第六話
同意書は、まだ引き出しに入ったままだ。
封筒の角が、少しだけ折れている。
書類として見れば、ただの紙だ。
条件、同意、署名欄。
でも、そこに書かれているのは、私の身体だけじゃない。
――碧は、どうなるだろう。
ふと、朝の台所で、コーヒーを淹れていた背中を思い出す。
いつもより少し眠そうで、それでもきちんとシャツを着ていた。
あの生活が、変わる。
通院の回数。
注射の時間。
体調の波に合わせた予定変更。
「今日は無理かも」と言う回数。
それを、碧は文句も言わずに引き受けるだろう。
だからこそ、琥珀は怖くなる。
善意で進んでしまうこと。
誰も止めないまま、決まってしまうこと。
もし妊娠したら。
仕事の配置。
夜、横で眠る呼吸の重さ。
喜びと同時に、責任が増える。
それでも碧は、「大丈夫」と言うだろう。
言葉を選んで、私を安心させる。
琥珀は、そこまで考えて、いったん思考を止めた。
これは、未来の話ではあるけれど、空想ではない。
選ぶということは、
碧の時間と身体を、未来ごと使うことだ。
それを「支えてもらう」とは、言えない。
琥珀は、引き出しを閉めた。
同意書は、まだそこにある。
選ぶかどうかより先に、
選んだ場合に誰が何を失うのかを、
ちゃんと考えていたかった。
***
琥珀が引き出しを閉めた音は、思ったより静かだった。
それでも碧には、わかった。
同意書をしまった音だ。
碧は、洗い終えたマグカップを伏せて置きながら、深呼吸を一つした。
聞かない、という選択もある。
でも、それは楽なだけで、優しくはない。
琥珀は、選ぶ人だ。
そして同時に、選んだ結果を一人で背負おうとする。
――だから、目を離せない。
碧は、自分の身体のことを考える。
採卵の周期。注射。通院。
説明会で聞いた、淡々とした説明の続きを、頭の中でなぞる。
妊娠したら。
仕事を休む調整。体調の変化。
夜中に目が覚める日々。
正直に言えば、怖くないわけではない。
身体が変わることも、生活が変わることも。
でも、それ以上に、
琥珀がそれを「自分のせい」にするのが怖かった。
碧は、カップを持って琥珀のそばに行った。
声を落として言う。
「考えてるでしょ」
琥珀は、否定しなかった。
少しだけ、肩が下がった。
「私の身体のことも、含めて」
それは質問ではなかった。
確認だ。
琥珀は、ゆっくりとうなずいた。
碧は、そこで初めて、自分の中の言葉を選ぶ。
軽くも、重くもならないように。
「もし選ぶなら、私は逃げない」
一拍置いて、続ける。
「でも、あなたが一人で決める話でもない」
“支える”とは言わなかった。
それは、外に立つ言葉だから。
二人で同じ場所に立つ。
それだけでいい。
琥珀は、少し困ったように笑った。
碧は、その表情を見て、胸の奥が静かにほどけるのを感じた。
まだ、答えは出ていない。
それでいい。
今は、同じ重さを、同じ距離で持っている。




