第9話 『君の隣が、少しだけ特別になる朝』
朝の空気は少し冷たかった。
五月の風は柔らかいはずなのに、今日はなぜか肌に残る。
制服の袖口から入り込む風が、まだ眠気の残る腕を撫でていく。
桐谷兼次郎は家を出てからずっと、昨日の帰り道を思い出していた。
「……嫌かもな」
自分で言った言葉。
言うつもりなんてなかった。
隠すつもりだった。
なのに、気づいたら口にしていた。
(何やってんだ……)
電柱の影を踏みながら歩く。
通学路には朝の匂いが漂っていた。
パン屋から焼きたての甘い香り。
道路脇の草の青い匂い。
信号待ちの車の排気の熱。
全部がいつも通り。
でも、自分だけが違った。
「おはよ、桐谷」
突然、横から声がした。
桐谷が顔を上げる。
阪上玲緒菜だった。
一瞬、呼吸が止まる。
彼女は自然な顔で隣に並んだ。
何でもないみたいに。
「……阪上」
「珍しいね、同じ時間」
笑いながら言う。
朝の光が、彼女の髪を少し透かしていた。
風に揺れる前髪が、頬に触れては戻る。
昨日の夜、別れたばかりなのに。
その距離が、今日は妙に近く感じる。
「桐谷くん、寝不足?」
「何で」
「目の下」
彼女が自分の目元を指差す。
近い。
思わず一歩だけ離れそうになる。
「……普通だ」
阪上が吹き出した。
「またそれ」
その笑い方が、少し嬉しそうだった。
それだけで胸が鳴る。
並んで歩く。
朝の住宅街。
自転車が横を抜ける風。
遠くで鳴く鳥の声。
誰かの家から流れるテレビの音。
会話は途切れがちなのに、不思議と気まずくない。
むしろ、昨日より自然だった。
「昨日さ」
阪上が前を向いたまま言う。
桐谷の心臓が跳ねる。
「……何」
「びっくりした」
その一言で、昨日の信号待ちがよみがえる。
「嫌かもな」
あの言葉。
顔が熱くなる。
「別に深い意味ない」
慌てて言うと、阪上が立ち止まりかける。
「え?」
しまった、と思う。
でも遅い。
阪上は少しだけ目を細めた。
「今、それ言う?」
声が少しだけ低い。
初めて聞くトーンだった。
桐谷は言葉に詰まる。
「……違う。そうじゃなくて」
阪上は少し黙る。
風が吹き抜ける。
朝日が電線越しに差し込む。
数秒が長い。
そして。
彼女は、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
それだけ。
笑ってるのに、少しだけ寂しそうだった。
その顔を見て、胸が締め付けられる。
(違う)
言い方を間違えた。
そう思うのに、うまく言葉にならない。
学校に着くまで、二人は少し静かだった。
昨日の沈黙とは違う。
少しだけ冷たい。
その距離が苦しかった。
教室。
朝のざわめき。
机のぶつかる音。
誰かが笑う声。
いつもの景色なのに、落ち着かない。
桐谷は席についても、教科書を開けなかった。
阪上はもう席に座っている。
でも、こちらを見ない。
友達と笑っている。
いつもの笑顔。
いつもの声。
でも。
桐谷にはわかった。
さっきの“そっか”が、まだ残っている。
「お前ら何かあった?」
天野太将が開口一番そう言った。
桐谷が睨む。
「何もない」
「いやあるだろ。阪上、お前今日桐谷見てないし」
寺田一将が淡々とノートを開く。
「珍しいな」
「だから何もない」
そう言うほど、怪しくなる。
自分でもわかる。
一時間目が始まる前。
教室の空気がまだざわついている時だった。
「桐谷くん」
声。
振り向く。
阪上が立っていた。
その顔は、ちゃんと笑っている。
でも少しだけぎこちない。
「さっきの話」
小さい声。
周りには聞こえないくらい。
「あとでちゃんと聞くから」
その言葉に、心臓が大きく跳ねる。
「……え?」
阪上は少しだけ目を細める。
その表情は、少し拗ねていた。
「深い意味ないって何か、ちゃんと説明して」
言い終えると、くるっと振り返って席へ戻る。
髪が揺れる。
そのまま座る。
でも。
最後にほんの一瞬だけ振り返って。
小さく笑った。
桐谷は動けなかった。
朝日が机を照らしている。
黒板にチョークの粉が残っている。
窓の外で風が鳴る。
全部がぼやける。
天野が机を叩いた。
「おい」
「……何」
「何したお前」
寺田も静かに言う。
「昨日から急に距離変わりすぎだろ」
でも桐谷は答えない。
答えられない。
胸の奥が、うるさすぎる。
ただ一つだけ、わかっていた。
今日の放課後。
また彼女と話す。
そしてきっと。
昨日より、もっと戻れなくなる。




