第五話
説明会から数日が過ぎた。
日常は、驚くほど変わらなかった。
朝は同じ時間に起き、同じ道を歩く。
夜は二人で食事をし、他愛ない話をする。
それでも、琥珀の中では、静かな計算が続いていた。
選ばない、という選択。
それは、今まで通りの生活を守るということだ。
身体を変えない。
医療リスクを負わない。
碧との関係性に、余計な負荷をかけない。
何より、決断しなくて済む。
「今のままで十分だ」と言い切ることができる。
――それは、とても強いメリットだ。
一方で、選ぶという選択。
生物学的男性形態化技術。
男性化オプション。
それを受けることで、
碧との間に、遺伝的なつながりを持つ子どもを迎える可能性が生まれる。
将来、誰かに「どうして子どもがいないの?」と聞かれたとき、
答えに迷わなくて済むかもしれない。
何より、選ばなかった場合でも、
**「知った上で選ばなかった」**と言える。
琥珀は、ノートに二つの項目を書き出していた。
仕事のときと同じ癖だ。
・選ばない
・選ぶ
どちらにも、箇条書きで短い文が並ぶ。
数字にすれば、リスクは見える。
感情は、そう簡単には分解できない。
仕事帰り、琥珀はふと足を止めた。
駅前の公園で、子どもが走り回っている。
母親らしき人が、名前を呼ぶ。
声には、少しの疲れと、確かな愛情が混じっていた。
――自分に、ああいう日が来るだろうか。
碧と一緒に、名前を考えたり、
夜中に起きたり、
不安を分け合ったり。
想像は、以前よりも現実味を帯びている。
技術を知ってしまったからだ。
その夜、琥珀は碧に言った。
「もし、だけど」
前置きに、時間をかける。
「もし、私が男性化オプションを受けるって言ったら……
碧は、どう思う?」
碧は、すぐには答えなかった。
湯呑みを両手で包み、少し考えてから言う。
「……選ぶ理由があるなら、否定はしない」
「でも?」
「それが、琥珀が“自分を削る選択”だったら、私は嫌だ」
琥珀は、その言葉に答えられず、胸にしまった。
責任を押しつけない言い方だった。
数日後、琥珀は病院から届いた封筒を受け取った。
説明会参加者向けの、追加資料だ。
中には、手続きの流れと、
同意書のひな形が一部、同封されていた。
“署名は、次回以降で構いません”
そう、明記されている。
琥珀は書類を机に並べ、目を通した。
難しい言葉は、もう怖くない。
この段階で、決断を迫られていないことも、分かっている。
――選ぶ方が、今は少し、優勢だ。
可能性を確保するという意味では、合理的だ。
それでも、ペンを取る手は動かなかった。
書類を閉じ、引き出しにしまう。
それだけの動作に、深く息を吐いた。
「まだ、だな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
選択肢は、確かに目の前にある。
手を伸ばせば、届く距離に。
けれど、琥珀はまだ、掴まない。
今はただ、
選べる状態に立ったという事実だけを、受け止めていた。
***
碧は改めて説明会の資料を見ていた。
医療用語は多いが、行間はあまり語らない。
成功率、経過観察、推奨セット。紙は、感情を扱わない。
琥珀は隣で、別の資料を読んでいる。
眉をひそめるでもなく、期待を浮かべるでもなく、ただ読む。
ああいう読み方をするとき、彼女はもう半分決めているのだと、碧は知っていた。
――もし、選んだら。
ふいに、想像が入り込む。
診察室の白い天井。採卵の説明。
身体に触れられる感覚。仕事を休む日の調整。
「おめでとうございます」と言われる未来と、
何も起きない可能性の、両方。
自分が妊娠して、腹部に手を当てる姿。
琥珀が、その横で、少し困ったように笑う顔。
その子が、どちらに似るのか考えてしまう瞬間。
そこまで考えて、碧は想像を止めた。
まだ、言葉にしていい段階ではない。
「ねえ」
琥珀が顔を上げる。
碧は、はっきり言った。
「これ、私の身体を使う前提になるよね」
琥珀は、言葉を探すように一度視線を落とした。
否定しなかった。
それが、答えだった。
「私は……」
碧は、続きを急がなかった。
「反対じゃない。でも、もう私も中に入ってる話だと思ってる」
“支える”という言葉を、使わなかった。
それは外からの言葉だから。
琥珀は、ゆっくりとうなずいた。
その動きは、同意というより、受け止めだった。
碧は思う。
選ぶなら、二人で選ぶ。
選ばないなら、それも二人で引き受ける。
どちらにしても、
自分はもう、当事者なのだ。
「今日は、ここまでにしよう」
そう言うと、琥珀は小さく息を吐いた。
碧は、その横顔を見ながら思った。
急がないという選択が、
いちばん誠実な場合もある。




