第11話:物理攻撃の「神回避」を目撃 × 不良の反射神経
王宮の「太陽のテラス」。最高級の紅茶が香る優雅な空間で、同席していた子爵令嬢のミリーはただ息を潜めて俯いていた。テラスの空気が、今にも爆発しそうな極度の緊張状態にあったからだ。
「……ですから、先日の夜会でのエスコートの件は、殿下がご自身で判断されたことですわ。私に責任を問われましても、困惑するばかりです」
涼やかな、しかし微塵の隙もない声音で言い放ったのは、公爵令嬢のロザリンドだった。彼女は「氷の薔薇」と称されるほどの美貌と冷徹な知性を持ち、どんな嫌がらせを受けても決して感情を乱さない。
対して、彼女を糾弾していたはずの侯爵令嬢イザベラの顔は、屈辱と怒りで茹でダコのように真っ赤に染まっていた。「わ、私を愚弄する気ですか……! 貴女が裏で殿下を唆したに決まっています! この、泥棒猫がッ!」
イザベラが扇子をへし折らんばかりの力で握りしめ、金切り声を上げる。貴族の令嬢にとって、武器とは言葉と扇子であり、物理的な暴力に訴えることは「貴族としての完全なる敗北」を意味する絶対のタブーである。だからこそ、どれほど憎くても言葉の刃で刺し合うのが暗黙のルールだった。
しかし、ロザリンドの完璧な正論によって逃げ道を完全に塞がれ、周囲の令嬢たちからも冷ややかな視線を浴びたイザベラは、ついに理性の糸をプツンと切ってしまった。
「許さない……絶対に、許さないわッ!!」
イザベラは淑女の仮面を完全に投げ捨て、立ち上がった。そしてあろうことか、テーブルの中央に置かれていた、たっぷりと熱湯が注がれたばかりの巨大な純銀製のティーポットの取っ手を鷲掴みにしたのだ。
「えッ……!?」
「イザベラ様、お待ちになって!?」
周囲の令嬢たちが悲鳴を上げる。重厚な銀のポットには、肌に触れれば重度の火傷を負い、顔に浴びれば一生消えない傷が残るほどの煮えたぎる熱湯が入っている。それを、イザベラは狂気に満ちた目で高く振り上げ、ロザリンドの美しい顔面めがけて、全力で投げつけたのだ。
ミリーの視界の中で、時間がひどくゆっくりと進み始めた。宙を舞う巨大な銀の塊。注ぎ口からこぼれそうになる、致死的な温度の熱湯。ロザリンドは咄嗟に目を丸くして固まり、避けることも腕で顔を庇うこともできず、ただ迫り来る銀色の暴力に絶望の表情を浮かべていた。
魔法の結界など存在しないこの現実世界で、彼女の美しい顔が焼け爛れるのは、もはや誰の目にも避けられない確定した未来だった。
——まさに、その時である。彼が令嬢たちの輪の背後を通りかかると、そこに響き渡ったのは、貴族の華やかなテラスにはおよそ似つかわしくない、重鈍で荒々しい足音だった。
コツ、コツ、コツ。
大理石の床を乱暴に叩くウェスタンブーツ。そして彼の胸元では、今日も「右上がり」の伝統的なレジメンタルタイではなく、反逆の象徴である「左上がり」のアメリカンストライプのネクタイが緩く結ばれていた。グランチェスター公爵家の異端児にして、アメリカからやってきた不良貴族——テリーだ。
彼は、庭園の木陰を探して偶然ロザリンドの背後を通りすがっただけだった。しかし、ミリーは見た。テリーが、自分に向かって飛んでくるわけでもないその銀のティーポットに気づき、面倒くさそうに「チッ」と短く舌打ちをしたのを。
——次の瞬間だった。テリーは歩みを止めることなく、振り返りざまに、ポケットから出した右手を無造作にスッと宙へ伸ばした。
ガチンッ!!
硬質な金属音が、テラスに響き渡る。悲鳴を上げて目を閉じていた令嬢たちが、恐る恐る目を開ける。ミリーもまた、自分の目を疑った。ロザリンドの顔面まで残りわずか数センチという空中で、銀のティーポットは完全に静止していた。
テリーが、長くしなやかな人差し指をたった一本、回転しながら飛んできたポットの装飾的な取っ手に引っ掛け、その凄まじい運動エネルギーを完全に殺して空中で受け止めていたのだ。
ポットは彼の指先でピタリと止まり、恐るべき体幹と反射神経による衝撃吸収によって、中の熱湯は一滴たりとも注ぎ口からこぼれ落ちていなかった。
「な……っ!?」
ポットを投げたイザベラが、幽鬼を見るような目で固まる。魔法結界でも張ったのかと見紛うほどの、人間離れした圧倒的な身体能力。それは、日頃から護身術や剣術の訓練などしたこともない温室育ちの令嬢たちにとって、文字通り「神回避」と呼ぶべき奇跡の光景だった。
「……おいおい、危ねえな」
静まり返るテラスで、テリーは呆れたように低く呟いた。彼は指に引っ掛けたティーポットをくるりと回して自身の胸元に引き寄せると、ポットの底をポンと軽く叩き、イザベラを冷たい目で睨み据えた。
「熱湯なんざ投げて、火傷したらどうすんだ。顔にでも当たったら一生モンだぞ」
その声には怒りというよりも、子供の危険な悪戯を咎めるような呆れが含まれていた。イザベラは恐怖と自身の犯した罪の重さにようやく気づき、ガタガタと震えながらその場にへたり込んでしまう。
テリーは彼女から視線を外すと、「あー、喉渇いた」と独り言のように呟いた。そして、あろうことかその巨大な純銀製のティーポットを傾け、注ぎ口から直接、まるで水差しから水を飲むような無作法さで熱い紅茶をラッパ飲みし始めたのだ。
「えッ……!?」
「直接ポットから……!?」
先ほどまでの神業からの、あまりにも野蛮でアメリカンな振る舞いに、令嬢たちの思考が追いつかない。テリーはゴクゴクと喉を鳴らして熱い紅茶を飲み下すと、プハッと息を吐き、口の端からこぼれたお茶を手の甲で乱暴に拭った。
「……ペッ。なんだこりゃ、やけに濃いな」
高級茶葉の凝縮された深い風味など、薄いアメリカンコーヒーに慣れた彼の舌には、ただの苦い汁にしか感じられなかったらしい。文句を言いながらポットをテーブルの上にガチャンと乱暴に置く。
「あ、あの……テリー様」我に返ったロザリンドが、震える足で立ち上がった。「氷の薔薇」と恐れられていた彼女の顔は、今は耳の先まで真っ赤に染まり、すっかり普通の恋する乙女の顔になっていた。
圧倒的な暴力から自分を救い出し、熱いお茶をラッパ飲みして野性的に口元を拭う彼の姿に、完全に心を撃ち抜かれてしまったのだ。
「お怪我はありませんか? 熱湯を直接飲まれるなんて……その、もしよろしければ、こちらを……」ロザリンドは上気した頬を両手で包み隠すようにしながら、自身が持つ最高級のシルクでできた、イニシャルの刺繍入りのハンカチを恐る恐るテリーに向けて差し出した。
それは貴族社会において、明確な「愛情の証明」を意味する行動だった。周囲の令嬢たちが息を呑む。しかしテリーは、差し出されたその美しいハンカチとロザリンドの赤い顔を交互に見ると、フッと鼻で笑った。
「いらねえよ。汗拭きくらい、自分の袖で十分だ」
テリーは悪びれる様子もなく、着崩したシャツの袖口で自身の首筋の汗をゴシゴシと拭うと、ロザリンドに向かって軽くウインクを落とした。
「じゃあな、氷のお姫様。火傷には気をつけるんだな」
差し出されたハンカチも、彼女の恋心も、茶会の騒動もすべてを置き去りにして。テリーは片手を軽く上げると、来た時と同じように荒々しいブーツの足音を響かせ、嵐のようにテラスから去っていった。
取り残されたロザリンドは、受け取ってもらえなかったハンカチを胸に抱きしめ、遠ざかる彼の広い背中を、うっとりとした熱を帯びた瞳で見つめ続けていた。
壁際でそのすべてを傍観していたミリーもまた、自分が今目撃した「圧倒的な非日常」に心臓をバクバクと鳴らし、密かに両手で顔を覆って身悶えしていたのだった。
(第11話 完)




