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第5話:ワインぶっかけとハンカチの矜持 × お持ち帰り

挿絵(By みてみん)

王家の離宮に併設された、見渡す限りの薔薇が咲き誇る広大な空中庭園。午後の柔らかな日差しが降り注ぐ中、純白の大理石で設えられたガゼボの下では、今日も選ばれた上位貴族の令嬢たちによる「優雅な腹の探り合い」という名の戦端が開かれていた。



色とりどりのシルクやタフタのドレスが花々よりも鮮やかに咲き乱れ、王室御用達の楽団が奏でる軽やかな弦楽四重奏が、心地よいBGMとして庭園を満たしている。しかし、新興子爵家の令嬢であるリリアにとって、この華やかなお茶会は、いつ足元が崩れ落ちるか分からない薄氷の上の宴でしかなかった。



領地での堅実な経営が評価され、ようやく王都の社交界にデビューしたばかりのリリア。彼女が今日身に纏っているのは、亡き母が遺した上質な絹を、自身の得意な刺繍で慎ましくも美しく仕立て直した淡い真珠色のドレスだった。何ヶ月も夜鍋をして縫い上げた純白の百合の刺繍には、彼女の誇りと家門への思いが込められている。



だが、代々続く名門貴族の令嬢たちから見れば、それは「流行遅れの貧乏くさい代物」にすぎない。特に、社交界の頂点に君臨する侯爵令嬢ヴィクトリアは、自分よりも王太子の視線を一瞬でも奪ったリリアの清楚な美しさを、決して許してはいなかった。



「お聞きになりまして? 最近は、地方の田舎貴族が随分と大きな顔をして王都を歩き回っているそうですわ」



ヴィクトリアが扇子の陰から冷笑を漏らすと、取り巻きの令嬢たちが一斉に同調の笑いを浮かべる。リリアは膝の上で固く拳を握り、ひたすらに俯いて嵐が過ぎ去るのを待っていた。



「あら、リリア様。ずいぶんと顔色が優れませんこと。少し冷たいものでも召し上がって?」



ヴィクトリアの顎の合図を受け、取り巻きの一人である男爵令嬢が立ち上がった。彼女の右手には、氷の浮かんだ、血のように濃く赤いベリーのワインが注がれたクリスタルグラスが握られている。男爵令嬢は不自然なほど大げさな足取りでリリアの背後に回り込み——そして、事件は起きた。



「あっ、いけないわ」



抑揚のない、棒読みのような声。次の瞬間、リリアの頭上から、冷え切った真紅の液体が滝のように降り注いだ。



「きゃっ……!?」



悲鳴を上げて立ち上がるリリア。丁寧に結い上げた亜麻色の髪から滴り落ちる赤ワインは、母の形見の絹と、何ヶ月もかけて施した純白の百合の刺繍を、無惨な赤紫色に染め上げていく。べっとりと胸元から膝下まで広がった、生々しいシミ。



「まあ、ごめんなさい! 手が滑ってしまいましたわ」



男爵令嬢は扇子で口元を隠し、全く申し訳なさそうでない声で謝罪した。ヴィクトリアをはじめとする他の令嬢たちは一斉に扇子を広げ、その豪華な絹張りの陰から、クスクスという残酷な嘲笑を隠すことなく漏らし始めた。



「おかわいそうに。そのドレス、もう二度と着られませんわね。田舎娘には、ワインの染みくらいがお似合いですこと」



嘲笑の波が、ワインの冷たさと共にリリアの全身を打ち据える。惨めだった。悔しかった。ここで涙を見せれば彼女たちの思う壺だと分かっているのに、視界がじんわりと歪んでいく。



リリアは震える手で自身のポケットから、同じく百合の刺繍を施した真っ白なハンカチを取り出した。なんとか汚れを拭き取ろうとするが、上質な絹に染み込んだワインは無情に広がるだけだ。



ぽたり、ぽたりと、ワインの雫と一緒に、堪えきれなくなった悔し涙が床に落ちる。拭き取ろうとあがく彼女の矜持を嘲笑うかのように、再び扇子を打ち鳴らす音がガゼボに響き渡る。誰一人助けてはくれない。張り詰めた糸が今にも切れそうな、絶望的な状況だった。



——その時である。ガゼボの入り口を塞いでいた薔薇のアーチが、外側から乱暴に手で掻き分けられた。



「きゃあッ!?」



突然の侵入者に令嬢たちが短い悲鳴を上げ、椅子から飛び退く。彼が令嬢たちの輪へと歩みを進めると、そこに響き渡ったのは、貴族の庭園にはおよそ似つかわしくない、重鈍で荒々しい足音だった。



コツ、コツ、コツ。



大理石の床を乱暴に叩くウェスタンブーツ。そして彼の胸元では、今日も「右上がり」の伝統的なレジメンタルタイではなく、反逆の象徴である「左上がり」のアメリカンストライプのネクタイが緩く結ばれていた。グランチェスター公爵家の異端児にして、アメリカからやってきた不良貴族――



テリーだ。



彼は、お茶会の陰湿な空気など全く意に介さず、真っ直ぐにリリアの背後に立つ男爵令嬢へと歩み寄った。そして、ワインの空グラスを持ったままの彼女の手首を、ギリッと骨が鳴るほどガシッと掴み上げた。



「痛ッ……! な、何を……!?」



「手が滑ったのか?」テリーは氷のように冷たく、底知れぬ凄みを秘めた眼差しで男爵令嬢を睨み下ろした。



「不器用な女は嫌いだぜ」



冷酷な一言に、男爵令嬢の顔からサァッと血の気が引く。テリーは虫でも払うように、乱暴にその手を振り払った。グラスが大理石の床に落ち、けたたましい音を立てて粉々に砕け散る。我に返ったヴィクトリアが、震える声で威嚇に出た。



「テ、テリー様! 淑女の集いに土足で踏み入るなど、いかに公爵家の方でも許されることでは……!」



ヴィクトリアが扇子を「パチン!」と威圧的に鳴らす。しかしテリーは、ポケットに両手を突っ込んだまま鼻で笑った。



「淑女の集いだと? 笑わせるな。よってたかって女一人いじめて喜んでる、ただの性悪女の掃き溜めじゃねえか」



容赦のない言葉のナイフに、ヴィクトリアをはじめとする令嬢たちの顔が屈辱で朱に染まる。だが、絶対的な権力を持つ彼に口答えできる者はいない。テリーはふいと視線を外し、ワインで無残に汚れたリリアを見下ろした。



彼女は涙を堪えるために唇を強く噛み締め、濡れたドレスを必死に自前の刺繍入りハンカチで拭おうとしていた。その健気な姿と、汚されてしまった美しい刺繍を見て、テリーの瞳の奥に微かな同情と、そして明らかな熱が宿る。



彼は短く舌打ちをすると、自身の着ていた年季の入った革ジャケットを脱ぎ、リリアの華奢な肩にバサッと無造作に掛けた。



「あ……」



重く、彼の体温と微かなタバコ、そしてバーボンの匂いが染み付いたジャケットが、恥ずかしいワインの染みをすっぽりと隠してくれる。驚いて見上げるリリアから、テリーはそっとワインで濡れた誇り高きハンカチを取り上げた。



「こんな湿っぽい場所、息が詰まるだろ。抜け出そうぜ」



「え……?」テリーはリリアの腕を強引に引き、歩き出した。



「ま、待ちなさい! お茶会の途中で席を立つなど……!」



「勝手にやってろ、インコ共。俺たちは海を見に行くんでね」ヴィクトリアの金切り声を背中越しに鼻で笑い飛ばし、テリーはガゼボを出た。そこには彼が庭園の木に繋いでいた漆黒の愛馬が待っていた。テリーはひょいとリリアの腰を抱き上げて馬に乗せると、自らも身軽にその後ろへ飛び乗る。



「しっかり掴まってろよ」



リリアが慌てて彼の手綱を握る腕に自分の手を重ねた瞬間、テリーは力強く手綱を引いた。



パカラン、パカラン……!



高く澄んだ蹄の音が、王宮の庭園に響き渡る。取り残され、呆然と立ち尽くす令嬢たち。砕けたグラスと、めちゃくちゃに破壊されたお茶会のヒエラルキーだけがそこに残された。



リリアは、波打つ革ジャケットに包まれながら、テリーの胸の力強い鼓動と、頬を撫でる自由な潮風を感じていた。悲しかった涙はいつの間にか乾き、その顔はワインよりも深い、熱を帯びた赤に染まっていた。



(第5話 完)

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