第七話
同意書は、まだ引き出しの奥にある。
取り出そうと思えば、いつでも取り出せる場所だ。
それが、少しずつ重くなっていた。
締切はない。
急がされてもいない。
説明会の人も、医師も、「いつでも大丈夫です」と言った。
だからこそ、選べる状態が終わらない。
朝、目を覚ます。
仕事に行く。
碧と食事をして、何でもない話をする。
その全部の底に、薄く同意書の存在が沈んでいる。
――今、選ばなくてもいい。
――でも、選べる。
その二つが、同じ重さで並び続ける。
琥珀は、自分が変わる未来を想像する。
声。体格。医療的な説明に沿った変化。
それよりも先に浮かぶのは、碧の生活だ。
碧が予定を組み替える姿。
体調の波を読みながら仕事を調整する背中。
「大丈夫」と言うときの、少しだけ固い声。
琥珀は、ため息をついた。
選ばない理由を探している自分に、気づいてしまったからだ。
今は幸せだ。
碧と一緒にいる時間に、不足はない。
でも、その言葉が、いつの間にか
“選ばないための理由”に変わり始めている。
それが、いちばん怖かった。
幸せは、言い訳にしてはいけない。
誰かの未来を使わないための盾にしてはいけない。
琥珀は、引き出しを開けなかった。
代わりに、深く息を吸った。
選ばないことを、
ちゃんと選ばなければならない時が来る。
まだ、今ではない。
でも、その時が来ることから、
目を逸らすのも違う。
琥珀は、そう自分に言い聞かせながら、
机の上を片づけた。
今日も、何も決めていない。
それでも、昨日より少しだけ、
自分の輪郭がはっきりした気がした。
***
その日は、特別な相談ではなかった。
書類も多くない。声も荒れていない。
ただ、決まっていない話だった。
「まだ、決められなくて」
相談者はそう言って、視線を落とした。
選択肢は提示されている。制度も整っている。
周囲からの助言も、十分すぎるほどある。
それでも、決められない。
碧は、ペンを置いた。
急がせる理由は、どこにもなかった。
「決めない、という選択もあります」
そう言うと、相手は少し驚いた顔をした。
怒られると思っていたのかもしれない。
「何もしない、という意味じゃなくて」
碧は続ける。
「今は決めない、という状態を保つことも、選択です」
相談者は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……それでも、いいんですか」
碧は、うなずいた。
「いいと思います。
選べる状態が続いているなら、
それを使わない自由も、同じくらい大事です」
自分の声が、少しだけ静かだった。
それは、仕事の言葉でありながら、
同時に、自分自身にも向けた言葉だった。
面談が終わり、碧はメモをまとめる。
“未決定。経過観察。”
その文字は、いつもより重く感じられた。
帰り道、電車の窓に映った自分の顔を見る。
冷静で、落ち着いていて、少しだけ疲れている。
――琥珀も、同じ顔をしているかもしれない。
選べる状態に置かれ続けること。
決断を迫られないまま、時間が流れること。
それが、どれほど体力を使うか。
碧は、ポケットの中で指を握った。
帰ったら、何か言うべきだろうか。
それとも、言わない方がいいだろうか。
結論は、もう出ていた。
碧は、琥珀の決断を軽くしたいわけではない。
ただ、決めない時間が間違いではないと、
一緒に確認したかった。
***
夜は、特別なことが起きないまま更けていった。
夕食の後、二人で食器を洗って、テレビをつける。
内容はほとんど頭に入らない。
碧が先に口を開いた。
「今日は、仕事でね」
琥珀は、リモコンを置いて、顔を向ける。
話を聞く準備をする、その仕草がいつもと同じで、少し安心する。
「決められない人が来た」
それだけ言って、碧は少し考えた。
余計な説明をしないのは、琥珀の性格を知っているからだ。
「決めないままでいい、って話をした」
琥珀は、すぐには返事をしなかった。
それが、否定でも無関心でもないことを、碧は知っている。
「……楽になった?」
そう聞くと、碧は小さくうなずいた。
「相手も、私も」
しばらく、沈黙が落ちる。
テレビの音だけが、部屋を満たす。
琥珀は、指先を組んだ。
「ね、碧」
呼ばれて、碧は視線を向ける。
「もしさ、何も決めない時間が長くなっても」
琥珀は、言葉を選ぶ。
「それって、逃げになるかな」
碧は、首を振った。
「ならない」
即答だった。
そのあと、少しだけ柔らかい声になる。
「逃げるって、見ないふりをすることでしょ。
あなたは、ずっと見てる」
琥珀は、その言葉を胸の中で反芻する。
肩の力が、ほんの少し抜けた。
「……ありがと」
碧は、琥珀の手に、そっと触れた。
強く握らない。離れない程度に。
「無理に決めなくていい」
でも、続けてこう言う。
「決めたくなったら、一人で抱えないで」
それは条件ではなく、約束でもない。
ただの確認だった。
琥珀は、うなずいた。
「碧も」
その一言に、碧は少し驚いたように笑う。
「私も?」
「うん。碧も、一人で引き受けないで」
二人は、しばらくそのまま座っていた。
テレビの音が、少し遠くなる。
結論は、どこにもない。
でも、夜は穏やかだった。
選ばないことも、
選べるままでいることも、
この時間を壊していない。




