「悪役令嬢のお前は楽でいいな」と婚約破棄されたので、王太子殿下の礼服も外交文書も返上します
「おい、セレナ。俺の礼服は?」
王太子アルベルト殿下は、朝から不機嫌な声を出した。
王宮の控えの間。
今日は隣国リーベルンの使節を迎える、大事な会議の日だった。
いつもなら、私は前夜のうちに殿下の礼服を確認している。
皺を伸ばし、襟元の勲章を並べ、袖口の紋章を整え、剣帯の金具に曇りがないかまで見る。
王族の正装は、ただ着ればいいものではない。
勲章の順番を一つ間違えれば、相手国への無礼になる。
色合わせを誤れば、派閥への意思表示と受け取られる。
贈答品と衣装の格式が噛み合わなければ、王家そのものの教養が疑われる。
だから私は、いつも整えていた。
けれど今日、私は何もしていなかった。
「セレナ。聞こえているのか。俺の礼服はどこだ」
「申し訳ございません、殿下」
私は静かに頭を下げた。
「そちらは、今後ご自身でご準備ください」
「……は?」
殿下の眉が跳ね上がる。
「何を言っている。今日は使節との会議だぞ。お前は俺の婚約者だろうが」
「昨日、殿下は私との婚約を破棄すると宣言なさいました」
「あれは、身内の場で言っただけだ。正式な式典ではない」
「公爵家、侯爵家、宮廷書記官、近衛騎士、侍従長が同席しておりました。証人としては十分かと」
殿下は舌打ちした。
「相変わらず、可愛げのない女だな」
「……」
「だからお前は悪役令嬢などと呼ばれるんだ。俺の隣に立っているだけで、少しも場が明るくならない。ミリアのように笑えばいいものを」
ミリア。
私の義妹であり、殿下が新しい婚約者にすると宣言した少女の名だ。
可憐で、涙もろく、愛らしい。
殿下に守られることが得意な子。
そして、礼法の試験を三度落とし、隣国語の挨拶文を一行も書けず、夜会の席次を毎回間違える子でもある。
「お前はいいよな」
殿下は私を見下ろした。
「王宮にいて、王太子妃教育を受けているだけで。俺はこれから国を背負う。会議も外交も政務もある。お前のように、家で楽をしている暇はないんだよ」
私は少しだけ目を伏せた。
王太子妃教育を受けているだけ。
家で楽をしているだけ。
そう見えていたのなら、きっと本当に、私は見せ方を間違えていたのだろう。
「では、殿下」
私は顔を上げた。
「本日をもって、私が担っていた礼服管理、晩餐手配、夜会席次、外交文案、贈答品選定、王族礼法の事前確認を、すべて返上いたします」
「……何だと?」
「婚約者ではなくなった者が、王太子殿下の身の回りを整えるのは不適切ですので」
「ふざけるな。では、俺の礼服はどうする」
「ご自身で」
「使節への挨拶文は」
「ご自身で」
「今夜の晩餐は」
「新しい婚約者様に」
「ミリアにできるわけがないだろう!」
殿下は言ってから、自分の言葉に気づいたように唇を閉じた。
控えの間にいた侍従たちが、そっと視線を伏せる。
誰も笑わない。
けれど、誰も驚いてはいなかった。
みな、知っていたからだ。
ミリアができないことを。
殿下もできないことを。
そして、その穴を誰が埋めていたのかを。
「おい、セレナ」
殿下は一歩近づいた。
「実家に帰るつもりか」
「はい。本日中に公爵家へ戻ります」
「俺の晩餐はどうするんだ!」
「料理長にお尋ねください」
「俺の予定管理は」
「侍従長に」
「使節への返礼は」
「外務官に」
「外務官はお前の下書きがないと動けないだろうが!」
「では、殿下が直接ご指示ください」
殿下の顔が赤くなった。
「お前、俺が困ると分かってやっているな」
「はい」
私ははっきり答えた。
「困ると分かっております。なぜなら、困らないように私が整えていたからです」
「……っ」
「ですが、殿下は昨日、私を不要だとおっしゃいました」
「悪役令嬢のお前など要らないと言っただけだ!」
「では、悪役令嬢が担っていたものも不要でしょう」
殿下の背後で、侍従長が小さく咳き込んだ。
宮廷書記官ヴァイス様は、額を押さえている。
近衛騎士の一人は、明らかに「始まったな」という顔をしていた。
そこへ、扉が開いた。
「殿下。リーベルンの使節団がお着きになりました」
外務官が青い顔で入ってくる。
「それから、歓迎の文案ですが……」
「セレナが書いただろう」
殿下は当然のように言った。
私は鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。
「こちらですね」
「そうだ。早く渡せ」
「これは私が、アルヴィス公爵家の令嬢として作成した私的な草案です。王家へ提出する義務はございません」
「お前……!」
私は羊皮紙を折りたたみ、鞄に戻した。
「こちらも返上いたします」
控えの間が静まり返った。
外務官の唇が震える。
「殿下。代替の文案は……」
「お前が書け!」
「リーベルン語の格式文は、セレナ様が最終確認をなさっておりました。私どもでは、今すぐには」
「なら、ミリアを呼べ!」
殿下は叫んだ。
ほどなくして、ミリアが控えの間へ駆け込んできた。
桃色のドレスに白いリボン。
朝から涙ぐんだ目をして、いかにも守られる姫君という姿だった。
「アルベルト様、どうなさったのですか?」
「ミリア。お前が歓迎文を読むんだ」
「歓迎文?」
「リーベルン語だ。未来の王太子妃なら、それくらいできるだろう」
ミリアの顔から血の気が引いた。
「り、リーベルン語……ですか?」
「お前はセレナと違って、明るくて民に愛される王妃になるんだろう」
「で、でも、わたくし、まだ挨拶の一文しか……」
「一文?」
外務官が思わず声を漏らした。
ヴァイス様が書類を開く。
「殿下。確認のため申し上げます」
「何だ」
「ミリア様の王太子妃教育課程は、礼法、外交語学、紋章学、席次、会計基礎、いずれも未修了です」
「黙れ」
「対して、セレナ様は全課程を修了済みです。さらに、殿下の外交文案の七割を補助し、夜会席次の全件を監修し、贈答品台帳の修正も行っております」
「黙れと言っている!」
殿下が怒鳴ると、ミリアがびくりと肩を震わせた。
「お姉様……」
彼女は私を見た。
「助けてくださいますよね? いつものように、少し直してくださるだけでいいんです。わたくし、悪気はなかったんです」
「ミリア」
「はい」
「もう、あなたの課題の代筆はしません」
ミリアは唇を開いたまま固まった。
「代筆……?」
殿下が低くつぶやく。
私はヴァイス様へ視線を送った。
彼は静かにうなずき、別の書類を広げる。
「ミリア様の提出課題ですが、筆跡鑑定の結果、過去六回分のうち四回分にセレナ様の筆跡が混じっています」
「混じっているのではありません」
私は言った。
「私が直しました。提出できる水準ではなかったので」
「お、お姉様が勝手に……!」
「ええ。勝手にしました」
ミリアは目に涙を浮かべた。
以前なら、その涙を見た殿下は必ず私を責めた。
私が冷たい。
私が厳しすぎる。
私がミリアをいじめている。
そう言って。
だが今、殿下は何も言えなかった。
なぜなら、目の前にリーベルンの使節が来ているからだ。
なぜなら、今日失敗すれば、恥をかくのはミリアだけではなく王家だからだ。
なぜなら、今この瞬間、殿下自身が私の仕事を必要としているからだ。
「セレナ」
殿下は声を抑えた。
「分かった。今は怒らない。今回は助けろ」
「お断りいたします」
「命令だ」
「婚約者ではありませんので」
「なら王太子として命じる」
「アルヴィス公爵家は、すでに婚約破棄裁定の申し立てを行いました」
「裁定……?」
「王家側の不当な侮辱、婚約者教育の過度な負担、昨日の婚約破棄宣言、そして本日の脅迫に備えた証言書。すべて貴族院へ提出済みです」
ミリアが小さく息を呑んだ。
殿下の顔色が変わる。
「お前、まさか最初から」
「いいえ」
私は首を振った。
「最初からではありません。最初は、耐えるつもりでした」
王太子妃になるため。
公爵家のため。
国のため。
私が少し我慢すれば済むなら、それでいいと思っていた。
礼服を整えた。
晩餐の献立を確認した。
殿下の失言を文書で補った。
ミリアの課題を直した。
彼女の礼法違反を、体調不良ということにした。
殿下が会議で読めない資料は、前夜のうちに要約した。
それでも、私は悪役令嬢と呼ばれた。
可愛げがない。
冷たい。
陰険。
地味。
いるだけで空気が暗くなる。
そう言われ続けた。
「ですが昨日、殿下は私を不要だとおっしゃいました」
「感情的に言っただけだ!」
「私も、感情ではなく手続きを取りました」
私は鞄からもう一通、封書を出した。
「アルヴィス公爵家は、私の帰還を受け入れます。婚約破棄後の保護、名誉回復、慰謝料請求、すべて進めます」
「ふざけるな!」
殿下はついに手を振り上げた。
瞬間、近衛騎士が動いた。
私が呼ぶより早かった。
「殿下」
騎士が低く言う。
「それ以上は、脅迫では済みません」
「俺に逆らうのか!」
「証人が多すぎます」
ヴァイス様が冷静に言った。
「今の発言と動作も、記録いたしました」
殿下の手が宙で止まる。
控えの間の空気は、もう彼の味方ではなかった。
「セレナ……」
殿下は急に声を変えた。
「悪かった」
私は何も言わなかった。
「俺が間違っていた。改心する。だから戻ってきてくれ」
昨日までの彼なら、謝罪など絶対にしなかった。
けれど、今の謝罪が私のためでないことは、もう分かる。
「俺の王太子としての体面はどうなるんだ」
ほら。
「礼服も、晩餐も、会議も、夜会も、全部お前が整えていただろう」
「はい」
「なら戻れ」
「嫌です」
「俺たちは婚約者だっただろう!」
「あなたがそう思えたのは、私が裏で全部整えていたからです」
殿下は愕然とした顔で私を見る。
「セレナ……」
「あなたが捨てたのは、私ではありません」
私は一歩下がった。
「王太子としての体面を支えていた仕組みです」
その時、控えの間の入り口から、落ち着いた声がした。
「話は聞かせてもらった」
振り向くと、そこにはリーベルン王国の第二王子、ユリウス殿下が立っていた。
銀の髪に、深い青の瞳。
使節団の代表として訪れていたはずの彼は、穏やかな笑みを浮かべている。
「アルヴィス公爵令嬢」
「はい」
「あなたの文案を、先ほど外務官から一部見せてもらった。美しい文章だった。格式も、こちらへの配慮も申し分ない」
「恐れ入ります」
「我が国では、王宮儀礼と外交文書を扱える人材を探している。望むなら、客員顧問として迎えたい」
殿下が目を剥いた。
「待て! セレナは俺の婚約者だ!」
「昨日、破棄したと聞いたが」
「それは撤回する!」
「撤回を受けるかどうかは、彼女の意思だろう」
ユリウス殿下は私を見る。
「待遇は保証する。裁量も与える。研究費も、必要な人員も用意しよう」
私は少しだけ考えた。
いいえ、本当は考える必要などなかった。
「一つ、条件がございます」
「何だろう」
「私の名誉を、正式に保護していただけますか」
「もちろんだ。リーベルン王家の名において」
私は深く礼をした。
「では、参ります」
「セレナ!」
殿下が叫んだ。
「戻ってきてくれ。頼む。俺は変わる。改心した。だから、もう一度だけ」
私は振り返った。
殿下は、初めて私に縋るような目を向けていた。
けれど、その目にあるのは愛ではない。
不安だ。
不便だ。
自分の体面が壊れる恐怖だ。
私は、それをもう愛情と間違えない。
「もうその手口は、貴族院にも、公爵家にも、皆に知られております」
「セレナ……」
「さようなら、殿下」
私は扉へ向かった。
「待て!」
背後で、殿下の声が響く。
だが、近衛騎士も、侍従長も、外務官も、誰も私を止めなかった。
むしろ道を開けてくれた。
廊下へ出る直前、ヴァイス様が小さくつぶやいた。
「ですよね」
誰かが咳払いをした。
誰かが笑いをこらえた。
ミリアは泣き崩れ、殿下は呆然と立ち尽くしている。
私は最後に一度だけ振り返った。
「殿下」
「……何だ」
「礼服の勲章は、建国勲章を一番上に。リーベルン王家の前で間違えると、外交問題になります」
殿下の顔に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。
まだ私が助けると思ったのだろう。
私は微笑んだ。
「ですが、それも本日からはご自身で」
扉が閉まる。
王宮の中から、誰かの悲鳴のような声が聞こえた。
けれど私は、もう戻らない。
悪役令嬢と呼ばれた私が支えていた席は、今日で空いた。
その席を誰が埋めるのかは、私の知ったことではない。
もう遅いのだから。




