第九話
朝の光は、カーテンの隙間から静かに入ってきた。
特別な日ではない。
平日の、いつもの時間だ。
琥珀は、引き出しを開けた。
奥に、白い封筒がある。
角はまだきれいで、誰の手垢もついていない。
取り出して、机の上に置く。
開封はしない。
中身を確認する必要もなかった。
碧は、少し離れたところで身支度をしている。
視線が合うと、何も聞かずに小さくうなずいた。
それだけで、言葉は足りていた。
琥珀は、封筒を別の書類と一緒にまとめる。
保険証書や、更新通知。
すぐに使わないけれど、捨てるものでもない。
引き出しの、さらに奥。
普段は触れない場所に、それをしまった。
これは、終わりではない。
ただ、今は使わないというだけだ。
「行くよ」
碧の声に、琥珀は顔を上げる。
「うん」
靴を履く。
鍵を持つ。
いつもと同じ動作。
玄関を出ると、空気が少し冷たい。
天気予報は、曇りだった。
二人は並んで歩き出す。
話題は、夕飯のこと。
帰りに寄る店のこと。
未来の話は、しない。
でも、消えたわけではない。
琥珀は思う。
選ばなかったのではなく、
今の生活を、続けることを選んだ。
それが、今日の答えだった。
***
夕方の商店街は、少しだけ騒がしかった。
週末が近いせいか、子どもの声が多い。
琥珀は、買い物袋を持ちながら、歩く速度を落とした。
碧は、それに自然に合わせる。
理由を聞く必要はない。
向こうから、ベビーカーを押した家族が来る。
子どもは靴を脱ぎかけていて、母親が慌てて止めていた。
父親は、少し照れたように笑っている。
琥珀は、その様子を見た。
目を逸らさなかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ動く。
――もし、選んでいたら。
そう思って、でも続きを考えなかった。
それは後悔ではなく、確認に近い。
碧が、隣で言う。
「今日は、混んでるね」
何でもない声だ。
未来の話も、選択の話も、そこにはない。
「そうだね」
琥珀は、そう答えた。
いつも通りの姿勢の良さだ。
歩き出す。
信号が変わる。
二人で渡る。
今の生活は、特別ではない。
静かで、整っていて、少しだけ不完全だ。
でも、ここにある時間を壊してまで、
今すぐ何かを選ぶ理由は、見つからなかった。
琥珀は思う。
子供を作らないことは、何もしないことじゃない。
この生活を、続けると決めている。
今の自分にとって、
それがいちばん誠実な答えだった。
碧は、何も言わない。
ただ、同じ歩幅で歩いている。
信号を渡りきったところで、
風が少し冷たくなった。
琥珀は、袋の持ち手を持ち替える。
碧も、同じようにする。
未来は、まだしまわれたままだ。
でも、閉じてはいない。
二人は、そのまま家に向かった。
今日も同じカップでコーヒーを飲む。
(終)




