してやってください」
と社長が事務的にいった。
「あ、ども。お世話になりました。みなさんによろしくお伝えください」
言葉の途中で尻を浮かせながら、オレは深々と頭を下げ、初めてで最後の役員応接室をあとにした。
そうだ。
上司、同僚、後輩に挨拶ぐらいはしておかなくちゃね。
アリバイみたいなもんではあるけど、やらなきゃやらないで後生が悪いや。
本社16階の調査部に立ち寄る。
ここがオレの仕事場だ。
オレの名刺には調査部・部付参事という肩書きがすりこんである。
こいつとも今日でオサラバか。
ここに書かれる「肩書」とやらに、長い間、振り回されていたんだな。
終わってみりゃ、単なる8ポイント活字のそれだったんだよな。
でも、重たい8ポイントではあったけどね。
部屋のドアを開けると、同僚、後輩、女子社員たちが一斉にオレを注視した。
「どうもお疲れ様でーす」
女性社員独特のイントネーションで挨拶された。
言外に、早く帰ってね、という響きを感じるのは、僻みだろうな。
「いろいろお世話になりました。みなさんもお元気で。ありがとうございました」
オレは手短にいうと、そそくさと部屋を出た。
一刻も早くこの場から消え去りたいと感じていた。
だって会社敗残兵に居場所はないだろ?
3月下旬のオフィス街は、明るい春の日差しに満ちていた。
しばらく歩いてオレは本社ビルを振り返った。
出世競争に負けたとはいえ、オレを四十年近く食わせてくれた会社だ。
素直にありがたかった。
心底、感謝している。
オレは役員室でよりもっと深く頭を下げた。
もう一度、本社ビルの偉容を目に焼きつけ、オレはくるりと踵を返した。
翌朝、オレは夜明け前に起きた。
漆黒から薄墨色へと変化していく朝を、熱い紅茶を飲みながら眺めていた。
いろいろあるんだ、今日から。
忙しくなる。
オレは大き目のバックパックに、数日分の着替えや洗面具をつっこみ、駐輪場のオートバイにくくりつけた。
どこか南へ行こう、それだけを決めて走り出すつもりだ。
身支度を整え、出発しようとした時、マンションの管理人が近づいてきて、夕方から総会です、といった。
ああ、そうだった。
今日はマンションの臨時総会だった。
議題は大規模修理の可否についてだったが、ふん、どっちでもいい、好きにやってくれ。
オレは妻と離婚以来、まったく地域とも没交渉になっている。
とにかく面倒だ。
誰からも指示されたくないし、逆に誰にも干渉しない。
そう、まったくの孤独だ。
隣が誰かも知らない。
オレがオレであるためには、隣が誰であろうと関係ない。
これでいいと判断している。
迷惑はかけない。
だからほっといてくれ。
老後は地域とともに生きなきゃいけない、とよくいわれる。
ほんとにそうか?
皆が皆、地域とともに生きなきゃならないのか?
オレはいやだ。
ベタベタした地域の人間関係など、金輪際いやだ。
やりたい人はいくらでも地域で生きてくれ。
人間関係を取捨選択できるのも、定年と引き換えに手に入れた自由だ。
だからオレは一人で結構だ。
その代わり、面倒見てくれともいわない。
アカンようになったら、自分で自分の生を始末する。
そう、死ぬこともオレの自由のはずだ。
いいかね、こういう頑迷偏頗な人間もいるのだ。
生返事を管理人に返し、オレはオートバイをスタートさせた。
雲は高く、風は晩春の香りを運んでくる。
さよう、神気いよいよ爽やかとはこのことじゃないか!
ヘルメットを被って走っていると、精神が研ぎ澄まされる。
冴え冴えと神経が息づいてくる。
あー、オレは今、とんでもなく気持ちのいいことをやってる、という解放感に満たされる。
オレは自由だ!と感じ入ってしまう。
そりゃ、たしかにオートバイは厄介な乗り物だ。
暑くて、寒くて、雨に打たれる。
冬場の雨なんて惨めそのものだ。
ぬくぬくと暖房の効いた四輪車が、正直、羨ましい。
しかし、多分、オートバイはくたばるまでやめないはずだ。
オレは走り出すたびに背筋が伸びる。
姿勢がシャンとする。
それはつまり生き方にも反映されるのだと思う。
しっかりしないとオイラには乗れないぞ、ボケたらアウトだ、ヨイヨイより事故ってお陀仏になるほうがまだマシだろうが、だからしっかりしろ!とオートバイから叱咤される思いがする。
そうなんだ。
愉しいことやるためには持続する意思と肉体が必須なのだ。
さあ、くたばるまで時間はまだ少しある。
お金もなんとかなる。
ならば、この世に生まれた「オレ」という奇跡を、徹底して愉しまなくてどうする。
オレは自分がくたばる刹那、ヘヘッ、愉しかったぜ、と思える人生にしたいのだ。
オレには読むべき本、見るべき映画、聞くべき音楽がイヤになるくらいある。
それらを想像すると、あまりに残された時間が少ないことに呆然とする。
オレはもっと知りたい、さらに愉しみたい。
悲しんだり、鬱になったり、あるいはボケているヒマなぞないのだ。
だからオレには面倒、義理、束縛に無駄遣いする時間はない。
そんな下らぬことに煩わされるのは、願い下げだ。
オレは他人様よりオレ、そう誰のものでもないオレ自身が大切なのだ。
自分が愉快でなくて、なにが愉しいもんか!
終日、南へ突っ走って、半島先の港へ出た。
ここからフェリーに乗れば、海峡を挟んだ別の県に行ける。
どうしようか?
フェリーの最終にはまだ間がある。
とりあえず行くしかなかろうが、そうガツガツして急ぐ旅でもない。
オレは待合室の埃っぽい畳にシュラフを広げ、今夜のネグラとした。
バックパックにはウィスキィもある。
腹が減れば、待合室にカップ麺もある。
切符さえ買えば、待合室の利用はOKなんだ。
やっぱり、金は便利な手段だ。
金がすべてとはいわぬが、金のない悲哀は御免こうむる。
時々、わけ知り顔の初老オヤジが、貧乏だけど心は豊かです、なんて愚にもつかないことを垂れるが、あれは気分が悪い。
ほら、ボクってこんなに清廉で素敵でしょ、って自慢してるだけじゃないのか?
貧乏を公言するくせに、食うくらいの金は持ってる。
どこが貧乏なんだ?
「貧乏」ってのは「飢える」と同義じゃないのか?
いやな連中だ。
新興宗教教祖のような福顔に虫酸が走る。
正体を看破されていることに気付かないのだろうか。
とにかく、ああいう勘違いの輩が中年や初老を惑わせる。
ミスリードする。
一銭も金がなくて生きていけるか?
その大原則を否定するとカッコイイみたいな愚かな発言はして欲しくない。
なんならホームレスになってみろ。
心の豊かさも、最低限の生活だけはできる金がなきゃ、生まれるわけがない。
とにかくあんな勘違い頓珍漢にだけは、オレはなりたくない…。
うー、いかんいかん。
酒が入ると激越になってしまう。
オレは睡眠薬を飲み、早めにシュラフに潜り込んだ。
広げた地図をいくらも眺めぬうちに、オレはぐっすり眠り込んでしまった。
アラームにしておいた携帯が出航の定刻を知らせてきた。
ここから対岸の港まで2時間弱。
煙草でも吸ってりゃ、あっという間だ。
オレは船室からフェリーの後甲板に上った。
煙草を一本ふかした後、ジーンズの尻ポケットから単音ハモニカ、いわゆるブルースハープを取り出した。
こいつを覚えたのは鬱病で入院していたときだ。
特段、目的があってのことじゃない。
入院の無聊を慰められればいい、そんなことで始めた。
まあ、ギターやピアノのように大仰でないところが気に入っている。
なんといっても尻ポケットに突っ込める程度の大きさというのがいい。
風やエンジン音でハープの音は消されがちだったが、プカプカやっていると心が落ち着く。
たった10個しかない穴を、吸ったり吹いたり。
いいのだ、これで。
このアバウトさがこの楽器の真髄だ。
気持ちを込めれば込めたように鳴ってくれる。
怒りでふけば、怒ったように、情けないときは情けなく、それは見事に反映される。
今のオレ?
どうなんだろう。
悪い気分じゃない、それだけはいえるな。
なかなかブルージーじゃない、という声にオレは振り返った。
女が立っていた。
年の頃なら、目の子四十チョイ、というところか。
ショートヘアにジーンズ、スィングトップ。
なんだい、並木族の末裔か?
「ブローしてるわね。ジュニア・ウェルズってとこかしら」
「気持ちはね。そんなに上手くはないが。だけど、だれだい、あんた」
「故郷に帰ってるとこ。なんだか今の生活に倦んでしまったみたいでね、里心がついたのね、きっと」
へーそうかい、とオレは答えたが、ちょっと待ってくれ。
それがどうしたんだい。
そんなヘビーなハナシは聞きたかないぜ。
「どう、向こうにつくまでビールでも飲まない?」
「あいにくだがオートバイなんだ。酒は大好きだがな、今は飲めない」
エンジン音にかき消されぬよう、オレは大声で答えた。
「そう。じゃ、コーヒーでもいかが」
「あー、オレはコーヒーが嫌いでね。すまないな」
「ふーん、あれもこれもダメってわけだ。せっかくこんなにいい女が誘ってるのに、芸がないわね」
「よせやい。別に誘ってくれと頼んだわけじゃない。じゃ、こうしよう、オレは紅茶を飲む。アンタはコーヒーだ。それでどうだ」
「上等よ。話し相手がなくて困ってたの。あなたも一人なんでしょ?」
ああ、と答えたが、別にオレは話し相手が必要とも思っていない。
まあ、いい。
成り行きだろ、これも?
煙草ばかり吸ってても、喉がいがらっぽくなるだけだしな。
オレは女と二人、階下のラウンジに降りた。
コーヒーと紅茶を頼んだ。
出てきたのは泥水コーヒーと、ダストティー。
ヤレヤレ仕方ない、フェリー船中で贅沢いっても無理だろう。
「どこに行くのよ?」
コーヒーの味に顔をしかめながら女が切り出してきた。
「さて、どこだろう。定年したばかりでね、時間はあるんだ。行き先は賽の目で決めてもいいと思ってる。あんたは?」
「ふーん、定年なの。わたしは生まれ故郷に帰る途中。山また山の辺鄙なところよ。バスが1日に2往復しているだけ。それもたいてい空バス、ってところよ」
「両親が住んでいるのか?」
「ええ。すっかり老いてしまったけどね。町に出ておいでというんだけど、頑として離れたくないみたい」
「そうかい。大変だな。オレには幸か不幸か、そんな重荷な係累がないけどな」
「あなた行き先を決めていない、っていってたわね。どう?わたしを送っていかない?わたしアシがないのよ。オートバイツーリングの一環と思えばいいじゃない。あなたは話し相手ができる、わたしは楽ができる。名案と思わない?」
「藪から棒だな。しかしそれは無理だな。まずオレはオマエがどんな女なのかわからない。それに送る義理もない。第一、話し相手が欲しいとも思わない」
「旅は道連れ、っていうじゃない。それに送り狼になったってかまわないわよ。小娘みたいな駄々はいわないわ」
「送り狼ねぇ…。喩えが古すぎだ。今日日の小娘の方がさばけてるぜ」
「あら、そういう経験があるの」
「ないね。さっぱり。エロ週刊誌ネタだ。それにオレは女より酒かバクチがいい」
「バクチが好きなの?じゃあ、こうしましょ。途中に競輪場があるわ。その近くには温泉もある。競輪で遊んで、旅館で温泉に入って、酒を飲むという趣向はどうかしら?それで翌日、あなたはわたしを送る、と」
オレはグラッと心が揺れた。
いや、この女にではなく、競輪と温泉、それに酒、だ。
「ふむ。悪くないな。よし、乗ろう。ただし、いっとくがな、おまえのスケジュール通りに進むとは限らんぜ」
「了解。いつまでに着かなきゃなんないってこともないの。両親に連絡もしていなしさ」
コーヒーも紅茶もすっかり冷たくなり、オレたちがうだうだとバカ話を続けるうちに、フェリーは港に入っていった。
女のヘルメットがないので、フェリー事務所で尋ね、買い求めに往復した。
さらに二人分の荷物をオートバイに括りつけなきゃならん。
ひどく難渋したが、なんとか強引に搭載する。
バランスが悪いが、仕方あるまい。
飛ばさなきゃいいんだ。
女が道を指示するというので、それに従ってオートバイをスタートさせた。
地図は荷物の底の底、もう取り出せやしない。
走りだすと腰に回された女の手が暖かかった。
なんだか遣る瀬ないような、情けないような、まあ、普通でない出来事にオレがオタついてるだけだろう。
とんだセンチメンタル・ジャーニーだな。
女が指差す右とか左に進んでいくと、競輪場が見えてきた。
とたんにギャンブル場の匂いが漂ってきた。
ギャンブル場の匂いはすぐにわかる。
蒸れたような、饐えたような独特な匂いだ。
特に場内で循環している札にきつい匂いがする。
しかしオレは嫌いじゃない。
いや、むしろ好きな匂いだろう。
駐輪場にオートバイを駐め、場内に入った時、6レースまで終わっていた。
「オマエ、ギャンブルやったことあるのか?」
「ううん。まったくないわ。とにかくなにもかも初めてね」
「これから最終レースまではケンする」
「ケンってなに?」
「見るだけってことさ。金はかけない。今日のレースの流れ、出目の傾向を探る。着いたとたんに車券を買うのは愚の骨頂だ。予想が立たなけりゃ最終レースもパスだ」
「え?それで終わっちゃうの?つまらないんじゃない?」
「いや、今日は開催3日目だ。明日が決勝だから、明日買うのがいいかも知れん。データは多いほどいい」
「あなた本当に定年迎えたサラリーマンなの?バクチでズブズブだったんじゃないの?」
「いや、普通だ。サラリーマンでもバクチくらいする。麻雀をするやつが多いがね。オレは麻雀が体質的にダメだ。時間がかかりすぎる。同僚とやると帳面になるのも嫌いだ。現金のやり取りでないと不愉快だ。それになにより人を揃えなきゃならないのが面倒だ。一人でやるほうが気楽で、ウンと愉しい」
「そういうものなの」
女は怪訝そうな顔をしていた。
バクチをいきなり理解しろといっても、無理な話だろう。
結局、最終レースまでケンし続けた。
どうにもライン展開が読めぬし、直感がわかない。
こういうときは尻尾を巻いて帰ったほうがいい。
よかったの、これで?と女が聞いてきたが、いいんだ、と答え、オレたちは手近な旅館を探しに出た。
観光案内所で教えてもらった旅館に入った。
夫婦ということにして、宿帳には適当な名前を書いておく。
畳にひっくりかえっていると、女が茶を淹れてくれた。
なんだか安手の不倫旅行みたいだな。
「宿帳の名前があなたの名前なの?」
「いや全然違う。アンタに名乗る必要もないだろ。アンタの目的地までという約束だからな」
「それもそうね。でも女性の名は奥さんのなの?」
「いいや。女性社員の名前だ。第一、女房の名前は忘れようとしている」
「あら。それは謎かけかしら?」
「バカいうな。女房とは別れてもうずいぶん経ってる。古い話さ」
茶を含むと仲居が夕食を運んできた。
女は自分でやりますから、と給仕を断った。
オレは仲居に、裸銭ですまないが、とチップをわたした。
仲居は、あら、そんな、と形ばかり断ったが、万事心得てますという顔つきで頷いた。
あーあ、不倫旅行と勘違いされてんな、ヤレヤレ。
旅館の夕餉は驚くほど美味かった。
海が近いせいもあるのだろう、近海の雑魚の滋味が実にうまい。
干からびたマグロなぞクソクラエだ。
酒が進んでいかん。
女もうまそうに酒を飲んでいる。
たっぷり食べ、飲み、動くのが苦しかったが大浴場へいく。
湯もいい。
当たりの旅館を引いたようだ。
これは案外、面白い旅をしているんじゃないかと、ちょっと背筋が発火したようだった。
寝酒の地酒を漬物でボツボツやっていると、女も風呂から上がってきた。
女は冷蔵庫からビールを取り出すと、グッと流し込んだ。
ガサツでなく、卑屈でなく、なかなか形のいい飲み方だ。
飲み方の綺麗な女は、なかなかいそうでいない。
ひょっとしたら意外といい女なのかな、とオレはゆくりなく思った。
「明日は競輪場ね。最初から行くの?」
「いや、そのことだが、行かないつもりだ」
「え、どうして?」
「直感が行くな、といっている」
「直感、なの?」
「ああ。オマエに繰言をいっても詮ないことだろうが、定年してやっと判ったことがある。それはな、直感に基づかない判断は誤りだ、ということだ。オレの会社人生がそうだった。なにかをジャッジする場面でのことだ。頭の隅で直感が警報を鳴らしているんだ、それは違う!とね。ところがオレは回りの状況やしがらみを計算し、直感を押し込めて判断してきた。その結果がなんだったか。全部、裏目さ。なぜだかわかるか」
女は困っていた。
「為すことの姿勢が悪くなる。反応が鈍くなる。なぜなら合理的であるはずだと思っているにもかかわらず、直感とは違うわけで、どこかに拭いがたい齟齬感がある。それが姿勢と反応にでるんだ。するとな、社内出世レースの相手にはそこがよく見えるんだ。ああ、ヤツは跛行しているな、と見破られるんだ。となりゃ、レースは周回遅れってことになる。いいか、直感は常に正しいんだ。誤るのは判断なんだ。こんな簡単なことに気付くのに定年までかかったってのはお笑い草だがな」
「サラリーマンも辛いのね」
韜晦するように女がいった。
「はは、もうサラリーマンじゃないからな。辛くはないさ。ただな、バクチも同じなんだ。今のオレは直感で生きようとしている。自分にとってそれは快であるか否か、その直感を大切にしたい。今日の競輪ではまったく直感がこない。ならばよすしかないさ。ギャンブル場はなくならない」
「じゃ、これからは直感だけでいくの?」
「ああ、そうだ。オレも六十歳を過ぎた。もう回りやしがらみにオタオタする余裕なぞない。判断を誤って後悔するのは、残り少ない人生の無駄だ。しかし少なくとも直感をベースにすれば、後悔だけはしないですむ。だってそれはオレが決めたんだからな。そのかわり責任からも逃避しない。わかりやすいだろ?そしてそれはオレにとって最も快適なジャッジの方法なんだ」
「ふーん。じゃ聞くわ。わたしへの直感、ジャッジはどうなの?」
今度はオレがグッとつまってしまった。
女の目が妖しくぬめっていた。
それは…と絶句したまま、オレは股間と直感に直裁に尋ねてみた。
股間はくたびれたポンコツだが、直感は行け!と命じていた。
諸君、直感には従うべきだろ?
照れくさい朝を迎えた。
オレはスレッカラシの初老ではあるが、この手に老練とはなれなかった。
普通でいることがなかなか難しい。
チェッ、高校生じゃあるまいし、情けないぜ。
「朝飯済ませたら、すぐに出るが、いいか?」
「朝風呂なんてどう?」
「だめだ。オレは風呂に入ると酒が飲みたくなる。シャワー程度にしろ」
二人で定番の旅館の朝餉を食す。
美味いのだ、これが。
なぜかは判らぬが、旅館で迎える朝餉はきわめて美味い。
これに冷たいビールがあれば、最高なのだがな。
身支度を済ませ、スルスルとオートバイをスタートさせた。
快晴。
無風。
下着も靴下も新品。
エンジンよし、ブレーキよし。
そしてパッセンジャーシートに女。
ふむ、よろしい。
実によろしい。
ダウンタウンを過ぎると信号もなく、快適なツーリングが続いていた。
ヘルメットの中で口笛を吹いたが、女には聞こえないだろう。
三桁国道が広い河原と並行するところで大休止をとる。
途中のスーパーで購入した黒パンにハムとチーズを挟んで、昼食だ。
春の豊饒が満ちていた。
川面で魚がライズしている。
対岸には菜の花がその鮮やかを誇っている。
緑の山が笑っている。麦穂の上空でヒバリがヒップホップしている。
空気が暖かい。
雲は高く、陽は満遍なく慈愛を降り注いでいる。
春草の息吹が充ちている。
山吹の蕾が膨らんでいる。
風景全体が生の躍動にあふれている。
おお、これぞエラン・ビタール!
これ以上、なにが必要だ。
あー、春の日本の川はいい。
しみじみと泣きたくなるような小体な風景だ。
これがオレたちの心のありようの反映じゃないか。
この国に生まれたこと、そして生き、死んでいくことがいとおしく、そして光と水と緑にあふれたこのありようがかたじけなく、たまらなく切ない。
「いいわね、この風景…」
女がポツリといった。
あら?こいつ、わかってんじゃねぇか?この見事さに気付くなんて、メチャメチャいい女なのかもしれない。
「ああ、いいな。知ってるか、こういう和歌を」
願わくば 桜の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
オレは西行の和歌を口に出した。
無論、今は桜には早いし、夜でもない。
しかし、いいじゃないか、そんなことは。
気分がいいなら、それでいい。
これも直感だ。
「如月の望月はお釈迦様の入滅の日だったそうだがな」
とオレは付け加えた。
その時だ。
このまま河原に緋毛氈を敷き、酒を片手にこの女の膝枕でウトウトできたら、そのままくたばっても悪くないかもしれない、一瞬そういう妄想が湧き上がった。
おい、待てよ、オレはこの女に惹かれているのか?
冗談だろ?
女が、桜の木の下には死人が埋まっているというけど、といった。
「桜の絢爛に、死の無残を重ね合わせるのが日本人の心性かもしれないわね。桜の美の蕩尽に酷薄さを感じない人は鈍感だと思うわ」
「そうだな。生と死の循環あってこそ、だな」
オレはつまらない相槌を打った。
誤魔化しに、ごそごそとポケットから煙草を取り出し、火をつけようとしたが、百円ライターはガス切れだった。
フン、肝心なときはいつもこうだ。
コラエ性がなさすぎだ。
わたしね、と女は川面を見詰めながら語り始めた。
「あなた商売女を買ったことある?」
「ん?立ちんぼとか、風俗とか、そういうことか?」
「そう。で、答えは?」
「ある。若い頃は随分お世話になった。しかし、若いときには普通のことだろ?」
「そうね、普通のことよね。なんたって古今東西、決してなくなることのない商売だそうだから」
わたしさー、と女は後ろ手を突き、上空を見上げる格好になった。
「アンタと同じ。人生の裏目ばっかりひいてね、最後はどうにもならなくて体を売ってた。へへー、驚かせちゃったかな。でもホントのハナシなんだ」
なるほどね。
背筋がしっかりしている女という印象があったが、そうか、そういうことか。
この女に感じる膂力は、修羅場をくぐって獲得したものなのだろう。
「ふむ、別に驚かないな。それで生きてきた、ということだろ?誰にも迷惑をかけてないんだ。自立していると言い換えればいい」
「優しいこといってくれるのね。涙が出そうだわ、といったら、またなにか説教されそうね」
「説教くさいか、オレは?」
「説教のできない年配者はダメね。説教はね、基本軸がないとできないでしょ。説教もできないなんて、一体、今までなにをやってたの、っていいたいわ」
「優しいこといってくれるんだな、オマエも」
女がフフッと小さく笑った。
稚雅にあふれた無邪気な笑いだった。
「わたしね、今から行こうとしている田舎で高校生まで暮らしてた。田舎暮らしがたまらなく嫌いだった。皆と同じように都会に憧れてた。華やかで、贅沢で、なんといってもチャンスがゴロゴロしていると思ってた」
川面を見詰めたまま、独り言のように女が話し始めた。
それこそわたしは田舎の初心で無邪気な少女だった。
疑うとか、邪推するとか、てんで無縁だった。
森と川があるべき形のままにあり、それは遍くこの国にあるものだと信じていた。
まだオカッパ頭の頃よ、信じられないかもしれないけれど。
小学校の上級生になった頃かな、山間でもTVの民間放送が受像できるようになり、少女マンガに夢中になりだすと、都会が急に眩しく、華やかに見えてきた。
都会に行きたい、その願望が勃然と膨らんできたの。
うまくできりゃ、機会だけは無尽蔵にある、そう思えた。
行かなきゃ、絶対に都会に行かなけりゃ、強迫されるように感じていた。
父母になかなかいいだせなかったな。
都会に出たいって。
だから勉強した。
勉強ができれば大学に名を借りてここから脱出できる、と計算したの。
ところが父母は、わたしが出て行くことに反対しなかった。
今から思うと、もう時代が違うんだと諦めてたんじゃないかしら。
贅沢で華やかな都会の吸引力にはかなわない、って。
楽しかったわ、学生時代って。
わたしの絶頂だったかもしれない。
恋もしたし、友達と遊ぶのも面白かった。
先のことはわからないけれど、無限の希望だけはあった。
希えば叶うって。
単純よね。
いい会社に入って、いい結婚相手を見つけて、いい生活を送る、そんな自分を貶めるような生き方だけはしたくないって…。
バカみたいでしょ。
だけどあなたのいった通り、人生にツキってあるのよねぇ。
ツカない人間は徹底してツカない。
努力してもツキの後ろ髪を握ることができるかどうか、展開を読めるかどうか、ここがツキよね。
残念だけど福音は降下しなかったわ。
私大の一人暮らし女なんてハナもひっかけられない…あ、そう、就職のこと。
願書さえ受け取ってくれなかった。
その頃はそれでOKだったからさ。
結局、アルバイトみたいな形で小さなTV制作会社に拾ってもらった。
下請けの下請け。
悲惨なものよ。
ほとんど労働タコ部屋ね。
休日みなんてないし、そもそもアパートに帰れなかった。
長時間労働でクタクタになって、少しでも楽になろうと酒を飲む。
すると隣にいるクタクタの男がさ、妙にいい男に見えてね…。
ヘヘッ、だらしがないわね。
そいつ、お決まりのてんで半端な男だった。
疲れた、っていったら、これ疲れが取れるから、ってくれたのが気まずい薬よ。
そう、覚醒剤。
男と二人してパクられちゃった。
ええ、執行猶予はつけてもらったけどね。
当然、会社はクビよね。
食えないからさ、なんとかしたくてね。
でも前科持ちの女が働けるのは水商売くらいじゃない。
素性は問われないから簡単に潜り込めたけど、水商売でもトラブルばかりでさあ、気付いたら風俗にいた。
最低のシミュレーションに転ぶのよね。
裏目、裏目ばかりなんだ…。
典型的転落の構図ね、なんの芸もコラエ性もない話よね、つまらないハナシ聞かせちゃってゴメンなさい。
悪かったわ。
女は繰り返した。
「たいしたもんだな」
「え?なにがたいしたもんなの?」
「オレはオマエのような経験はない。しかし想像するに、そんな過去があれば、自堕落な品性のない女ができあがりそうなもんだがな、オマエにはその匂いがない。むしろ女の玲瓏なたおやかさを濃く感じる。オマエはいい女だ、オレはそう思う」
「そう…。ありがとう。キスしてあげようか?」
バカなこというな、と慌てて断ったが、正直にいおう。
オレはキスして欲しかった。
わずかな時間でオレはこの女に魅せられている。
くやしいが、それは間違いないようだった。
「さ、日が暮れないうちに着きたいな、オマエの故郷とやらに」
「そうね、ゆっくり行くとあと3時間くらいね。高速道路もないからさ」
パッセンッジャーシートに女を乗せ、また走り始めた。
平坦だった道は徐々に山間に入り始め、次第に細く、そしてタイトなコーナーが続き始めた。
舗装も荒れてきて、継ぎ目に大きなヘコミが見えるようになってきた。
猛々しいような緑の森が迫り、道のすぐ横からすっぱりと、断崖がずっと下の川に落ち込んでいる。
人の気配もまばらというより、てんでない。
なるほど、女のいう通り、すごい田舎だな。
首を大きく伸ばし、女が、もうすぐよー、と叫んだ。
その声は風とヘルメットを押し切ってオレの耳に届いた。
オレもふりむきざまに、わかった、と叫びかえした。
女の指示した脇道にオートバイを乗り入れた。
そこからクネクネと曲がるアプローチをつめると、小さな家が見えてきた。
ここが女の家なのだろうか。
オレは庭にオートバイを突っ込み、サイドスタンドをかけた。
女がヘルメットを脱ぎながら、ここよ、有難う、といった。お茶でも飲んでいきなさいよ、あ、なんなら泊まっていったら?と付け加えた。
ま、お茶くらい飲ませてもらってもバチはあたるまい。
オレは女の後に続いた。
女が引き戸を開けた。
一見したところ、老夫婦の家にありがちな調度の乱れがない。
しかし、確かにキチンと片付いているが、埃っぽさが拭えない。
生活臭が感じられないのだ。
澱んだようであり、空気が循環した気配がない。
そう、廃屋にうずくまる重い澱のような感じだ。
ただいまー、わたしよ、父さん、母さん、いる?と女が声をかけたが、空気の動きはなかった。
ヘンね、出かけてるのかしら、と呟きながら、女は部屋に入っていった。
突当りの戸を開くと、女が竦んだ。
雷に打たれたような一本の棒と化した。
「どうした、なにかあったのか?」
オレは玄関先から伸び上がるようにして、女に呼びかけた。
棒のようだった女が下を向き、イヤイヤをするように頭をふった。
「死んでる。父さんも母さんも…」
オレは転げるように突当りの部屋にかけよった。
その光景、とくに老婆のデスマスクは今も鮮明な記憶にある。
老婆の死顔は満ち足りた輝くばかりの笑顔だった。
純雅な聖性すら感じさせるそれ。
オレは息をのんだ。
目を転じると、部屋の奥の鴨居に老人が垂れていた。
その質感は一切の緊張から無縁な弛緩の極に見えた。
冷冥な空気の澱みが、シュールな光景を切り取っていた。
「オマエの両親か」
オレの愚にもつかぬ質問に、女は、ええ、と答えた。
オレは喉がゴクリとなった。
布団で微笑をしている老婆の枕元に封筒があった。
オレは、それ、と目で女を促した。
女が気付いてオズオズと手を伸ばし、封緘を切り、中の紙に目を落とした。
女はしばらくその紙を読んでいたが、ゆっくりと指が開かれた。
紙が床にヒラヒラと舞い落ちた。
女は開かれた掌をそのまま顔に当てると、堰をきったように嗚咽しはじめた。
声を押し殺した、呻くような嗚咽だった。
オレは立ち尽くすしかなかった。
どれくらいたっただろうか、女はキッと顔を上げると、虚ろな目でボソッと呟いた。
「わたしって、ホントに親不孝…。どうしてここまでハンチクが続くのかしら」
「どういうことだ」
読んでみればわかるわ、と女は床から紙を拾い上げ、オレに渡した。
遺書だろうか?
気の進む黙読ではないが、オレは文章に目を落とした。
その跡は戦前の人らしく、破綻のない律儀な楷書で書いてあった。
細かいニュアンスは忘れたが、こういうことだったと記憶している。
老婆が急にいけなくなってしまった。
昼前に台所で昏倒すると、意識の混濁とともに、痙攣が始まった。
電話で救急車を呼ぼうとしたが、ああ、これはもう寿命だと判断した。
救命医療を受けたところでなんになる。
体中にパイピングされ、ただ生命代謝を行っていることが生きているといえるかどうか。
そんな生は願い下げだ。
人のあるは、能動的な意識であると思う。
だからこのまま看取ってやることにした。
そうこうするうちに静かに老婆は息を引き取った。
最後に意識が戻り、女のことを頼みます、それになにより、あなたと生きてこれたたことに感謝します、と囁き中有に身罷った。
老婆は少なくとも得心はあったはずだ。
きっと満足して死んだのだと思う。
ただ、気掛かりはオマエのことだ。
たまに帰ってきてもオマエは自分のことに全く触れない。
多分、オマエにも気まずいことがあるのだろう。
詮索はしない。
オマエの人生なんだから、オマエが決めればいい。
父としては、オマエの人生がよかれかし、と願うばかりである。
わたしは老婆と一緒にこの世から去ることにした。
老婆と二人、お互いにジグソーパズルのようなものだった。
足らざるところを補い、過ぎたところを打ち消しあっていた。
わたしたちは、もう有り余るほど生きた。
ここで棺をいただこうとも、不満はない。
全身を使って走ってきた自信はある。
よろしい。
わたしはこのまま透明な世界へ行こうと思う。
女よ。
父はオマエに幸あれ、よかれかしと願う。
しかしそれを掌中に入れることは、かかってオマエの懸命にあることを常に想起せよ…。
ありがとう。
オレは淡々と生きた老夫婦の自在に、思わず鼻の奥が焦げ臭くなった。
「この二人にオレは脱帽だ。オレも彼のように納得してクタバリたい」
「そう…。あなたにそういってもらえたら、自分のことのようにうれしい。ただね…」
女がいいよどんだ。
「ただ、なんだ?」
「最後の日付を見て」
オレは再び紙を見た。
日付は昨日になっていた。
オレは愕然としてしまった。
「つまり、これは…」
「そうよ。あなたとわたしがセックスしてたとき、父はこの手紙を書き、鴨居に紐をかけていたの。フェリーであなたと出会わずに、そのままここへ戻っていたら、二人が死ぬこともなかったかもしれない。いえ、競輪場に行かなかったら、違ったかもしれない。ホントにわたしって、どうしてこう親不孝なんだろう。なにもかもハンチク。どうしようもない大バカの最低ね。わたしのほうが死にたいくらい…」
オレは歯噛みをして、絞り出した。
「すまん。許せ。オレが頓珍漢なことをいいだしたばっかりに…」
「ううん。それはいいの。だってわたしが誘ったんだし。あなたには感謝こそすれ、あなたが重荷を背負うことはないわ。ただ自分自身が惨めで、情けないだけ。踏ん切りが悪かったのよ、わたし。これまで情況に流されるだけで、敢然と決意したことは一つもなかった気がする」
女は老婆の枕元に、腰が抜けたようにペタリと座り込んだ。
一気に全身が脱力したように見えた。
当然だな。
この光景を見せつけられて、普通でいられるわけがなかろう。
オレはちょっと待っててくれ、と声をかけ、オートバイに括りつけたバックパックからウィスキィを持ってきた。
「こんなことしか考えつかなくて、すまない。野暮だとは思うが、飲め。アルコールは心の疲労に効く」
女はフラスコに入れたウィスキィを少し舐めた。
オレは女に、余計なことかもしれんが、と断ったうえで、鴨居から女の父親の冷たい体を降ろし、老婆の隣に横たえた。
それからは長い沈黙が続いた。
徐々に影が長くなり、稜線に隠れはじめた太陽の光が衰退してきた。
座り込んでいた女が口を開いた。
「決めたわ」
「決めたって、なにを?」
「自分を変えるのは自分しかいない、っていう当たり前を、今、思い知らされた。ハンチクだったのは誰でもない、わたしがハンチクだったから。てんで努力してこなかった。ズルズルと流されるばかり。あー、もう、ホントにだらしがない。親の死に目でやっとわかるなんて、バカもバカ、大バカだわ。だから決めたの。わたし、今から変わる。自分を正々堂々と掲げて進む。でないと両親に申し訳がたたない。いや、違うわね、わたしの生きている意味がない」
ん?
オレと同じじゃねぇか。
コイツも今ごろ判ったのかい。
遅いよ。
でも気付かないよりウンと気が利いてるけどな。
「オレもオマエと一緒さ。気付いたのは五十歳過ぎてからだ。オマエより遅いくらいだ。ただな、それからオレは意識的に自分を変えようとした。まず姿勢と生活を変えようと決めた。直感で生きようとするのも、そのひとつだ。生きることに挟雑物が多すぎる。絶対に必要と思われること以外は、すべて捨てることにしている。必要かもしれない程度のものはまったく必要じゃない。放り捨ててもなんら困ることはない。だから今はオートバイに括りつけるバックパックで十分だ。歯ブラシは必要だがペーストは不要だ。塩があればいい。そういうことだ。スーツやネクタイなんぞ、不要も不要、単なるゴミだ。清潔で寒さが凌げればいい。男に本当に必要なものは驚くほど少ないんだ」
「じゃ、女はどうなの?」
「それはわからない。オレは女じゃないからな。ただ、想像としていえば、ほとんど変わらないと思う。人間には物が多すぎる。玩物喪志だな」
「ガンブツソーシ?時々、判らない言葉をいうわね」
「玩具の玩に、物。喪失の喪の志だ。簡単にいえば、物に心を奪われて、本物が見えないことだな」
「ふーん。物を情況という言葉に置き換えたら、まるでわたしのことじゃない。そう非難されても仕方のないこれまでだったからさ」
女の目にヒリヒリするような力が見えていた。
女は、お腹がへったわ、なにかある?と問うてきた。
これだけ部屋がキチンと片付いているのだ、腐敗しやすい食べ物は父親が自殺する前に処分しているであろう。
幸いなことにオートバイのバックパックには、非常食としてトレッキング用食料と缶詰が入れてある。
「ああ、インスタトでよければな。結構うまい」
お湯を沸かすのに台所へ行く。
沸騰するまで台所の開き戸や冷蔵庫を覗いてみたが、案の定、見事に廃棄されていた。
細かいところまで抜かりのない老夫婦だ、と感心してしまった。
トレッキング用のアルファ米と缶詰で食事をする。
贅沢いわなければ十分に旨い。
いや、グルメだなんだ、旨いの不味いのいうほうがチャンチャラおかしい。
空腹であれば、なにものも天上の甘露なのだ。
人は食に対して謙虚さ喪失し、飽食に倦んでいる。
そもそも日本人が空腹から解放されたのは、ここ何十年かの話ではないか。
人の歴史から見れば須臾の間だ。
そのわずかな時間に、なにか大切なことをないがしろにしている感が拭えない…。そんな説教くさいことを考えながら、オレたちは無言のまま食事をすすめた。
ふうっ、この説教臭さが初老の始末に悪いところだな。
食事の後、たっぷりウィスキィを注ぎいれた紅茶を飲みながら、オレは女に尋ねた。
「で、この仏サンはどうするんだ。このままってわけにもいくまい」
「埋める」
「埋めるたって、届けもいるし、第一、日本じゃ火葬しかできないぞ」
「だから?」
「だからって、どういうことだ?」
「いいじゃない、そんな届けとか、火葬とか。わたしは両親をこの地に、森と川に囲繞されたこの地に、眠らせてあげたい。法律なんてよくわからないけれど、わたしはそうしたいの。それは両親の願いだとも思う。父さんも、母さんもここで生まれ、育ち、そうして死んだの。二人の還るべき魂の場所はここしかないわ。卒塔婆の下ではないし、ましてや整理棚のような納骨堂では決してない。父さんも、母さんもここで、土の中で分解され、代謝され、土と空気と水に還元されるのよ。これで二人の生が循環するの」
「そうか。オマエがそれでいいなら、そうしよう。オマエの両親だ。オマエがベストだと判断するようにやればいい」
「ありがとう。ベストかどうかわからないけれど、直感よ、これはね」
「直観か。それならますますいい。直感に従わなきゃ、あとで後悔する。オマエが後悔すれば、両親二人とも眠れまい」
「いったでしょ、さっき。わたしは変わるって。これがその最初よ」
女は莞爾とした。
布団に横たわる老婆と同じ溶けるような表情だった。
女が体を寄せてきた。
オレはその体を受け止めた。
たおやかな温もりがオレの懐で息づいている。
この女の暖かくて柔弱な肉体が、そして繊妍な感性が愛しい、オレの直感がそう囁いていた。
女が唇を寄せてきた。
オレは女の口を吸った。
不謹慎かもしれぬ。
しかし、いいじゃないか、老夫婦の再生への予祝だ。
死は生殖のアクセレーターだ。
再生の循環起点だ。
そのまま倒れこむと、あとは濃密に凝縮された時間が流れていった。
女の中は熱く甘く湿り、その中でオレのタンパク記号が爆ぜた。
熟睡の後の空腹感でオレは目覚めた。
時計は五時を少し回っている。
女はまだ眠っていた。
オレはお湯を沸かし、紅茶を淹れた。
その紅茶を注いだシェラカップを手に、庭に出る。
山と森と川の冷気に少し震える。
煙草に火をつけ、大きく吸い込んだ。
わずかに東の空が明るかった。
オレは朝が好きだ。
特に払暁から夜明けにかけて、空と大気が刻々と変わっていく様は、拍手をしたくなる。
すべてがリセットされ、昨晩までの汚穢が洗い流されていく気がする。
死からの再生、そんなことをこの時間は想起させる。
しかし睡眠薬なしで熟睡できたのは、いつ以来だろう。
多分、マンションを出てからは、これまでの会社生活のような生疲れでなく、目一杯、肉体と精神を疲労させたことが上質な睡眠を呼んだのだろう。
一日分のエネルギーをその日に完全消費し、それを熟睡で回復させる。
睡眠を精神の死と見做せば、これこそが人の生と死のデイリィな循環なのだろう…。
ちぇっ、また説教臭いこと考えてんな。
いかん、いかん。
オレは盛大に放尿し、家に戻った。
女も起きていた。
ちょっと照れくさかった。
おはよう、と声をかけると、おはよう、お腹が減ったわね、と返事がかえってきた。
邪気のない、あざやかな表情だった。
きのうまでの屈託と蓮っ葉さが、見事に消失したいい笑顔だった。
こいつも再生したのか?
そうかもしれんし、あるいは自分は変わると宣言した矜持がもたらした表情かもしれん。
まあ、どちらでもいい。
いい女になることは、素直に喜ぼうじゃないか。
特にそれが惚れた女なら尚更だ。
こちらも気分がいい。
昨日と同じですまんがな、とオレたちはアルファ米と缶詰で食事を始めた。
「これを食ったらすぐに始めよう」
「埋葬ね」
「スコップとかの道具はあるんだろ?」
「ええ。小さいけれど田圃もやってたから、大抵のものはあるわ」
食事が済むと、オレたちはそれぞれスコップを手に外へ出た。
今日も暖かく、微風と陽光に満ちていた。
天がオレたちを嘉しているような気分だ。
埋葬に最高の日があるとすれば、今日のようなことをいうのじゃないか?
女が家から少し下った川の傍にいざない、ここにしましょう、といった。
そこからは山間の風景に見通しがきき、川の瀬音も涼やかだ。
森の匂いもありありとわかる。
魂が眠るにはこれ以上なさそうなロケーションだった。
二人でスコップをふるう。
土はねっとりと蒸れて柔らかく、腐葉土の滋養にあふれていた。
死体を代謝還元させるには、もってこいの土じゃないか。
とはいえ、二人分の穴を掘るには結構、骨が折れた。
最後は喘ぎ喘ぎ、クタクタになってしまった。
仕方ない。
いくら若ぶっても、絶対的な肉体の衰えは隠しようがない。
ヒリヒリと「老い」を痛感させられる。
汗だくになって掘り終えた頃、すでに正午を過ぎていた。
一旦家に戻り、かわりばえのしないアルファ米と缶詰で昼食を済ませた。
「さて、いよいよ埋葬だな」
「そうね。だけどどうすればいいのかしら。初めてだし」
「当たり前だ。オレだってこんなことは初めてだ。ただな、この葬送は坊主や葬儀屋が仕切っているわけじゃない。オマエが仕切ってるんだ。オマエが望むようにやればいいさ。それこそが両親が望むことだろ?これこそ格別な最高の葬送だ」
「そうね。わたしが生まれ変わったことを、父さん、母さんに伝えるのよね。それが野辺送りというのが辛いけど…」
女は苦しげな表情を一瞬見せた。
「父さん、母さんには美しい姿で眠ってもらいたい。でなきゃイヤ。そうよ、ちゃんと死装束と死化粧をさせてあげなきゃいけない」
「それがいい。エンバーミングしてあげな」
「エンバーミング?」
「死装束と死化粧、葬送を荘厳にするアメリカ流のやりかたさ。でも、それは商売ベースだからな、今はオマエがやりたいようにやればいいんだ」
女はスッと立ち上がり、化粧道具を手にした。女は念入りに母親に化粧を施し始めた。丁寧に、愛しむように…。
老婆の唇に紅が近づいたとき、唇に雫が落ちてきた。
女の涙だった。
女はポタポタと大粒の涙を落としていた。
女は、ごめんね、と何度も小さく呻きながら嗚咽していた。
オレは、手が要るときは呼んでくれ、といい残し庭に出た。
いかん、どうにも気がきかねぇ。
ヤキがまわったな。
オレは立て続けに煙草を吸うしかなかった。
どれくらいたったろうか、ちょっとお願い、と声がし、オレは部屋に戻った。
「父さんと、母さんに服を着せて欲しいの」
「ああ、お安い御用だ」
死体の横にキチンと畳まれた洋服が用意してある。
洋服は古いが仕立てのしっかりした上等なものだった。
フーン、趣味がいいじゃないか。
死体は結構重い。
女手だけで着替えさせるのは無理だろう。
それに死後硬直も進んでいるんだ。
余計に手間がかかる。
オレたちは黙々と作業を進めた。
思ったより難儀し、時間がかかった。
着替えが終わると、雨戸を一枚はずし、死体運搬用のストレッチャー代わりとした。
オレは死体に一礼し、まず父親を雨戸に乗せた。
雨戸の両端をオレと女で支え、さきほど掘り終えた墓穴に運んだ。
静かに、かつオレとして最大の敬意を払って父親の死体を安置した。
同様に母親も運び、安置する。
ここで一応終わりだ。
「これから土くれを被せる。見納めだ。なにかかける言葉はあるか」
「ううん。ないわ。化粧のときに全部すませた。なにをいっても、繰り返しになってしまう」
「そうか。じゃ、始める」
オレはスコップで土くれをかけ始めた。
女が手伝うわ、といったが、いいんだ、オマエは黙って見ていろ、と断った。
女は静かに眺めていた。
フム、もう流すべき涙は出し尽くしたのだろう。
掘るのとはうってかわり、埋め戻す作業はあっけないほどだった。
いくらもかからぬうちに、墓穴はすっかり平坦になった。
「殺風景ね」
「そうかな。形式はそうかもしれんが、これ以上ない荘重な墓だと思うがな。死者を弔う赤心という点では、誠心誠意、そのものだ。オマエがすべて成し遂げた葬送じゃないか。胸を張ればいい」
「そうね。大袈裟が嫌いな両親にはむしろ相応しいかもしれないわね」
オレたちは並んで立ち、最後の合掌をした。
正しいやりかたがあるのかも知れぬが、ふたりとも知らない。
ただ掌をあわせ、魂の安からんことを願った。
オレたちは決然と踵を返し、家に戻った。
「わたし、振り返らない。両親と一緒に昨日までのわたしは埋めたわ」
そうか、とオレは答えた。
きっとこれが女の決意表明なんだろう。
そうとしかいえない心の襞と思う。やむをえまい。
あまりに壮烈な出来事の連続だったんだ。
一人だったらこの女、おかしくなってたんじゃないか…。
パッセンジャーシートに女を乗せ、オレはオートバイをスタートさせた。
とりあえずの行き先は決まっている。
海辺の小さな温泉。
ちょっと飛ばせば2時間もかからない距離だ。
昨晩から風呂にも入っていなし、今日は埋葬で汗まみれだ。
とにかくこの汗のべたつきを流したかった。
それに大きな風呂で手足をノビノビと伸ばせば、今日までのことの重さが少しほどけそうな予感がしていた。
その後、近場の雑魚を食しながら酒でも飲めばいいじゃないか。
安直だが、そうしか考えが浮かばなかった。
ノンストップで走り続けると、1時間ちょいで海辺の温泉に着いた。
適当な旅館に入ると、すぐに部屋が取れた。
なにしろ平日だからな。
一昨日と同じ名前を宿帳に記す。
部屋に案内されると、茶も飲まずに、オレも女も風呂へ急いだ。
シャボンで体中隅々まで洗い流す。
一皮剥けたような爽快感だ。
そのままざんぶりと浴槽に入り、手足を思い切り伸ばすと、一気に体の強張りが溶けるようだった。
後頭部から足先にかけてしこっていた塊がゆるくなり、死体や埋葬のイメージが形を失っていった。
イメージは希釈拡散され、解像度がずっと小さくなるようだった。
オレは長風呂が苦手だが、今回ばかりは湯当たりしそうなほど浸かっていた。
脱衣場で指先をみると、ふやけていた。
思わず苦笑してしまった。
女は風呂から部屋に戻ってきたのは、オレよりも随分後だった。
そりゃそうだろう。
オレなんかより遥かにリアルなんだから。
風呂で少しでも気分がよくなるんだったら、倒れるまで入ってりゃいい。
女は思ったより突き抜けた表情をしていた。
葬送を自分の手で行ったという事実が、女の背骨をさらに強靭にしたのかもしれない。
飲んでいたビール瓶を持ち上げ、飲むか?と尋ねると、ありがとう、といって自分でコップを持ってきた。
コップは華奢なガラスででき、なかなか洒落たものだった。
なにより洗浄が行き届いていて、見事な泡が立つのがうれしい。
女は白い首を仰け反らせて一気に飲んだ。
そうだ、それでいい。
チマチマ飲まれたんじゃかなわない。
特に今のような場合は。
ほどなく夕食が運ばれてきた。
雑魚ばかりで、と急な客に仲居は恐縮していたが、なんの、魚は近場の雑魚が一番美味いのだ。
案の定、とびっきりの美味さだ。
入室した時に仲居に渡した多目のチップが効いたのか、彼女のサービスは気が利いていた。
鬱陶しくならない程度に気を使ってくれ、飽きさせない程度に放っておいてくれた。
女も仲居の話に笑いが絶えなかった。
一昨日といい、今日といい、どうもオレの旅館運はツイてる。
こういうツキもあるんだろう。
夕食を堪能し、綺麗に吹き上げられた座卓を挟んでオレと女は座った。
バーボンをボトルで注文し、女はソーダ割り、オレはオン・ザ・ロックスを飲んだ。
「疲れたろ?」
バーボンを注ぎ足し、女に尋ねた。
「そうね。体より心がクタクタだわ」
「仕方ないさ。自分の手で両親を葬送するなんて、普通じゃありえないことだ。どこかの葬儀社に依頼して仕切ってもらうのが、今日日のやり方だからな。そもそも肉親の死は心が疲れる。しかしオマエはもっとヘヴィだった。それで心がくたびれなかったら、どうかしてる」
「あのね、こうやってさっぱりすると、体中の汚濁がきれいに洗い流された気分だわ。あー、ホントにわたしも変わっていってるんじゃないか、ってね。これまでのわたしは凝固剤で固めてあの墓穴に埋めたような気がする。いや、違うわね。埋めた、と意識しようとしている。これがきっかけだ、って」
「いいさ、それで。オマエはいい女になりつつある。オレはここ何日かのオマエを見ていて、強くそう思う。オマエの顔には力がでてきた」
「ありがとう。やさしいのね」
「オマエがやさしさを思い起こさせてくれたんだ。オレは世のすべてが鬱陶しく、なにもかにもに噛み付いてきた。この狷介な性格で人からも嫌われていた。オレはそれでいい、と思っていた。ベタベタしたやさしさなんざ、クソクラエ!とな。やさしさとは図々しい人間関係の押し付けと思っていたからな」
オレはバーボンをグッと流し込み、さらに続けた。
「オレはオマエと出会い、セックスをし、オマエの両親を葬送した。オレにとってもまったく初めてさ。しかしな、これだけは感じた。ああ、そうか、際になると人は愛する者が必要なんだな、とね。愛する人間がすぐ傍にいなくてもいい。しかし心に想起できる愛する者がいなきゃならんのだ、とね。なぜかわかるか?オレはオマエと会って以来、居心地のよさに酔ってる。悪くない、いや、これはすばらしく気持ちのいいことじゃないかと感じている。笑ってくれてもいい。オレはオマエを好きになったんじゃないか、と思っている」
「あら、ずいぶん腰の引けた発言ね。直感に従って、包み隠さずいえばいいじゃない」
「直感か。そうだな、その通りだ」
もう一度バーボンを流し込み、オレは居住まいを正した。
「じゃ、いおう。オレはオマエが好きだ。愛している」
「わたしも好きだと思う」
「それが直感か?」
女は輝くような微笑で返答した。
「大好き。愛してる」
初老男と中年女のチンケなラブストーリー。
半端者の傷の舐め合い。
そう思われてやむをえまい。
なるほど美的じゃないが、いいじゃないか。
人生の黄昏時に一瞬の輝きを願うのも、ありがちなことだぜ、多分…。
違うか?
女がテーブル越しに体をのりだしてきた。
キスしてあげるって、さ。
へへ、うれしいじゃねぇか。
迎えるようにオレも体をのりだした。
キスの形としちゃ、ちと野暮な姿だが、こういうことにオレは慣れてない。
くやしいが、このぎこちなさが初老男のイケテナイとこだな。
でもな、女の唇はびっくりするほど柔らかだったぜ。
「オマエと一緒にいたい」
裏返った声でオレはいった。
クソッ、肝心な時にアガってる。
ツメが甘いな。
「ホントに?わたしは前科持ちの風俗あがりなのよ?」
「それがどうした。オレは鬱病あがりの初老だ。イーブンじゃねぇか」
フフッと女は下を向いて笑った。
「でも、どうするの、これから?」
「わからないな、それは。とりあえずオートバイでフラフラしよう。それに飽きたときに次を考えるさ」
「一天地六、賽の目旅、ってことね。昔の凶状持ちみたいじゃない。ワクワクするわね」
「よーし、決まりだ。では、マダム。お手をどうぞ」
オレは立ち上がり、女の手を取って、横抱きに持ち上げた。
ギックリ腰の古傷がズキンとした。
しかし、弱音は吐かない。
ここが初老男の甲斐性の見せ場だろ?
レは悲鳴を上げる腰と膝をだましだまし、女を抱いて隣の部屋に運んだ。
その夜、初めて女の名前を知った。
翌朝も呆れるほどの好天が続いた。
チェックアウトして、オートバイをスタートさせる。
途中、オートバイ用品店でタンデムツーリング用のインカムを購入した。
これで走ってる間も不自由なく会話できる。
なるべく遠くに行こう、ということで高速道路に乗り入れた。
オートバイにとって高速道路は実に快適だ。
なにしろ対向車や交差点飛び出しがない。
百二十キロをキープして、快調に走り続けた。
女がインカム越しに尋ねてきた。
「どう?わたしと会えて、よかったと思ってる?」
「ああ、オレのこれまでの人生バランスシートは赤だったからな、オマエと知り合えて少しは良くなると思う」
「少しは、なの?」
「欲深だな、そこまでいわせるない」
「女はね、欲深なの。鈍感なのね」
「チェッ、悪かったな。でもな、くたばる時に、あー、いい人生だったなと思うために、オマエは欠かせないような気がする」
「気がする、なの?」
「わかった、わかった。大切な女だよ、オマエは」
女は返事の代わりに、オレの腰にまわした腕に力を入れてきた。
風切音が消えていった。
オレの体の隅々にまで、いききと血が流れはじめた。
あー、オレは今、すげぇ気持ちのいいことやってる…。
高速道路は快適なのだが、唯一の欠点は目前で事故られると逃げようがないということだ。
とりわけそれが大型車の場合だと致命的になる。
緩やかなカーブの走行車線を走っていたオレのすぐ前で、追い越し車線の大型トレーラーがゆっくりと蛇行しはじめた。
徐々にアウト側に膨らむと、内側のダブルタイヤがフワッと浮き上がった。
そのまま大型トレーラーはスローモーションのように傾きを深め、悲鳴のようなブレーキ音が続いた。
バカヤロー!
ここでの急ブレーキは最悪のチョイスだろうがっ!
オレは仕方なくブレーキに力を込めた。
しかし百二十キロで走っていれば、車輪もロックする。
トレーラーの姿が急速に目前になった。
距離はあといくらもあるまい。
完全に横倒しになって滑るトレーラーのシャフトが見える。
え?
オレは死ぬの?
ウソだろ?
鼻の奥で女の両親を埋めた腐葉土の匂いがした。
競輪場の饐えた札ビラの匂いもした。
役員応接室の匂いがした。
女の股間の匂いがした。
フーン、こんな時に、つまらんことを思い出すもんだな。
トレーラーのシャフトグリスまでが見えてきた。
オレのオートバイもほとんど横倒しに近くなっていた。
あちゃー、こらダメだな。
避けられない。
うーむ、死ぬ時に、ヘヘッ、面白かったぜ、といってくたばりたかったんだが、こういうのは予想してなかったなぁ。
あ、そうだ。
あの曲をも一度聴きたかったな。
アレサ・フランクリン。
アイ・セイ・ア・リトル・プレイヤー。
涙とともに聴いた曲はあれだけだもん。
そうだよ、みんなも聴いてくれよ。
しかし、どうなんだ、面白かったんだろうか?
最後がこの女だったんだよな。
ならば、どうだろう。
圭角だらけだったオレを、妙に素直にさせてくれたことでチャラ、それでどうだ。
負け続けだった麻雀で、オーラスのラス牌で役満ツモ、これでちょうどプラマイゼロということで、どうだ。
いいんじゃないか、それで。
うん、いいはずだ。
でなきゃやりきれん。
死ぬのもオレの自由だからな。
どう思うね、諸君。
そうだ、女はどう思ったろう。
おい、オマエはどうだった?
オレはインカム越しに尋ねようとしたところで、激しい衝撃がオレの全身を貫いた。
(了)